4話
厨房の料理人は、エレーヌに何を食べたいか聞いてくれる。希望を言えばたいてい次の食事にはその料理が給仕される。王城にいた時は、毎日きっかり同じ時間にエレーヌの健康を考えた献立が用意されていた。毒見の済んだそれらを黙々と一人で食していた。
ここに嫁いで来てからは、毎日兵団の団員たちと食事を共にしている。あまりにも人数が多い時には大皿に盛られた大量の料理を皆で分け合って食べる事だってある。料理人が寝坊した朝には、朝食代わりに甘いドーナツを渡された。リュシアンは怒っていたけれど、予想外の朝一スイーツにエレーヌは飛び跳ねて喜んだ。
王城から持参した普段着用のドレスは、全てスカートの丈をひざ下までつめた。朝食後の散歩にリュシアンが付き合ってくれるようになったからだ。
リュシアンは長いスカートでよちよち歩くエレーヌの歩幅に合わせて歩いてくれる。このままではいつかリュシアンの長い足が絡まって転んでしまうのではないかと心配になったので、スカートの丈を切ってしまったのだ。それに、階段代わりの大岩を上る時もこの方が歩きやすい。
細い幹の木々が連なる散歩道を、リュシアンと手をつないで歩いてゆく。林を抜けて木陰が途切れる原っぱがゴールだ。原っぱはゆるやかな丘のてっぺんになっていて、遠くに青々とした高い山が見える。あの頂上には、教会が建っている。一度リュシアンに馬に乗せてもらって見に行ったことがある。大海原を臨むこじんまりとした教会にエレーヌはひどく心惹かれた。リュシアンとの結婚式はそこで行われることとなった。王都の大聖堂を予定していたのだが、リュシアンが王家に提案するとあっさり許可された。さすがにここは遠いので、王家からは代表として兄だけが参列するそうだ。
王女のふるまいなんてすっかり忘れてしまったエレーヌにとっては好都合である。
「エレーヌ様、内緒のおやつ食べませんか」
足音を立てないようにそうっと近付いてきたコニーがエレーヌに耳打ちした。
「集落で新作のスイーツもらったんですけど、数が少ないんです。だから、エレーヌ様侍女ズだけでこっそり食べましょう。めんどくさいんで、私の部屋でいいですよね? 準備できたら呼びにきますね!」
エレーヌがこくこくと頷くと、コニーは笑顔で部屋を飛び出して行った。
さっきお昼ご飯を食べたばかりだし、おやつの時間にはまだ早い。内緒、という言葉に胸がわくわくした。
コニー以外の侍女たちはまだ城下の鍛錬場にいるはずなので、もう少し時間がかかるだろう。
上機嫌のエレーヌは、衣裳部屋に向かった。高揚した気分のままに、以前から挑戦したいと思っていたことに取りかかることにしよう。
王城から運んできてまだ開梱せずにしまったままの箱を引っ張り出した。頑丈に閉められた紐を切り、蓋を開ける。そこには、ほとんど未使用のリュートが入っていた。
リュートとは、背の丸い弦楽器だ。視察先の街角で歌う吟遊詩人が奏でる曲に感動したエレーヌは、その場ですぐに楽器店に向かいリュートを購入した。自室でつまびこうとしたものの、爪が傷むから、とリュートの演奏は禁止されてしまったのだ。
岩場に手をついたって怒ることのないリュシアンならば、リュートを弾いたって何も言わないだろう。
窓辺に置いた椅子に腰かけ、エレーヌはリュートを抱えた。
羽ペンを指でくるくると回し、窓の外を眺めていたリュシアンの頭を、ヴィクトルが軽く小突く。
「エレーヌ様のことでも考えてるのか。夫婦円満なのは結構だが、溜まった仕事はちゃんとやってくれ」
「うるさいな、ちょっと休憩していただけだろう」
「あーあ、嫁なんか間に合ってる! ってわめいていたお前が、こうも骨抜きにされるとはな」
ふてくされたように頭をぼりぼり掻いたリュシアンは、とうとう羽ペンを机の上に放り投げた。ヴィクトルがムッとして口を尖らせる。
「あいつのどこがお人形姫なんだ。巷の噂とは全くあてにならないもんだな」
「それについては全面的に同意するよ。俺は兵団の様子を見て来るから、お前は書類仕事を終わらせろよ」
ヴィクトルはサイン済みの書類の束を小脇に抱えて部屋を出て行った。
転がったままのペンを眺めながら、リュシアンはエレーヌが嫁いで来た日のことを思い出す。ボロボロの姿でやって来た彼女は、次の日の朝には光り輝く女神のような神々しさを放ってリュシアンの名を呼んだ。リュシアンは瞬きも忘れてその姿を目に焼き付けた。
感情のないお人形姫のはずのエレーヌは、初めて見るものに目を丸くして声を上げ、好奇心旺盛にいろいろな場所を探索している。早々に兵団員たちとも仲良くなり、屋敷の使用人たちからの好感度も高い。
言いつけを守って勝手に出歩くことはないが、一人でなければ良いのでしょう、とでも言わんばかりにリュシアンの手を固く握って危険な崖を覗き込んだりする。
適当にあしらって王城へ返すつもりだったが、そんな気なんてすっかりなくなってしまった。むしろ、今や彼女のいない屋敷なんて想像もしたくない。
無理やりエレーヌを押し付けてきた王太子に、こればっかりは礼を言わなければならない。
そう思った瞬間、窓の外からとんでもない轟音が聞こえた。
まさか敵襲か!
すぐに剣をかまえ、窓から外を窺った。怪しい姿は見えない。しかし、鼓膜に爪をたてるような不快な音はまだ聞こえている。
大型の野禽か何かが飛び込んで来たか!?
リュシアンは空を見上げ、ハッとした。音が聞こえるのは、エレーヌの部屋のあたりだ。
「エレーヌ!!」
リュシアンは剣を握り、部屋を飛び出した。
階段を駆け上がると、エレーヌの部屋のドアの前でコニーが腰を抜かしていた。駆け寄りその肩に手をあてて起こした。
「コニー! 一体何が起こっているんだ!」
「こ……、こんなことって……そんな……」
震える指先でコニーが指す方向に目を向けると、そこには窓辺の椅子に姿勢よく腰掛けた美しいエレーヌがいた。
この不快な音は、どうやら、もしかすると、いや、間違いなく、エレーヌから発せられている。まさかこの耳をつんざく獣の鳴き声はエレーヌの歌声で、心をざわめかせて仕方ないこの雑音はリュートをつま弾く音なのか。
コニーがそっと両手で耳をふさぐ。リュシアンもそうした。
「リュシアン! 無事か!? 何だこの音は!!」
ヴィクトルが声を荒げながら駆け寄って来る。そして、リュシアンが指さす先を見て、かちりと硬直した。
「おい、ヴィクトル。お前、止めて来い」
「え! 何で俺が」
「エレーヌは悪魔に呪われている。領主である俺が一緒に呪われたら困るだろう。お前行け」
「ひ、卑怯者!」
両手で固く耳を塞いだヴィクトルがおずおずと部屋に一歩足を踏み入れる。それに気付いたエレーヌが手を止めた。やっと収まった轟音に、三人がほっとする。
「まあ、いやだ。聞いてらしたのね。恥ずかしいわ」
ポッと頬を赤らめるエレーヌはいつものように美しい。透き通る金髪が窓からのそよ風にふわりと揺れる。
「あっ、皆さんのお顔を見たら詩が浮かびましたわ。即興ですけど、是非聞いてくださいませ」
エレーヌがリュートを抱え直すと、ヴィクトルがものすごい速さで駆け寄り、リュートを取り上げた。
「エレーヌ様! ずいぶんと調律が狂っているようです。合わせてまいりますので、しばらく預からせていただきますね!!」
「あら、まあ。気付かなかったわ。お願いします」
ヴィクトル、グッジョーーブ!!
リュシアンとコニーが部屋の外でガッツポーズを決める。エレーヌが素直な子で助かった。
エレーヌの歌声と演奏は、屋敷内のトップシークレットとなった。突如響き渡った忌まわしい音は、屋敷にいた者たちをたいそう不安にした。もし城下の集落にまで聞こえていたら、天変地異かとひと騒ぎ起きていたことだろう。
結婚式は明日行われるが、今朝も二人は手をつないでいつものように散歩を楽しんでいる。
「エリクに会うのは不安か」
エリクとは、エレーヌの兄であるラングロワ王国の王太子のことである。仲が良いとも悪いとも言えないほどにあまり関りがなかった。
「いえ。お顔を見るのはただ久しぶりだな、と思っただけです。そんな風に見えましたか」
「少し元気がないように思えた」
エレーヌが何かを思いついたようにハッとして立ち止まる。リュシアンも合わせて足を止めた。
「そうだわ。わたくしがこの地で楽しく暮らしていることをお知らせするために、お兄様を歓迎する歌をつくろうかしら。今なら良い詩が浮かびそうですわ」
「いやいやいやいやいや、これからお前は明日の支度で忙しい。またの機会にしよう」
リュシアンに強引に手を引かれ、エレーヌは「ああ、思いついた言葉を忘れてしまいました」とつぶやいた。
エレーヌはそよそよと葉が擦れる音に顔を上げ、ちらちらとまばゆく照らす陽光に目を細めた。きっと明日も良い天気に違いない。知らず知らず沈んでいた心が、少しだけ上向いた気がした。
「リュシアン様、本当にわたくしでよろしいのですか」
「は!? 今さら何を」
「リュシアン様は、本当はわたくしではなく、公国との交渉人を求めていたと伺いました」
リュシアンが気まずそうに口を歪める。その表情を見て、エレーヌが眉を下げて笑う。
「誰から聞いた」
「ずうっと前です。嫁いで来る前に、王城で。聞きたくないことに限って聞こえてしまうものですね」
エレーヌが寂しそうに笑うのを見て、今度はリュシアンが顔をしかめる。手をさらにぎゅうっと握り、強く引いた。エレーヌが振り返り、二人は見つめ合う。
「確かにそれは事実だが、今はもうお前を手放すことはできない。大人しくこの辺境で花嫁となれ」
「うふふ、わたくしお人形なだけではなくて、お荷物姫でもありますのよ」
「はっ、お前ごとき指一本でも持ちあがるわ。荷物のうちに入らん。気にするな」
言葉は勇ましいけれど、何て優しいプロポーズだろう。エレーヌは胸がいっぱいになり、言葉に詰まってしまった。照れ隠しに顔をしかめたリュシアンは、沈黙に耐えられなくて勝手に話を続ける。
「この地は冬になったらそれは冷たい海風が吹く。大雪が続けば数日間は屋敷から出ることはできないし、吹雪けば窓の景色も真っ白で何も見えなくなる。お姫様にはつらいだろうが、慣れてもらうしかない」
「温かい防寒着があると聞きました」
「ああ、すでに今年の冬に向けて手配済みだ」
「ええっ、もう?」
「職人の手作りだからな、遅いくらいだ」
林を抜け、ゴールの原っぱに出た。陽光に突然照らされ、エレーヌが手を額にかざした。まるで海原のようなエメラルドグリーンのエレーヌの瞳を見つめ、リュシアンはその形の良い丸い頭に手を伸ばした。
「モコモコの防寒着を着たお前はさぞかし可愛らしいだろうな」
リュシアンはそのままエレーヌの額にそっと口付けた。