1F 眠りの森田
松明が壁に掛けられている以外、周囲には何もない。
薄暗い塔の中、微かに聞こえる波の音に耳を傾けながら、僕は上の階へと続く階段の下にやってきた。
「……?」
いち、にい……丁度4段目。鋭い歯の人が、長い足を塔の柱にかけるようにしてガアガアといびきを搔いている。
(もしかして、ゲートキーパーの言う女の人だろうか?)
だらしなく眠っている人を見下ろしながら、僕は女性の定義について思考を巡らせていた。
(女性、男性と対比する人……動物の雌に該当し、身体的特徴としては腹がまっすぐで腰がくびれてて胸が膨らんでいる……)
「違う違う、そうじゃなくて、女の人ってこうやって寝るの……?というか女の人なのこの人」
思考が口に出る程、僕は動揺していた。第一、績という人間は女性に対する知識がまるでない。同じ世界で暮らしていても、全く別の存在として認知していた。
そんなわけだから、女性という生き物が大口開けながら転がっているというこの状況は、如何せん厳しいものがある。
「そ、そうだ、この人確かに腰はくびれているけど、胸が無い! つまり女性ではない可能性が」
「ねーよ女だよ」
「――っ!」
気づけば僕は階段から転げ落ち、地面に顔を叩きつけられていた。鼻が痛い。
一瞬何が起こったのかわからなかったが、どうやら彼女は僕の首に足を回していたようだ。彼女はまるで猫の様にくるりと身を翻し、脱ぎかけていた白衣を再び羽織っていた。
「出会い頭失礼な挨拶どうも。あんたがゲートキーパーの言ってた男か」
煙草だろうか? 白い棒を咥えながら、彼女は赤色の瞳で僕を睨み付けている。
「あ、と、ぼ、僕は績といいます。その、事故に会って、目を覚ますにはここに住んでる悪霊を成仏させないといけないみたいで、それで……」
「それで、後は1階にいる私に聞け、とでも言われたんだろう」
「あ、はい、そうです……」
両手を白衣のポケットにしまい込んでいる彼女は、諦めと怒りが混じったような声音で「ゲートキーパー」と呼んだ。
ゲートキーパーは塔の外だ。大声を上げれば届くかもしれないが、あんな声では伝わるはずもないだろう。
ところが、ゲートキーパーの返事は僕の想像よりも近い場所で反響した。
『はいはーい! ぼくだよー!!』
「ゲートキーパー!?」
声のする方に視線を送ると、女性の隣で1匹の金魚が口をぱくぱくさせていた。
びっくりした僕を面白がるように、ゲートキーパーの声を出す金魚は笑いながら僕の周りを旋回している。一体何なんだこれは……空を游ぐ、茶金?
『ほんっっっと、いいリアクションするよね。績の兄ちゃん。芸人のセンスあるんじゃない?』
「……君っていい性格してるよね……」
『んふふ~♪ ありがとう! この金魚はぼくの秘密道具その1、超最先端魔道通信機お金さ!』
「え……と?ごめんもう1回言って貰ってもいい?」
『超最先端魔道通信機お金さ!』
先程と全く変わらないイントネーションで、ゲートキーパーは2回、不思議な金魚の名前を復唱してくれた。
「えっと、つまり?」
「やたら名前は長いが、要するに通信機だ。塔の外から私達に助言してくれるんだと」
『そうそう。いつでもどこでもぼくがすぐ傍にいるよ!』
……なんか嫌だなあ。
「なんだ、績つったか? 虫でも噛みつぶした顔してんな」
『あっは』
考えてもみて欲しい。プライベートにもいじめっ子がいる空間を。地獄でしかない。
深いため息を床に吐きながら、僕は口の悪いおかっぱの女性に悪霊のこと、そして成仏させる方法を尋ねようとして、彼女の名前を聞いていないことに気がついた。
「すみません、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「あ? あー……」
……どうかしたのだろうか。女性は荒く頭を搔きながら、なかなか名乗ろうとはしなかった。
『績の兄ちゃん、この人記憶ないんだよ』
「ば、余計なこと言うな!」
記憶喪失? 僕が首を傾げていると、彼女はため息をつきながら事情を話してくれた。なんだかさっきの僕みたいだ。
「私は本来この塔の頂上で暮らしていたんだが、塔から落っこちたんだ」
「え!?頭大丈夫ですか!?」
「駄目だよ。だから記憶がねーの。名前もわからん」
ガリガリと、女性は咥えていた白い棒を囓り始める。どうやらお菓子だったらしい。予想もしていなかった光景に驚いて固まっていると、彼女は「食うか?」と1本僕にわけてくれた。
『彼女、名前も何もわからないけど、ここで暮らしてた悪霊だから、案内するならベストかなーって。僕の仕事も減るし、登っていれば彼女も記憶が戻るだろうし? Win-Winな関係って奴だよ!』
「だ、悪霊なら成仏させなきゃ不味いんじゃ……そ、そうだ!本」
この女性が悪霊だというのなら、本が開くはずだ。
ゲートキーパーから渡された分厚い本に手を伸ばすと、本はあっさりと開いた。
開いた、んだけど……。
「真っ白だ」
どのページを捲っても、文字は綴られていなかった。
「だろうよ。あんたはまだ何も知らないんだ。私のことも、悪霊のことも」
2本目のお菓子を咥えながら、彼女は僕の頭をぐりぐりと撫でた。なんだか子ども扱いされているみたいで腑に落ちない。
「階段上りながら説明してやるよ弱小執筆者。行くぞ」
「ま、待って……!」
「んだよ。言っておくが、今のあんたじゃ私を消せないからな」
「あ、いえ、そうではなくて、僕は君をなんて呼べばいいんですか?」
長い足で軽やかに階段を登る彼女は、僕の問いかけを鼻で笑い「好きに呼べよ」と返した。
「じゃあ……森田」
「森田?」
「はい。よろしくお願いします。森田さん」
「だせー名前」
す、好きに呼んでいいって言ったじゃないか……!
『森田かー。いいんじゃない? モーリタ! モーリタ!』
「黙れ」
やっぱ変えといた方がいいのかな? なんだかすごく怖い。
でも僕だって適当に名前を付けたわけじゃないから、訂正を要求されるまでは森田さんと呼ぶぞ!
分厚くて重たくて、その癖何にも書いてない本を抱きながら、僕は彼女の背中を追いかけた。