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3. バタフライ・エフェクト

 会社を出る頃には、日は落ちてすっかり暗くなっていた。行きは走って来た道を、退社時はゆっくりと歩いて帰る。駅ビルに入っている花屋で、小さな花束を買う。花束を抱えて電車に乗って。降りたホームで、ゴミ箱を探すとマスクを取って投げ捨てる。羽化と鱗粉を警戒して、夜になってまで用もなく出歩く人は少ない。顔を見られることがないなら、晒してしまっても良いだろう。涼しい夜風が、マスクを着け続けて火照った頬に心地良かった。

 降車したのは、自宅の最寄りの駅じゃなかった。今朝、車内アナウンスで「羽化」があったと言われた駅だ。洗浄処置を経てもなお残っているかもしれない鱗粉を警戒してか、それなりの規模の駅だというのに人通りは少なかった。これも私の読み通り。だからこそマスクを外して歩いていられるんだ。


 もっとも、羽化がなくても夜じゃなくても、状況は同じだったのかもしれないけど。


 バタフライ・ショックと呼ばれた十五年前の一連のパニック以来、人類はいかに鱗粉に晒される時間を少なくするかに腐心してきた。

 先進国の大都市ではあらゆる施設や繁華街が地下の方向へと広げられていったし、主要な通りには樹脂製の屋根が設けられた。学校の校庭や公園ももう野ざらしではなくて、子供たちはあちこちに急造された体育館やドームで守られた運動場で遊んでいる。

 わざわざ出社しなくても、在宅でも仕事ができるよう。安全な情報共有や通信保護の技術も急速に発展した。農業や漁業、運輸など、やむを得ず戸外で行わなくてはならない業種では、人の代わりにロボットやドローンが活躍するようになった。もちろん、その分失業する人というのは出た訳だけど、バタフライ・ショックを切っ掛けに、停滞しつつあった人類社会は久しぶりに大規模な進歩を遂げたと言えなくもないらしい。


 だから、蝶たちは神の遣いだとか天祐だとか。バタフライ・ショックは人類へのカンフル剤だったんじゃないか、とか。そんな見方をする人もいるとか。その評価が妥当なのかどうか、私には判断できないけど。




 羽化が起きたその駅は、複数の路線が乗り入れる比較的大きな駅のはずだった。でも、買い物や飲み会や、その他の遊びに集う人がいるとしても、駅から直結しているモールや地下街で済ませるのだろう。改札を出てみると、暗い路上は閑散として、見渡す限り私の他に人影はなかった。住宅街があるとしても駅からは少し離れているのだろうし、今朝羽化が起きたばかりとあって、地元の人も迂回するルートで帰宅しているのかもしれない。

 出歩く人が少なくなったからという理由で、最近では街灯も以前に比べてまばらになっているとか。だからなのか、見上げる空には都会だというのに星を幾つも数えることができた。人間の活動が少し控えめになったという点から、バタフライ・ショックは地球からの抵抗、掣肘だった、という主張もある。そういう、自然みたいなものに意思があるかのような考え方は、正直胡散臭いんじゃないかとも思う。結局、誰もあの重大過ぎる、そして訳の分からない出来事を自分の都合の良いように解釈しているということなのかも。

 私は――ただ、天の川(ミルキーウェイ)に蝶の鱗粉を振りかけてみたら、そのイメージがとても綺麗だなあ、って思うだけだ。


 どうでも良いことを考えながら、夜道をひとり歩く。星空の下、ひとりきり――そんな静かさが何だか楽しくて、足取りはふわふわと軽い。これといったアテはないけど、警察が羽化現場の封鎖に使ったテープの痕が目印だった。洗浄処置が終わってテープが剥がされても、何日かは痕が残っているだろう。通りがかる人は、それを見るたびにこの近くで羽化があったと思い出すんだろう。いつもの通勤路や通学路を歩いていて、突然警察に止められたらどんな気持ちがするんだろう。私はまだ、近所で羽化があったことはない。

 皆、こんなに警戒して恐れていても、電車はちょくちょく止まっても、羽化に間近で出遭う確率なんてその程度のものなんだ。


 静かな街並みをしばらくあてどなく歩くと、ついに目的の場所に辿り着いた。何の目印がある訳でもない、どこにでもあるようなビルの谷間の小さな公園だ。遊具もなくて、ただベンチがぽつんと置かれているだけ。お昼時には近所のOLやサラリーマンが――鱗粉が飛んでいない日で、あまり気にしない人なら――お弁当を食べるようなこともあるのかもしれない。

 そこが目指していた場所だと分かったのは、ベンチの足元に白い花束が置いてあったからだ。警察か消防の人が用意したのか、近くの店が弔意を表したのか。遺族が、親しい人が最期を迎えた場所を見ようと訪れたのかもしれない。死者を弔うための菊の花。ここで、羽化が起きたんだ。ここから蝶が舞い上がって、鱗粉を撒き散らして。そして、蝶を宿していた誰かが亡くなった。


「ちょっと、失礼しますね……」


 小さく呟くと、私は買ってきた花束を菊の花の隣に置いた。死者に手向けるのと同時に、蝶に捧げる花のつもりだから、香り高い白い薔薇を。更に合掌して瞑目して、一瞬の間黙祷する。それから――目を見開いて、空を仰いで思い切り深呼吸する。


 近隣の住民の不安を除くため、羽化が起きると防護服を着た保健所だったかの職員が念入りに洗浄作業を行うらしい。舞い上がる鱗粉で虹色の霧がかかるようだという羽化の光景。その夢のような煌きを醒まさせるかのように、散水機が無情にも虹を拭き散らして、消毒薬の臭いが夢の余韻を上書きしてしまう。

 でも、鱗粉の成分なんて誰にも本当のことは分かっていないんだ。だから、多分洗浄作業なんて気休め程度のもの。今朝羽化があったばかりのここなら、鱗粉がまだ濃く漂っていても不思議はない。


 鱗粉が肺の組織に浸透していくのをイメージしながら、何度も息を吸って、吐く。昼間マスクをしているのは、その方が目立たないから。顔を晒さないで済むからというだけだ。私は鱗粉なんか怖くない。――ううん、むしろ魅入られている。バタフライ・ショックのあの映像を見てから、私の身体から蝶が舞い上がるのを何度も思い描いてきた。あんな美しい光景を、間近で見ることができたなら。そうしたら、きっと――


「あ……」


 目の前に広がる煌きを思い描いて目を細めていると、小さな悲鳴のような声が聞こえた。誰か、来た? 羽化の現場に? 不審者だと思われちゃう?


 怪しい者じゃないんです。ちょっと夜の散歩をしてただけで。そんな、どう考えても怪しい言い訳を頭の中に並べながら、反射的に身構える。

 すると、声がした方に見えたのは、まさしく不審者とでも言うべき人影だった。口と鼻を覆う大きなマスクに、ゴーグルめいたごつい眼鏡。髪は帽子の中にすっぽり隠して、手には季節外れの手袋が。いや、鱗粉が漂っているであろう場所に来るなら、ある意味教科書通りの適切な格好ではあるんだけど。でも、そんなに怖いならわざわざこんなところに来なくでも良いんじゃない? 細身で、小柄な――女性だ。普段の髪型やメイクは、もちろん今の格好からは分からないけど、全体のシルエットに、妙に既視感があるような。


「え……?」


 その呟きは、私と、その女性の口からほぼ同時に漏れた。羽化の現場に現れた不審者に、先に来ていた不審者(わたし)。お互いに予期せぬ人影を見て驚いたんだ。――でも、彼女の驚きは、多分単に人がいたからということじゃない。彼女も私を知っている、そんなトーン。それに声も聞き覚えがたっぷりとある。


「広瀬さん……?」


 まさか、と思いながらも口が勝手に動いていた。広瀬さん。昨日、羽化の現場に居合わせてしまったという同僚。全身に付着しているかもしれない鱗粉をばら撒くのを避けるため、数日は自宅に待機するよう行政から指示を受けているはずの人。ここにいるはずがない人。

 でも、私の呼びかけを聞くなり、その人はぱっと身体を翻して走り出してしまった。その行動で、私は正解を言い当ててしまったのだと分かる。待機命令を破ったら何かペナルティがあるんだったか――忘れたけど、とにかく、会社は休んだのに外をうろうろしているなんて、心証が良いはずがない。彼女は咄嗟にそう考えたんだろう。


「待って! どうして……!?」

「違います。ごめんなさい!」


 私が聞いたのはどうしてここに、なのかどうして逃げるの、なのか。彼女が叫んだのは人違いです、なのかそんなつもり――どんなつもりだろう? ――じゃないんです、なのか。よく分からないまま、私も走り出す。

 そうして、私たちは夜の公園で場違いな鬼ごっこを演じる羽目になった。別に追いかける必要はないのかもしれないけど。でも、このまま逃げられたら広瀬さんは会社にバレるかも、って怯えてしまうんだろう。そんなつもりはないと、少なくとも伝えなきゃ。私だって、好き好んで羽化の現場をうろついているなんて言われたら気味悪がられちゃうだろうし。――それに、直感のように頭に閃いたこともあった。それを確かめなきゃ、と思った。


「誰にも言わないから! 大丈夫だから!」

「すみません。ごめんなさい」


 バタフライ・ショック直後に子供時代を過ごした私たちの世代は、運動が苦手だ。鱗粉を恐れた親に外で遊ばせてもらえず、運動場の整備も間に合わなくて、思い切り走り回ることに慣れていない。だから体力もないのだろうか、私はやがて、路地裏の行き止まりで息を切らしている広瀬さんに追いついた。その頃には私の心臓もばくばく言って、口から出るのは荒い息ばかり。肺が痛くて、頭もくらくらして、まともな言葉を喋るのも辛かった。


 だから私は言葉ではなく行動で伝えることにした。バッグからスマートフォンを取り出すと、あるサイトにアクセスする。暗い路地裏で、液晶画面の輝きが青白く広瀬さんの姿を映し出す。走っている間に帽子や眼鏡もずれてしまって、何だか可哀想なくらいだった。

 とにかく――私はスマートフォンの画面を広瀬さんに見えるように掲げた。そこに映っているのは、古びた洋館の門扉を模したトップページ。各メニューを表すアイコンは、羽根を震わせる数々の蝶。全体に薄暗い色調に、各所には十字架とかレースとかゴシックな装飾がほどこされて、退廃的な雰囲気を漂わせる、そんな絵だ。


 その洋館の画像を見て、広瀬さんはレンズの奥の目を見開いたようだった。それを見て、私は直感が正しかったことを悟る。


 広瀬さんは、帰宅ルートから離れた場所で羽化を見てしまったと聞いた。でもそれが買い物帰りとかの偶然じゃなくて狙ってやったものだとしたら。今夜ここで鉢合わせたのも、同じ理由かもしれない。彼女は私と同じように――理由までは分からないけど――羽化を求めて、彷徨っていたんだ。


「広瀬さん、もしかして『蝶の館』見てるんじゃない? 昨日の羽化って、ここで予告してた人でしょ? あの……私も、よく見てるんだ」


 共犯の告白のような囁きは、意味もなく声を潜めてしまった。でも広瀬さんにはちゃんと聞こえただろう。ただでさえ見開いていた目、黒目がちな可愛い目がますますこぼれ落ちそうに瞠られて。そして、涙の雫がこぼれ落ちた。

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