4. 「蝶の館」
泣きじゃくる広瀬さんが落ち着くまでにしばらく時間が掛かった。震える肩を撫でて、マスクから漏れる嗚咽を聞く一時は、それはもう気まずいものだった。でも、だからと言って放って帰る訳にもいかない。こんなところ――羽化の現場で鉢合わせてしまった以上は、少しは弁解のようなものをしたいし、多分彼女もそうだろう。それに、いくら鱗粉を避けて人気がないといっても、夜の路上に若い可愛い子をひとりで残すのは気が引けた。
「……どっか、お茶でもしてく?」
「いえ、私……鱗粉、ついちゃってると思うんで」
やっと泣き止んだかな、という頃を見計らって声を掛けてみると、広瀬さんはふるふると首を振った。眼鏡やマスクで顔の大半を覆ってはいても、いつもの表情を知っていると、そんな仕草も小動物のような可愛らしさを感じてしまう。
店に入れば店員や他の客に鱗粉を移してしまうのではないか――そんな懸念を読み取って、私は別の提案をする。
「そっか。でも、ちょっと話そうか。私がコンビニ行くね。温かい方が良い?」
「はい。すみません。……ありがとうございます」
コンビニも、バタフライ・ショック以降すっかり廃れた業種のひとつだけど。何しろちょっとした買い物に出歩くのも怖い、って人が結構いて、ネット通販や大型スーパーでのまとめ買いが主流になったから。でも、確か駅までの道でひとつくらいはあったはずだ。私は頭を下げる広瀬さんに待ってて、と言い残して、記憶を辿りながらそのコンビニへと小走りに急いだ。
コンビニで買ったのは、ホットココアとカフェオレ、缶のポタージュスープ。広瀬さんにビニール袋の中を見せるとココアを選んだから、私はスープにすることにした。そういえば、仕事の忙しさにかまけて朝の野菜ジュースから何も食べていなかった。だから、食事っぽいものをお腹に入れた方が良い気がしたんだ。
鱗粉を恐れているらしい広瀬さんを慮って、さっきの公園ではなくすこし離れたところに空き地を見つけた。ちょうど良いことにベンチもある。都会にも意外とあちこちに外で休める場所があるものだ。
ぷしゅ、と缶の蓋を開ける音がふたつ。そしてふたり並んで熱い中身を慎重に啜る。どう切り出したものか、とお互いに探っているのが分かる。どうして羽化の現場に居合わせたのか、待機命令を破ってまでまたここに来ていたのか。でも、多分ずばりと聞くのは彼女を怯えさせる気がしたから、私は努めて軽い口調で口を開いた。
「広瀬さんもああいうの見るんだね。意外だった」
ああいうの、とは「蝶の館」というサイトのことだ。類似のものはネット上に幾らでもあるけど、多分あそこが最大手のはず。といっても検索して簡単に引っかかるようなとこじゃない。SNSで掲示板で、ひっそりとURLが伝えられて、パスワードを入手して、それでやっとアクセスできるような――いわゆる裏サイト、というやつなのだろうか。
そこは、蝶に魅入られた人が集う場所だ。
私のように蝶の美しさに惹かれる人もいるけど、多分もっと多いのは蝶がもたらす死に憧れる人。会員のアイコンも、髑髏だとかアンティークドールだとか注射器だとか、そんな不気味なものばかり。そうして彼らは語り合う。あるいは自慢し合う。どれだけ他の人間と彼らは違うのか。鱗粉を恐れず、どれだけ外を歩いて太陽や月の光を浴びたか。警察なんかの警戒を掻い潜って羽化の直後の現場に忍び込んだ話。立ち上る蝶の、煌く柱を捉えた画像。それを、どうやって入手したか。
――それから、どうすれば蝶に選んでもらえるか。羽化で亡くなった人の遺品が聖遺物のように取引されている掲示板もあるし、鱗粉を採取したと主張する人もいる。今現在、蝶に内臓を喰われていて、もうすぐ羽化するのだという人が、トピックを立てて質問を募ることさえあった。
書き込んでいる人たちの、全員が全員本気だとはとても思えないけれど。むしろ、大半はダークなものへの憧れだとか、他の人とは違う自分に浸っているとか、オカルトに嵌るような感じとか、そんなものだと思う。会社で見る限り、広瀬さんは明るくてはきはきしていて――その手の暗さは全くないと思うんだけど。あんなに厳重に武装していたし、彼女はごく普通の、常識的な人のように見えるのに。
「はい。ニュースでああいうサイトがあるってやってて……それで、探してみました」
手袋を嵌めたままの手でココアの缶を握りながら、広瀬さんは弱々しく微笑んだ。さすがに口元を覆うマスクの方は取っていたのだ。
「ああ……」
どんなニュースだったかは大体想像がつく。多分、オカルトにかぶれる若者が嘆かわしい、というような論調だったんだろう。考えなしの自殺志願者が蝶に侵されるのは勝手だけど、羽化をすれば鱗粉を撒き散らすんだ。社会の大方の意見としては止めてくれ、ということになるんだろう。
「私が言うのもあれだけど……取り返しがつかないことだから、興味本位だったらほどほどにした方が良い、かも……」
だって広瀬さんは普通に鱗粉が怖いんだから。羽化の現場をうろついたくらいで簡単に感染するものじゃないと、私や「蝶の館」の利用者は知っていて、よく嘆いてさえいるけど。でも、万が一ってこともあるだろうに。
「はい。すみません。……と、心配していただいてありがとうございます」
何度目かに謝罪と感謝の言葉を口にしてから、広瀬さんはでも、と続けた。缶を握る指先に力が入っているのが、手袋の上からでも分かる。
「私、父を探しているんです」
「お父さん……?」
思わず聞き返した私に、広瀬さんは訥々と語り出した。私に聞かせるというよりは、心に抱えていたものが抑えきれずに溢れ出した、そんな感じだった。
「うちは、父とはずっと別居してたんです。父が事業に失敗したから、一緒にはいられなくて。父はあちこちを転々としていたみたいで――それでも、しばらくはこまめに会えたし連絡もくれていたんですけど」
広瀬さんの家に起きたこともバタフライ・ショックの一環なんだろう。美しい蝶の群れは、人間社会を――それを構成する数え切れないほどの人の人生をめちゃくちゃにした。個人の生活はもちろん、国レベルでも。できる限りの保障をしようと政府は頑張ったはずだけど、もちろんそれで間に合うような生易しい混乱じゃなかった。
「ここ数年は、ほとんど音信不通の状態で。母も私も、探せるほど余裕もなくって。でも、最近、父から手紙が届いたんです。いままで苦労させてすまなかった、って――私を受取人にした、死亡保険の証券が入ってました」
ああ、と。私は思わず溜息を漏らしていた。「蝶の館」の退廃的な雰囲気。そこに集う、死を求める人たち。鱗粉が漂う大気。そして失踪しているという広瀬さんのお父さん。それらの情報が、一直線に繋がって――その残酷さに、何て言って良いか分からなかった。
「じゃあ……お父さんは……」
それでも、広瀬さんに言わせるには忍びなくて言葉を絞り出そうとして。でも、結局できなかった。立ち消えてしまった私の言葉を引き継ぐように、広瀬さんは小さく頷いてから、震える声で続けた。
「羽化で――死のうと、しているんだと思います。それなら、自殺にはならないから」
蝶、羽化、鱗粉――分かりやすすぎる単語で表現されるあの現象は、厳密には病気として扱われるらしい。多臓器不全何とか症、とかになるんだろうか。そんな正式名称、誰も使うことはないけれど。とにかく、羽化は病死として扱われる。意図的に鱗粉に晒される時間を長くするのは、自殺と言えるのかもしれないけど、その故意の有無を問われることは――少なくとも今はまだ――、ない。
「だから……?」
「はい。だから、ああいうサイトを見てることもあるかも、って……」
だから広瀬さんは怪しげなサイトの書き込みを頼りに羽化の現場に向かったのか。きっと今夜と同じように全身を守って、恐怖に震えながら、それでもお父さんに会えるかもしれない、もしかしたら羽化するというその人こそが行き別れた父親なのかも、と一縷の希望、あるいは絶望を託して。
昨日の予告が本物だったのは、広瀬さんにとっては運が悪かった、んだろうか。私もその書き込みを見ていたけど、反応が欲しいだけの釣り――愉快犯だと思って流してしまった。私も行っておけば良かったな、と。ちらりと、そんな不謹慎なことを思ってしまう。
そして、大事なことに気付く。私のことなんかこの際どうでも良い。広瀬さんは、今夜も期待と不安で気が気じゃなかったはずなのに。
「今日の……ここの人は――」
「父ではなかったみたいです。警察に事情を話して聞いてみました。でも、羽化の現場には鱗粉が残っているって、サイトに書いてあったから……父が来ているかも、と思うと……」
はっとして、そして恐る恐る尋ねてみると、広瀬さんは少しだけ表情を緩めて首を振った。誰かが亡くなったことには違いなくても、少なくとも家族ではなかった。そのことは、彼女にとっては一抹の救いだったんだろう。
鬼ごっこの後の涙の訳も、分かる。昂った気持ちでいたところに、予期せぬ出会い。感情のコントロールを失っても無理はないと思う。それなら、私は広瀬さんにひどいことをしてしまったことになるんだろうか。
罪悪感に胸を刺されて口を噤んでいると、今度は広瀬さんの方からおずおずと話しかけてきた。
「あの……どうして……」
「えっと……私も、色々で」
どうしてこんなところにいたのか、と問われて、私は言葉を濁す。バタフライ・ショックのせいで一家離散して、今も鱗粉にお父さんを殺されそうになっている彼女に、蝶への憧れを語るのはさすがに憚られた。
「そうですか。……すみません、立ち入ったことをお聞きして」
お父さんが経営者だったらしい家庭の、教育の賜物なのか――広瀬さんはどこまでも常識的で、礼儀正しい人のようだった。私にも何か言いづらい事情があると持ってくれたらしく、また眉を寄せて俯いてしまった。いつか羽化できる日のことを夢見る人間のことなんて、きっと彼女には想像もできないんだろう。――それなら、わざわざ言わない方が良い。
「お父さん……会えると良いね」
「そうですね……」
見上げた星空の煌きは、さっき見たのと変わらない。星を彩るように鱗粉が舞っているであろうことも、同じ。ただ、同じ星空を、広瀬さんのお父さんも見ているのかもしれない。自分や家族の運命を狂わせた蝶を鱗粉を、一体どんな気持ちで。
そう思うと、同じ星空の美しさが胸を締め付けるような気がした。




