09.無知と油断とおいしそうな匂い
ティートの言っていたとおり、私の希望をリーが退けることはなかった。
王妃が住まう部屋は大急ぎで整えられ、そちらに居を移したのはたった二日後のことだった。
客室と比べることもできないほど広い部屋に移ったことで、必然的に侍女も護衛も増えた。
これからの付き合いはきっと長いものとなる。緊張したけれど、第一印象はお互い悪いものではなかったと思う。
一日が慌ただしく終わり、侍女を下げてから、夫婦の寝室へと足を踏み入れた。
王妃の寝室と王の寝室の間に位置するその部屋は、これから私たちがじっくりと愛を育んでいく場所になるだろう。
いや、そうであってほしいと、願っているからこそ。
私はさらに奥へ行き、反対側の扉を押し開く。
初めて覗く彼のプライベート空間に、悪いことをしているようで足が震えそうになった。
王妃のためにしつらえられた部屋よりも、装飾も色味も少ない落ち着いた寝室。王の部屋とは思えないほど簡素だけれど、最低限置かれている家具は上品な佇まいで、彼らしさが漂っていた。
室内をうろうろとしたくなる気持ちを堪え、部屋の片隅にひっそりと立つ。ソファを借りようかとも思ったけれど、主のいない部屋ではどちらにしろ身の置き場がなかった。ベッドに腰を下ろす勇気なんてもちろんあるわけがない。
しばらくして、静かな物音でリーが帰ってきたことを知る。寝室から顔を出そうか迷っているうちに、続き扉が開かれた。
「お、おかえりなさいませ」
「フィア……」
どうしてここに、とその顔には書かれていた。
部屋を移ることを許したのはリーなのに、なぜそんなに驚いているのかがわからない。
それともやはり、王の寝室に入り込むなんて、まだ婚姻の儀を終えていない身でははしたないことだっただろうか。
「私のわがままを叶えてくれてありがとう。これからはこうして二人の時間を持ちたいと思うのだけれど、迷惑?」
ただ待っているだけでは、リーは夫婦の寝室に来てくれないような気がした。
リーが忙しいことは理解している。子煩悩だった父王でも、忙しいときは家族との時間を取れないことがあった。
ましてや今は、国王の婚姻の儀が間近に迫っている。きっと国を挙げての晴れやかな行事になる。
食事の時間も満足に取れないというのは、すべてが私を避けるための嘘というわけでもないのだろう。
それでも、さすがに寝る前の少しの時間くらいは共有したかった。
夫婦と、なるのだから。
「迷惑ではない、が……。本気か?」
「私がこんな冗談を言うと思う?」
「いや……」
リーはしばらく呆然とした顔をしていたけれど、それは段々と苦笑へと変わっていった。
「正直、さすがに嫌われるだろうと思っていた」
「どうして?」
今度は私が驚かされる番だった。
いつ、どこに私がリーを嫌う要素があったというんだろう。
今まで散々迷惑をかけていたのだから、リーが私を嫌うというのならまだわかるけれど。
「僕が気をつけてさえいれば、君は健康体でいられたはずなんだ。十四年間、どれだけの苦しみと煩わしさ、恐怖と戦ってきたのか、僕には想像もつかない」
「そんなことを気にしていたの? リーが飲ませようとしたわけでもなし、むしろ私が勝手にしたことじゃない」
「僕の血を摂取しなければ、恐ろしい魔族の国に輿入れする必要もなかった」
「リーの治めるクルイークを、恐ろしいと思ったことはないわ」
紅い瞳が、わずかに揺らいだように見えた。
「残酷だと、君も言っただろう」
「あれは……!」
動揺から、とっさに声が大きくなってしまった。
まさか、リーがあの一言を、そんなふうに捉えていたなんて。
誤解させてしまったのは私のせいでもあったのか。
私の気持ちは、その真逆だというのに。
「あれは、今までリーが優しくしてくれたのは、ただの義務だったのだと思ったら、悲しかっただけよ」
本心を告げるのは気恥ずかしくて、彼の目を見ることができない。
まるで、好きだと告白しているようだ。
義務感で私を王妃に迎えてくれるリーに、私の想いは重すぎるかもしれない。
真剣な気持ちを向けられて、無下にするような人ではないとわかっていても、怖気づきそうになる。
やわらかな拒絶なんて欲しくない。妹に対する愛情だけでは足りないのに、ぬるま湯に浸っていたい気にもなる。
私の中の臆病な恋心が、今度こそ失ってしまうことを恐れている。
カツン、とリーが足を踏み出した音に、顔を上げる。
彼はまっすぐ、私を見つめていた。
一歩、一歩と近づいてくるリーに、心が震える。
紅の瞳が私の足を縫いつけて、身じろぎすらできない。
もっと近づきたいのに、なぜか逃げてしまいたいような気持ちもあった。
「義務ではないほうがいい?」
私の目の前に立ったリーは、ゆっくりと見せつけるようにして手を伸ばしてくる。
その指が頬に触れた瞬間、ピリッ、と静電気でも起こったかのような衝撃が全身に走った。
触れられている、というそれだけで、頭の中が真っ白になった。
壊れてしまいそうな音を立てる心臓のせいで、呼吸のタイミングすらわからなくなりそうだ。
「……当たり前じゃない」
声まで情けなく震えてしまった。
リーが触れている場所が熱くて、なぜか泣きたくなってくる。
彼を怖がっているのだと、思われなければいいけれど。
「君は……懲りないな。僕と距離を取ろうとは思わないの?」
冷水を浴びせかけられたように、一気に熱が飛んだ。
ひどく冷めた頭に残ったのは、呆れと怒り。
まだ、そんなことを言うなんて。
私の言葉は、私の気持ちは、少しも彼には届いていなかったということなんだろうか。
「思わないわ。私たちは夫婦になるんだもの。私は今でも、あなたと……リーと心を通わせたいと願っているんだから」
私の頬を包む手に、自分の手を重ねた。
重ねてみると、彼の手は骨ばっていて大きくて、私とは全然違っていた。
それでも昔よりは差が少ない。この四年で成長した分。
王となったリーを支えたいと願い続けた四年間。育ったのは身体だけではないと思いたい。
いつまでも、周りに危険から遠ざけてもらわなければいけない子どもでは、いたくない。
自分でトゲを取り除けるような大人になりたい。
「僕は吸血族だ。どれほどの力を持った種族なのか、君だって少しは知っているだろう。僕は君を傷つける」
「いいえ、私の知るリーはいつだって優しかった」
「それが偽りだったとしたら?」
「優しくないリーもこれから見せてもらうだけよ」
どれだけ優しい人だって、常に正しくあれるわけじゃないだろう。
そんな聖人君子はいるとは思えないし、夫にも求めていない。
傷つくのは少し怖いけれど、リーと一緒にいられるならそれでもかまわない。
一番怖いのは、リーをひとりにすることだ。手が届かなくなることだ。
今にも泣き出しそうな、あの声が、ずっと私の中で響いている。
「……本当に、変わらない。君は僕を困らせる天才だね」
「リーが私から距離を取ろうとするからいけないんじゃない」
皮肉じみた言葉に、私は拗ねたように言い返した。
ようやく彼と遠慮なく対話できているように思えて、以前の自分に戻ってきてしまっているのかもしれない。
王妃としてふさわしい、賢く優しく落ち着きのある、大人の女性でありたいのに。
「かわいいフィア、君は僕を知らなさすぎる。僕はもう、君の前で“優しいリー”ではいられないんだ」
リーの指先がかすかに動いて、スッと頬をなぞった。
こそばゆさに思わず首をすくめてしまう。
動きを追うように彼の視線が首元に下りて、気のせいか、熱く見つめられている。
無表情に近い静かな面差しからは何も感じ取れない。
私の知っている“優しいリー”はいつも微笑みを浮かべていた。今、私と距離を取ろうとしたり、何を考えているのかわからない顔で見下ろしてくる彼は、確かに私の知らないリーだ。
だからなんだというんだろうか。
「あのね、何度言ってもわかっていないようだからもう一度言うけれど、私たちは、夫婦に、なるの。夫婦って何? 家族よ。私はリーの、リーは私の家族になるの。リーが私のことをどう思っていようと、私は家族になる人に遠慮なんてしないわ。リーも私に遠慮しないで、いくらでも本音を出してくれていいのよ」
私とリーの間には、四年の空白がある。知らなくて当然で、だからこそこれから知っていかないといけない。
政略結婚だろうと、私のための結婚だろうと、もう私は彼の妃になることが決まっている。
それなら私はリーを誰よりもしあわせにできる妃になりたい。義務ではなく、心と心を通わせて、本当の夫婦になりたい。
私はリーを知りたいし、リーにも私を知ってほしい。望みも不満も全部教えてほしい。
そしていつか……好きになってほしい。というのは、私の自分勝手なわがままだけれど。
「僕がいつも何を考えているのか知ったら、君は逃げ出すに決まっている」
「勝手に決めつけないで」
頭から否定するリーに、悲しい以上に悔しくなってくる。
ここまで言ってもわかってもらえないんだろうか。
リーは、私と心を通わせたいと、思ってはくれないんだろうか。
「君は、知らないからそんな格好で僕の前に立てる。白い首筋を無防備に僕の前に晒して、誘惑する」
え、と私は目を見張った。
誘惑だなんて、まさかそんなふうに言われるとは思ってもいなかった。
今は部屋でくつろぐための服を着ていて、外には出れないけれど寝間着ではない。ショールも羽織っているし、言われるほど露出が多いわけではない。
まだリーが王太子だった頃、ベッドから起き上がれない私を見舞ってくれたことは何度もあった。今以上に無防備な寝間着姿だって彼は見慣れているはずだ。
「君の知る“優しいリー”なら、それでも何もしなかっただろうね。だから君は油断しているんだろう? 最強の吸血鬼を前にして」
頬に触れていた手が、するりと肌を撫ぜながら下っていく。
ツーっと指の先が首筋を走って、勝手に肩が跳ねる。変な声が出そうになった。
怖いくらい感情を読み取れない顔が、近づいてきて、通りすぎて。
血を、吸われるのかと思った。
感じたのは痛みではなく、彼の吐息だった。
リーの唇は、ただ私の首筋にそっと触れただけで、離れていった。
「こんなおいしそうな匂いで僕を惑わせて……それでも無事で済むと思っているなら、君は本当に“かわいいフィア”だ」
宝石のような瞳が、明く妖しく輝いている。
その双眸に吸い込まれてしまいそうで、指一本すら動かせそうにないのは、魅了の魔法か何かだろうか。
かわいいフィア、と。
かつて何度も、親しみを込めて呼ばれた愛称が、今はまったく違う響きを持っていて。
私は、彼の中の何かを刺激して、そして傷つけてしまったのだと。
そのことだけは、気づくことができた。




