1. 鱗粉予報
ベッドから起き上がり、足をフローリングの床につけるとひんやりとした感触が伝わって来た。ぺたぺたと冷蔵庫まで歩いて扉を開ける。作り置きの総菜、食パンの袋。冷凍したご飯もあるし、味噌汁を作れるくらいの野菜もある。でも何だか作るのも温めるのも面倒だし食欲もない。なので私は結局野菜ジュースだけを手に取った。早めにお昼休みをもらえば、貧血で倒れるなんてこともないだろう。
飲み終えた野菜ジュースのパックを潰しながらテレビをつけると、ちょうど鱗粉情報のコーナーだった。関東甲信越地方の地図に、何匹もの蝶が貼りつけられている。クリーム色のモンシロチョウ、黄色が鮮やかなアゲハチョウ。宝石のような青のモルフォチョウが貼りつけられている地名も幾つかあった。全体的に見ると、アゲハチョウの予報が多いようだった。つまり、やや多め、気になる人はマスクをしましょう、といったところ。
爽やかな雰囲気で人気らしい気象予報士が、スタジオのアナウンサーやタレントと喋っている。
「今日も沢山飛んでますね」
「ええ、昨日までの一週間で羽化は三件――そんなに多くはなかったんですが。晴れて、風もないですからね。鱗粉は上空を漂っていると思います。紫外線対策にプラスして、屋内に入る時は軽く服をはたいたりすると良いでしょう」
「雨は降らないですか」
「ちょっと雲が来てないんですよね。梅雨入りにはまだ掛かりそうです」
その後コーナーは変わって最近ネットで話題の動画の紹介に移った。どうでも良い音声をBGM代わりに、私は歯を磨き顔を洗い、着替えて髪をセットし化粧をする。今日はマスクをしていても不審じゃなさそうだから、薄目のメイクでも良いだろう。ただ、マスクで隠せない目元の辺りには気合を入れて。
駅のホームには、溢れそうなほどの人がひしめいていた。行儀よく列を作った人の群れが、そのまま電車に吸い込まれていく。モルフォチョウが日本列島の上に飛び交うような、「鱗粉注意」の予報なら良かったのに。それなら休校になる学校もあっただろうし、在宅勤務を選ぶ人も多いだろうしでもっと快適な通勤になっただろうに。
車両の中ほどに陣取ろうと思っていたのに、私は人に流されて扉の近くに収まることになってしまった。ガラス窓の向こうには五月の爽やかな空――そこに、マスクをつけた私の顔が映り込んでいる。あまり間近に見たいものでもないから、乗車率200パーセント近いとかいう混雑の中でできる限り、窓からは顔を背けてドアの上のモニターを見つめて、降車駅までの数を数える。あと十分……八分……。
もう少し、と思ったところで電車ががくりと止まった。慣性の法則に従って詰め込まれた人がよろけ、あちこちで謝り合う声がする。そんなやり取りがひと段落して、各々が立ち位置を確保し直した頃になって、アナウンスが入った。
「――駅付近で羽化が起きたとの情報が入りました。洗浄および安全確認をしてから運転再開いたします。それまで車内でお待ちください」
ほう、と。数百人の口からため息が漏れて車内の二酸化炭素の濃度を上げた。羽化は毎日何件かどこかしらで起きているけど、それがよりによって通勤時間帯、通勤沿線で起きてしまったのだ。たまたま乗り合わせただけの関係でも、誰もが同じ思いだっただろう。なんて面倒、なんてついてない。――でも、仕方ない。
あちこちで鞄を開ける音、ポケットを探る音がして、次々にスマートホンが取り出される。電車の中とはいえ停車中、それも羽化に遭ってしまったという場合が場合だから、誰もスマートホンの使用を咎めたりはしない。
「ええ、羽化です。いつ動くか分かりません」
「すみません、電車止まっちゃって――」
「少し遅刻しちゃうと思います。すみませんがよろしくお願いします」
あちこちで会社や待ち合わせ相手に事情を説明する声が響く。メールで連絡をする人もいるのだろう、画面をタップしている人もいる。かくいう私もその一人だ。
無事に送信を終えると、運転再開までは暇になる。SNSを立ち上げてみると、このタイミングで電車内に足止めをくらった人たちの悲鳴があふれていた。
背中の方では、不運の中で意気投合したのか、中年のサラリーマン同士がおしゃべりを始めている。
「平日の朝から迷惑な話ですよ」
「ま、タイミングを選べるものでもないですからね」
「ええ。仕方ないんですが……」
これが人身事故で止まっていたなら話は全然別だっただろう、と思うと少し面白い。それだったら、車内の雰囲気はもっと苛立ちに満ちていただろうし、強引にドアを開けて線路を歩いてでも定時出社を試みる人もいたかもしれない。でも、羽化となるとこうなのだ。
私は窓の方に顔を向けると、予報通りに青く晴れた空を目を細めて眺めた。鱗粉の煌きが舞っているのを、もしかしたら見ることができるのではないかと期待して。
結局、運転再開までに30分ほど満員電車に缶詰めにされることになった。夏場じゃなかったのは誰にとっても幸いだった。羽化が起きたという駅では、乗客の乗り降りは極端に少なかった。洗浄作業が行われたとはいえ、鱗粉がまだ残っていることを警戒して別の路線を選んだ人が多かったのだろう。実際、運転再開時の車内アナウンスでも、振替運転を実施している旨も伝えられていた。
といっても私の降りる駅は別だから関係ないこと。そもそも私は羽化も鱗粉も気にしない。ただ、始業時間に遅れてしまった罪悪感はあったので、会社の最寄り駅の改札を出てからは走った。マスクをつけたままでの中距離走はきついといえばきつかったけど、でも、遅刻したのにのんびり歩いてきたとは思われたくない。
「すみません、遅れて――」
「おはよう、お疲れ様でした」
髪と息を乱して駆け付けた甲斐あってか、頭を下げながらオフィスに入った私に向けられる目は思いのほか優しかった。それでも手早く上着を脱いで、自席へ向かう――と、私の隣の席も空いていた。パソコンも起動されていない。
「あれ、広瀬さん、お休みでした? 風邪とか……?」
隣の席の広瀬さんからは、特に休みとの引継ぎを受けてはいない。確か使っている路線も違うから、羽化騒ぎによる運転見合わせの影響を受けたということでもないはずだ。
自席のパソコンを立ち上げながら首を傾げていると、同じ島の先輩――いわゆるお局様、が苦い顔で教えてくれた。
「ああ……広瀬さんは自宅待機だって。昨日の夜、帰り道で羽化が起きちゃったとかで」
「うわ、それは大変ですね。見ちゃったんですかねえ」
パソコンが起動すると、まずはメールチェックだ。件名を見て、ざっと本文に目を通して。緊急度に応じてタグをつけて、フォルダ分けして。目と手は忙しく動かしながら、私は相槌を打つ。
羽化に立ち合ってしまうのは、通勤電車が止まる以上の面倒さだとは聞いている。攫われるように病院に隔離されて、洗浄措置を受けて。警察から聴取のようなこともあるはずだ。その上鱗粉を撒き散らかさないように――インフルエンザにかかった時みたいに――数日は出勤を含めた外出を控えるように言われるのだとか。
だから、お局様が顔を顰めているのは、広瀬さんに同情しているから、だと思ったのだけど――
「どうだか……。昨日は確かに羽化があったみたいだけど、彼女の帰り道とはちょっとずれてるのよね……」
「買い物とかデートでもしてたんですかね……?」
「そうじゃなくて」
含みに気付かない振りで惚けると、お局様は私の鈍さに苛立ったようだった。それにしても、彼女の手元からはキーボードを打つ音も書類をめくる音もしない。この人、仕事してるのかなあ。
「――サボりじゃなきゃ良いんだけどね」
「え、でも羽化に遭遇したら証明書がいるんですよね? 警察とか病院とか」
声を潜めたお局様の悪意だか気遣いだかには構わず、私はあえて明るい声で答える。相手は少し慌てたように辺りを見渡したけど、知らない振りだ。空気を読まないと思われても結構。職場で同僚の陰口なんて楽しくもないし、後々面倒にしかならないんだから。
「……両方ね。でも、最近はネットでフォーマットが売ってることもあるんだって」
この人はその場合の必要書類の情報をわざわざ調べた上で広瀬さんを疑っているのだろうか。会社のパソコンで何をやっているんだろう、と思うと少しおかしい。
羽化を利用してサボりなんて、現実的じゃない。羽化がいつ起きるかなんて分からないし、仮に近所で起きたとしても、普通は利用してサボってやろうなんて思わない。それは、ネットにフォーマットが落ちているってことは中にはそういう人もいるんだろうけど。
でも、羽化を口実に休もうとするくらいなら、親戚に倒れてもらったり、それこそインフルエンザに罹ったことにする方がバレるリスクも良心の呵責も小さいだろう。
「そんな子じゃないと思いますけどねえ」
もちろん、お局様を論破するのだって面倒になることに変わりはない。だから私は何も気づいていない振りを通した。相手だって大した根拠があって言ってることじゃないんだろうし。
案の定、お局様はそうだと良いけど、と捨て台詞のように呟くと、やっと仕事を始めてくれた。
広瀬さんが疑われた理由は何となく分かる。もちろん、お局様の性格が悪いと言ってしまえばそれまでなんだけど。フロアで一番若いから。高卒だから。ぱっちりとした目に、小動物系の愛らしい顔立ちで、営業の人たちに人気だから。ちやほやされてる――ように見える――から。そして私に言ってきた理由は、私が全然そうではないから。だから、陰口に乗ってくれるとでも思ったんじゃないかなあ。
人は人を見た目で判断するもの。確かに私だってそうだ。でも、お局様が期待したような方向にではない。私は綺麗なものや可愛いものが好き。憧れる。人間だってそうだ。だから――働きぶりを知ってるからでもあるけど――広瀬さんのことを、気に入っていると思う。
可愛らしい広瀬さん。羽化を見てしまったのだとしたら可哀想だ。ああ、でも彼女に鱗粉が降り注ぐところは見たかったかも。いやいや、きっと彼女は家で恐怖に怯えてるんだろう。こんなことを考えてはいけないのだろうけど。……でも。可愛い子と綺麗なものの組み合わせ。きっときっと、素敵なのに。
デスクトップの写真を眺めながら軽く溜息をひとつ。ああ、仕事に集中しなきゃ。そう、自分に気合を入れ直して、私はいつもの業務に取りかかった。