3話
「あなたはもしや!」
馬から降り立った長身の男がそう尋ねた。駆けてきた馬が立てた砂ぼこりのせいで目を細めていたエレーヌは、あわててトランクから飛び降りた。膝を折って礼をしようにも、足が震えてうまく立てない。
「お初にお目にっ……ケホ、ケホッ」
よろけつつも出した声はかすれ、咳込んでしまった。
男たちはあわてて荷物袋から水筒を取り出すと、エレーヌに一杯の水を手渡した。エレーヌはすぐに口を付け、ごくごくと水を飲みほした。
「おいしい! こんなにおいしいお水は初めてよ」
だって本当においしい。毒見も待たずに飲んでしまったのも初めてだし、初対面の人にあいさつもせずにこんな不躾なことを言うのも初めてだ。それでも、お水を一口飲む度に体の隅々まで力が漲るこの感覚はとてつもなく心地よい。遠慮なく二杯の水を飲みほしたエレーヌは、やっとスカートを持ち上げて礼をした。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。ラングロワ王が娘、エレーヌにございます」
戸惑いつつも敬礼を返す男たちは、全員黒い軍服を着ている。まさに国境を守護するにふさわしい体格の良さだった。
「あの、なぜお一人で? お付きの方たちは」
「もう帰っていただきました。皆忙しいでしょうから。屋敷の門で待ち合わせと伺っていたのですが、待ちきれなくて歩いて来てしまいました」
エレーヌがいつもの微笑を浮かべてそう言うと、頬に傷のある男がぎょっと目を見開きたじろいた。
「確かに門までお迎えにあがるというお約束でしたが、屋敷の門はもっと先です」
「え!? では、あの大きな灰色の門は」
「まさかあそこから歩いてきたのですか? あれは外敵避けの一番最初の周壁です。城はあの丘の頂上にありますので、屋敷の正門はそのふもとにあります」
これにはさすがのエレーヌも微笑を崩さざるを得なかった。待ち合わせ場所はまだまだ先だった。しかし、馬車を無理やり追い返したのは他でもない、エレーヌ自身なのだ。
足を怪我していたエレーヌは、すぐに馬に乗せられた。馬に乗ったことのないエレーヌを気遣ってくれたのか、一番小さな馬に乗る兵士と相乗りすることになった。小柄な兵だと思っていたが、声を聞くと女性だった。陽に輝く金髪を短く刈り上げ、小さな顔に大きな瞳の彼女はコニーと名乗った。形の良い丸い額の下で、髪と同じ金色の長いまつ毛を瞬かせて笑顔を見せる。エレーヌはコニーの清々しい笑顔を大変気に入った。
馬を駆け約束の正門へたどり着くと、そこには無骨で頑丈そうな馬車が待っていた。コニーの手を借り馬車に乗ると、エレーヌはすぐに窓に張り付いた。丘陵だと思っていた丘は険しく高い山で、その頂上に大きな城が見える。外を見るのに夢中になっているエレーヌに、周りを走る兵たちも思わず頬が緩んでしまった。
馬は難なく坂道を駆け上り、馬車は大きな城にたどり着いた。
馬車が跳ね橋を渡ると、事前に状況を知らされていたのであろう、リュシアンがすぐに駆け付けた。そして、ぼろぼろの姿のエレーヌを見て唖然とした表情を見せた。
「初めまして、ルサージュ辺境伯閣下。わたくしはラングロワ王が娘、エレー……」
「挨拶は後だ。先に怪我の手当を」
「きゃあっ」
きれいな礼を見せたエレーヌにずかずかと近付き、リュシアンはいきなりエレーヌを横抱きにした。今まで基本的に話を遮られたことのないエレーヌは目を丸くして固まった。しかも、こんな風に男性に体を触られたのも初めてだった。
階段を二段飛ばしで軽快に駆け上がり、清潔に整えられた部屋に放り込まれた。後を追ってきたコニーに案内され風呂に入った。汗を流し、大きな浴槽に足を入れたら、靴擦れが痛んだ。傷はコニーが先に消毒してくれたがまだ血が滲んでいたので、くるりと体勢を変えて足を上げたまま湯に浸かった。湯船に背を預け、湯からにゅっと飛び出したままの足首をじっと見ると、エレーヌは思わず笑い声をあげてしまった。
今日は初めてのことばかりだ。
たったの数時間の間に、いくつの初めてがあっただろう。今だって、何という格好をしているのだ。こんな行儀の悪い体勢で入浴したことはない。
エレーヌは愛おしそうに靴擦れに手を添えた。滲む血も、ずくんずくんと脈打つ痛みも、全てエレーヌのものだ。
兵たちは礼儀正しく、コニーは明るく優しい。意外と美男子だった辺境伯はまず初めにエレーヌの怪我の心配をしてくれた。胸にわだかまっていたたくさんの不安は、ぱっと一瞬で消えてしまった。
浴室から聞こえてくるエレーヌの笑い声に、着替えを準備していたコニーが不思議そうに首を傾げていた。
「おはようございます! 王女殿下!」
元気の良いコニーの声に、エレーヌはぱちりと目を覚ました。
昨夜は風呂の後に丁寧に靴擦れの手当をされ、そのまま部屋で食事をいただき、全身をマッサージされているうちにぐっすりと眠ってしまった。
「おはよう、コニー。もう朝ですのね。私、閣下に挨拶もしないまま……」
「リュシアン様なら大丈夫ですよ! そんなの気にする人じゃありません」
コニーが持って来た大きなたらいには、温かいお湯が入っていた。早朝からわざわざお湯を沸かしてくれたことにも、重くて大きなたらいを軽々持ち上げるコニーにも驚いた。小柄で愛らしいが、やはり兵団の兵士なのだ。
「一度も目が覚めずに、気付いたら朝でしたわ」
「うふふ、そりゃあそうですよ。一番端の周壁から正門までは小さな街ひとつ分くらいの距離があります。そこを歩こうとしていたのですから、お疲れなのは当然です」
「まあ、そんなに距離があったのですね。でも夕方から朝まで眠ってしまうだなんて恥ずかしいわ」
「周壁は二つあって、二番目の壁の内側には私たちの住居もあるので、買い物のできる店もいくつかあります。街というほどではないですが、集落って感じですね。そこだけでもけっこう距離があります。私たちが見つけなかったら、殿下の足では丸一日歩いてもきっと正門まで到着できなかったでしょうね」
「ふふふ、そうね。良かったわ、コニーに見つけてもらえて」
身支度を整えたエレーヌは、窓から外を覗き込んだ。昨日は慌ただしくて景色を眺める余裕などなかった。
「まあ! 海だわ! 海が……きれい!」
そう叫んでしまい、あわてて手で口を閉じた。コニーは驚く様子もなく、平然と部屋の片付けを続けている。そうか、ここには大きな声を出しても顔をしかめる人などいないのだ。
眼前には青碧の海原が広がっていた。山頂に城が建っているだけあって、非常に見晴らしが良い。エレーヌは窓ガラスに額を押し付けて、下を覗き込んだ。それに気付いたコニーがくすくすと笑う。
「この城は崖の上に建っています。危ないので窓は換気程度にしか開きませんし、ベランダもありません。その代わり、外敵も登ってくることはできませんので、ご安心ください」
コニーの手を借りてドレスに着替え、エレーヌは部屋を出た。兵団との朝練習を終えたリュシアンが城へ戻って来たそうだ。
案内された部屋に入ると、窓辺に立ってたリュシアンが振り返る。焦げ茶の髪に黒に近い茶色の瞳。貴族らしい整った容貌をしているが、兵団を率いているだけあってがっしりと体格が良い。昨日はあっという間に部屋に放り込まれたので、こうしてじっくりと彼の容姿を確認する暇がなかった。
「エレーヌでございます。リュシアン辺境伯閣下、ご挨拶が遅れてしまい申し訳ありません」
「ああ、構わない」
スカートをつまみ教科書通りの完璧な礼をするエレーヌをリュシアンは瞬きもせずに凝視している。動揺を隠したままほほ笑んだエレーヌは、姿勢を戻しリュシアンを見つめ返した。
「昨日はお見苦しい姿をお見せしてしまい、大変申し訳ございません」
「別に謝ることでもない」
挨拶同様、素っ気ない返事をするリュシアンにエレーヌは戸惑った。そんなに不躾にじっと顔を見られると、さすがに口元が引きつってしまいそうだ。
「怪我はもういいのか」
「はい。コニーの手当とマッサージのおかげでとても元気になりましたわ」
「そうか、では外に出てみるか? 外の景色を見たいのだろう」
まっすぐに伸ばされたリュシアンの手を反射的に握ってしまったエレーヌが頬を赤く染めた。それを気に留める様子もなく、リュシアンは大股でどんどん歩いて行ってしまう。手を引かれるエレーヌが足をもつれさせる寸前で、コニーがあわててリュシアンに声をかけた。
「すまない! 女性をエスコートすることなどめったにないもので、気付かなかった!」
狼狽して謝るリュシアンには先ほどの素っ気なさはなくなっていた。きっとこれが本来の彼なのだろう。王女に対して彼もそれなりに緊張していたのだとわかると、少しだけ肩の力が抜けた。しっかり握られたままの手をエレーヌは握り返す。それを合図に今度はゆっくりとエレーヌに合わせてリュシアンは歩き始めた。
大きな掃き出し窓を出ると、そこにはエレーヌの部屋よりも少し狭いくらいの小さな庭があった。頑丈な低い柵の向こうには何も見えない。視線を少し上げれば、険しい峡谷の向こうに青碧の海が広がっていた。凪いだ海は穏やかにゆらゆらと揺れ、その上にはもっと濃い青色の空が乗っかっている。海と空との境い目に吸い込まれるように意識を持って行かれていたエレーヌは、頬を撫でるひんやりとした風にハッとした。
「大丈夫か? こわいならここまでにしよう」
心配そうに眉を下げるリュシアンの手にしがみつくようにしてエレーヌは首を大きく横に振った。
「いいえ、いいえ。もっと近くで見たいです。お願いします、閣下」
「ああ、わかった。けして手を離すなよ」
がっちりとした太い腕に掴まりながら、あちらとこちらを区切る柵へおそるおそる近付いた。
柵の下は険しい崖だった。コニーの言う通り、この崖を登ってくる侵入者などいやしないだろう。崖からは冷たい風が吹き上げ、エレーヌの髪をふわりふわりと泳がせる。自分の部屋はどのあたりだろう。見上げても、同じような窓が並ぶばかりで見分けがつかない。
崖を覗き込んだかと思ったらのけ反って城を見上げているエレーヌのせわしない様子に、リュシアンは笑いをこらえた。
「庭に出ることは禁止しないが、けして一人で出てはいけない。晴れていても強風が吹くこともある。もし崖を落ちても俺たちだってそうそう助けには行けないから」
「承知いたしました。閣下」
「リュシアンでいい。俺たちは夫婦になるのだろう?」
一瞬遅れて頬を染めたエレーヌはこくりと頷いた。
「では、わたくしのこともエレーヌちゃんと」
「ああ、わかった。エレー……?」
「うふふ、冗談です。リュシアン様」
エレーヌは屋敷の中でこの庭が一番のお気に入りとなった。




