6話
快晴の下、エレーヌとリュシアンの結婚式は滞りなく行われた。
幸せそうな二人の姿に嬉しそうに目を細め、エリクは護衛に囲まれ帰って行った。大きく手を振って全く寂しそうではないエレーヌの姿に、後でちょっとだけ泣いたらしい。
結論から言うと、エレーヌが歌うことをエリクも止めることはできなかった。あまりにも気持ちよさそうに歌う彼女の顔を見たら、言葉が見つからなかったのだ。仕方なく、再びヴィクトルが、結婚式前にのどを痛めてはいけません、と体よく諭し、その場を収めたのだった。
式を終え、二人は正式に夫婦となり、エレーヌはルサージュ辺境伯夫人となった。今は机に向かい、エレーヌ・ルサージュというサインの練習をしている。紅茶を淹れに来たコニーが、もじもじとエレーヌの横に立ったまま動こうとしない。
「どうしたの、コニー」
「あのう、言いにくいんですけど、奥様」
奥様、という呼び名に思わず口元がニマニマと緩んでしまいそうになるのをこらえて、エレーヌは凛とした表情を作った。
「大丈夫よ、おっしゃいなさい」
「あさって、アスカム王国の王太子コンラッド殿下とその婚約者のご令嬢がうちに訪問なさるそうです」
「えっ」
思わず大きな声が出てしまい、エレーヌは両手で口を押さえた。王女だった時にはありえないことだ。こんな体たらくで、二人に会って大丈夫だろうか。
しかし、コニーはエレーヌが二人に会うのが気まずいのだろう、と思ったようだ。瞳を潤ませてエレーヌの手をぎゅうっと両手で握ってきた。
「奥様は屋敷の女主人ですので、お二人に会わないわけにはいかないですけど、私たちはお傍を離れませんから! 挨拶だけさっさと済ませて、部屋に引っ込みましょう」
自分の気持ちを慮ってくれる優しいコニーを、エレーヌは抱きしめたくなった。なので、ぎゅうっと抱きしめた。
「奥様?」
「大丈夫よ。私はここに来てもう十分満たされているの。誰に会ったって平気よ。ありがとう。お客様のおもてなしは完璧にするわ。これでも王女だったのよ。任せてちょうだい」
さらに目を潤ませるコニーの頭を撫でて、エレーヌは二コリと笑った。
コンラッドと会うのは一年ぶりだ。もうずいぶんと昔のことのような気がする。
ディアナ嬢が学院を卒業したので、二人でアスカム王国へ向かう途中にこの地を訪れるらしい。
愛し合う幸せな姿を見せにくるのだろうか。
「だったら、こっちの方がラブラブですけどね! あの人たちの倍くらいイチャついて見せつけてやるんだから」
「その意気です! 奥様」
侍女たちにドレスを着付けてもらいながら、エレーヌは気合を入れた。鏡の中のエレーヌがきりっと眉を持ち上げる。
しかし、コンラッドとディアナを通した応接室に入った途端、エレーヌの気合は空回りだったことを知る。
二人の、特にディアナの表情がひどく暗かったからだ。
形式的な挨拶を済ませ、エレーヌはリュシアンの隣に腰掛けた。そういえば、ディアナと会うのは初めてだ。彼女は王女であったエレーヌの顔は知っていたであろうが、こちらは名前しか知らない。
向かいに座るディアナの姿をまじまじと見つめる。
ミルクティー色の長い髪。公国特有の穏やかな濃い緑の瞳。今は気まずそうに眉を下げているけれど、きっと普段は愛らしい顔をしているであろうことが窺われた。
「私、エレーヌ様に謝らなければ、とずっと思っていました。でも、なかなか訪問することができなくて……本当に、申し訳ありませんでした」
きちんと立ち上がり深く頭を下げたディアナに、エレーヌは何の感情も抱かなかった。ちらりと隣のリュシアンを見上げる。小さく頷いたリュシアンが口を開く。
「ディアナ嬢、顔を上げてください」
おずおずと戸惑いつつ顔を上げたディアナは、コンラッドに促されてソファに浅く腰掛けた。
「学院に通ってらしたのだもの、仕方ありませんわ」
「本当に、……エレーヌ様という婚約者がいらっしゃるのに……私、いけないと思いながらも……、本当に申し訳ありません」
「それについては、私にも責任がある。改めて謝罪する。本当に申し訳なかった」
座ったまま頭を下げるディアナと共に、コンラッドまでもが頭を下げた。エレーヌは二人のつむじをじっと見つめたが、やはり何も感じなかった。
「……そうですわね。確かに王族として、貴族として、ありえない振る舞いでございました」
静かにそう言ったエレーヌの声に、二人が微かに肩を震わせた。
「お顔をお上げください」
ゆっくりと顔を上げたコンラッドとディアナは、少しだけ青ざめている。気持ちが盛り上がって婚約を解消し、エレーヌを傷つける言葉でトドメをさしたことを、一年という時間が経つにつれてじわじわと反省していたのだろう。
「でも、わたくしも今だったらお二人のお気持ちが分かるような気がしますわ」
「えっ?」
ディアナが目を見開いた。エレーヌがニコニコと笑っているのに戸惑っている様だった。
「例えば、今更リュシアン様の恋人が登場したとしても、わたくし妻の座を譲る気はさらさらないですもの」
今度はリュシアンが肩を揺らして驚いた。
「そ、そんなものはいない!」
「例えば、と言ったでしょう。それに、わたくしお二人には感謝しているんです」
「感謝?」
コンラッドが訝し気に首を傾げる。膝の上に置かれたリュシアンの左手にエレーヌがそっと手を載せる。
「ほら、見てください。お二人が来てくれたおかげで、リュシアン様が普段は着ない正装をしてくださいました。いつも素敵ですけど、今日のリュシアン様はいっそう素敵ですわ」
「お、お前は何を言って」
「うふふ、結婚式を思い出しちゃいますわ」
手を握ってイチャつき始めたエレーヌとリュシアンを、コンラッドとディアナがポカンと口を開けてしばらく眺めていた。二人の視線が自然と合い、お互い思わず吹き出して笑ってしまう。
「そうだわ。わたくし、嫁いで来てから厨房にも入れさせていただいてますの。お二人のためにケーキを焼いたんでしたわ。持ってきます。お待ちくださいね」
慌ただしく部屋を出て行くエレーヌの背を、コニーが追いかける。
やっと肩の力の抜けたコンラッドが、冷めかけの紅茶に手を伸ばす。
「エレーヌ姫があんなに明るく快活になっているとは、驚きました」
「王太子にも言われたが、俺があいつに初めて会った時にはもうああいう感じでしたよ」
「なるほど。きっと、あなただから、彼女が自由になれたのでしょうね」
「それについてはよく分からないが、エレーヌを傷つけたことは許せないが、手放してくれたことについては感謝しよう」
肩をすくめたコンラッドがディアナの方を見る。小さく頷いたディアナが、ちらりとドアの方を確認した後、まっすぐにリュシアンの目を見た。
「我がクロンメリン公国から、反乱者が国境を越えたと伺いました」
リュシアンがハッとし、姿勢を正した。
「父である公国の宰相にすでに報告はしてあります。捕らえたものたちを公国へ引き取るために、父の補佐をしている兄が騎士団を引き連れてこちらに向かっています」
「エリクの言っていた交渉人とはあなたのことでしたか」
「そこまで立派な立場ではありませんが、公国の貴族としてお詫び申し上げます」
先ほどの青い顔とはうって変わり、凛とした表情でディアナは頭を下げた。なるほど、エレーヌよりも確かに彼女の方が王妃に向いているかもしれない。
ガラガラとワゴンを押す音が聞こえ、コニーの開けたドアから満面の笑みのエレーヌがあらわれた。
「みなさん、それはもう美味しいオレンジケーキですわよ~」
エレーヌの能天気な声に、コンラッドが噴き出す。
切り分けたケーキを食べ、取り留めのない話をして四人は楽しく時を過ごした。
「あら、お湯がもうないわ」
ポットを持ち上げたエレーヌがつぶやく。コニーはワゴンを下げに行ってから、まだ戻って来ていない。
「俺が伝えてこよう」
リュシアンはすばやく立ち上がり、部屋の外で控える使用人に声をかけに行った。
飲み物がなく手持ち無沙汰になったエレーヌがポンと手を打った。
「そうだわ。せっかくお二人がこんな辺境にまできてくださったのだもの、全力でおもてなししなきゃ」
エレーヌはソファの下にずぼっと手を突っ込んだ。コンラッドとディアナは、きょとんとしてその続きを待っている。
お湯を持ってくるよう伝え部屋に戻ったリュシアンの目に、リュートを抱えたエレーヌの姿が飛び込んできた。
「お二人の幸福をお祈りいたしまして、わたくしが作った曲です」
ディアナが嬉しそうに胸の前で手を合わせ、コンラッドが興味津々で身を乗り出す。
「やめるんだ! エレーヌ!」
リュシアンの声はエレーヌが、ポロロン、とリュートをつま弾いた音にかき消された。
「それではお聞きください。『祝福の歌』」
ラングロワ王となったエリクは、クロンメリン公国、アスカム王国といった隣国と友好的な関係を保ち、豊かで平和な治世を築いたのだった。それはもう、本当に。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
拙作「逃がした魚は大きかったが 釣り上げた魚が大きすぎた件」のコミカライズが4月24日よりスクウェア・エニックス様のマンガUP! にてスタートします。
ながと牡蠣先生が元気いっぱいのミミを描いてくださっています。
どうぞよろしくお願いいたします。