5. 予兆
広瀬さんとは、会社では何も言わないことにしよう、と約束して別れた。駅前で帽子やマスクを取った彼女は、会社でいつも見る姿とは違った薄化粧で、羽化のショックからか憔悴した様子だった。それでもしっかりと頭を下げて挨拶してから私と逆方向の電車に乗っていった。話を聞いてくれてありがとうございます、と言って。私は何もしていないのに、とても良い子だ。
彼女なら多分大丈夫だろう。後何日か自宅待機して、鱗粉の脅威が薄れたということになれば、また職場に復帰する。大体の人は彼女を労わって歓迎するだろう。可愛い若い子だからというだけじゃなくて、広瀬さんの人柄が為せること――彼女をそんな風に育てたご両親、特に行方不明だというお父さんのことを、思わずにはいられないけど。
帰宅すると、余ったまま持ち歩いていたカフェオレの缶を冷蔵庫に入れる。冷めてしまったから、そのうち冷たいままで飲もう。冷蔵庫の中身は朝のまま、残り物や食材が入っている。何か食べた方が良いよね、と思ったけど――熱いスープを飲んだからか、不思議と空腹感はなかった。賞味期限が近いものがないことだけを確認して、私は冷蔵庫の扉を閉めた。
仕事と、予期せぬ追いかけっこと、それに何より広瀬さんの話を聞いて疲れた心身を、湯船に浸かってほぐす。お腹を撫でてみると、何も食べてないから当然なんだけど、ぺったんこ。なのに食べたいという気持ちが湧かないのは、それだけ気持ちが昂っているからだろうか。
温かいお湯の中で、伸びをする。血流が温まって身体の凝りが溶けていくのは実感できても、心はまだ重い。広瀬さんと話して、彼女は少し気が楽になって帰ったようだったけど。彼女に伝えるべきことがあったんじゃないか、と思えてならない。それを言うことで、彼女を混乱させて悲しませることが分かり切っていたからやらなかったんだけど。でも、聞く彼女と聞かせる私と――お互いに傷ついてしまうとしても、彼女にとっては喉から手が出るほど欲しい情報だろうということも分かっていたのに。
私は、広瀬さんのお父さんに会ったことがあるかもしれない。
あの日、私は「蝶の館」の書き込みを頼りに出かけていた。昨日の広瀬さんがしたように、羽化の予告が投稿されていたから、間近に見るチャンスかもしれないと思ったのだ。
――某月某日、○○駅東口の公園で羽化します。お近くの方、見送りに来ていただけると嬉しいです。
似たような書き込みは毎日のように投稿されているし、その多くが注目されたいがための嘘であることも分かっていた。大体、実生活が満たされている人間が「蝶の館」に入り浸るはずがない。羽化のタイミングが自分で分かるものなのかどうか、「蝶の館」の掲示板でも議論されていることでもあるし。生きている人間には答えが分からないことである以上は、考えるだけ無駄なんだろうけど。
それでもその公園に行く気になったのは、比較的近場で、暇だったからというだけ。空振りに終わったとしてもちょっとした散歩ということにすれば良い、そんなことを考えながら身支度したのを覚えている。だから、初めから対して期待はしていなかったはずだった。
それでも、指定の公園に辿り着いて、平穏そのものの光景が広がっているのを見た時はやられたな、と思ってしまった。もう鱗粉を恐れる歳でもないのかもしれないお年寄りが散歩していたり、マスクをつけた主婦と思しき人が買い物袋を提げて足早に通り過ぎていくだけ。羽化の神秘的な瞬間を迎えようとしているような、そんな人はどこにもいなかった。
念のため、と思って「蝶の館」を開いてみると、件の投稿には投稿主を咎めるコメントで軽く炎上していた。現場にいかずとも、羽化が発生すれば自治体のHPで注意喚起が為されるものだから。それがないということは釣りだったんだな、という訳だ。コメントの中には釣られる方が馬鹿だ、なんて炎上を煽るようなものもあって。その馬鹿としては苦笑するしかなかった。
仕方ないから近くで美味しいお店でも探すか、何か面白そうな映画でもやってないか――そんな風に、次の予定を考えながらスマートフォンをバッグにしまって、顔を上げた瞬間だった。その男性と目が合ったのは。
その人は私の姿を少し目を瞠って、それから苦笑した。それに私も同じ表情で返して、どちらからともなく歩み寄って話し出した。
『もしかして、釣られました?』
『みたいですね。まんまと、です』
帽子もマスクもつけないで無防備に屋外にいる者同士。しかも特に何がある訳でもない公園で、人待ち顔できょろきょろしている。そんな様子を見れば、お互いの目的はすぐに知れた。「蝶の館」の書き込みを鵜呑みにして騙された――そんな仲間意識もあってか、私はその男性と少し話した。
『まったく、蝶に振り回されたみたいな人生でしたよ』
その人と飲み交わしたのは、広瀬さんの時のようにココアではなく、自販機で買った缶ビールだった。喉を鳴らして飲み干す姿を見て、彼にとっては久しぶりのご馳走だったのかな、という印象を受けた。日に焼けた顔や、着古した服、底の擦り減ったスニーカーなんかも、そんな印象を補強した。
『やっぱり、バタフライ・ショックですか?』
『ですね。まあ、私の手腕も良くなかったんでしょうが』
彼の出で立ちや匂わせた人生は、私に後ろめたい気分を味わわせた。それこそ今夜、広瀬さんに対して覚えたのと同種の感情だ。蝶によって人生を狂わされた人の前で、蝶に憧れる私はどうしようもなく不謹慎だった。
『……多分、仕方なかったんだと思います』
私が口にした慰めは、気休めにもならない上っ面の言葉でしかなかったんだろうけど。その人は少し笑ってどうも、と言った。そんな礼儀正しさ、初対面の小娘に対しても丁寧な言葉遣いをしてくれる人柄というか育ちの良さ――言っては何だけど、路上生活者か日雇い労働者か、といった風体には似合わない空気が、思えば広瀬さんと共通していた、かもしれない。
『――あれさえなければ、って何度も歯軋りしたんですけどねえ。今となっては蝶に頼ろうとしているんだから皮肉なものです』
好き好んで羽化の現場に立ち合おうとする人の目的は決まっている。鱗粉を浴びる。そして蝶に憑りつかれる。そして、次の羽化を迎える――死ぬ。漠然と美しい死に憧れる人も多いんだろうけど、彼のような背景の人にとってはまた違った理由があるのだろうと想像できた。
広瀬さんが言っていたように、保険金、も真っ先に浮かんだし。電車に飛び込んだりビルから飛び降りたり、なんて勇気がない人だって、知らない間に時限爆弾を抱えるようなやり方なら、恐怖を感じずにその瞬間を迎えることができるかもしれない。
『どれくらい、やってるんですか……?』
羽化を目指すことを。鱗粉を浴びようと彷徨うことを。多くを省略した私の問いを、彼はきちんと汲み取ってくれたようだった。
『割と最近ですが。そちらは……?』
『本格的には就職してから――だから、三、四年くらいです。といっても羽化を見れたことはないんですけど。鱗粉が多い日に外出してみたり、羽化があったところに行ってみたり……』
『中々うまくいかないですか』
『ですね……』
『早くしないといけないのに……!』
飲み干していたビール缶が、その人の手の中でくしゃりと音を立てて潰れた。彼の苛立ちと焦りの理由もまた、私にはよく分かってしまった。
死亡保険の査定にあたって、羽化は病気として認定される――今のところは。
ただし、緩慢な自殺の手段として羽化を選ぶ人間がいることを、世間も――保険会社も認識し始めている。多くの人にとって恐怖の対象である蝶は、一部の追い詰められた人にとっては救世主になり得るんだ。全てを終わらせ、家族に少しでもお金を残すための、最終手段。
でも、現代の医学では予想もできない病気が理由での支払いは、保険会社にとっては堪ったものじゃないということも、分かる。だから羽化に遭遇してしまった経験があることは正直に申告しなければいけないことになった。親族に癌患者がいるかどうか、と同じくらいの必須項目だ。鱗粉に晒される時間が長い職種の人は、加入条件が厳しくなる保険会社もあるとか。そこからさらに一歩進んで、故意に鱗粉に晒されたと見做された場合は支払いを拒否することができるようになる日も、近いと言われている。
『ご家族は……?』
口に出してから、その質問の無神経さと残酷さに自分の頭を殴りたくなった。家族がいるからこそ、この人は早く羽化しなきゃいけないだろうと思っているんだろうに!
『別れた妻と娘がいます。最後くらい、親らしいことをしてあげたいんですけどね』
でも、彼は穏やかに答えてくれた。そう、あの人にも娘がいたんだ。結婚や子供はおろか、恋人さえいない――作る気もない私は、彼の表情に浮かぶ愛情や悲しみや決意に何もかける言葉がなかった。だから、その後は言葉をひとつふたつ交わしただけで、それじゃ、と言って別れた。お元気で、なんて言ったら皮肉にもほどがあるし、またね、なんて言う関係じゃなかったから。
だから、あの人について私が知っているのは短いやり取りで分かったごく少ない情報、たったそれだけだ。
お湯を掬って、ばしゃりと顔に浴びせる。顔の筋肉をほぐすようにマッサージしながら、あの人のことを広瀬さんに言わなかったことを正当化しようとする。
広瀬さんのお父さんというよりは、もっと年配の人に見えた。だから違うんじゃないか――でも、苦労のせいで年齢以上に老けて見えたのかもしれない。
だけど、だからって。名前はもちろん、連絡先も聞かなかった。背格好を伝えるくらいはできるけど、それだって同じような人は幾らでもいるし、離れて暮らした時間が長いなら実の娘にだって分からないかもしれない。
だから、そういう人がいた、という情報だけを伝えても何の意味もなかったはずだ。あの人の格好は、一緒にビールを飲んで話をしようと思える程度には汚れきってはいなかったけど、生活に困っているのは明らかだった。ただでさえ思いつめているようだった広瀬さんにそんなことを聞かせても、余計な心労をかけるだけだ。きっとそうだ。
それに――どの道あの人も広瀬さんも「蝶の館」を見ているんだ。それなら、いずれ同じ羽化の現場に――それが釣りだったとしても――居合わせることもあるかもしれない。親子を引き裂いた蝶が、今度はふたりを引き合わせることもあるかもしれない。私はそう信じるしかできない。さっき何も言わずに広瀬さんを別れてしまった以上、そうするしかないじゃないか。
湯船に浸かって、あまりに長いこと考え込んでいたのかもしれない。私の身体を不意にぞくりとした震えが走った。温かいお湯に浸かっているのに、肌の上を寒気が這って鳥肌が立つ。
「――っくしゅ」
しまった、湯冷めしちゃった。そう思って、盛大な水飛沫を上げながら立ち上がろうとして――私は、中腰で動きを止めてしまった。
湯気で曇る浴室の中。白い靄が、いつもと違う煌きを帯びている。蛍光灯の貧弱な灯りでもはっきりと分かる、虹色の輝き――画像や映像で何度もうっとりと眺めた、蝶の鱗粉の。
それはたった今、私の口から吐き出されたものに違いなかった。




