2話
あれから半年が経った。妙齢の王女であるにもかかわらず、エレーヌには縁談らしい縁談すらやってこない。お人形姫、の噂が社交界にも広まってしまったのだ。言われてみればまさにそうとしか思えないお人形姫は、あの時の男たちが言う通り王家のお荷物姫となってしまった。
暗い顔をして周囲に心配をかけることなどできないエレーヌは、いつも通りの微笑みを浮かべ庭で日向ぼっこをしていた。
「エレーヌ」
そう自分を呼ぶ声と、ザッザと力強く芝生を踏む靴音。王太子である兄だった。
「エレーヌ、お前の嫁入りが決まった」
兄は挨拶もせずに、エレーヌを正面から見下ろしてそう告げた。エレーヌは瞬きをひとつしただけで、表情を崩すことはなかった。
「左様でございますか。かしこまりました」
そう言って、座ったまま軽く礼をした。頭の上から、兄のため息が聞こえた。あの時のコンラッドと同じような、小さな、小さなものだった。
「まったく……!! ラングロワ王は頭がおかしいのか!!」
リュシアンは握りつぶした書類を壁に思い切り投げつけた。側近のヴィクトルがそれを拾い、手のひらの上でしわを伸ばす。
「王家からの書状を無下にするなよ」
「お前も読んだだろう、何だこれは! 俺は褒美を寄こせと言ったんじゃない、交渉人を寄こせと言ったんだ。それを何だ! 報奨金と王女をやるって! 俺は金も嫁も間に合ってる!」
「いや、金はともかく嫁は間に合ってないだろ」
「うるさい! 王城にはまともに字の読めるやつはいないのか!」
ヴィクトルがせっかく伸ばした書類をリュシアンは再び握りつぶし、ポケットからマッチを取り出した。あわてて書類を奪い返したヴィクトルが、懐にそれを仕舞う。顔をしかめたリュシアンは、執務机の端にどさりと腰かけた。
「はぁ……、とりあえず、負傷者の状態はどうなんだ」
「数は多いが後遺症の残るような大けがをした奴はいない。国境にはすでに別の部隊が向かっていて、もう到着している頃だろう。まあ、いつも通りってところだ」
「お前ももう戻っていい。休め」
オレンジがかったこげ茶色の髪をがしがしと片手で掻き、リュシアンはヴィクトルを部屋から追い出した。
リュシアンは、アスカム王国とクロンメリン公国を隔てる細長い領を治めるルサージュ辺境伯家の若き当主である。二つの国境を守護する屈強な兵団を率いる、ラングロワ王国内でも権力のある家柄だ。
半年ほど前、クロンメリン公国側から少なくはない人数の兵が国境を越えて来た。あわや宣戦布告かと緊張が走ったものの、公国での内戦であぶれた反乱者どもが勢いあまってラングロワ王国にまで手を伸ばしてきただけのことだった。ルサージュ兵団であっという間に制圧してしまったので、王国の兵は出る幕もなかった。
反乱者を簡単に国境を越えさせた公国へはある程度の抗議はするべきである。そして、捕らえた反乱者もさっさと連れて帰ってほしい。リュシアンは武人であるため、そう言った政治的なやり取りは面倒くさくて苦手だ。だから、王家に公国との話し合いをするための交渉人を要求したのだ。
その返事がなぜか報奨金と嫁の斡旋にすり替わっていた。王家にはまともな交渉人がいないのか。はたまた、公国ともめずに穏便にやって行きたい、あわよくば無かったことにしたいという意味なのか。どちらにしたって、なんて弱腰なんだ。ラングロワ王国の国力の低下は感じていたが、ここまでとは。
「ならず者が国境を越え入国するのを防いだ、と恩を売りつけて、アスカム王国へ鞍替えした方がいいかもしれん」
リュシアンは不敵な笑みを携えてそうつぶやいた。
「おい、不敬なことを言うな」
「まだいたのか、ヴィクトル」
「言い忘れたことがあるから戻ったんだ。来月早々にエレーヌ姫が輿入れしてくる。城の改装をすぐに手配するからな」
「とりあえず王女の部屋だけでいいだろ。すぐに追い返す。俺はまだ嫁はいらん」
ヴィクトルは頬の傷を歪めて笑った。
「王女を嫁がせてお前をこの国に引き止めたいんだろう。そんな簡単な話じゃない」
「兵団を継いだばかりで忙しいんだ。それどころじゃない」
「それはそれは美しい王女らしいぞ。返したくなくなるかもしれないだろ」
「……そんなに美しいのか?」
「そこに姿絵を置いておいたから、見ておけよ」
机の上に積み重なった書類の山の一番上に、王家の紋章の入った分厚い封筒が無造作に置かれていた。それに手を伸ばした時には、すでにヴィクトルは部屋を出ていた。
エレーヌの乗った馬車はひと月をかけてルサージュ辺境伯領へとたどり着いた。最小限の護衛が馬車を囲み、お付きの侍女は一人だった。もはや価値のないお荷物姫を襲う輩などいない。王家はそう判断したということなのだろう。現にここまで何の障害もなく予定通り馬車は辺境伯の屋敷の門扉に到着した。
「姫様、私たちはここまでです」
馬車を降りると護衛騎士がそう言った。
辺境伯の屋敷は領の端、町はずれにあった。辺境伯領に入った時は、非常に栄えた活気のある街が続き、侍女が馬車の中でひとり興奮していた。が、だんだんと街並みが遠くなり、人里を離れた辺りからおとなしくなった。簡素に整備されただけの道路沿いには、葉が枯れ落ちて丸裸になり骸骨の手のような木々が並んでいた。まるで地の果てのような景色に、侍女は涙目で震え始めた。
「姫様がこんなところに一人で……」
カタカタと震えながら侍女がしきりにそうつぶやいている。変わりゆく窓の景色に視線が釘付けになっていたエレーヌには侍女が一体何に怯えているのかさっぱりわからなかった。しかし、辺境伯との待ち合わせ場所へ到着したら侍女はすぐに帰してあげよう。そう考えていた。
屋敷の門まで行けば、辺境伯の兵団が迎えに来るという約束だった。砦でもある屋敷は常に塔から敷地内を見張っている。時間を告げずとも、姫の来訪を認め次第すぐにやって来るという話だった。
「きっとすぐに来るはずよ。もう帰っていいわ」
「とんでもない。迎えが来るまで一緒に待ちます」
護衛騎士がぶんぶんと首を横に振る。
「あんなに怯えてかわいそうだわ。早く出発してあげてちょうだい」
馬車の中で、涙目の侍女が申し訳なさそうにこちらを見ている。騎士がいら立ったように眉をひそめた。
「私の最初で最後のわがままよ。私は大丈夫だから、行ってちょうだい」
「姫様!」
エレーヌは天まで届きそうなほど高く堅牢な門扉を見上げた後、大きなトランクを両手で持ち上げた。よろよろと歩きながら、扉に手をかける。意外と簡単に開いた隙間に体をすべりこませ、最後に手を振って扉を閉めた。
エレーヌを呼ぶ声はしばらく続いていたが、返事をしないままでいたら馬車が走り去る音が聞こえた。
エレーヌは振り返り、辺りを見回した。背後にはただただ高原が広がるばかりで、人っ子一人いない。高原の先には丘陵が見える。きっとあの頂上に屋敷である城があるのだろう。
「それにしてもなんて大きな敷地なのでしょう」
トランクに腰掛け、エレーヌは思わずつぶやいた。城壁塔から見張りの番が見つけてくれると言っていたが、こんなに遠く離れていて見えるのだろうか。いや、ここは国境を守る砦。侵入者を見逃すわけがない。ここにこうしていれば、いつか誰かが迎えにきてくれるだろう。
「ふふっ」
意外と自分は楽天的だったらしい。エレーヌはうっかり声を上げて笑ってしまい、あわてて口を手で押さえた。でも、もうここには誰もいない。人目を気にして背筋を伸ばす必要もないのだ。
エレーヌは生まれて初めての一人ぼっちを堪能することにした。
おかしい。誰も迎えに来ない。いったいどれくらい時間が経ったのだろう。
エレーヌはトランクに腰掛けたまま、首を傾げた。もしかしたら何か火急の用事ができて迎えが遅れているのかもしれない。
エレーヌはトランクから軽やかに飛び降りると、深く帽子をかぶり直した。
それならば、少しでも自力で屋敷に向かうべきである。足があるのだから歩けば良いのだ。忙しい彼らの手を煩わせるわけにはいかない。
「そのうちどこかで合流できるでしょう」
やはり自分は思っていたよりも楽天家だった。エレーヌは両手でトランクを持ち上げ歩き始めた。
婚約を解消してできた空き時間は主に庭の散歩に費やしていたから、以前よりは随分と体力がついたと思っていた。それがなかなかどうして、四半刻も歩けば足ががくがくと震える。トランクを持つ両腕なんて、もうちぎれてしまいそうだ。
帽子のつばを上げて額の汗を拭うと、じりじりと照り付ける太陽が頬を灼く。
拭いきれなかった汗がまつげをかすめ、エレーヌは目を眇めた。そして、こう強く思った。
私、生きてる。
私、今、生きているわ。
短い呼吸をするたびに耳の奥がずくん、と痛む。
荷物を持つことも、こんなに長い時間歩くのも初めてだった。流れるほどの汗をかくのもきっと初めてだ。いつもこうなる前に、誰かが飛んで来て代わりに荷物を持ってくれたし馬車に乗せてくれた。
休もうにも辺りは草原が広がるばかりで木陰のひとつもない。目的の丘陵は全く近付いて来ない。諦めたエレーヌは、その場にトランクを置いてその上に腰掛けた。行儀悪く左ひざの上に右足首を載せる。靴を脱ぐと、靴擦れから血が滲んでいた。呼吸が整うのを待つうちに、だんだんと体が重くなってきた。
それでも胸の奥から湧き上がる高揚感。
自分はお人形ではなかったのだ。動けば疲れるし、痛みを感じれば顔を歪める。足をさすりながら、にまにまと自然に持ち上がってしまう頬をそのままに、はるか向こうの丘陵を眺めた。
すると、先ほどは無かったはずの黒い点々がうごめいている。ごみでも入ったかと目をこすってみたが、その点々はどんどん大きくなってゆく。あれは何だろうと思った頃には点々は馬の形となり、馬だわ、と思った頃には五頭の馬が眼前に迫っていた。




