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1話

 大きく開いた窓から、耳をつんざく悲鳴が響き渡った。

 国境を守護するルサージュ辺境伯当主リュシアンはとっさに立ち上がり、傍らに置いた剣に手をかけ身構えた。

 部屋に異変はない。しかし、まだ悲鳴とガシャンガチャンとひどく耳障りな轟音は続いている。悲鳴かと思ったが、野生の獣の鳴き声にも聞こえる。

 どっちにしたって屋敷に不測の事態が起きているのは明らかだ。

 じりじりと身を低くして窓辺に近付き様子を窺う。この不気味な鳴き声は、上階から聞こえてくる。途端にリュシアンの顔つきが険しくなった。

 あれはエレーヌの部屋の窓だ。


「エレーヌ!!」


 そう叫んだ時には、リュシアンはすでに部屋を飛び出していた。





「婚約を解消したいんだ。―――エレーヌ姫」


 ティーカップに伸ばしかけていた手を自然なしぐさで戻したエレーヌは、隣に座るコンラッドを静かに見上げた。

 まっすぐに向けられる澄んだ青い瞳を見れば、彼が本気なのだとすぐに分かる。エレーヌはわずかに開きかけた唇を人差し指でそっと押さえた。

 コンラッドは隣国アスカム王国の王太子である。美しい金髪に青い瞳、公明正大で理想を絵に描いたような王子である彼だからこそ、こんな言葉も堂々と口に出せるのだろう。


「私はクロンメリン公国の侯爵令嬢ディアナを愛している」


 エレーヌは表情を変えることなく、その言葉をしっかりと受け止めた。

 一年中きれいな花を咲かせる王城の中庭の一角。ここはエレーヌとコンラッドが二人きりで過ごすことのできる唯一の場所だった。ラングロワ王国王女であるエレーヌは、ほぼ白に近い金糸のような髪にエメラルドグリーンの瞳をした美女であった。大陸一の大国の王太子と、歴史ある王国の王女の婚姻は、二つの国の思惑が合致した政略結婚である。それでも美男美女の婚約発表に、両国の国民が色めきだったのも記憶に新しい。

 それを、コンラッドは彼の想いひとつでなかったことにしようとしているのだ。

 二人きり、と言っても、実際には側仕えが控えている。少し離れたところで、エレーヌの侍女が動揺して身じろぐ衣擦れの音がした。

 エレーヌが思いを巡らせていたのは数秒にも満たないほどの瞬きの間だ。エレーヌは姿勢を正したまま、静かに口を開いた。


「左様でございますか。おおせのままに」


 ほんのわずかに、ではあったが、コンラッドが残念そうに息を吐いた。二つの国が絡んだ婚約がエレーヌの返事一つでどうこうなるとは思えなかったが、大国の王太子の言葉にはそう答えるしかなかったのだ。

 その後、二人は王城の応接間へ移動した。ラングロワ王と王太子である兄、そして宰相を始め王の側近たちが揃って暗い表情をしているのを見て、これはすでに決定だったのだ、とエレーヌは全てを察した。婚約の解消を自らの口で告げてくれたのも、コンラッドなりの誠意だったのだろう。

 ここラングロワ王国へ遊学中のコンラッドは、昨年まで通っていた貴族学院でディアナと出会った。同じ留学生として意気投合した二人は、密か―――とは言い難い頻度で逢瀬を重ね愛を育んでいたようだ。


「婚約を結んでからの二年間、結局最後までエレーヌ姫は私に心を開いてくれることはなかった。私は姫の微笑んだ表情しか見たことがない。何を言っても何が起きようとも、そう、理不尽に婚約を解消されようとも、その表情は変わることはなかった。まるで人形を相手にしているようだ!」


 めずらしくコンラッドが声を荒げたが、それが広い応接間に響き渡ることはなかった。しんと静まりかえってはいるが、ここには少なくない数の人がいたからだ。格下とはいえ、他国の姫に対して何てことを言うのだろう。全員がコンラッドに視線を向けた。そして、その向かいに座るエレーヌにも。

 しばらくの間、誰も口を開かなかった。脳裏に浮かんだことを言葉にするのが憚られたのだ。

 何てことを言うのだろう。しかし、彼の言う通り、確かに姫はお人形のようだ。

 臣下だけでなく、父である王も、兄も、またエレーヌ自身もそう思った。

 しかし、エレーヌはどんな時もこうするように物心ついた頃から躾けられたのだ。王族として、決して感情をあらわにしてはならない、と。だからこうして内心ひどく戸惑っている今だって、わずかに笑みを携えて凛と座っているのだ。


「我がアスカム王国とラングロワ王国は婚姻という方法ではなく、別の形で協力関係を保とう」


 コンラッドのこの一言をきっかけに、エレーヌとの婚約はつつがなく解消された。





 エレーヌは王城の奥にある自室で静かに本を読んでいた。座り心地の良いふかふかのソファに浅く腰掛け、背もたれはつかわずに背筋を伸ばして本に視線を落としている。少しだけ開けられた窓からはさわやかな風が流れ、端にまとめられたカーテンを揺らしている。少し強くなってきた陽光がエレーヌの足元まで伸びてきたのに気付いた侍女が薄手のひざ掛けを手に取った。エレーヌに声をかけようと顔を上げたものの、その美しい絵画のような光景にしばし目を奪われる。そして、侍女は思うのだった。

 今日も姫様はお人形のようだ、と。

 コンラッドとの婚約を解消して以来、周りの人々がどこかしらよそよそしくなったことにエレーヌは気付いていた。

 エレーヌは子供の頃からおとなしく従順で、恵まれた立場であることの代わりに自由を制限される生活にも文句ひとつ言わず、国民を愛し、日々に感謝して生きてきた。人々の模範となるべく自らを常に律した行動を心掛け、教師たちの期待に応えようと勉強でも優秀な成績を修めていた。

 だからこそ人々は彼女の周りから不快なものを遠ざけ、エレーヌは優しさに守られた生活を送って来た。

 それが、コンラッドのあの一言のおかげで、今やガラガラと足元から崩れ始めている。入ってしまった小さなひびはどんどんと広がり、もう止めることはできない。

 姫様はいつもお礼を言ってくれるけれど、本当に感謝しているのだろうか。

 笑っているけれど、本当に楽しんでいるのだろうか。

 そもそも、いったい何を考えているのかわからない。

 今まで感じたことのなかった張り詰めた空気に、エレーヌは思わずため息のひとつもつきたくなったが、そんなことをすれば余計に侍女たちを不安にさせ仕事を増やしてしまうだけだろう。ただただ手元の本のページをめくり、読むでもなく文字を目で追って時間をつぶしていた。

 コンラッドと会うことがなくなった分、エレーヌには余暇がずいぶんと増えた。

 エレーヌには趣味らしい趣味はない。絵画に取り組めばそれなりに上手な絵を描き、ピアノだったらそれなりに上手に弾くことはできる。しかし、どれもそれなりにこなすだけで、人の心を動かすほどの才能はなかった。

 どこまでも私は空っぽのお人形ね。

 エレーヌは誰にも悟られないよう心の中で独り言ちた。


「……庭を散歩でもしようかしら」


 そう告げると、侍女たちはいそいそと外出の準備を整える。すぐそこだというのに日焼け止めを塗られ、部屋着から散歩用のドレスに着替えをさせられる。だからと言って、こんなものは必要ない、と言ってしまえば、彼女たちは職を失ってしまうのだ。エレーヌは黙ってされるがままに長手袋に手を通した。





 先導する侍女の後ろについて廊下をゆっくりと進む。どこかから「今日もまた一段と……」とひそひそと囁く声が聞こえる。侍女がその声を避けるように道順を変える。気をつかわなくていいのに、と思ったところで、また囁き声が聞こえてくる。


「ああ、本当にやっかいなことになった」

「よりによってクロンメリン公国の令嬢とは」


 男たちの声だった。彼らはここにエレーヌがいることに気付いていないのであろう。柱に寄りかかって立ち話を続けている。


「アスカム王国の後ろ盾を得て、公国はさらにこの大陸で勢いを増してしまうだろう」

「土壇場になって捨てられるとは。お人形姫ならぬ、お荷物姫だな」

「おい、全然うまくないぞ」


 二人の男は笑いながら去って行った。


「あの人たち、何てことを……!」


 侍女が顔を真っ赤にして体を震わせた。エレーヌは彼女の背にそっと手を寄せた。


「いいのよ。その通りだもの」


 エレーヌがそう言うと、侍女たちは気まずそうに目を逸らしうつむいた。それではまるで肯定しているようだわ、とエレーヌは思ったが、ああそうか、皆そう思っていたのね、とすぐに納得した。

 コンラッドと過ごしていたテーブル席は既に撤去されているので、エレーヌは二人掛けの小さなベンチに腰掛けた。

 この庭はいつ見ても変わらない。エレーヌの好きな花が季節ごとに植えられ、木々は乱れることなく同じ形に剪定されている。枯れ葉ひとつ落ちていたことはないし、そういえば虫を見かけたこともない。エレーヌのために整えられた美しい庭だ。彼女の美しい額が見たいとばかりに風が前髪を揺らし、彼女の心を鎮めるために木々が葉をこすり合わせる。彼女の耳を楽しませるために噴水は規則的な流水音を奏で、彼女を酔わせるために花は香りを届ける。

 コンラッドは一年後に控えるディアナの卒業後に結婚するという。二人の仲は周知の事実となっており、知らなかったのは学院に通っていないエレーヌだけだった。

 侍女たちは離れた所でエレーヌの様子を窺っている。当然彼女たちもその話は知っていたのだが、皆エレーヌの耳にその噂が届かないようにしていたのだ。

 もし、もっと早く二人の仲を知っていれば。

 エレーヌは目を閉じた。知っていれば、何か変わっていただろうか。しかし、いくら考えても、たどり着くのは現在と同じ結果。コンラッドが自分のことをどう思っているか知ったところで、エレーヌの態度は変えられない。これ以外のエレーヌなど、どこにもいないのだから。

 なるべくしてなった婚約解消だったのだ。

 エレーヌが静かに立ち上がると、どこからともなくあらわれた侍女が日傘を傾けた。


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