2月下旬 21話
エアコンの効いた車内から早回しの映画みたいな窓を眺める。かといって対向車や自転車が全力投球されたボールのように飛んでいく外の世界は特段面白いものではない。
車の運転ってすごいよな。こんな速度の風景から情報収集して判断して行動に移して……。私なら手足が追いつかんわ。
流れる景色が止まる。赤信号だ。
「茉莉花ちゃん、中央体育館で合ってるよね?」
ハンドルを握る叢雲さんがルームミラー越しに確認してくる。
「はい。合ってます」
「おっけーおっけー」
信号が青になると叢雲さんは鼻歌まじりにアクセルペダルを踏み込んだ。呼応してエンジンの唸りが車内を賑わす。
長谷川はバイクのこれが好きなんだな。てかこの人もバイク乗ってたっけ。
「潤くんってば昨日からずっとこんな調子なんだよ」
姉が助手席からニョキって首を出す。やれやれといった様子で隣の解説をする姉だが、嬉々とした想い人の側にいられて、彼女自身も白い歯を見せていることに気づいていない。
お似合いがよ。
「だって茉莉花ちゃんから頼み事されるのって初めてだもん。頼りにされてお兄さん舞い上がっちゃう」
「おっさんでしょ」
「なるほど……僕と君とは同い年だから、すると君も……」
「よっ! お兄さん! 若いね!」
前部座席で急に始まる夫婦漫才に私は黙っていた。まだウザいわけじゃないが入り込むのはまだハードルが高い。
「いや、でも彼女の家族からお願いされるって嬉しいもんだよ。認めてもらえたって感じで。茉莉花ちゃん今まで……なんというか素っ気無かったからさ。嫌われてるのかとヒヤヒヤしてたよ」
それ正解。分かってんじゃん。
「あはは……」
愛想笑いでも浮かべてお茶を濁しておこう。確かにどっかの誰かさんのおかげで人当たりがよくなったのかもしれないが、あのクリスマスを忘れたわけではない。私は根にもつタイプだぞ。
「茉莉花ちゃんのお願いなら頑張っちゃうぜ。吹かせ! 土星エンジン!」
「空中分解するからやめて」
本日は地域の公共施設、中央体育館に野暮用があって向かってる。歩くには遠く、バスは時間が噛み合わない。親に送迎を頼もうと思ったがそっちも予定ありでダメ。そんなこんなで白羽の矢が立ったのが叢雲さんだった。
「茉莉花、そんなおめかししてるけど今日はデートかなにかなの?」
「違うよ。市民体育館でデートなんてなにすんのよ。行くならもっと華やかなとこ行く」
「えー、一緒に運動するの気持ちいいのよ。ねー」
「ねー」
叢雲さんが相槌を打つ。
経験あるのか。
「でもでも茉莉花変わった気がするー。昔だったら『は? 私が恋人なんかつくるわけないじゃん、バカなの』って言いそうなのに」
「……」
空気が抜けるような呻きを漏らしてこめかみを押さえた。
分かるー、めっちゃ分かる、それな、と客観茉莉花は言ってるが当事者である主観茉莉花はそれどころではない。こんな折にも自分の変化を思い知らされるなんて。
「い、いや! 一般的なカップルならって考えただけだし! 別に私の考えじゃない!」
「ふーん」
姉は察したような、からかうような微笑を見返り美人のように送ってきた。表情の真意はまだ分からない。
うわ恥ずかし。今まで恋愛嫌いな硬派な態度とってたのにこれは恥ずかし。それがよりにもよって姉の前でとは。
「だけど茉莉花ちゃんの言う通りだと、僕たちは一般的なカップルじゃないってことになるね」
「あ、いやそういうわけではないですよー」
空気を読んで咄嗟に嘘をつく。これが一般であって堪るか。
「少なくとも潤くんは普通じゃないけどね」
「え、ひど!」
「だってこの前の食事だってさ——」
「あの時は違うよ〜」
車内の会話は私を蚊帳の外にしてどんどん弾む。私が話題の神輿にされる最悪の事態は避けられたみたいだ。
ほっと一息。
窓枠に肘ついて、またじゃれつき始めた二人を眺める。幸せそうだ。というか二人は今日、私と同じ方向にデートらしい。いつもは叢雲さん運転のバイクに二人乗りで楽しくツーリングのところ、わざわざ車を出してくれたのは私がいるからだ。
相変わらず仲がいいことで。
結婚まではもう線路のレールだろう。ただくれぐれも交通事故だけは起こさないでもらいたい。頭上の黄色信号には気づいてないみたいだ。
茜は今幸せなのかな。
スマホのホームボタンに指紋を押し当て、LINEを起動する。茜からメッセージは来ていない。
両者ともに愛し合っている目の前の二人は、歪な関係の私達とは陰と陽くらい異なる存在で、嫌でも考えさせられる。教科書に載る良い例と悪い例みたいだ。
年明けから今日まで初めて見る茜と何度も出会ってきた。
頼りになる茜。
優しくてフットワーク軽い茜。
私のこと好き過ぎて性欲強い茜。
耳かきが上手い茜。
ちゃんと働いている茜。
それらの茜は皆等しく魅力的でそんじょそこらの人は簡単に恋に落ちると思う。贔屓目無しに。
でも私は……。
形上のお付き合い。そこに感情が伴っていない。私はまだ恋愛的な好きが分からないのだ。
茜は大切で、会えなくなるのはまぁ寂しくて、会うとなんだかんだ言って安心する。
そんな存在。
でも好きって何?
疑問に返事をするように、握ったスマホがブルルと震える。
茜『もうすぐ着く?』
キーボード入力で返事を打つ。
茉莉花『あと五分くらい』
茜『りょ。正門前だよね。私待ってるわ』
私は親指を立てて気色悪い笑みを浮かべる人参のスタンプで会話を終わらせた。因みにこれは茜がくれたニンジン君スタンプ。私の趣味であるわけがない。
叢雲さんはハンドルを右へ左へ回し、車は特にアクシデントを起こすこともなく目的地へ近づいていった。少し顔を傾ければ窓からその様相を拝むことができる。私が小さい頃からある市民体育館。
茜がこの地で行う最後の試合の会場。
「到着でーす」
左ウィンカーを瞬かせながら滑らかに停車した。門柱の傍には仕切りに首を動かす茜の姿がある。
「……いた」
「ん、あれがもしかしてあの子が恋人さん?」
「そんなんじゃないって!」
サイドバッグを肩に引っ提げた私は、妙に感がいい姉に向かってぶっきらぼうに放った。もう一つ、持ってきたトートバッグを忘れずに握る。
「あんな美人な子が義理の妹になったら嬉しいのにねー潤くん」
「ほんとほんと」
「ありがとうございました!」
これ以上二人のだる絡みに付き合ってられない私はさっさと車外に出る。
帰りも同じ場所ねー、という叢雲さんの声は乱暴にドアに挟んで千切ってやった。失礼かも、という刹那の懸念も彼女らのデリカシーない態度を思い返せば、王水にぶち込んだ金みたいに消えてしまった。
やっぱり苦手だ、あの人たち。
「やほー」
茜がひらひらと手を振り出迎えてくれる。準備万端らしく格好は既に深紅のチームユニフォームだ。大きな裾口からは白い肌が伸びる。こんな細い身体で激しいスポーツを、と心配になりそうだが、インナーマッスルは出来上がっているそうなので高度な俊敏さが持ち味なんだろう。
「おーまりーバッチリ決まってるね。カッコイイよ!」
「そ、そう? ありがと」
第一声で気にしていた外見をいきなり褒められて照れくさいような落ち着かないような、ついドギマギしてしまう。
パートナーをとりあえず褒めまくる恋人か。あ、今は一応恋人だ。
もしこの嬉しいと形容できてしまう感情が顔に出てて、見られでもしたら嫌なので、私はすぐに歩き出した。
「ん? なにかあったの?」
「え、あー前に話したあれ、姉カップルがね」
私は咄嗟に姉たちを話題のカードとして切った。
「おやおや。どうした?」
「……なんか茜を見て、あれが義理の妹になるのか云々《うんぬん》」
「えー! お姉さん達ったら話早過ぎ〜」
茜が満更でもない顔をしながらはにかむ。
それを認めて私は反射的に、けれども一拍置いてから弱々しい声で反応した。
「……ありえないでしょ」
自分の口から出た声が巡って耳に入るまでのコンマ数秒。
木々の揺らぎが、走る風が、飛ぶ鳥が、万物の時が止まったような静寂を覚え不安を抱く。
続いて生まれる砂粒みたいな後悔。一つ一つは小さいのにさらさら積もって山になる。
返事して。
静かな世界で一人願う。
「案外ありえちゃうかもよ〜」
茜は私の胸中も露知らず、エントランスに入っていった。私はそれについていけない。
後悔の砂山は吹かれて消し飛んだ。そこにはなにも残されていない。
私は変わってしまった。長谷川に言われたように、茜に人間らしくなったと言われたように。彼女らからすれば絡みやすくはなっただろう。
だが結果的に私は前みたいに否定の言葉を易々《やすやす》と言えなくなった。
違う、言えないのではない。
茜を前にして言うことに空恐ろしさを感じるようになってしまった。
嫌だから、嫌。
無理だから、無理。
そうして私は自分の認めたくないことを退けてきた。
だが今は私の言葉が茜を害するのではないか、ということがいつも頭をよぎる。
そしていざその言葉をこぼした途端、罪悪感が内側からじわじわと締め付けてくるのだ。沈黙が更に加圧して、ようやく茜が会話を紡いでくれることで私は解放される。最近はそんなことの繰り返しだ。
間違いなくあの雨の日の事件に影響されている。以前のように振る舞おうとする私と変わってしまった私が背反する毎日。
どうして私、自分の考えより茜を気にしてるんだろう。
十数歩遅れて私も体育館の扉を通過した。そこには花畑のように数多の色のユニフォームがひしめいている。入り口だけで両手くらいの種類がいるのだから、今日の試合は大規模なのだろう。
てか身長高いやつ多いな。当たり前か。
「あれ、まりー?」
元々遅れて入ったので見失われたのか茜が振り返る。
「はーい、いますよ」
「よかった。ちゃんとついてくるんだよ」
「私は子供か」
「竹下通りも歩きづらそうだったし」
「ぐぬ」
元来人混みは苦手なのだ。仕方がない。
「あっかね〜!」
すると人混みのどよめきの中を聞き覚えのあるハスキーボイスが掻き分けてきた。
「ポジションの件で変更があって……あ? なにお前」
言葉の前後でヘルツの落差がジェットコースターな長谷川がやってきた。
「怖、やっぱ不良だろ」
「優等生様はこんなところでなにしてんだよ」
茜と同じユニフォームに身を包んだ長谷川は私に場違いだと教えるかのように冷笑した。
こう見ると無駄なく引き締まった身体をしているのがよく分かる。腕や脚の筋肉も隆々ではないが女子平均よりもあるだろうし、腰回りの体幹も強力そうだ。こんな様相ですごんだ日には目の前に財布が落ちているかもしれない。
「こらこら、カリカリしない。まりーは私が呼んで来てもらったの。今日の試合を見て欲しいって」
ここにいる理由を私の代わりに茜が答えてくれた。
……?
しかしその説明には『私の最後の』という文言はつけ加えなかった。
私を誘ったときとは違って。
「どうしてまた急に。そんなことなかったのに」
「もっともーと仲良くなるため。幼馴染だけど試合は見てもらったことないから。はい、それで連絡は?」
「茜がそう言うなら……え〜私と一年が入れ替えで……」
私のときと声違い過ぎだろ。この二重人格。
前の道端バイクトークで少しは打ち解けたのかなと思ったがそんなことは全然ないようだ。依然私は目の敵にされているらしい。この前がレアケースだったのだ。
茜と長谷川はそのまま、至って普通に業務連絡に移り、私はしばらく様子を注視した。が、数分後には聞いても仕方ないと思い漫然と衣服を正す。茜に教わったおしゃれポイントをチェックリストにして上から点検。
うん、大丈夫。これでいい……らしい。確か。
本日は原宿物見遊山の際、茜に半ば強引にトータルコーディネートされた服で身を包んでいた。遠慮しまくったのに『許可はとってある』という謎の説得にゴリ押しされ、茜のお人形さんになったのだが、言うだけのことはある。茜のファッションセンスには光るものがあった。私が言うファッションセンス良いなんてJKの虚構だらけの交友関係くらい当てにならないが。
『可愛いスタイルとかキレイなスタイルだっていいんだけど、まりーが一番輝くのはクール系だと思うんだ! 理知的っていうか、ま実際頭いいんだけど、そこを押してカッコイイリケジョっぽくしたいと思うの。飾りっ気無しでシンプル。正に要らぬものを排除したストイック紫水茉莉花。上はこの黒のニットでパンツは紺濃いめのデニムスキニーがいい。中の白いシャツの裾がはみ出てもいいかな。ぉぉニットだと胸が……んん! で! この鶯色のモッズコートをふぁさっと羽織るわけ。そしたらあら不思議。大学研究でお昼休みにスタバに来た女子大生の出来上がり! ほら! もう丸メガネが超活き活きしてる! カッコイイじゃん! で髪も最低限のいじりで最大限の効果を。今のショートボブのままでいいとしてセンター分けがいいかな。毛先にはワンカールくらい。大丈夫大丈夫初めてでもできるから。おお、素晴らしい! 私の彼女カッコイイ!』
的なことを捲し立てられた気がする。
自分の見た目が気になってしまうのは、初めて一人でこれらをセットしたからだ。今までに茜に教わった着方と髪のセットアップを思い出し思い出しでどうにかやってみたのだが、心配がつきない。車から降りたときには太鼓判を押してくれたはいたが、今思えばあいつはどんな服を着ていようが中身が私であればすぐに褒めるところを見つけそうだ。宇宙服でも「まりーの未来の姿かも〜」とかあっけらかんに述べるに違いない。
てか私やっぱ場違いでしょ……。こんな体育系しかいないとこにリケジョなんて。生息分布がまず違う!
慣れないコートの裾をキュッと伸ばしていると二人がこちらを向いた。話は済んだみたいだ。
「紫水。お前茜の邪魔だけはすんなよ」
「はあ、するわけないでしょ。まず動機がない」
「お前は存在が色々と危ういから無意識にやらかしそうなんだよ。目立つ行動とかもすんなよ」
「例えば」
「他校に喧嘩売るとか」
「あんたじゃあるまいし」
「とにかく大事な試合なんだから」
その発言を聞いて、私はさっき抱いた魚の小骨みたいな違和感を尋ねた。
「……ふーん。どうしてそんなに大事なの?」
「まりー!」
茜が私の腕をとった。
「そりゃあ今日の結果如何で三年になってからの総体にも影響が出る。茜と……い、一緒に全国でも行かなきゃ三年間締めくくれないし」
「……そう、だね希美ちゃん」
「……」
目線を外して頬をかく長谷川と酷く申しわけなさそうな茜。二人のバスケプレイヤーの明暗に私は呆然とした。来年を信じて疑わない長谷川、いくらなんでも不憫だ。
「まあそういうことだから厄病神みたいにはなるなよ。じゃあ茜先に行ってるね!」
「はーい」
弱々しく手を振る茜に私はいても立ってもいられず詰め寄った。
「どうしてあいつに、転校するって伝えてないの」
この空間は他校の生徒で溢れかえって、私にとってうるさくてはうるさくて好きじゃない。できれば静かなところへと去りたい。
けど聞かずにはいられなかった。喧騒の中でも私と茜の二人だけはそこから切り離されていた。
「……希美ちゃんはね、まりーは知ってるかもだけど私によくしてくれてるの。試合ではなくてはならない程強力な仲間だし、学校生活でも仲良くしてくれてる。なんというか、とても私想い」
それは知ってる。だからこそあいつは私に突っかかってくるのだから。
茜はぽつりぽつりと言葉を紡いだ。ここにはいない人に謝るように。
「だからこそ私が転校するって聞いたら、動揺しちゃうはず。今日の試合だって全力でできないかもしれない」
「でも! 逆に、仲間想いだからこそ120パー、150パー出してくれるかもしれないじゃん」
なぜか私は声を大きくしてしまった。
「そうかもしんないね……にはは。でも、私の考えはさっき言った通り。こればっかりは希美ちゃんと関わり薄いまりーには分かんないよ」
その言葉に昂っていた己の感情が氷水を浴びせられたように冷えていく。
そうだ、私には彼女らのことは分からない。そして口出しする権利もない。そもそも私はそういった人間関係で興奮する品性でもない。
冷静になって私は次いで出そうになった言葉を飲み込んだ。いつもの私に戻ろうとする。
だけど……このざわめきはなに?
「希美ちゃんっていうか、他のチームメイトに伝えるのは今日の試合が全部終わったら。そう決めてるの。あの子たちには最後まで落ち着いてプレイして欲しいんだ。そしてあの子たちを来年の試合に連れてくことが私が最後にできること」
「……」
返事はできなかった。返事するべき言葉が出てこなかった。
「それじゃ戻るね。私の勇姿、ちゃんと目に焼きつけとくんだよ。応援よろしく! あ、お弁当楽しみにしてるから!」
茜は人混みに紛れてゆく。無意識に手を伸ばそうとするが、理性がそれをやめさせた。
引き止めてどうする? 今すぐ伝えろと?
それでは茜の言った通りチームのメンタルはグチャグチャになる。私にできることはないんだ。そして私には関係ない。
私は人の群がりを避けるように歩を進める。
茜の考えには賛同できる部分もあるしその逆もある。彼女なりの善意であり、その是非は決定できない。
ただ一つはっきりしていることはチームメイトそして長谷川はこの後、その身に余るショックを受ける。
それだけだった。




