水平線
※この物語は全てフィクションです。実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
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私の友人は海釣りが趣味で、週末に遠出して根魚を狙いに釣りに行っている。インドア趣味とアナグマ仕事の私とすれば、そう都合よく釣れるものでもなかろうに、待つのが辛くはないのかと問いかけた事もあるが、彼曰く「それも含めて楽しい」のだそうで。それに、彼の妻に言わせてみれば「女遊びでもない、ギャンブルでもない、健全な趣味だから文句はないわ」だそうだ。
しかし先日、訳の解らない経験をしたという。会えないかと電話があり彼が私の書斎に来て話し始めた。
ある日、友人の釣り仲間から良い場所があると紹介されて向かった。消波ブロックが連なった良い根魚が潜んでそうな釣り場だった。彼の妻が作った弁当と水筒のお茶、愛用の釣り具を持って、車から降りると既に数人の釣り人や親子連れが糸を垂らしていた。
彼が消波ブロックの根魚を狙うと巨大なソイが釣れた。でっぷり肥ったそれは今日の夕飯にしてもまだあまるぐらいだったという。獲物をクーラーボックスに入れてその後は小物を釣り、休憩。弁当のお握りを食べながら水平線の向こうをぼんやりと見ていると揺らめく光が見えた。
灯台か漁船かな、と思ったが光はコンロの火が付くように横に並んで光るようになった。横に、横に、水平線を埋め尽くした。漁火の一つに〝しらぬい〟という現象がある。だが、それも科学的に証明されてある地方の漁船の光が蜃気楼のように見える光の悪戯だ。
しかし、今は昼間。ここは、〝しらぬい〟の伝承がある地方とは違う海。他の釣り人も光に気付く。
――おい、何だろうねあれ。
――漁船、違うな。
――パパ、お坊さんの音が聞こえるよ。
親子連れの子供が光を指差した。その瞬間、お坊さんの音、海から〝おりん〟を鳴らす音が聞こえ、くぐもった読経が聞こえ始めた。
すると釣り場はパニックに陥った。人々は次々に逃げて、友人は釣り竿だけ車に持って行って全速力で逃げていった。
途中の高速のサービスエリアに辿り着いて、車から降りて喫煙所で震えながら煙草を喫っていると、先程の釣り場で見た釣り人が近寄って来た。何故か、にやにやと笑っている。
「やあ、怖かったですね」
何を笑っているんだと口から出かけたが必死に抑えたという。
「あれは、何なんでしょう」
「もしかすると、キツネやタヌキかも知れませんよ」
「まさか」
友人は頭を振る。動物に化かされた、あまりにもお粗末な展開だ。
「では、確認に向かいましょう」
疑問に思う友人と釣り人は残されたクーラーボックスを確認しに釣り場に戻ると見事にやられていた。ソイは見事に食い散らかされていた。
「ほら、化かされたんですよ」
続いて、釣り人が自身のクーラーボックスを開けて喰われた魚を指差す。
「……」
釣り人には見えていなかったのだろうか、破れた魚のはらわたからは人間の手首が覗いていた。それは白くぶよぶよとした水死体から切り取ったような人間のものだった。
友人は気を失った。
◇ ◇ ◇
友人は私の書斎で煙草を燻らす。そしてコーヒーを飲む。
「どう思う?」
「どうって、これは二つの事象が重なっただけじゃないかな」
「二つ」
「いや、ホラー作家のお前なら解るかなって言われても探偵じゃないんでね」
「似たようなもんだろ」
「違うよ」
私はコーヒーを啜りながら話を整理する。
「先ず、最初の水平線の〝しらぬい〟と〝読経〟は魚を狙った化けキツネか化けタヌキか、居るとするならね。冷静に考えると集団幻覚だけどあまりにも生々しいからねえ」
「ふんふん」
「最後の手首を飲み込んだ魚は、事件か事故だね。水死体を食べた魚。それが一番納得出来るだろう」
「じゃあ、あの釣り人は」
友人は腑に落ちない顔を見せる。確かにあの釣り人だけはあの場には不釣り合いな恐怖を助長する対象であった。
「それは解らないなぁ……もしかすると、人間じゃないかも。俺だって解らん事はあるさ。それで釣りは?」
「相変わらずやってる。今は独りじゃ怖いからカミさん説得して付き合って貰ってる」
「ふうん」
後日、友人宅に招かれて魚を御馳走になった。勿論、食い散らかされてもなく中に手首もなかった。私は追及しなかったが彼の首に残る片手の指の痕だけは黙っておく事にした。それ以上はこちらも面倒は見切れない。