なんどでも君に
ああ、またこの時期が来てしまった。
天界の天使が、ため息をこらえた。
下界のたぬきが独り立ちもしてないうちから、人間のために贈り物を届けようと、車に轢かれたり、犬にかみ殺されたり、車に轢かれたり、車に轢かれて死ぬのだ。
たぬきは、男を喜ばせたい一心で死ぬので、天使が迎えに行かなければならない尊い魂である。
尊い魂だと?単に馬鹿な生き物なのだ。学習しない生き物なのだ。
ピンポーン♪
天国に放送が流れた。
「J地区S地域N-4地域担当者に連絡です。
たぬき生後6カ月の死亡が確認されました。
早急に魂の回収を願います」
周りがクスクスと嗤っている。
「くそっ」
天使にはあるまじき言葉を吐いて、周りの目から逃れるように下界へと降りて行った。
今夜は、何が採れるだろうか?
山のたぬきはおもった。
あの人に持っていくの。
ごちそうのカブトムシの幼虫は、
朝が来る頃には、あの人の玄関先から
ヨジヨジと逃げてしまった。
ごちそうなのに。
すっごい、ごちそうなのに。
見つけた。見つけた。
ドングリをくわえた。
普通のドングリではない。なんと虫入りである。
これはすごいんだよと、山を下りて、あの人の家に向かう。
山を下りると、道路を横切らなければならない。
時折来る、速い車が恐ろしい。
なぜ、渡ろうと決心した時に限って来てしまうのか。
夜の山沿いの道。
車の運転手は、固まっているたぬきに気付かない。
車のハイビームに目が眩んだまま、身体がバラバラになるほどの衝撃を受けた。
意識が遠のく。
たぬきを轢いた車は、止まり人が出てくるが、道のたぬきを見て去って行った。
その時、たぬきは思った。
「ああ、また。」
と。
死ぬからだろうか、胸がキュウとした。
あの人の事を思う時の胸の痛みに似ている。
そして、息が絶えた。
数時間後の朝。
山のふもとの家から男が出てきた。
軽装で、ぶらぶらと歩いている。
朝の散歩だろうか。
そして、見つけてしまった。
道路わきに転がる、ごみの塊のような、たぬきの死骸を。
「ああ、またか」
男はポケットからビニール袋を取り出し手を覆い、たぬきの死骸を持ち上げ運び山の茂みに置いた。
「なんで、たぬきがよく死んでいるんかねぇ」
「あなたに喜んでほしかったのです」
「えっ?」
何か声が聞こえた気がしたが、気のせいか。
男の後姿を、透明なたぬきが見送り、朝の光に溶けた。
気が付いたら、たぬきは空を飛んでいた。
「おや、あの人の家が上から見えますよ」
「私に抱かれていますからね」
「え?羽がある人ですね。ワシさんに会うのは初めてです」
「この前の、「コウノトリさん」の方が近かったのですがね。なんで離れますか。天使ですよ」
「あ、どうも、お手を煩わせてごめんなさい」
「この会話も何度目でしょうかね。まあ、生まれ変わりの際に忘れてしまうから、仕方ないのですけれど」
「そうなのですか?あ、あの人だ。あの人が見える。ああ、見えますか。私の恩人なのです」
天使に抱かれたたぬきは、興奮して手足をぱたぱたと動かしている。
勿論、人に見えるわけではないのだが、男はふと顔を上げ空を見上げた。
まるで天に逝くたぬきを見送るように。
「前回も言いましたが、あの男が恩人であったのは、あなたの何世も前のたぬきの時ですよ」
「私が覚えているだけで十分です。どんなに前でも、あの人は私の恩人なのです」
その会話も前回と同じである。
たぬきは何度転生をしても男を覚えていた。
しかし、それ以外は忘れていたので同じような死に方を繰り返している。
その男は、何十年も独りでそこで暮らしていた。
男は天才であり奇才であったため、学会から追放されてしまった。
彼の知識は、今の時代のテクノロジーやエンジニアリング、生化学、マテリアル、理論物理学までを駆使し瞬時に出てくる発明は凡そ、常人の想像つくものではない。
100年以上も進んだ彼の頭脳は危険と判断され異端のレッテルが貼られた。
科学を根底から覆すものであり、有益に使えるものではなかった。
世界は彼を隔絶し、彼は人間を拒絶した。
そのような経緯で移り住んだ場所だ。人は少なく海と山が傍にある。
山が傍にあるだけあり、その昔、車に轢き殺された、たぬきのそばに子たぬきがいて、潰された母親に取りすがっていたのを拾った事がある。
助けたのは暇だったからだ。
子たぬきは、彼の適当な食事でもすくすくと育ち、とても懐いた。
彼にとっては自分でも意外に感じるほど、可愛がることが出来た。
自分には愛情はないと思っていたのだ。
しかし、たぬきの子供の時代が過ぎると、彼は冷徹にたぬきを山に帰した。
近くの山だと下りてきて、車に轢かれてしまう恐れがあったので、遠くの山に置いてきた。
山の植生を調べ、たぬきが、もう一匹増えても大丈夫な土地を生真面目に探して。
なので彼は時折、近くの道路で死んでいる、たぬきがその子だとは思いもしなかった。
もう十数年も前の、たぬきの寿命も何回も終わっている昔である。
だが、たぬきは生まれ変わるたびに、傍に、もっと傍にと生まれ落ちた。
ここ数回の生は、すぐ近くの山に産まれることが出来たのだが、母親が止めるのも聞かず、山を下り、散歩中の犬に襲われ絶命したことも、大人になっても、今回のように車に轢かれて死ぬばかりだった。
しかし、たぬきの意思はただ一つ。
男を喜ばせたい。
それだけだった。
それはそれで尊い魂だったので、毎回天使が迎えに来てはいたが、天使は尊いのではなく愚かなのだと軽蔑さえしていた。
「よう。ましろの羽根さんよ」
だみ声が背後から響いた。
「なんだ。悪魔如きが馴れ馴れしい」
同じエリア担当の悪魔だ。
黒と茶の羽根に青いスジが入っているのが男前の印らしい。
「ピカピカ良く光っているなぁ。なんだい?ああ、またバカたぬきか」
「ああ、毎度だ。全く」
天使は吐き捨てるように言った。
「仕方ねぇよ。この辺、人間も少ねぇんだもん。普通の動物の魂なんぞ、勝手に天に上がるがよ。そこのバカたぬきは、無駄に利他の心で死ぬから、尊い魂として、お迎参上仕らないかんしな」
因みに、天使と悪魔の会話はたぬきには聞こえていない。
天使に抱っこされているのもあり、呑気に悪魔をアオサギさんかな?ワシさんかな?
と思っている。
「どうせ、そのたぬき、生まれ変わっても、また車に轢かれたり犬やクマに喰われたりとかで早く死ぬんだろ?」
「そうですね。野生動物として有り得ないほど注意力が散漫ですから」
「あそこの人間へのプレゼントのためでかい?」
「ええ。そのためだけに、この矮小な生き物は生きて死ぬのですよ。毎回毎回、全く以て忌々しい」
「あははっ!ましろちゃん。本音漏れちゃってるよ。でも、次も、その次もだろ?」
「はあーーーっ」
天使が大きなため息をついた。
「どうされました?天使さん。お疲れですか?私が重いなら、降ろして頂いても大丈夫ですよ」
たぬきの心配に、余計にイラつく天使だった。
「降ろしたら、どうするのです?」
「どんぐりを、あの方に届けます」
「行けませんから」
天使が冷たく突っ込む。
おやおやと悪魔は考えた。これは面白いかも知れないな。
「なあ。ましろちゃんよ。そのたぬき、今回は俺にくれねぇか」
「そんな事は出来るわけがありません」
「でもよ。
どうせ来年には、また、ましろちゃんが抱っこして連れて行くんだ。
一回くらい長生きしました。って事で、俺にくれても良いだろう?
だいたい天使どもの間でも、たぬき係のましろちゃんは、嗤われているんだろう」
実はそうなのだ。
下界での一年は、天界でははるかに短い時間であり、しょっちゅう天に召されるたぬきと共に、地域担当天使まで笑い物となっていた。
「たぬきには悪気はこれっぽっちも無えんだけれどよ。
まあ、バカたぬきだから変わり様もないさ。
そこでよ。今回は俺っちに任せてさ、ちょっと地獄で頭を鍛えさせてみるよ。
どうだい?地獄に落ちたって、何にもしてねぇ奴だ。
社会見学くらいにしかならないだろうよ。
そんで、さっさと生まれ変わって、また死んだらお前さんが来れば良いだろう。
他の奴らは、天に召される短いスパンが少し伸びたところで気付きはしねぇよ」
天使には意外に良い考えに思えた。
「では、その代わりに、悪魔殿は何を私に?」
「まあ、それは、おいおいな。今は何も手持ちがねぇ。それに、ましろちゃんだって、悪い事ばかりじゃないだろう?」
天使にとって、ますます悪くない考えに思えた。
「まあ、アナタがそこまで言うのなら今回は良いでしょう」
と天使はたぬきを悪魔へと放り投げた。
「きゅきゅーん!何でですかー。あ、私、空飛んでいます」
悪魔が慌てて落ちるたぬきを追いかけ捕まえたのだ。
「おーーっとう。あぶねぇ。ダメじゃん。いたいけな尊い魂を無体に扱っちゃあさ」
ニヤリと悪魔が嗤う。
天使が少し怯む。
自分は、愚かなことをしたのではないかと、悪魔に弱みを握られたのではないかと、思ったのだ。
「ふん。たかが、たぬきの魂がどうなろうと構いません。ああ、次のスパンまで楽が出来てせいせいしますね」
少し嫌な気持ちを残しながら、天使は飛び去った。
「さあ、たぬきさん。これから、俺っちが地獄へお連れするよん」
「あなたは、ワシさんですか?それと地獄とは何でしょう」
「おお!さすが何度輪廻を繰り返しても曇りなき魂だ。初めましてだね。悪魔さんだよ。
それで、地獄とはね~お前さんの大事な人間を幸せにできるかもしれない技術を学べる場所なのさ」
「本当ですか?」
「ああ、そうだよ。ドングリやカブトムシの幼虫よりも、もっと喜んでもらいたいと思わないかい?」
たぬきが笑顔で輝いた。
「はい。あの方のお手に取ってさえもらえることも僅かだったので、ぜひ勉強させてください」
たぬきの眩しい魂が一層輝き少しばかり悪魔がジリジリと火傷を負ったが、それは、おくびにも出さずに、抱えていた腕から指で摘まむように運んだ。
「あれ?悪魔さん。下に落ちていますよ」
「ああ。そうだよ。地獄は地下にあるからね。
手に入れたい能力とか何かあるかい?
あの人間が望めば、金持ちにしてやるとか、
それで、お前は美女になるとかよ」
「わたしですか?
そうですね。車の光に負けない光が欲しいです」
「なんだ?それ」
「はい。私は何度も車に轢かれて死んでおりますので、車が来たら、ピカッと、もっと目を光らせたいです」
「ああ。うん。そうだねー。それは本当に必要なのかな?」
「はい。もっと光ったら、きっと車は気付いて避けてくれると思うのです」
「・・・地味だね。しかも他力本願だし。ならば空を飛ぶとか。瞬間移動とかで良んじゃね。そんな悪魔になったら格好良いよ」
「私は地を走る獣ですから飛ぶのは・・・ああ、死んだときに天使さんを煩わせずに済むかもしれませんね。
しゅんかんいどうは、知りません」
「悪魔になれば、死なないよ」
「本当ですか?」
「ああ、滅多なことじゃあ死なないね。俺っちも、もう二百年は生きているしな」
「はあ、二百年は何歳ですか?」
「お前さんが二百回転生したくらい。人間が3回生きるくらい」
「はーっ。凄い長生きさんなのですね。お腰は痛くありませんか?私は重くはありませんか?
お年寄りに運んでいただいて、申し訳ありません」
「年寄りじゃねぇよ。寧ろ若い方だよ。労わるなよ。悪魔なんだから。言っとくが、さっきの天使もどっこいの歳だからな」
「はーっ。
天使さんのお顔は真っ白ですし、あまりお話もされないので、全然知りませんでした」
「お前さん、悪魔が判ってないようだけれど、大丈夫?」
「はい。わたしも顔が黒くて、悪魔さんとは近いとは思っています」
「んじゃあ、クマもたぬきも悪魔も一緒かよ?」
「夜行性ですよね」
「ああ、まあ、そう考えればそうか?」
そんな妙ちくりんな会話をしながらも、悪魔はどうやったら、この光輝く魂を堕とせるのかと考えを巡らしていた。
「ほら、あそこを見てごらん」
「あきち」
「それがね、俺が居ると、地獄への入り口になりま~す」
山の中の廃校になった校庭に、丸い光が溢れ出て、悪魔はたぬきを抱えその中に飛び込んでいった。
黒い炎が揺らめく場所。
罪を犯した人間が罪を裁かれ償う場所。
止まった時間。
永遠の苦痛。
人々の悲鳴と恨みの声が木霊する。
「ひあ~。大きな木の洞よりも広くて、大きくて、深いですね~。それに、なんだか怖い場所です~」
「そうだろ。ここは、すごく深い場所で闇も濃い場所なのさ。世界の闇は、ここの住人が発して人に取り憑き、もっと濃くして戻ってくるんだ」
あの男が死ねば、上手くいけば、ここの住人に加えることが出来るかもな。
悪魔は、ずっとあの男を狙っていた。
能力が高くて世界の光になるもの。
もっと能力の高い場合、世界の闇になる者も居る。
男は狭間に居た。
もっと絶望して、人間を殲滅したいと願え。
その知識を使って、化学兵器でも生物兵器でも作れ。
いや作らなくても、その方程式や設計図を悪魔と契約した人間に売ればいい。
そして、どこかで自分の兵器が使用されたことを知り、残った良心も破壊されて堕ちるのだ。
それが、悪魔のシナリオだった。
あの男に近づけるアイテム(たぬき)を手に入れた。
あとは、たぬきを調教して、あの男を堕とすために送り込むのだ。
ニヤリと笑う口元を隠せなかった。
「あれ悪魔さん、ご機嫌ですね」
「まあな。新しい仲間が増えたからな」
「私ですか?仲間なのですか?」
「ああ、そうだよ」
互いの思惑は交わらないままに、笑顔を交わした二人だった。
地下の真ん中の穴をずっと降りていく。
穴の周辺には、人を罰する拷問の光景が広がっている。
黒い穴に飲まれるように、周囲の闇に侵食されそうな恐怖にたぬきは身をすくめる。
しかし、思い出す。
私は、あの人に笑ってほしいのだ。
その思いは再び心を温め周囲を照らす光となり、闇の生き物は悲鳴を上げ暗い奥へ逃げて行った。
「ちょっと、たぬきさん。眩しいよ。俺の目、暗闇モードなんだから」
「あ、ごめんなさい。でも、私は何もしていないんです。
私も車のハイビームで眩しい思いはしたので、良く分かるのですが・・・」
たぬきは、光るその身体をぽんぽんと叩いてみたり、払ってみたりもしている。
「たぬきさんが光っているのは、毛皮じゃなくて、中身だからねぇ~」
「私は、何か変なキノコでも食べてしまったのでしょうか」
「ん~。確かに光るキノコ食べたら、死んじゃうかもしれないけれど、たぬきさん、もう死んでいるでしょう」
「そういえばそうでした。今回は長い道行なので忘れていました。わたしは、死んだのでしたっけね。またあの人の家まで辿り着けずに」
「ここで修業すれば何度だって、その人のもとに行けるよ。話す事だってできるかも知れないよ~」
「あの方と、お話ですか?どうしましょう。挨拶は何といえば良いでしょうかね。楽しみです」
そんなことを話している間に、悪魔は腕に再度深く火傷をして、なんとか底まで降りることが出来た。
痛みで冷や汗が出るのを、作り笑いで隠しながら、そっと地面に置いた。
「さあ、着いたよん。ここから、悪魔になる勉強をしなきゃね」
「はい。頑張ります!」
たぬきの一層の決意は、光を強めた。
そこに、暗闇の奥から大きな存在が現れ、たぬきの光に照らされる。
獣の角に蝙蝠の羽根と獅子の手足の二足歩行の辛うじて人型を保った存在。
名は呼ばわれることのない「大いなる悪魔」だ。
目を細めて、足元の光を凝視する。
それが、たぬきだと気づいたのは、光に消え入りそうな地区担当の悪魔を見付けたからだ。
「大層な魂を持ち帰ったな。これは尊きものだ」
「はい。こいつを闇堕ちさせてから、人間を堕とそうと思いましてね」
「闇堕ちか、純粋な魂にそれが出来るかな」
「難しいかと思いやす。でも、もしそれが出来れば、元来たぬきは、狐七化け狸八化けってくらい、魔性の高い生き物です。良い仕事をしてくれんじゃないかと」
「ふむ。それでは、まずはその光をどうにかせねばな」
「はい。お知恵を貸していただきたく、深部まで参りましたことをお詫びいたします」
悪魔が片膝をついて、頭を下げた。
後ろに控えているたぬきには、何を話しているのか判らなかった。
でも偉い人と話しているのは分かったので、自分も片膝をついた敬意を示す姿勢をとろうとするが、手足の短いたぬきには難しく、難しい話をしている後ろで、ころりころりと転がるだけだった。
「お前は何をしているのだ?」
前転を繰り返しているたぬきに、大いなる悪魔は尋ねた。
「はい。偉い方だと思いましたので、わたしも敬意をしめそうと思いまして、出来ませんでした」
「・・・そうか。その体躯では無理であろう。楽にするがよい」
「ありがとうございます」
たぬきは、後ろ足を前に出しぽすんと座った。
「これから、お前は闇の住民になってもらう。立派な悪魔になれるように励めよ」
「はい。わかりました!
悪魔になって、私の大事な人に笑ってもらえるように頑張ります」
たぬきが再び光輝く。
たぬきは高揚していた。
胸の前で手を合わせて、思いを馳せる。
あの人の役に立ちたい。あの人を笑顔にさせたい。
長生きできるのなら、あの人と共にいたい。
それが、出来るのだ。
もう、車に怯えることも、犬やクマに怯えることもない。
自分の身体が食べられるのは、良いけれどプレゼントを渡してからにして欲しかった。
出来るなら、直接渡したかった。
そう。悲しそうな寂しそうな、あの人に笑って欲しい。
わたしは、これから、そのための 努力を 惜しみません。
たぬきの真っ直ぐな想いは、強い発行物体になり、自然に浮き上がった。
「「えっ⁉」」
悪魔と大いなる悪魔も驚愕した。
大いなる悪魔が叫んだ。
「全尊き魂だ。自分で天に上がるぞ。取り押さえろ」
「は、はい。熱っ!無理っす。なんか、発火しています!」
「燃えているのではない。尊き光が強すぎるのだ」
悪魔が急いで呼んでみる。
「おーい。おーーい。たぬきさん。どこに行くのかな?」
「はい?」
たぬきは数メートル上昇していた。
我に返り、光が消えた。
ひゅーぽてり。
と落ちた。
「あぶねーっ」
悪魔が手を伸ばすも、光が強くて思ったよりも離れてしまっていて、彼の手には届かず、地面に尻から落ち、大きくバウンドしてからコロコロと転がっていった。
見事なバウンドだったなと、あとで悪魔は思ったが、その瞬間はそれどころではなかった。
やっと止まった、たぬきに慌てて近づくと、涙を流して痛がっていた。
「酷いです。悪魔さん・・・」
「えっ⁉俺が悪いの?」
「だって、だって、うっ、うっ。ふぅ~ん。ふぅ~ん。・・・」
さっきまで、人でもよっぽどの少数の高潔な人間でしか見ることの出来ない「全尊き光」で天に呼び寄せられていた、同じ生き物とは思えない。
野生動物なのだから、それくらいの高さくらい受け身とか取りなさいよ。
とも思ったが、全然できない残念な子だから、何度もすぐ死んじゃうのだ。
と理解した。
「ああ、痛かったね。痛かったね。受け止められなくて悪かったね」
悪魔が頭を撫でて慰める。
地獄の深い闇にも染まらない、光の魂。
心をあの人間に寄せるだけで、天界をその身に降ろしてしまう高潔な
・・・たぬき
そう。
普通ならば、良心を持っていても狂い、悪心を持った人間ならば、ここに居るだけで悪魔に変化してしまう。
それだけ、闇の瘴気の深く重い深部である。
この場所で、あんな光を出されるとは・・・
大いなる悪魔(略して大悪魔)とエリア担当悪魔は尊き魂を持つ、たぬきの闇堕ちを相談していた。
その結果、心は変えられない。
なら、汚れた肉体をその身としよう。
汚れた肉体はどうすれば良いか。
考えた末、大悪魔の血肉をたぬきに喰わせることにした。
大悪魔は、己の腕を齧り、肉の塊を手に吐き出した。
無言でエアルに差し出す。
恭しく受け取ったエアルは、こっそりと手から滴る血を舐め取って、己の力が増すのを感じた。
(うっひゃーっ!これって完全ドーピングじゃん。
舐めるだけで、俺の力UPしているし。
こんなん喰わして、たぬきちゃん正気保ってられるのかね?)
少なからず悪魔はたぬきを心配しながら大悪魔の肉片を手の中に隠した。
地獄の底の洞くつで、たぬきは、これからの事を考えた。
自分には何が出来るのだろう?
あの人は何を望むのだろう。
何があの人の希望なのだろう。
たぬきは、自分が人間を知らないのか、
それともあの人の事を知らないのか
判らなかった。
たぬきは先ほどの多幸感の後の虚無感で、ぼんやりとしていた。
地獄とは何だろう。
あの人を幸せにできる技術など、こんなに阿鼻叫喚に悲鳴の響き渡る場所で教えを賜ることはできるのか。
何より、それは本当に、あの人のためになることなのか。
「おや。どうしたのかな?テンション下がっちゃっているね」
「悪魔さん・・・私は、本当にここにきても良かったのでしょうか。私の目指すべきものが、判らないのです」
「お前さんの大事な人間は、ちと難しい奴だよな。
俺っちも長く見てはいるが、誰かが会いに来たこともねぇ。
時折、外出しても生活用品の買い物ばかりだ。
おそらく、同じ人間で親しい奴は居ないのだろうな。
お前さんが、一生懸命に虫の幼虫やドングリを届けたのは、ちゃんと、奴に食べて欲しかったからだろう。
だったらよ、まずは一緒に生きていくうえで、
人間を長生きさせる食い物を出せるようにしたらどうだい?」
「悪魔は、料理が上手なのですか?」
「豪勢な料理を一瞬で出せるし、趣味やら美意識とやらで自分で料理する奴もいるぞ。
お前は、奴に何を食べてもらいたい?」
「ぷりぷりと太ったカブトムシの幼虫」
「それはな、人間は喰わねぇんだ」
たぬき、ショックを受けて固まる。
「うん。人間の事から勉強していこうな」
「・・・はい・・・」
たぬきの真っ黒な瞳から涙があふれて流れた。
「私のしたことは、ずっとずっとしていた事は無駄な事だったのですね」
あちゃーと頭をかく悪魔エイル。
実はずっとたぬきの行動を無駄な事と思っていた。
愚かな事だと。それで何度も死んでいるのに。
でも、ひたむきなたぬきは、何度生まれ変わっても、成長もしない代わりに、諦めもしなかった。
いつも命がけで贈り物を続けた。
ぽたり、ぽたりと涙が落ちる。
無言で泣いていた。
さっきの、落ちてお尻をぶつけて泣くのとは違い、本当に悲しんで絶望していた。
エイルはここが悪魔の腕の見せ所だと判っていた。
たぬきを堕としてでも、そう、絶望させてでも、たぬきに知識と車に負けない身体を持たせ、あの人間に会わせてやりたかった。
しかし、エイルのないはずの心が酷く痛んだ。
そうか。俺っちは、こいつの苦労が報われて欲しかったんだ。
その為に、真実を突き付けて、絶望に陥るほど傷つけても。
「なあ、たぬきさんよ。
これから、お前さんは、人間をも超える知恵を得る。
何でかって?
それは、大悪魔さまの血肉を食べるからさ。
お前さんには肉体はない。死んだままの霊体さ。
それに実体を持たせる。
そして、大悪魔様の知識も血肉を喰らうことによって、お前さんは、悪魔の肉体と人以上の知恵も得られることだろう。
どうだい?
それが俺っちが、お前さんに提示出来る今よりも強く長く生きれる方法さ」
「わたしは、あの方のお力になれるでしょうか」
「ああ、きっとな」
エイルは、ついさっき受け取った大悪魔の肉の塊を差し出した。
「喰えるかい?旨いもんじゃねえぞ」
「・・・はい。大悪魔さんに、ありがとうございますとお伝えください」
たぬきは、血みどろの肉塊に涙を流したまま噛り付いた。
ほむほむほむほむ。
んぐんぐんぐんぐ。
あぐあぐあぐあぐ。
んーーーー?
悪魔が首を傾げた。
咀嚼音はしているのだが、肉塊の形状の変化がない。
「ちょっと待った。たぬきさん。お口あーんしてくれる?」
「はい。あーん」
涙で濡れた頬のまま、血で赤い口をあーんと開けた。
たぬきの口は小さかった。
牙も、なんなら犬歯って呼んでいいくらい。
「・・・たぬきさん。お口ちっちゃいね。
さっきから噛み切れてなかったんだね」
「わたしは、駄目なたぬきです。
こんなにして頂いたのに、肉をかみちぎることが出来ないなんて」
たぬきは、また新たな涙を流す。
悪魔が思案に暮れる。
そういえば、たぬきって狐と違って採集が主な食事だったよな。
ドングリに虫に時に鳥の卵を盗み食い出来たら万々歳な生き物だった。
これは・・・俺っちが少し取り込むことになるけれど・・・
悪魔が肉片をたぬきから取り上げ少しずつ噛み千切っては、たぬきの前に置いていった。
「ほれ、たぬきさん。食べんさい。もう食べれるでしょう?」
「はい。はい。ありがとうございます」
たぬきは、ひぐひぐと鼻をすすりながらも懸命に食べた。
肉の味は、とても不味く何より臭く、飲み込むのも辛かった。
それでも、たぬきは、ひたすらに食べ続けた。
もっと、違う自分になりたかった。
強い賢い、車に負けない。
その一心で、食べ続けた。
悪魔は血を啜るごとに、より力が漲るのを感じた。
それは、たぬきのためだけでなく、自分のバーションアップと二重の効果だった。
悪魔エイルの肉体はガリガリな体から、筋肉質へと変化し、羽根も強く大きくなった。
たぬきを運んできた時の火傷など安いモノだ。
たちまちに治っている。
高くなった視野からたぬきを見下ろして時折、嗚咽しながらも懸命に口に運んでいるのを見守る。
たぬきの前の肉片の小山がどんどん小さくなる。
そして、最後の肉の一片を口に入れて、咀嚼し、なんとか飲み込んだ。
「がんばったね~。たぬきさん、鼻が良いから辛かったでしょう」
落ち込んでいたところで、辛い試練を乗り越えた(肉を食べるだけだったが)ところに、労う言葉をもらい、また、泣きそうになった。
ぼやけそうになる視界を振り切って、
「悪魔さん。ありがとうございました。おかげで全部食べることが出来ました」
「あれ?悪魔さん?別の方ですか?」
体が倍になったのだ。勘違いするのも無理はない。
「おや、見た目も変わっちまったかな?俺っちだよ。
たぬきさん用に噛み千切っていた時に血を随分貰ったからね。
悪魔としてバージョンアップしたのさ。
たぬきさんは、外見変わらないね?おかしいな。ちょっと見せて」
エイルはたぬきを指先で摘まみ上げ、手の中でくるくる回しながら、悪魔の変異を確認した。
この世界が出来たときには存在していた、大悪魔の一齧り分の肉を喰ったのだ。
巨大化しても、人型になってもおかしくないはずである。
毛の中までまさぐる。
「あ、あったよ。たぬきさん。悪魔化している」
少しぐったりしていた、たぬきがそれを聞いて目を輝かせた。
「本当ですか?私も悪魔になれたんですね」
「うん。背中の上の方にね、羽根みたいのが生えている。
うーん。3センチ位かな。
あとはね、おでこに一対の角が生えているよ。
ちょっと見はおできだけれど、しっかり硬いから角だね。
あと耳の前に毛で隠れちゃっているけれど、ここにも角が生えている。
おでこのより少し大きくて1センチくらいはあるよ。
二対四本の角と、背中の羽根。
良かったね。悪魔の肉体が手に入ったよ」
「嬉しいです。でも、何ででしょう?そんなに変わった感じはしません」
「うん。そうだねー。見た目はあまり変わってないよ」
悪魔も首をひねった。自分は血だけで二倍の大きさの身体に変化した。
あれだけの肉を喰ったたぬきの、この変化の小ささ。
と、そこで思い出した。
地獄の底でも光輝き天へと、導きひかれる白い球状の発光体となった純粋な魂のたぬきの姿を。
あの輝く魂を中和し悪魔へ変えることが出来たが、これしか変化出来なかったのだろう。
しかし、そうなると、悪魔としての力もほとんど無い事になってしまう。
ならば、悪魔の叡智も届かなかったのだろうか。
「ねえ、たぬきさん。人間は何を食べるか知っている?」
「はい。もう知っております。人間は、炭水化物とたんぱく質を中心として、ビタミンや食物繊維なども摂取するために、野菜も食べます。
具体的には炭水化物はお米やパンやパスタなどの小麦類で、たんぱく質はお肉にお魚です。
あの方は、通常の人間よりも炭水化物はあまり食べずに、お肉を多く食事で摂っていた気がします。
わたしは、あの方の下さる食事で、ゆで卵が好きでした。
半熟のゆで卵を、時々はきれいにツルンと剥いてくれ、たいがいは殻をむくときにボロボロになったものを、手から食べるのが好きでした」
たぬきは、黒く澄んだ瞳から涙を流して語り続けた。
「あの方は、食事への興味は余りなかった気がします。
それでも、私のために卵を茹で、お芋やトウモロコシを食べさしてくれ、そして、一緒に食事をしました。
わたしに出す食事をエサと言わずに、「ごはん」と言っていました。
今、その言葉の違いに初めて気づきました。エサは動物に使う言葉です。
あの方は、短い時間ではありましたが、一緒に暮らしている間は、家族だと思ってくれていたのです。
一緒にお布団で寝ました。
それも、家族の証拠ですよね」
たぬきは、10年以上前の10世代以上前の事を、まるでさっきあった事のように話した。
それは、それは、愛おしそうに。
エイルが横に屈み手を伸ばし、たぬきの頭をくしゃりと撫でた。
「うん。ちゃんと知恵が付いているな。
体も変異したし、車に轢かれることも無くなったんじゃないか。
良かったな」
「はい。ありがとうございます」
ぺこりと下げた頭には、角は見えなかった。
上から見下ろした背中の羽根は、自分やたいがいの蝙蝠の羽根ではなく、蛾の様な羽だった。
羽根は開かずに閉じられたままだ。
「たぬきさん。背中の羽根は飛べるのかい?」
「飛ぶのですか?」
「羽根があるよ。飛んでみれば」
力学的には絶対に無理な羽根だが、だいたい、悪魔だって天使だって物理的には無理なはずだが、なぜか、羽根の大きさが力の大きさに比例していることになっていた。
小さな蛾の羽根で、たぬきが飛べるのか知りたかった。
「飛ぶ?飛ぶ?」
たぬきは、ジャンプしてみた。
助走もつけてジャンプした。
普通のたぬきのジャンプだった。
飛べなかった。
また、黒い瞳に涙が溢れそうになったのを見てエイルは焦る。
「ゆっくり練習していこうや」
と慰めていた。
その時、エイルの角の間から赤く光る丸い球が現れ点滅した。
球は点滅しながら、ウーッ!ウーッ!ウーッ!
とサイレンを鳴らしている。
「M区画D地区担当者へ告ぐ。
J1地区で52歳男性服毒により5分後に死亡。
速やかに、男性の魂を回収すべし」
エイルは息をのんだ。
あの、たぬきの恩人のおっさんじゃねぇか。
振り向けなかった。たぬきの顔を見れなかった。
いや、と思い返した。
アラートでの情報は暗号化された場所と、性別に年齢だ。
たぬきちゃんには、まだ判らないはずだ。
「俺っちさぁ。仕事が入っちゃ・・・」
振り返りたぬきを見下ろすと、目を見開いた驚愕の顔と目が合った。
たぬきには、判ったのだ。
エイルの角の間の赤色灯のサイレンと、背中のこわばり、少しだけこちらを伺うような雰囲気。
何かは解らないが、それでも理解した。
あの人が、死ぬ。
エイルは、羽根を広げ、
「たぬきさん、待っててね。
こんな風には思ってなかっただろうけれど、もうすぐ会えるから」
エイルはたぬきの顔を見れないままに飛び上がった。
ああ、バカな人間だ。
バカなたぬきだ。・・・
俺っちも肩入れしちまって、バカだ。
いつもより力強く羽ばたくエイルは瞬く間に急上昇し、地獄の境を越え地上に飛び出た。
「はあっ!」
たぬきが飛び降りて、走り出した。
「え?」
いつの間にかエイルが気付かないうちに、尻尾にしがみついていたようだ。
エイルのパワーが上がったのと、思いを巡らしていたために、気付けなかったのだろう。
「たぬきさん行ってどうするの。どうにも出来ないよ。俺っちに任せて!」
もう遠くに走り去ろうとしている、たぬきが叫んだ。
「嫌です。そんなの嫌なんです。
わたしは、何度でも死んでもいいんです。
でも、あの人には、ずっと、ずうっと、笑っていて欲しいんです。」
たぬきが校庭から道路に出る瞬間、光の玉になった。
ヴロロロロ・・・
「え?」
その音はたぬきの光の玉から発せられ、
ヴォン・・・ヴォン・・・
と数回吠えた後、カーーーーンと走り出した。
「こ、この音は12気筒エンジンのフェラーリじゃねえか!」
エイルが叫ぶ。
悪魔には必要がないが、人間欲望の対象なので、よく勉強している。
光の玉のフェラーリは、すさまじい速さで山を下る。
コーナリングは最短で、内側にこすれる程攻めている。
「やっべぇっ。俺っちも行かなきゃ!」
唖然としていたエアルが高く飛び上がり、男の家を一直線に目指す。
光の玉は、どんどん速度を上げる。
前方に車を発見すると、遠くからパッシングをして横に寄らせて走り過ぎた。
山道を車で帰ろうとしていた男性は、光の玉の抜いていったあとの一回のパッシングは、お礼だったのかしら?と思ったが、いや、あれは車ではなく光の玉だったと考えを訂正した。
たぬきは、一番強いもの。一番早いもの。一番怖いものになろうとした。
これまでのたぬきの生の、ほとんどを奪ってきた車の最高峰になっていた。
もっと、早く。早く。
誰よりも。
何よりも。
空を飛ぶエイルさんよりも!
光は遠くからでも見え、山道を走り、山を越えて次の山に行った。
「瞬間移動か?」
すさまじいスピードで飛んでいるエイルにさえ、光が山を飛び越えたように見えた。
「もう少し。もう少し。待っていて下さい」
カーーーーンと最後の直線を走り切る。
ギャギャギャギャッ!
男の家の前で光の玉は止まり、たぬきが走り出た。
「開けてーー!」
鍵は開いていたが、ドアノブには届かないたぬきは叫んだ。
バンッ!
魔力で扉が勢いよく開く。
家の中に転がり込むと、ベッドの上で男が死にかけていた。
杏仁豆腐の匂い。青酸カリである。
胃酸で反応する毒物だが、男は胃酸が少なくなっていたために、苦しみが長くなっていた。
「おとうさん!」
たぬきは、枕元に這い上がり、躊躇なく自分の腕を噛みちぎり、ほとばしる血を男の口に流し込んだ。
「おとうさん。
死なないで。お願い。
わたしの命なら何度でも何度でもあげるから、
お父さん死なないで」
「あなたが、わたしにしてくれたことは、おとうさんでした。
わたしの命を救ってくれ、家族になってくれました。
わたしは愚かなたぬきで何も恩返しができませんでした。
お願いです。わたしの命を受け取ってください」
男は、内臓の沸騰するような痛みが薄れたのを感じた。
ふう。やっと死ねたか。
結構苦しかったな。
口の中の異物に気づき、吐き出すと、毛のついた肉片だった。
「なんだ。これは」
男はキッチンの音が気になり、顔を向けた。
キッチンには、火のかけられた鍋にたぬきが泣きながら入っていた。
男は叫んだ。
「誰がこんなことをしたんだ!」
飛び起き、慌てて鍋をたぬきごと火から下ろし、水を流しながら鍋をひっくり返した。
シンクに明らかに火傷をしているたぬきが、転がりだした。
そして、水に打たれて濡れながら泣いていた。
「おとうさん」
たぬきに話しかけられ、また、その内容にも男は驚愕した。
「えっ!」
「わたしは、昔助けられ、育ててもらったたぬきです。
あなたに死んでほしくありません。あなたのためなら何度でも死ねます。
わたしを食べてください。そして、強力な悪魔になってください」
男は、そっとたぬきを抱いた。
たぬきは、人の子供のように泣きじゃくった。
男は、ぽんぽんと背中を叩いてあやした。
あやしたのに、一層たぬきは泣いてしまっていた。
バサバサバサ
開いたままのドアの外に大きな何かが羽音と共に現れた。
「あれ?死んでないんですか?
元気っすね。
あと、1分後に死ぬ予定と聞いて来たんですが」
入り口から身を屈めてはいってきたのは、たぬきよりも随分遅れを取ってしまった巨大な悪魔エイルだった。
警報では、瀕死の状態のはずだったのだが・・・
「おや、誰だね?」
「あ、エイルさん。わたしを悪魔にしてくれた悪魔さんです」
男に抱きかかえられているたぬきが肩口から顔を出し男に紹介をした。
「ああ・・・」
エイルは大きな体を折り、顔を両手で覆った。
「たぬきさん。悪魔はね、名前を教えちゃいけないんだよ」
「でも、たくさん助けていただいたので、ご紹介をさせて下さい」
「こちらが、おとうさんです。わたしを拾って育てて下さった方です」
「おとうさん。こちらが、・・・」
エイルが両手をバッテンにして、
「もう、言っちゃ駄目」
男は頭を下げた。
「エイルさん。いえ悪魔さん。ずいぶん、この子がお世話になったようで、ありがとうございました。
来ていただいて、大変に申し訳ありませんが、どうやら私の服毒自殺は失敗したようです。
あと、この子が火傷を負ってしまっているので、治療をさせて下さい」
抱っこしている、たぬきを肩から下ろし、尻の火傷を見る。
身体をくるくると回し、全体を確認する。
尻だけでなく、火にかけた鍋に付いていた、足の肉球も皮膚が爛れてしまっている。
「もう少し、水で冷やしておこうね」
鍋に水を張り、そこにたぬきを沈めた。
鍋からたぬきは顔だけを出して、男の顔を凝視していた。
「どうしたんだい?」
「おとうさん」
「はい」
「おとうさん。ごめんなさい」
「何がですか」
「毒は、わたしの血を飲んでもらい消しました。
しかし、それは、人間の体を治療したのではなく、悪魔にしてしまったのかもしれません」
「そういえば、君は悪魔だと言っていたね?」
「はい。死んだ時にエイル・・・
悪魔さんに誘われて地獄に行き、大きな悪魔さんの肉を食べました」
「死んだ?君が?」
「はい。もう十何回も死んでいます。
何度もわたしの死体を山に返していただいて、ありがとうございました」
「君を育てたのは、15年前かそのくらいだよ。
それで、何度も生まれ変わってきたのかい?
あの、道端のたぬきの死骸は君だったのかい」
男は、驚くばかりだった。
「そのたぬきさんはよ、何度生まれ変わって、魂がクリーニングされても、あんたのことは覚えているんだわ。
そんで、あんたに喜んでほしくて、どんぐりやら虫やらを持ってきては、車に挽かれたり、犬やクマに襲われたりで死んでいくの。
利他の心で死ぬからね。
天使がお迎えして毎回、天国に行って生まれ変わるんだけど、もう、十何年も同じことの繰り返し。
若いたぬきが、どこかに行く。その向かう場所はどのたぬきも同じ。
そして事故に遭って死ぬ。
なんか、見てらんなくてね。
だったら、いっその事、悪魔にして長生きさせてみたのよ」
エイルが代わって説明した。
男は目を細め尋ねた。
「その中には、私を堕とすことは含まれていないんですか?」
エイルがニヤリと笑った。
「まあね。最初にどっちを先に手に入れようとしたかは覚えちゃいないさ。
ただ、偶然にも死にたてほやほやの、たぬきさんの魂をもらい受けてね。
それで悪魔にした。
あんたが死ぬのはもっと先だと思っていたがね。
ここんところ、たぬきさんが死にまくるのが、なんだかムカついてさ、ついつい見ていたら、あんたへの監視が甘くなっちゃったようだ。
そこまで、この世に絶望しているとは思わなかったよ」
「ふふ。確かに。
今となっては、なぜあそこまで絶望していたのでしょう。
おそらく、生れ落ちて言葉を覚えたころから、他の人間との齟齬を感じていました。
私はもとより別の生き物だったのでしょう。
それで、生き返ってしまいましたが、今の私は何でしょう」
「うーん。血を少し飲んだだけかぁ。なら力の弱い悪魔かなぁ?
でも、大悪魔様の肉を喰わせた、たぬきさんの血だからなぁ。
よく分からないや。
もちろん鍋のたぬきを食べれば、もっと力の強い悪魔になれるだろうよ。
変異は少ないけれど、大悪魔の血肉を喰わせたからね」
「力の弱いですか・・・」
「分かんないよ」
手に持ったままのたぬきの肉片を見下ろした。
シンクの鍋で冷えているたぬきの頭をなでながら、コップに水に入れる。
毛の付いた肉片を口に入れ、水で流し込み、飲み込んだ。
「君の肉を食べたよ。痛かっただろう。どこを齧ったんだい?」
「ここ」
たぬきが片方の前足を出した。
内側の肉がごっそりなくなり、骨まで見えている。
「痛かっただろう。それに、火傷までして熱かっただろう」
「馬鹿だね。君は。馬鹿だね。私は」
男は、腕を鍋に入れて、そのままたぬきをぎゅっと抱きしめた。
「私には、君がそんなに何回も命を懸ける程の価値などありはしないんだ」
たぬきは、抱きしめられる喜びに震えながらも応えた。
「わたしは解りません。悪魔の知恵を授かっても、
あなたに価値がないなどとは思えません。
知識。発見。発明。どれも人間を超える英知です。
そして、わたしの大事な大事な、おとうさんです」
「ありがとう」
しばらく、男はたぬきを抱いたまま動かなかった。
たぬき鍋の水がちょろちょろ流れる音が、静かに流れるだけだった。
男は顔を上げた。
「そうだ。
いつかは山に返さなきゃいけなかったから、名前を付けてなかったね。
君に名前を贈ろう。
まり子はどうだろう?」
「名前ですか?私の名前ですか?まり子ですね。
わたしは、まり子なのですね!」
エイルが確かに毬みてぇだなと思ったが、黙っていた。
「ああ、まり子。私の家族になって、これからも一緒いてくれるかい?」
エイルはやっと、男の思惑に気づいたが、時すでに遅しだった。
まり子は満面の笑みで応えた。
「はい。ずっとずっと、あなたの傍にいます!」
地面から光の柱が現れた。
まり子を中心に魔方陣が敷かれ、男の契約の悪魔となった。
「ならば、私はこの魂を、君に捧げよう」
光の中で永遠の誓いがなされた。
エイルは男にしてやられたことを知った。
魔方陣の中で魔力はさらに強まり、たぬきの肉体を修復していった。
魔方陣で召喚される時には、地獄から地上へと肉体の構造を変異させて順応する。
それを利用して、たぬきの怪我の治療と、自分の使役としての永遠の使用の約束。
加えて、俺っちの出番がないように自分とたぬきを契約で結んだのだ。
くっそ!やりやがった。
悔しくはあったが、苦笑いも出た。
「あ、どこも痛くないです!」
「それは良かった。
さあ、悪魔になった体を見せてくれ。
ほう。これが角かい?」
「はい。耳の前にもあります。
あと、背中にも羽根が生えました。
それに、お口が強くなりました。ちゃんと、おとうさんを生き返らすために前足を齧り切ることが出来ました!」
「お口開けてごらん」
「はい。あーん。」
男の横からエイルも覗いてみた。
口は、やはり小さいが、少し牙が大きくなっているかもしれない?
「すごいね」
男は、いちいち、たぬきを褒めている。
上機嫌に、たぬきは話す。
警報を聞いて、一目散に山を越えてきたことを。
人間の男が欲しがるフェラーリになったことを。
「すごいね。車よりも強くなったんだね。まり子は」
「はい。はい。」
まり子は嬉しくて、鍋から浮いていた。
エイルが叫んだ。
「あれ?たぬきさん、飛んでいるよ!」
「えっ?」
背中の小さな羽根が羽ばたいていた。
「おや。シジミチョウの羽根だったのですね」
閉じている時は茶色のその羽根は、広げると、冬の薄い色の空を切り取ったような水色だった。
男は、エイルに説明した。
「一般的に、羽根を閉じた状態で留まっているのが蝶で、開いたままで留まっているのが蛾と言われています。
まあ、その区別には例外もありますが。
この羽根の色はシジミチョウで間違いないでしょう。
悪魔では珍しいのではないですか?」
エイルが答える。
「そうっすねー。
悪魔はコウモリの羽根ですよ。それか羽根がないか。
もともと地獄に来るはずのない魂に大悪魔の肉を喰わせましたからね。
何が、どう転ぶか解りませんでしたよ。
姿はほとんど変わらないのに、あなたの家に走るたぬきさんのスピードはフェラーリも俺っちの飛翔能力も超えていました。
山道での時速300キロ超えは並みの悪魔じゃありませんや」
そして、少し男を睨んで
「そのたぬきも、不死に近いその身も丸ごと手に入れるなんて、死にかけていた人間にしては、ずるくありませんかねぇ」
男は微笑んだまま
「エイルさん。
まり子に目をかけていただき、ありがとうございました。
私の命があるのも、まり子を強い体にしてくれたのも、全て気にかけてくれていた、あなたのおかげです。
まあ、だからと言って、私の魂もまり子も渡す気はありませんが」
ふんっとエイルが鼻で笑った。
「そんで、これから、どうするんで?」
「そうですね・・・
まあ、人間としては死んだということで、人外として生きてみましょうか。
世界を周り、知恵を必要とするものに、私がヒントを与えましょう。
その積み重ねが、人間を成長させるのか、それとも滅びを選ぶのか、見守る者となりましょう」
ふよふよと頭上を飛んでいる、たぬきを捕まえて、
「まり子。私と旅に出ましょうか」
「はい!どこまでも、一緒に!」
「車で行きましょう。
あなたが車になるのではなく、まり子は助手席に座ってください。
私のパートナーなのですから。
マセラッティーの3200GTが良いですね。
フェラーリで悦に入るのはガキですよ」
「ぱーとなーですか?パートナーなのですね!」
「そうですよ。
家族になりましたが、お父さんよりも、パートナーの方が良いですね。
ゆっくり恋人から、私の奥さんになってもらいましょう」
「ぷしゅーーーっ」
たぬきが火傷が治ったのに赤く火照りだした。
男はたぬきの耳元でこっそりと囁いた。
「ちゃんと後で口説かせていただきますよ」
赤く呆けているたぬきを抱いて家の外に出た。
空が白みだしている。
ああ、夜が明ける。
男が目を細めた。
私の暗闇も明けたのだろうか?
自分に問いたが、答えは出ない。
しかし、隣に居るだけで嬉しそうな奇妙な獣が居るから良いかと思った。
エイルが声をかけた。
「ようあんた。名前はどうするんだい?」
ふむ。と男は考えた。
「そうですね~。
名前を告げて、エイルさんに縛られるつもりはありませんが、
恩を受けて、私だけ知っているのも不平等ですね。
それでは、私の悪魔の名前はメフィストフェレスを名乗りましょう」
一瞬、男の身体が光りメフィストフェレスの名前を魂に刻んだ。
それを聞いて、エイルは大笑いをした。
「いいセンスしてんじゃん。
良いねぇ。その名は人間の物語の中でだけの悪魔だけれど、それで、答えを求める人間を、どんどん堕としちゃってくれよ」
それに、ニヤリと笑い男が答えた。
「分かりませんよ。人間が何を選び、どう転がるかは。
事によっては、何十年か、何百年か後には、私の名は祝福の名になっているかも知れません」
「人間が嫌いなんじゃないのかい?それで自殺したのだろう?」
「ええ。私の発明も発見も見識も否定した世界です。
しかし、私の多岐にわたる叡智と悪魔の知恵を持って、同じように報われない者がいたら力になりたいと思います。
それが、どんな結果を呼ぶ知識だとしてもね」
男はまり子に向き直り
「まり子さんは、人間に化けることが出来ますか?」
「お!絶世の美女とかご所望かい?どんな女が好みなんだよ」
「いえ。
私の好みは宜しくないので、まり子さんが姿を取りやすい形が良いでしょう」
エイルが食い下がる。
「せっかく、大悪魔の肉を喰って魔力増大させたんだぜ。何にでもなれるよ~。
どんな女が好きなんだよ。言ってみろよ」
ニヤ付きながら、エイルが男の肩を組む。
嫌々ながら白状した。
「いえ・・・まあ、歴史上の人物でしたら、妲己ですかね・・・」
「「えっ!」」
たぬきと悪魔が絶句。
「妲己が好みって、イカレてらっしゃる~」
悪魔の顔が引きつる。
たぬきがまた泣き顔になった。
「お父さんは、キツネさんが好きなのですか?そんなぁ。そんなぁ。・・・」
男は慌てて言った。
「好みってだけですよ。もう悪女はこりごりですからね。
だから、まり子さん、あなたの取り扱いやすい姿になってみてください」
「はい・・・美女とかではなく?」
「ええ。長く一緒に居るのです。
化け続けるのですから、負担になりにくい姿を選んで下さい」
うーん、うーん。と考えていた。
おまじない的に葉っぱを頭の上に乗せてみた。
うん。出来そうな気がする。
「えいっ!」
ぽんと姿が変わった。
髪の長い18歳くらいの少女の姿だった。
エイルが呟いた。
「貞子さん的な?」
男も同意した。
「そうですね・・・しかし、名前を変えるよりも・・・
少し髪を切りましょう。
後ろの髪も肩甲骨の下あたりでばっさりと。
白いワンピースはとても似合っていますよ」
悪魔メフィストフェレスが指をパチンと鳴らした。
ぽんと前髪と後ろの髪が揃えられ、白いワンピースも現代的なデザインになっていた。
「お!良いんじゃねぇ?」
「良いですね」
エイルが褒めて、男が同意した。
長い黒髪で丸顔の可愛い少女になっていた。
先ほどの口説きを知らないエイルが言った。
「確かに、この子になら、お父さんと呼ばれても違和感はないな」
「分かりませんよ。もう少し年月が過ぎれば、本当のパートナーになるかも知れません」
男がいたずら気味に片眼をつむった。
まり子が恥ずかしそうにワンピースの裾をくしゃくしゃと握った。
「とても似合っていますよ」
ニコニコと笑顔が交差する。
「えへへ。ありがとうございます」
そして、二人でエイルに向き直り、
「それでは、エイルさん。お世話になりました」
たぬきと、男は頭を下げた。
エイルはへへへと笑った。
「行きましょうか」
男の言葉に笑顔で答えた。
「はい!」
男は、少しふむ・・と考え
手をかざした。
ぽんっと車が現れた。
マセラッティー3200GT。色はブルーネットゥーノとよばれる
夜明け前の深い紺色。
左ハンドルの6速MT。内装はオフホワイトの革張りである。
ヴォン!ヴォン!
結構な力使えてんじゃん。エイルが思った。
が、口に出すのは癪だったので黙っていた。
「良い音ですね。V8ターボエンジン。下品じゃなくて宜しい」
「では。お元気で」
いつの間にか、男はいつの間にか30代くらいの姿になり粋なスーツに身を包み、中折れ帽をひょいと上げエイルに会釈をし、車に乗り込んだ。
「エイルさん。ありがとうございました。さようなら!」
助手席から少女が顔を出してお礼を言う。
エイルは手を少し上げた。
夜明けの世界に車は走り去って行った。
車が視界から消えても、そのまま悪魔は立っていた。
ああ、あの人間にしてやられたなぁ。
たぬきにも一杯食わされた。
でも、面白かったなぁ。
奇妙に満足な余韻に浸っていると、背後でバサバサと羽音がした。
振り返らずに言った。
「よう、ましろちゃんじゃねぇか。どうしたんだい?降りてきて」
「あなたが、地に居るから、珍しいものでもあったかと思いましてね」
天使から、寄ってくるのは珍しい。
もしかしたら、たぬきのことが気になったのかな?
でも、もう少し秘密にしてやろう。
こいつから聞いてくるまで、話してやんねー
「面白いものを見たよ」
「ふーん。なんです?」
興味なさそうに聞いているが、絶対すごく知りたがっている。
「教えてやんねー!」
「なっ!」
エイルは笑いながら、飛び上がった。
天使は無表情な顔を崩して怒っている。
あははは、あんな顔初めて見た。
あんな面白い生き物を放っておいたんだ。
後、10年か20年は教えてやんねー。
そんな時間、悪魔にとっても、天使にとっても短いもんだ。
でも、たぬきにとっては、果てしない時間だったのさ。
それに俺っちは気づいちまった。
だから、面白く生きろよ。二人とも。
悪魔は、遠くに走り去った食わせ者の二人に思った。
火照った顔を冷やすために、涼しい風に髪をなびかせて、車の助手席の少女が窓の外を見ていた。
夜明け前の紫と青の混じった色の車は当たり前にスピードを上げている。
景色がびゅんびゅん遠ざかる。
「おとうさん」
少女が呼んだ。
「なんですか?」
左ハンドルのMT車を巧みに操縦している男が微笑みながら、目を合わせた。
「たぬきは轢かないでくださいね」
「大丈夫です。私は車の運転はプロ級ですよ。
それに、たぬきを轢くなんて、そんな悲しい事は絶対にしません。
どんなにスピードをあげても、それは確かです。約束します」
それを聞いて、少女はにっこりと笑った。
この人の言う事なら間違いない。
これからの世界も、一緒だから怖くない。
少女は愛おしそうに、隣の男を見つめた。