文章力ってなんだよ(半ギレ)
他人の日記を覗き見るつもりで、寛容な気持ちで読んでいただけると幸いです。
日記、良く言えばそう――これは枕草子のようなものです。
いいですよね枕草子。
日本最古のおね×ロリ作品だと思うんですよ。
「小さきものは、みなうつくし。」
という文章に共感できます。
可愛いですよね、ロリキャラ。
こんなことを言うと「ロリコン死刑」とかいう人がいるので一言だけ言わせてください。
三次元のロリには興味ありません。
三次元は中学生からです。
ね、ロリコンじゃないでしょう?
と、半分冗談は置いておいて。
本文中にいくつかの作品名を例として挙げておりますのでご注意ください。
私は激怒した。
必ず、この浅学非才の自らを除かねばならぬと決意した。
と。
太宰治の『走れメロス』の冒頭をお借りして(正しくはパクッて)、頭の二行ほどを埋めてみたが、こうしてみると、一行目に「――は激怒した。」という文章を入れてくるあたり、流石の貫禄というか、インパクトがあることに間違いはない。
仮に、同じ内容で物語を書け、そう私が言われたとして、一行目に「メロスは激怒した。」とは書かないだろうし、書けない。
「メロスは激怒した。」
一行で表現される掴みとして、これ以上に無いほど完成されている。
メロスとは何者なのか、メロスは何をそんなに怒っているのか、メロスの怒りの対象は何なのか。
句点を含んでも十文字に満たないこの一文だが、それだけの疑問が生まれ、二行目の文章を早く読みたいという欲求に駆られる。
こんな文章を書けるのだから、やっぱり太宰さんは一味違うと、当時はさぞかしちやほやされたことだろう。
いや、当時に限らず、私が中学時代、現文の授業の題材として『走れメロス』が取り上げられた際にも、教師は太宰さんに対して何かしらの褒め言葉を贈っていたのを覚えている。
褒めすぎだ。
太宰さんが照れたらどうする。
まぁ、教科書に乗っちゃった辺りで照れのメーターが振り切ってどうでもよくなっている可能性すらあるが、褒めるときは大々的にではなく、Twitterのダイレクトメッセージとかでこっそりコメントをあげると、向こうも気張らず、素直にお褒めの言葉を受け入れることができるだろうから、そっちの方がお勧めだ。
ということで、私はこれ以上この文章中においては「走れメロス」についてあまり肯定的な発言をしません。
ただ。
私は、走れメロスを10年ほど読んでいないため、今アニメ化したら恐らく「走めろ」と略称されることになるであろうその作品について、重箱の隅をつつくように欠点を拾い上げるようなことは出来ませんので、メロス×セリヌンティウス派の方も、ディオニス×セリヌンティウス派の方も、安心して太宰様の足もとにも及ばない私の拙い文章をお読みいただければ幸いです。
あれ、ちょっと待ってほしい。
今気づいたが、セリヌンティウスは総受けではないか。
本当に今気づいた、今気づいたから思わずそのまま文字として書き起こしている。
思ったことをそのまま言ってみたかっただけだ。
ライブ感って大切だ。
なので、セリヌンティウス総受け問題については、この文章に一切関係無い。
だがどうだ。
走めろの冒頭を「セリヌンティウスは総受けだ。」に変えてみても、それはそれで興味を惹かれるではないか。
セリヌンティウスは何者なのか、セリヌンティウスは何故そんなに攻められるのか、セリヌンティウスは誰からの攻めを受けるのか。
まぁ正直、個人的には全く興味を惹かれないが、一部の方には非常に興味をそそられる一文かもしれない。
と、ここまで言っておいてなんだが、セリヌンティウス総受け問題については本当にどうでもいいのでこの辺りで閉めておこう。
それに、あんまり総受け総受けと言っていると、どこかにいるかもしれない「セリヌンティウスへたれ攻め派」の方から酷いバッシングを受ける危険性があるので、これ以上墓穴を掘らないのが私の身の為でもある。
ヤオイ界隈においてカップリング論争は、時に残酷な結果をもたらすということを私は最近知ったのだ。
現在放送中の『ブレンド・S』というアニメで知ったのだ。
ちなみに『ブレンド・S』は、言ってしまえば萌えアニメだが、荒んだ社会に疲れた現代人の喉を潤す一杯の清涼水的な雰囲気を醸し出してる可能性を孕んでいるかもしれないと言われることもありやなしやな作品なので、試しに見てみると良いかもしれない。
お勧めだ。
お勧めする。
お勧めできる。
そう、お勧めできるのだ。
では、走れメロスはどうだろう?
お勧めするかしないかで言えば、「お勧めしない」部類の作品だ。
勿論、読みやすく、力強い文章で、男同士の友情を描いた名作だとは思うのだが、友人に「お勧めの本教えて」と言われた場合に、走れメロスをお勧めすることはないだろう。
する人はもうここで読むのをストップしてください、私が間違ってました、全面的に謝罪します、お時間を取らせてすみませんでした。
ということで、今私がタイピングした文字を読んでくださっている方は「メロスを友人にお勧めしない派閥」の一員ということで、肩の力を抜いて話を続けます。
走れメロスは名作だ。
それを分かっているにもかかわらず、なぜ我々は走れメロスをお勧めしないのだろうか。
理由として挙げられるのは、
「流行りじゃないから」
「求められている物とベクトルが違うから」
「あれ? 実は言うほど面白くないんじゃね?」
大まかに、以上の三つだ。
そう、早漏な私が早計に誤解を恐れず結論を述べるとするならば、走れメロスは「古臭くて面白くなく、需要が薄い作品」なのだ。
つまり、お勧めするという状況下においては、『走れメロス』は最低な作品だ。
ごめんなさい言いすぎました。
反省はしています、後悔もしていますが続きを書きます。
まず、「流行りじゃないから」という点について。
それは一瞬タイピングの手を止めてしまうレベルで当たり前のことだ。
流行りじゃない。昔の作品なのだから、仕方のないことだ。
そして、それだけでは、別に「お勧めしない」理由にはならないだろう。流行りではない作品でも、お勧めするに値する――というとすごく偉そうなので、お勧めしたくなるような作品と言い換えよう、とにかく、そんな作品は沢山ある。
例えば、『マリア様がみてる』は、私がお勧めしたい作品の筆頭候補だ。
マリみては、決して流行りの作品ではないが、物語を組み立てる美しい言葉の羅列や、ゆったりとしているようでメリハリのあるストーリーは、何度でも読み返したくなってしまう。
私が百合好きだということに目を伏せてもだ。
次に、「求められている物とベクトルが違うから」という点について。
これは意外と複雑な問題なのだが、勧める相手が求めている作品のベクトルは非常に重要だ。
例えば相手が非オタ寄りの人間だとして、そこに『俺がお嬢様学校に「庶民サンプル」としてゲッツされた件』を提示した場合、「え? なにそれ笑」と、非常に腹立たしい返答が帰ってくるのは火を見るより明らかであり、文章の最後につけられた「笑」に殺意を覚えることは想像に難くない。
だが、同じ作者の描いた作品であっても、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』であれば、知人を故人にする最悪の事態を回避することができるだろう。
小説と偏に言っても、そこにはさまざまなジャンルがあり、様々なストーリーがあり、推理小説を求める相手に適当な官能小説を渡しても喜ばれることはないだろう。あったとしてもエロいから喜ばれているだけで、相手が満足しているかといえば、答えはノーだ。
そのうえで考えると、走れメロスという作品が相手の求めるベクトルに向いているという状況は極端に少ない。
それこそ、世に蔓延るすべてのBL小説を蹂躙した猛者しか求めないであろうレベルでだ。
最後に、「あれ? 実は言うほど面白くないんじゃね?」という点について。
言葉のままの意味です。
言葉のままの意味すぎて、一応小説とか書いている身としては色々考えてしまって胸と頭が痛くなってきたが、それは置いておこう。
ちなみに、あえて『走れメロス』という作品を要約すると、「一般人が王様に喧嘩売ったら死刑宣告されたけど、妹の結婚式に参加するため幼馴染を人質として差し出し、約束の時間までに帰らないと幼馴染が殺されちゃうから、寝坊とかトラブルもあったけど、なんだかんだ全力で走って時間に間に合ったよ。そんで王様も懐柔されたよ」といった感じだ。
はぁ?
なにそれ?
あーつまんね。
と、思ったのだが、今、全文がネットに上がっていたので拝読したところ、これが結構面白い。
結構面白くて動揺している。
どうしようこの文章。
なんてね、本当は知っていた。走めろが面白いことは知っていた。
いや本当に。
知ってましたとも。
と、つまらぬ嘘は置いておき、まさかこんな風に面白い作品だとは思わなかった。
改めて読むと結構ユニークだ。
「メロスは政治がわからぬ」
って、そんなレベルで済まされねぇよ、とか。
「南三、寝過ごしたか」
って、南三じゃねぇよ、とか。
まるで、友人とB級映画にツッコミを入れながら見ているような気分になってくる。
変な需要を見出してしまった。
ということで、走めろがお勧めできないという理由をつらつらと書き連ねた一連の文章は全て茶番と化してしまったわけだ。
見切り発車で文書を描き始めるものではない。
でもまぁ、仕方のないことだ。
人の心とは、季節よりも幾分簡単に移り変わってしまう物なのだから。
以上が、私の主張だ。
と、一見まとめたようなことを書き連ねても、ここまでの文章を読んだ人には、これまでの文章がまとまっていないことはバレバレなわけだ。
仮に、ここまでの文章を、太宰治が、同じ内容で、しかし彼の言葉で書き綴れば、名作が生まれるだろうか?
生まれるわけがない。
内容が内容だもの。
内容が無いようだもの。
いくら文章力があったとしても、それで描く内容がお粗末な物であれば、結果として名作は生まれない。
逆に言えば、内容がきちんとしていれば文章力が少しばかり足りていなくても、素晴らしい作品が生まれる。
ただ、物語を紡ぐ上での最低限の文章力が必要とされるだけで、それが結果的に読みやすくても、読みにくくても、物語が面白ければ、人はそれを読もうとする。
そうでなければ、わざわざ海外の作品を翻訳してまで読まないだろう。
だから私は、もっといろいろな作品が読んでみたい。
アイデアはあっても、文字に起こす自信が無いという人の作品を読んでみたい。
きっと、こんな駄文とは違い、面白い作品であるはずなのだから。
その為には、最低限の文章力が必要だ。
だが、最低限の文章力など誰でも持っている。
自分の文章に納得いかないのなら、それは文章力が足りないのではなく、今の文章力に満足していないだけだ。
ということで、この場を借りて言わせていただきたい。
情景描写ってどうすれば上達しますか?
お待ちしております。