みつあみ少女と塩パンの恋
四時間目が終わったチャイムが鳴る。授業が終わるとみんなお昼ご飯を食べようと動き出して、教室は騒がしくなった。私も教科書を机の中に入れると、かばんから財布を取り出して、私の席へ近づいて来た友達二人に声をかける。
「じゃ、パンを買ってくるね」
「明日香、ジュースー」
肩までの髪で、線が細い美紀はそう言って100円を私の掌に乗せた。
「じゃ、私はクッキー食べたい」
ポニーテールに眼鏡の葵も100円を私に渡した。高校に入学してから三年間一緒の二人は、遠慮なくおつかいを頼んでくる。
「じゃ、いつものところで」
「オッケー」
この学校はお昼ご飯をどこで食べてもいいから、私たちは人が来ない空き教室で食べていた。そこだと気兼ねなくおしゃべりができるから、気に入っている。
私は教室を出ていくと階段をわくわくしながら降りる。うちの高校には学食や購買はなくて、お昼休みにだけ近所のパン屋さんがパンとジュースを売りにくる。火曜と木曜だけなんだけど、私は毎週買いに来てる。
この特別なパン屋さんは、昇降口の空きスペースでしていて、一階に着くともうたくさんの生徒が買いに来ていた。わいわいとみんな好きなパンを買っていく。人気のパンはすぐに無くなっちゃうから、急ぎ足になっちゃうんだよね。そして生徒の向こうで忙しくパンを渡したり、おつりを渡したりしているお兄さんが目に入ったとたん、トクンと心臓が跳ねて頬が熱くなっちゃう。
去年まではおじいさんが売りに来てたんだけど、足を悪くしたらしくて売るのはお孫さんに引き継いだって聞いた。笑うと見える八重歯とか、腕まくりをしたときの筋肉質の腕とか、気さくに声をかけてくれるとことか、女の子の胸キュンが詰まっていると私は思う。
(絶対、他にも狙っている人いるよぉ。あの一年生も毎回来てるもん)
私は階段を降りたところから、お兄さんを見ながら周りの人も観察する。人が多いとゆっくりパンを選べないし、お兄さんを見ていたいからいつもここで人が少なくなるのを待ってるんだ。パンを買った人たちが私の隣を通り過ぎていく。
今日は何のパンにしようかなって考えていると、女の子たちの高い声が届いた。
「ねぇお兄さん! 彼女いるの~?」
「どうなの? 教えて!」
「気になる~」
キャッキャとにぎやかな声は二年生の三人組。私はドキッとして、聞き耳を立ててしまう。だってすごく気になる。お兄さんの彼女情報は私も知りたかったけど、一度も聞けたことがなかった。もう6月で、お兄さんが学校に来るようになって三か月になるけど、お兄さんのプライベートの話はせいぜいパン職人になるために修行しているってことと、元野球部でこの学校のOBってことと、二十代ってことだけ。
私がじっとその答えを待っていると、お兄さんの軽快な笑い声が響いた。
「さぁ、どうだろうな。ひ、み、つ」
「え~。その反応はいるんでしょ」
「ねぇ、年上が好き? 年下?」
「はいはい。早くパンを選ばないと、休み時間がなくなるよー」
今日もお兄さんは答えをはぐらかした。いつもこう。ああいう質問には絶対答えなかった。
(彼女、いるのかな。どうなんだろ……ううん、そんなの考えちゃだめ)
お兄さんの彼女について考えると胸が重くなっちゃうから、私はパタンと蓋をした。そして女の子たちが買って行ったので、私はようやく近づいていく。人が少なくなったから、お兄さんはすぐに私に気づいてくれて微笑んだ。
「あ、みつあみちゃん」
「……こんにちは」
お兄さんは生徒のことをよくあだ名で呼ぶ。名前は覚えられないからって、その代わりキラッと眼鏡くんとか、野球少年とか、見た目で呼んでた。私はみつあみのおさげだからみつあみちゃん。楽ってだけの髪型で好きでもなかったんだけど、お兄さんにそう呼ばれるようになってから大好きになった。
私はお兄さんの前に立つと心臓がドキドキして、また頬が赤くなっている気がするから顔を上げられない。パンを選んでいるって見えるように、数が少なくなったパンを右から左まで見た。なるべく長く悩んで、少しでもお兄さんの近くにいたい。
(あぁぁ、何かおしゃべりしたいけど、声が出せないよ!)
さっきの女の子たちみたいに、積極的に話しかけられたらいいのに。毎晩イメトレをしても、結局何も言えない。今だって隣の野球部の男の子と、昨日していたプロ野球について話してる。
(昨日はお兄さんが好きな球団が勝ったから、その話をしようと思ったのに)
全部野球部の男子に取られてしまった。野球はあまり興味がなかったけど、お兄さんが好きだって知ってから試合結果は見るようになった。でも一度も話ができたことはないから、意味がないんだけど……。
そしてその男の子がいなくなると私だけになって、静かになった廊下が今度は耐えられなくなる。開いた窓から教室のにぎやかさが聞こえてきて、私は急かされるようにパンを指さした。
「えっと、塩パンとクリームパンと、クッキーとオレンジジュースください」
なんだか照れちゃって、下を向いたままそう言うとお兄さんは噴き出した。
「そんだけ迷って、結局いつもと同じなんだな」
私がちらっとお兄さんを見ると、八重歯が覗いている素敵な笑顔があった。ずっと見ていたいのに、恥ずかしくて見られない。お兄さんがパンを袋に入れてくれている間に、私は財布から小銭を出す。結局同じものを買うから、値段は覚えてる。
「はい。……それとおつり。またよろしくな」
「あ、はい」
それで会話は終了。そのまま居続けるのも変だし、私はぺこりとお辞儀をして二人が待つ教室へと向かう。食後のジュースやお菓子を買いに来た人が出てくる時間になっていて、また廊下には人が増えてきた。足早に空き教室に入ったら友達二人がお弁当を食べていた。
「おそーい。またあのお兄さんを見てたんでしょ」
「早くアタックすればいいのに」
二人は毎回のことだから、勝手にお昼を食べている。二人とは何でも話せて、気を使わなくていい。そして私がお兄さんを好きだってこともすぐにバレた。二人は毎日お弁当なので、パンは買わない。たまにクッキーやジュースを買うくらいだった。
「べつに、何買うか迷ってただけ」
顔に出さないようにしながら答えると、美紀はにやにやして私が袋から出したパンを見ていた。
「ふ~ん? その割にはいつもと同じパンだけど?」
そこに葵も楽しそうにからかってくる。
「青春ね~。いやぁ、明日香が年上好きだったなんてね~」
毎回ってほど言われるから、私は無視してパンにかじりついた。お兄さんの塩パンは荒い粒の塩がかかっていて、ふわふわの食感。流行りは塩バターパンで、クロワッサンの生地のも多いんだけど、ここのはふわふわの生地だった。焼けたパンとバターの香りに、塩味がたまらない。全種類食べたけど、私はこの塩パンが一番好き。
二人は私に気にせずおしゃべりを続ける。すぐに昨日のドラマの話になって、私はパンを食べながらおしゃべりに加わった。口の中がバターと塩味で満たされたら、次はクリームパン。ずっしりしていて、一口食べたらすぐにクリームが出てくる幸せなパンだ。バニラの香りと甘さがスイーツ好きの乙女心を満たしてくれる。
そうして昼休みが終わって、ちょっと眠くなりながら午後の授業を受ける。私は三年生だから進路を考えないといけない。周りはどんどん決めていて、美紀は進学、葵は就職希望って言ってた。私はまだ誰にも相談していないけど、専門学校に行こうかなって思ってる。実は、パン屋さんになりたいんだよね。別に、お兄さんが好きだからってわけじゃなくて、子どもの時からパン屋さんになりたいって思ってたから。
そうやって進路や恋に悩んだりしていたら、すぐに時間は経つ。梅雨が始まって、じめっとし始めた。そして今日も私はパンを買いに行く。人が少なくなるまで待って、お兄さんに近づいた。
「みつあみちゃん、こんにちは。今日も塩パン?」
「こんにちは……ちょっと、考えます」
お兄さんは今日も私をみつあみちゃんって呼んで、微笑んでいる。視線を右から左へと動かして、パンを見ているふりをしながらお兄さんもしっかり見る。今日は熱いからかTシャツと短めのズボンにエプロンをつけていた。髪は少し伸びていた。
(かっこいいなぁ……え)
頬が緩みそうになるのを我慢していたら、光るものが目の端に入った。ざわっと心が揺れて、キュッと苦しくなった。見たくないって思ったのに、見えてしまう。そして分かってしまった。
(指輪……)
左手の薬指に、新しそうなシルバーの指輪が嵌っていた。血の気が引いて、逃げだしたくなる。机の向こうにいるお兄さんが急に遠くなった気がして、私は唇を噛みしめた。
(結婚、してたんだ)
足が震える。涙が出そう。だけど、ここでは泣けないから私は精一杯の笑顔を作って顔を上げた。
「塩パンと、クリームパンをください」
いつもと同じパンだけど、いつもなら一秒でも長くここにいたいのに、今日は一秒でも早くここから逃げたい。苦しくって、息が出来なくて、私は急いでお金を渡した。毎回わざとおつりをもらってたけど、今日はぴったり渡す。気を抜くと、今にも涙が溢れそう。
「はい、いつもありがと」
私はお兄さんから奪うようにパンが入った袋をもらうと、すぐに背を向けた。泣きそうになっている顔を見られたくなくて、速足で歩いていく。
「みつあみちゃん?」
背にお兄さんの不思議そうな声が聞こえたけど、私は振り向かなかった。お兄さんにはお兄さんの生活があって、お兄さんにとって私なんてただの生徒の一人だって見せつけられた気がして。恋に浮かれてたのは私だけだったって、突き付けられた気がして……。
一気に階段を駆け上がると、人気のない空き教室に入った。二人は驚いた顔で私を見て、「早かったね」って言ってから血相を変える。
「ちょっと、何があったの!?」
「明日香ちゃん、何で泣いてるの?」
二人はお箸を置いて駆け寄って、顔を覗き込んで頭を撫でてくれる。その優しさが嬉しくって、私は声をあげて泣いた。二人はぎゅっと抱きしめてくれて、私が泣き止むのを待ってくれる。
しばらくして落ち着いた私は席につくと、塩パンをかじりながらぼそぼそと話し出した。
「既婚者だったか~」
目を丸くする美紀ちゃんは、「あちゃ~」と残念そうな顔をする。
「さすがに禁断の恋はだめね」
葵ちゃんも肩を落としていた。私は鼻をすすりながら塩パンを飲み込む。なんだか今日は、いつもより塩味が強く感じて、それがまた悲しくなってくる。ふわふわなのに、いい香りなのに、今日はおいしくない。
「明日香、次の土曜日スイーツの食べ放題いこ!」
「そうよ。男なんてたくさんいるんだから、次行くわよ!」
「……うん」
二人の優しさが染みてきて、また涙が出てくる。二人は仕方ないなぁって笑いながら、私を慰めてくれた。そんな悲しい片思い。高校の甘酸っぱい思い出。
「……って感じだったのに。あの指輪はフェイクってどういうことよ」
みつあみを編めるほど長かった髪をばっさり切った私は、ソファーに座ってテレビを見ている旦那の隣に座る。彼は「ん?」と八重歯がのぞく笑顔を私に向けた。
「だって、あの三人毎回うるさかったんだよ。それで、じいさんが指輪つけとけばいいって言うから」
「乙女心が傷ついたんですけど」
私はもうって拗ねた顔をして、彼にもたれかかる。
お兄さんの指輪を見てから、私はパンを買わなくなった。そしてパン屋のお兄さんは修行先が見つかったとかで、夏休み明けから学校に来なくなったって女の子が噂しているのを聞いた。私はまだ失恋を引きずっていて、さよならも言えずに会えなくなったお兄さんのことを思ったりもした。
そして進路は迷ったけど、やっぱりパンが好きだからパンを作る専門学校に行った。そこで勉強して、地元の大きなパン屋さんに就職したんだ。そしたら、なんとお兄さんもそこで就職していた。その時私はすでにみつあみをしていなかったから、すぐ分かってもらえなかったけど、お兄さんは覚えていてくれた。
ちょっと嬉しかったけど、勝手に恋心を抱いて失恋したから気まずかった。
(けど、すぐにお兄さんが結婚していないって分かったのよね)
あの指輪が偽物だって知ってから、私たちはよく話すようになった。あの時お兄さんは専門学校を出たところで、修行先のパン屋が決まらなかったから実家のパン屋で働いてたらしい。初めて聞いた時も怒って、呆れて、拗ねて……そしたら今みたいな反応が返って来た。それから、私は何度かこの話をして彼にじゃれている。
「ね、恵吾。次の新作何にしよっか」
「ん~。明日香が好きな塩パンのレパートリー増やす?」
そして、私がパン職人として自立ができるようになった頃に付き合い始めて、去年の冬に結婚した。高校の時のお兄さんと付き合うことになったと報告した時の美紀と葵の顔は写真に撮っておきたかったくらい。今でもよく連絡を取るし、お店にも来てくれる。
この春にようやく二人のお店が持てて、順調に客足を伸ばしていた。
「塩パン、明日の朝食べたいな~」
「もう自分で作れるだろ」
「えー、恵吾の塩パンがいいの」
「はいはい」
横から抱き着きながらお願いしたら、仕方ないなぁって嬉しそうに頭を撫でてくれる。毎日が甘くて幸せで、塩パンだってクリームパンになるくらい甘い。恵吾は二ッと八重歯を見せて笑った。
「みつあみちゃんに頼まれたら、作るしかないからなぁ」
私の髪は短いけれど、そう呼ばれたらまた伸ばしてもいいかなって思える。そんな幸せな時間。今こうして恵吾といられるのは、あの時の塩パンのおかげでもあるから、あのしょっぱい塩パンの思い出も悪くないかなって思えるんだ。
明日の朝はちょっと甘い塩パンが食べられる。私はそう思いながら、恵吾の肩に頭をよせてテレビへと視線を向けるのだった。