死神と女神、あるいはただのバカップル
生まれたときから、俺は誰かを殺してきた。
始めは、血の繋がった実の母。
病弱だった彼女は、出産時、医者に自分と子どもの命、どちらを取るか訊かれ、子ども──つまり、俺を取った。
『諦めたら失うだけだけれど、諦めなかったらどちらも掴めるかもしれないじゃない』なんてことを、笑顔で父に告げながら。
しかし、その努力も虚しく、彼女は力尽きた。
その次に、俺が殺したのは父だった。
男手一つで俺を乳飲み子から五歳まで、何不自由なく育ててくれた彼は、居眠り運転で突っ込んできたトラックから、俺を守って死んだ。
その時、トラックの運転手も同時に亡くなっていた。
事故現場は凄惨な光景で、どちらも即死だったのだという。
父方の叔母夫婦に引き取られた俺は、またもやそこで二人、そして、彼女たちの子どもまで殺した。
強盗殺人だった。
家族団欒の昼下がり。
配達員を装って家に侵入した強盗は、丁度おつかいに行っていた俺以外を撲殺して、部屋中を荒らし回り、帰ってきた俺を見るなり逃走した。
現場の第一発見者も、警察に通報したのも、俺だった。
警察が到着するまで、俺は彼らに必死に謝罪していた。
『貴方たちが不幸になったのは、俺のせいだ』、と何度も、涙を零しながら呟いた。
そして、『絶対に、犯人を捕まえてやる』と、冷たく固くなった手を握って、決意した。
けれど、数キロメートル先の工事現場で、誤って鉄骨が落ち、一人の男性が犠牲になった事故が起こった。
その男性の持ち物を調べると、多額の現金や、彼のものではない通帳、クレジットカードなどが入っていたという。
彼は、間違いなく、一家を襲った強盗で、俺が捕まえるまでもなく、死亡した。
その辺りからだ。
親戚、近所、学校。
果ては、町中から『死神』なんて異名を付けられるようになったのは。
『関わった者は、皆死ぬ』、『あいつと目を合わせてはいけない』と、根も葉もない噂を──いや、本当の事か。
俺と関わった者は、皆死んでいるのだから。
不幸中の幸いとも言えるのか、いじめは起こらなかった。
いじめたら祟られそうだから、なんて理由だと思うが。
中学校に上がってからは、面白いもの見たさで関わってくる者が何人か居た。
その頃の俺は施設に入っていて、そちらでも一人だったことから、どんなことでも人と関われるのは、嬉しいことだった。
クラスのお調子者、オカルト好き、後は『俺のことが好き』と言ってくるような変わり者だったが、彼らとともに過ごす日常は、今でも思い返す度に楽しくて、嬉しくて、そして、泣きそうになる。
彼らは皆、もうこの世には居ない。
重い病気や、事故で、三年間のうちに永遠に別れてしまった。
『お前のせいじゃない』と、俺の手を握って。
放心状態で卒業式を終えた俺は、誰も迎えに来ない桜道を歩いて、俺が殺してきた人々の墓まで行って、これまでの感謝を伝えた。
あの時は、もう生きる気力がなかったのだ。
記念品でもらった花束から一本一本、彼らの墓に供えると、最後に残った一本を胸に、俺は裏山に向かった。
裏山の頂上には、並大抵の力では折れないほど、大きな桜の木があったのだ。
背負ったリュックの中には、折畳式の踏み台と太めのロープが入っている。
切れないように、何重にも重ねてから首を括るつもりだ。
そうでなければ、俺は死ねないだろう。
ずっと、一人生き残り続けていた、俺なら。
案外簡単に出来たな、とロープで作られた輪を引いて、首を差し込む。
木の枝が軋む音がした。
ここまで長かった。
十五年という人生の中、俺は沢山の人の命を奪ってしまった。
その罪を生きているうちに償うことは、出来なかったけれど、どうかこの死を贖罪とさせてほしい。
そうして、俺は一歩踏み出した。
はず、だった。
ぱきりと音がして、俺の身体は地に落ちる。
目を閉じていたから、まともに受け身が取れるはずもなく、枯れ葉と枝木に塗れながら地面を転がった。
「……なんで……!」
怒りか、悲しみか、俺は空を見上げた。
太い枝は、完全に根本から折れている。
ああ、どうして気付かなかったのだろう。
この桜の木は、もう枯れかけだったのだ。
そして、最期の最後に俺を救って、枯れ果てたのだ。
樹齢数十年を誇るであろう大木は、俺の手によって、その命を散らされた。
風に乗って散りゆく、桜の花弁のように。
ぼろぼろの幹に縋り付きながら、俺は泣き喚いた。
どうしても死ねないことに、どうしても償えないことに、どうしても彼らの元へいけないことに。
もう俺は生きられない。
もう生きていけない。
それなのに、何故世界は俺を生かそうとする。
それが嫌で、辛くて、悔しくて、哀しくて。
涙が枯れるまで、俺は泣き続けた。
日が暮れ、辺りが赤く染まった頃。
俺は山を下りて、夕焼けの帰路に就いた。
けれど、この先の展望はない。
一応、高校に合格してはいる。
ここから数駅分離れた、隣町の公立高校。
そこを選んだのは、俺が住まわせてもらっている施設からでは、この町の高校より、こちらの方が近かったからだ。
しかし、俺のことだ。
また高校でも、誰かを殺すことになるだろう。
自分一人だけ生き残ることになるだろう。
そうなるくらいなら、通いたくない。
施設には悪いが、今から入学辞退の手続きを──。
「きみ、どうしたの? そんなに汚れて」
「……は、俺?」
「そう。きみだよ、きみ」
後ろから、誰かに呼び止められた。
若い女の声だった。
振り返れば、そこに居たのは見目麗しい、同年代の少女。
エプロンに三角巾と、いかにも『お手伝い中です』といった風貌だった。
「こんな時間に一人? 目も腫れてるね。いじめられてたの?」
「……いや、そんなことは」
「じゃあ、どうして?」
「……色々あって」
「その色々を聞きたいの!」
矢継ぎ早に会話を推し進める少女。
人に慣れていない俺は、しどろもどろになりながら何とか言葉を捻り出す。
「……嫌な、ことがあって」
「ふうん。そして?」
「……どこか、遠くに行きたくて。でも、出来なくて……」
「情けなく帰ってきた、と」
『その言い方はないだろ』と思いながも、本当のことだと口を噤む。
今の俺は、情けなく、汚らわしい。
彼女のような人と話せているのも、奇跡のようなものだった。
「ま、いいか。ちょっとこっちにおいで」
「えっ、あの、手離して……!」
「いいから、いいから。こっち!」
突然、彼女は、擦り切れた俺の手を強引に握り、どこかへ歩いていく。
無論、ずんずん進んでいく彼女に、静止の声は届かない。
成すすべもなく連行された俺が辿り着いたのは、とある洋食屋だった。
「……どこですか、ここ」
「わたしの家」
「はい?」
「だから、わたしの家。洋食屋やってるの。食べてってよ」
大きな硝子窓からは、淡い暖色の光が満ちる店内が見えた。
中では、客らしき人たちが笑顔で料理を口に運んでいる。
「いやいや、俺、今お金持ってないですし……!」
「わたしが代わりに払うよ。後で返しに来て」
「そういう問題じゃ──」
「面倒臭い! とっとと入る!」
逃げようとする俺の背を押し、彼女は俺を店内に突っ込んだ。
「おう、お帰り。優薙ちゃん、そっちの子は──おい! おやっさん! 優薙ちゃんが男作って帰ってきおったぞ!」
「何ィ?! どこのどいつだ!」
「パパうるさーい。拾ってきただけ」
「拾ってきただとゥ?! そんな子に育てた覚えはありません!」
一気に集まる視線。
背後に助けを求めても、彼女は微笑むばかりだった。
俺には、その笑顔が悪魔のように見えたけれども。
俺の肩を引き寄せ、彼女はカウンター席に近付く。
そこには、丁度一席分空きがあった。
「はいこれ、メニュー。好きなの頼んでいいよ。わたしの奢り」
「そんな、悪いです……」
「坊主、優薙ちゃんに恥かかせるつもりかい? こういうときはバシッと覚悟決めるもんだよ!」
「そうだそうだ!」
断ろうとした俺だが、周りの気のいい親父たちに囲まれ、退路をなくしてしまう。
少女はその様子を見て、太陽のようににかっと笑った。
「ほら、選べ選べ。全部美味しいよ?」
「……なら、おすすめで」
「ほう、おすすめとな。じゃあ、パパ! 当店自慢のオムライス!」
「あいよ、腕によりをかけて作るぜ! 娘はやらんがな!」
「『欲しい』とは一つも言ってませんよ?!」
思わずツッコめば、どっと笑いが起こる。
時間帯もあってか、カウンター席には仕事帰りの中年男性が多く、彼らは皆常連客であるようだった。
「んで、嬢ちゃん。いったい誰なん、この坊主? ボーイフレンドではないやろ」
「その辺死んだ顔でほっつき歩いてたから、拾ってきたの。マジで今にもぶっ倒れそうだったよ?」
「そんな顔……してたかもしれませんけど」
してたかな、してただろうな。
高速の自問自答。
自殺に失敗して帰ってきたんだから、そりゃあそんな顔もしてるよな、と納得する。
「ということで、うちのご飯を食べて笑顔になってもらおうと」
「どういうことですか……」
「そういうことだよ」
「……話が通じないこの人」
点と点が繋がらない思考に困惑しながら、俺は居心地の悪い空間に居続ける。
周囲はにんまりとした顔で俺を見ているだけで、追い出そうとしない。
こんな得体のしれない客、誰もが怪しく思うだろうに。
「ね、きみ中学生だよね。どこの中学校? わたし御高!」
「……竜海西中です」
「隣町じゃん! いや近いけどさ。わざわざこっちまで来るって、何しに来たの?」
「……その、墓参りに」
「……ごめん、無神経だった」
「……大丈夫です、気にしないでください」
会話が途切れた。
一気に夜の冷たさが俺を襲う。
耐えるために、テーブルの下で手をぎゅっと握った。
「昔は、こっちに住んでたの?」
「……はい。十歳くらいの時に、施設に引き取られることになって」
中学で出来た友人たちの墓を、俺は知らない。
彼らの家族に、教えてもらえなかったからだ。
当然だとは思う。
彼らを殺したのは、俺なのだから。
だから、彼らの分の花は、学校に置いた。
彼らとよく並んで歩いた道の隅に、誰にも気付かれぬように。
その後に、親と親戚の墓に行って、裏山に行ったわけだ。
「そっか。どう? この町、昔と変わってた?」
「……いいえ、何も」
幼い頃の記憶と全く変わらないこの町は、とても温かかった。
春の陽射しのように穏やかで、気を抜けば泣き出してしまいそうになる。
「パパ、まだ?!」
「今出来る! あいよ、当店自慢のふわとろオムライスだ!」
しんみりとした空気から一転、急に盛り上がる周囲。
運ばれてきた、黄色と赤、申し訳程度の緑が添えられた料理。
鼻をくすぐるのは、トマトの香りだった。
「さあ、召し上がれ」
「……いただきます」
鈍色のスプーンを手に取り、とろりとした卵ごと、チキンライスを掬う。
少女と出会った夕焼けのように赤く染まった米は、きらきらと艶があった。
思い切って、一口で頬張る。
口の中に広がる優しい風味。
まだ熱い卵とライスをしっかり咀嚼して、飲み下したとき。
俺は──。
「……泣くほど、美味しかった?」
「……ごめんなさい。誰かが作ってくれたご飯を食べるのは、久し振りで」
「謝らないでよ! ね、パパ!」
「ああ! そこまで喜んでくれると、職人名誉に尽きるぜ!」
ああ、何故だろう。
涙が止まらない。
悲しいわけじゃないのに、溢れ出してくる。
もう、枯れてしまうほど泣いたのに。
まだ、残っていたんだ。
「……美味しいです。とても」
「そりゃあ良かった! お残しは許さないからな、ちゃんと全部食べるんだぞ!」
ゆっくりと俺は頷いた。
茜色の空、黄金の太陽。
そう表せるほど美しい、このオムライス。
残すなんて、初めから考えていなかった。
米粒一つ残さず感触し、お冷もすべて飲み切った頃には、もう日は完全に沈んでいた。
「……ご馳走様でした」
「あいよ。皿はそこに置いといてくれ」
「いやあ。いい食べっぷりだったなあ、坊主!」
「ほんと、あれだけうじうじしてたくせに」
周囲にからかわれ、少女に脇腹を小突かれ、愛想笑いをする俺。
けれど、そこに気まずさはない。
ここに来て小一時間ほどだが、もうすっかり馴染んでしまっていた。
ちらりと時計を見た俺は、はっと気付く。
「……あ、そろそろ帰らないと」
「もう、そんな時間か。一人で帰れる?」
「大丈夫です。そもそも、ここまで一人で来ましたから」
「それもそっか。まあ、店の前までは付いて行かせてよ」
常連客からの野次を交わしつつ、俺たちは店を出る。
春だとしても、夜風は肌寒い。
昼に晴れ晴れとしていた空には、星が輝いていた。
「……今日はありがとうございました。お金、明日に返しに来ます」
「別にいいよ。無理矢理食べさせたみたいなものだし」
「『恩は必ず返せ』って、親に口酸っぱく言われてたんです。
返させてください」
「……そう。なら、ここで待ってるから」
少女の後ろで一つ結びにした茶髪が、風に揺られている。
食欲をそそる匂いもまた、風に乗って香る。
「また明日、ね」
「はい。また、明日」
手を振って、俺たちは別れた。
電灯の少ない夜道。
だが、不思議と不安感はない。
それがどうしてかは、今の俺には知りようがなかった。
「……名前、聞きそびれたなあ」
呟いた声は風に紛れ、誰に聞こえることもなく、満天の星空に消えていった。
翌日、俺は約束通り洋食屋にやって来た。
営業時間を確認し忘れていたので、確実にやっているであろう昼頃に。
そう、思っていたのだが。
「……閉まってる」
昨日押し込まれて入った扉には、『CLOSED』と書かれた看板が下りていた。
確かにあの時、少女は『また明日』と言ったはずだ。
思い違いということはないはず。
まさか、明後日と聞き間違えたか。
などと店の前でぐるぐる考えていると、聞き覚えのある声が頭上から聞こえてきた。
「そこのきみ、昨日の子だよね! 言い忘れてたけど、今日定休日なんだ! 今そっち行くから、待ってて!」
おそらく、店舗兼住居であった建物の二階部分の窓から、昨日出会った少女が俺に向かって手を振った。
姿が見えなくなってから十数秒後、裏口かどこかから出てきた彼女が走ってくる。
「おまたせ! ごめんね、そこまで気回ってなかった」
「そこまで待ってないので、気にしないでください。これ、約束の代金です」
「はい。六百六十円、丁度受け取りました」
小さな透明の袋に入れたお金を手渡すと、俺は踵を返した。
「では、これで──」
「ちょっと待って、早い早い!」
「え? だって、他に何かあります?」
「あるある。きみには無くても、わたしにはある」
肩を掴まれ、俺は帰宅を止められる。
少女が吐いた空気が白く立ち昇った。
「……名前、聞いてなかったから。あと進学先」
「ああ、そうでした。俺は……」
「だから待ってって! 早いの、色々と!」
「……すみません」
肩を前後に揺さぶられ、それと同時に視界が揺れる。
本当に、よく分からない子だ。
昨日は俺を振り回していたくせに、今日はどこかいじらしい。
「……まあ、いっか。そういう子だもんね、きみ」
溜息とともにそう呟いた彼女は俺の肩から手を離すと、何故か両手を握ってきた。
「わたし、朝生優薙! 御高中三年……だった。高校は──」
──『姫咲第一』!
「……は、姫咲第一……?」
「うそ、何か間違ってる? この辺りの一番近い学校なんだけど」
「いえ、そういうことじゃなくて……その、俺も姫咲第一です。進学先」
「……うん?」
県立姫咲第一高校。
この辺りで一番手頃な公立普通科高校である。
「だって、きみ竜海じゃ……?」
「竜海の高校に行くより、こっちの方が近いんです。あと……卒業したら、姫咲の方で働くつもりだったので」
数か月前、何となく考えていた展望をぽろりと話す。
死ねなかったとき、もしまだ生きる気があれば、そうしたいと思っていたのだ。
口をあんぐりと開けた少女──優薙は、丸い目を何度か瞬きさせた。
「……偶然にしては、出来過ぎてるよ」
「俺もそう思います」
「『現実は小説より奇なり』ってこういうこと言うのかな……。
通学は徒歩?」
「一応。まあ、毎日一時間ちょっと歩くのは、少しきついですけど。下宿先とか見つけられませんでしたし、住み込みで働けるところでもあればなあ……」
「え?」
「え?」
俺がふと呟いた言葉に、彼女が聞き返す。
竜海の端あたりでも、姫咲まで歩くと考えたら、何らおかしくないはずなのだが。
不安に思っていると、彼女はまた俺の手を強引に引っ張った。
「ちょっと中入って」
「何でですか?!」
「いいから! パパ、来て! 見つけた、住み込み希望の従業員!」
話が分からないまま、俺は優薙の自宅に連れ込まれる。
乱暴に靴を脱ぎ、リビングに通され、対面するのは昨日の料理人。
テーブルの上には、作ったばかりであろうチャーハンが置かれていた。
「なんだ、優薙。昨日の子じゃないか。彼、困ってるぞ」
「そうだけど……そうじゃない! この子、住み込み希望なの!」
「どういうことですか?!」
「いや、それはおれが聞きたいんだが……?」
「募集出してたじゃん! 最近手が回らないからって! 忘れたの?!」
「ああ……? そういや、大分前に出してたような……?」
「出してたの!」
俺を他所に話を続ける二人。
騒がしいはずなのき、テレビ番組の音が、やけにはっきり聞こえた。
「とにかく! 彼、住み込み希望の新高校生! 条件満たしてる!」
「おう……そうか。じゃあ、契約書持ってくるわ」
「待ってください、俺よく話わかってないんですけど」
「今説明する!」
ソファに座らされた俺は、隣に座った優薙が持ってきた書類に目を通す。
「従業員募集……ですか」
「そう、去年の十二月辺りから出してたの。お客さんの量に対して、わたしとパパだけじゃ手が足りないから」
「住み込みなのは……?」
「丁度部屋空いてるし、下宿先探してる人が入ってくれるかなって。きみみたいな人が、ね」
ぱちりとウインクを決める彼女を、俺は唖然と見つめるばかり。
勢いに押されていた部分を振り返るように、書類を見直し、自分なりに情報を噛み砕いていく。
「えっと……時給とか、勤務時間とかはこの通りですよね」
「うん。労基守るから、安心して」
「逆に守らないとかあるんですか……?」
「ブラックなところは……うん。まあ、うちホワイトだから! 三食おやつ付き、家賃も光熱費も掛かんない! その分働いてもらうけど」
「良い話過ぎて裏がないか……」
「ないない。うち、ただの町食堂だし。そんなことしないよ」
俺は、もう一度手元に目を落とす。
これを信じていいなら、かなりの高待遇だ。
仕事自体もそこまで苦ではないものだし、ここから高校まで徒歩十分と、大幅な時間短縮ができる。
願ったり叶ったりの条件だった。
「……いや、でもなあ」
「何? まだ不安なところある?」
「不安、といいますか」
書類を掴んでいた手を見る。
何の変哲もない、男の手。
けれど、この手は血に染まっている。
「……変なこと言ってる自覚もあるし、おかしいって言ってくれても構わないんですけど」
「いいよ、言って」
真っ直ぐな少女の目と、目があった。
影を落とすことのない、明るい瞳だ。
心を見透かすようなその眩しさに、俺は、ぽつりぽつりと語る。
「……その、俺が関わった人は、大体……死んじゃうんです。事故とか事件とか、病気で。だから、また、誰かを……殺してしまうのか、と」
徐々に言葉尻が重くなる。
思い返すのは、これまでの人生。
自分が犯した罪の数々。
自分が看取った人々。
恨まれているだろう。
妬まれているだろう。
なんでお前だけ生き残ったんだ、と。
なんでお前だけ生きているんだ、と。
俺は、堪らなく怖いのだ。
これ以上喪うことも、そして、これ以上誰かの死に目を見ることも。
けれど、彼女はそんな俺を笑い飛ばした。
「……なに、それ。馬鹿みたい」
「馬鹿みたいって……本当に、そうなんですよ! 皆、俺のせいで……」
「いや、そんなことないから。偶然だよ、偶然。ちょっと考えればわかるじゃん」
偶然、ぐうぜん。
その言葉の軽さに、俺は拍子抜かれる。
「だってさ、その人たちの死に、きみが関わったことあった? ないでしょ。全部、きみが知らないところで起きてるんだもん」
「それは……そうかも、しれませんけど。招いたのは、きっと俺です」
「それを誰が証明するのさ。本人たちが招いたものかもしれないじゃん」
「でも……!」
力を入れ過ぎて、くしゃりと曲がった書類。
ズボンごと握り締めた左手。
彼女は、その上から俺の手を包み込んだ。
いつの間にか起こってた手の震えが、収まっていく。
「大丈夫、きみは何も悪くない。寧ろ、褒められるべきなんだよ」
「……どうして」
「だって、ずっと見てきたんでしょ? 誰かの命が終わるその時を、見守ってくれてたんでしょ?」
「……あ」
ある一人の少女の最期が、脳裏に過ぎる。
彼女は、俺のことをずっと好んでいたという。
冗談だろう、と言ってまともに取り合ったことはなかった。
しかし、それが本当のことだと知ったのは、彼女が病気でこの世を去る直前だった。
────私、大好きだったよ。優しくて、温かくて、誰よりも皆を愛している君のことが、大好きだったよ。
君はね、『死神』なんかじゃない。私が、私たちが保証する。だから──。
やっと、わかった。
そういうことだったんだ。
俺は愚かだった。
彼女が必死に伝えた言葉の真意も分からず、ただ自分が救われたいからと自死を選んだ。
ああ、情けないな。
こんな俺を見たら、皆笑うだろうな。
視界が滲んでいる。
けれど、涙は零さない。
それは、意地だった。
「……決めました。ここで、働かせてください」
「よく言った。……って、言いたいんだけど、保護者の同意が要るんだよね」
「すぐ取ってきます。多分、二つ返事でもらえるので」
「待て待て、まだ契約書渡してない!」
涙目のまま、ばっと立ち上がった俺だが、優薙に服の裾を引っ張っられ、また着席させられる。
『思い切りが良すぎるのは、お前の数少ない短所だ』という友人の言葉を思い出した。
「パパ、早く!」
「今見つけた、これだな!」
「それそれ。……はい、ここ。サインと判子もらってきて」
たった紙切れ一つ。
しかし、これ一つで俺の運命は大きく変わる。
そう考えると、羽のような重さのはずが、どっしりとした岩のように感じられた。
「きみはもう悩まないかもしれないけど……ゆっくり考えて、後悔しないようにね」
「……はい」
クリアファイルに入れられたそれを受け取り、小脇に抱える。
もう要件はないだろうと、昨日と同じように俺と優薙は外へ向かった。
「急展開だったね。わたしのせいだけど」
「そうですね。……でも、良いお話でした」
昨日と違って、今日は風がない。
暖かな陽射しが俺たちを照らすだけだ。
「じゃあ、明日じゃなくてもいいから、近いうちに──じゃない! 肝心なこと聞き忘れてた!」
「何かありましたか?」
「あるある、めっちゃある! というか、自分のことでしょ?!」
そんなことあらだろうか。
顎に手を当てて考えても、何も思い付かない──わけではなかった。
「……ああ、そういえば。言い忘れてました」
「高校の話題ですっ飛んでたよ……。あ、敬語いらないから。タメでしょ」
「今更ですか?」
「今更でも。はい外す」
相変わらず強引だなと思いながらも、彼女の要求通りの対応をする。
「わかったよ。……えっと、朝生さん?」
「なんで疑問形……っていうか、朝生はパパも居るんだけど」
「じゃあ優薙さんで」
「さん付けは取れないんだ」
「まだ会って二日目だから」
「それこそ今更でしょ。わたしは遠慮なく、呼び捨てで呼ばせてもらうけど」
なんて言って、俺たちは顔を見合わせて笑った。
「改めまして、わたしは朝生優薙。きみは?」
「俺の名前は──」
青い空に掛かる、薄い雲。
陽射しを遮るものは、何もなく。
暖かな光に包まれて、眩しさに目を細めて、俺は自分の名を告げる。
「──伊那美琴。遠慮なく、美琴と呼んでほしい」
「……勿論! よろしくね、美琴!」
差し出された手を、差し出した手を、互いに取り合う。
彼女の心を表すように、握りあった手は温かかった。
約二週間後、無事に契約が決まった俺は、洋食屋に住み込みで働き始めていた。
あの時の常連客からはとても揶揄われたが、気恥ずかしくとも不快ではなかった。
どうやら、俺が使わせてもらっている部屋は、優薙の母の部屋だったらしい。
何故、彼女の母親の部屋が空いているのかは、聞かないことにしよう。
と、思っていたのだが、あちらから言ってきた。
俺は悪くない。
簡単に言えば、三年ほど前に不倫で家を出ていった。
実際はもう少し複雑らしいが、説明も面倒臭いし、思い出したくもないので割愛された。
慰謝料も貰っているし、特に未練もないとのこと。
元々、そこまで母親との仲は良くなかったらしく、居なくなって清々したとか。
父親からすれば、複雑な心境ではあるのだろう。
俺からすれば、今の二人が幸せであるならば、何も言うことはないのだが。
「美琴。わたし、もう行くよ」
「わかった。じゃあ、天心さん、俺も行ってきます!」
「おう! 行ってらっしゃい、二人とも!」
真新しい制服とリュック。
まだ見慣れない景色。
友人とともに、俺は新たな道を歩みだす。
「ねえ、美琴。学校じゃ、基本内緒だからね?」
「はいはい。猫被り女神さまに合わせますよ」
「生意気。人見知りド陰キャのくせに」
「流石に言い過ぎだろ、それは……」
「なら、もっとしゃきっとした見た目にしなさいよ」
「まだ怖い」
「そう。でも、夏休み明けは覚悟しなさい。高校デビューは無理でも、二学期デビューはさせるから」
「断固拒否する……!」
また、誰かを殺してしまうかもしれないという恐怖心は、未だ俺の心を蝕んでいる。
数日そこらで長年の悩みが晴れるわけがないというのは、当然のことである。
それでも、あの鬱屈としていた思考は少しは前向きになっている。
全く、『女神』さまさまだ。
「嫌なら自分で頑張りなさいよ、『死神』さん」
「化けの皮が剥がれないようにな、『女神』さま」
入学早々付けられたあだ名を呼び合って、俺たちは高校へ向かう。
今は、まだ友人同士。
いずれは、将来をともにするパートナー。
近い未来、死神と女神、あるいはただのバカップルと称される二人は、今日も同じ道を往く。
その道が分かたれるときは、きっと来ないだろう。
ボーイミーツガールです。
悲惨な過去を持つ男が圧倒的光に救われるものほど、良いものはありません。
良ければ、感想・評価等よろしくお願いします。
普段はこんな作品を書いています。
ご一読いただけますと幸いです。↓
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