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02.無血陛下と心を通わせる努力



「姫様、いつお戻りになられていたんですか?」


 部屋の奥から声が聞こえて、ハッと我に返る。

 顔を上げれば、寝室を整えていたのだろう侍女が、こちらに歩み寄ってきていた。


「ごめんなさい、ミンネ。今戻ったばかりよ」


 どうにか気持ちを持ち直して、二つ年上の侍女に笑顔を向ける。

 国同士をつなぐ婚姻だというのに、本国からついてきてくれた侍女は彼女一人。

 シエルの人々は、いまだに強大な力を持つクルイークを恐れている。

 その国の庇護のおかげで、大きな争いもなく、他国との外交も有利に運べていることは棚に上げて。


「まったく……お一人で陛下にお会いするだなんて、いつもなら絶対に許しませんでしたよ?」


 私たちは思ったよりも早く到着してしまったようで、まだクルイーク側の受け入れ体制が整っていなかった。

 今晩の寝る場所を確保するために、ミンネは早急にこの部屋を使える状態にしなければいけなかったのだ。

 もちろん、私も完全に一人だったわけじゃない。護衛らしき兵がついてきているのは確認していた。

 未来の王妃のために、陛下が遣わしてくれたんだろう。きっと今は部屋の外に立っている。


「無血陛下のあの血色の瞳、思い出すだけでゾッとします。姫様がご無事でよかった」

「ミンネ、失礼よ」


 不信感をあらわに眉をひそめる侍女を、少し強い語調でたしなめる。

 ミンネが陛下に対して当たりが強い理由は、もちろん畏怖や国同士の仲の悪さもあるけれど、一番は私を心配するあまり、だろう。

 まったく、過保護が過ぎる。いや、私の周りにいた人はみんなそうだけれど。

 だからといって、陛下への悪態は見逃せるものではない。


 無血陛下。それはリヨン陛下の通称。

 過去に起きた内乱を、血を流すことなく収めてしまった手腕を称え、近隣諸国で呼ばれている。

 けれどそこには、血も涙もない冷酷な王だという揶揄も存分に含まれていることを、誰もが理解していた。

 よりにもよって吸血族の彼が無血だなんて、皮肉にも程がある。

 その通称を耳にするたび、私の機嫌は急降下していく。


「誰が聞いていたってかまいやしませんよ。無血陛下はこの国でも恐れられてるっていうじゃないですか。きっと姫様の味方は少なくないでしょう」

「私はリヨン陛下と争っているわけではないのだけれど……?」

「それにしては、表情が優れませんね。まるで仲違いでもしてきたようですよ」


 ギクリ、とした。

 見事に図星を突かれた私は、とっさに言葉を返すことができなかった。

 沈黙は肯定と捉えられてしまうだろう。

 元より、長年付き従ってくれている侍女に隠し事ができるとも思っていないけれど。


「……ミンネは意地悪だわ」


 結局なんの言い訳も思いつかず、私は否定することなく口を尖らせる。

 仲違い、と言っていいんだろうか、あれは。

 そもそも四年間も顔を合わせる機会のなかった私と彼の仲というのは、今どういう形をしているのかすらわからない。

 婚約者であることには変わりない。そして、もうじき夫婦になる、はずで。

 私の想像していた夫婦と、リヨン陛下の考える夫婦に、大きな隔たりがあることだけは理解できた。


「“優しいリー”と再会したはずなのに、そんな暗い顔をなさっているのだから当然です」


 懐かしい言葉に、自然と口端が上がる。苦みを含んだそれは、苦笑にしか見えないだろう。

 ミンネとももう十年の付き合いだ。私付きの侍女の娘である彼女が、正式に城に上がったのは三年前のこと。

 子どもの頃から“優しいリー”のことは何かにつけて話していたから、ミンネも耳にタコのはずだ。


「私……思い違いをしていたみたいなの」


 まぶたの裏に浮かぶのは、春の陽だまりのように穏やかな微笑み。私をあたたかく見守ってくれていた紅の瞳。

 フィア、と呼ぶ声は優しさと慈しみに満ちていた。


「リーに……リヨン陛下に、妃にと望まれているのだと思っていたわ」


 好かれていると思っていた。

 年が離れているから、妹のようなものだっただろうけれど、向けられる愛情に偽りはないと思っていた。

 物心ついたときにはもうすでに婚約者だった。

 私にとって彼は、隣国の王太子である前に、恐ろしい吸血鬼である前に、婚約者だった。

 いずれ夫となる人と育んできたはずの信頼関係は、たったの四年で、これほどもろく崩れ去ってしまうものなのか。


「間違いなく、望まれているでしょう? でなければこんなに強引に事を運んだりはしないはずです」


 そう、この婚約の始まりは、当時十二歳のリヨン王太子殿下の要求。

 そして、王女を嫁によこさなければ兵をけしかけてやろうかと遠回しに脅されたのはつい先日のこと。

 成人した十六のときも、十七になっても、彼からはお祝いの手紙が届いただけだったのに。どうしてこんな急にと考えずにはいられない。

 別れを惜しむ間もなく、追い立てられるようにして国を出た。

 なのに未来の夫と顔を合わせてみれば、あの対応だ。

 温度のない視線を思い出して、身体が芯から冷えていくような心地がした。


「何か、きっと事情がおありなのね」


 今になって、結婚を急がなければならなくなった理由があるんだろう。

 相手はもしかしたら私でなくてもよかったのかもしれない。けれどまだ婚約は有効だったから。

 仕方なく、私を嫁に迎え入れたのだとしたら。

 私はこれから、どんな顔をして彼の隣に立てばいいというのか。


「大体、今さらなんですよ。四年も音沙汰なく、腰の重い国王様もようやく婚約の考え直しを検討し始めていたというのに。いくらこちらが強く出られないからって、勝手が過ぎるとは思いませんか?」

「ミンネ。私は別に、他の人と結婚したかったわけではないわ」

「ええ、ええ、姫様はリヨン陛下一筋ですものね。よーく存じておりますよ。だというのに、いったいなぜ姫様がこんなにも気落ちしていらっしゃるのか。陛下ご自身にご説明いただきたいものですね」


 不敬罪で罰せられてもおかしくない言葉の端々から、私への思いやりを感じる。

 他国に来てまで自分の主義主張を貫くミンネの勇ましさに、私は少しだけ笑うことができた。

 彼女の言いたいことをはっきりと口にするところに、いつも救われていた。

 王女という立場では、どうしても飲み込まなければならない言葉が増えていくから。

 話す前に一呼吸置くこともなく、大口を開けて笑うことができたのは、本当に限られたときだけだった。

 私が一番のびのびとしていられたのは、リヨン殿下の前だったのに。


「陛下は、きっと何も間違ってはいないの。ただ、私が……わかっていなかっただけ」


 王族として、政略結婚は義務であり、抗うことも思いつかないほど当然のことだった。

 愛のない夫婦関係というものが、めずらしくもなんともないのだと、きちんと知っていた、はずだった。

 なぜ、私たちはそうはならないと、無邪気に信じていられたのか。

 それは、積み重なった思い出が、あたたかすぎたから。


 四年、四年だ。

 私と彼との間には、決して短くない空白がある。

 その間、私たちをつないでくれていたのは、季節の折の手紙だけ。

 紙の上でなら、いくらでも優しい言葉を偽れる。筆跡は彼のものだったけれど、内容も彼が考えたかどうかなんて今となってはわからない。

 リヨン陛下の冷たい瞳は、明らかに私を、私との関係を拒絶していた。


 もう私は、彼をリーと呼べる権利を、失ったのかもしれない。



  * * * *



「リヨン殿下、今日から私のことはフィアとお呼びください」


 あれはたしか十一歳の春のことだ。

 ちょっとした、本当に軽い思いつきからの提案だった。

 その日は寝台から起き上がることのできない私を、リヨン殿下が見舞いに来てくれて。

 一年ぶりの彼に、私はなんの前触れもなく願い出たのだった。


「姫?」

「フィアです、リヨン殿下」


 むう、と頬をふくらませて、私は彼を見上げる。

 唐突すぎたからだろう、リヨン殿下はぱちぱちと目をまたたかせていた。


「私とリヨン殿下はいずれ夫婦となるのですから。他人行儀な呼び方では心を通わせることはできません」


 人差し指を立てて、偉そうに口弁を垂れる。

 きっと侍女たちの浮いた話でも耳に挟んだか、何かの物語に影響を受けたかしたんだろう。

 何がきっかけだったかは覚えていないけれど、私はあのとき、もっとリヨン殿下と距離を詰めたいと思っていたのは覚えている。


「……なるほど、おもしろいことを考えるね、フィアは」


 クスクスと笑われても、不思議と嫌な感じはしない。

 リヨン殿下の笑い方はいつもとても優しいから。

 そして今はそれ以上に、きちんと愛称で呼んでくれたことがうれしくて。

 胸の内側がじんわりとあたたかくなっていくように感じて、気づけば私も笑みがもれていた。


「では、僕のことはリーと呼んでくれ」

「リー、ですね! なんだか猫の名前のよう」

「猫か。ずいぶんとかわいらしいものにたとえられたものだな」

「あっ……礼に欠いたことを申しました……」


 かぁぁ、と頬に熱がのぼっていく。

 リヨン殿下の前では、ついつい思ったままを口にしてしまうことが多い。

 いくら仲良くしていても、彼は隣国の王太子だ。

 礼儀を失っていい相手ではないと、何度も反省しているのに、一向に改善されない。


「かわいいね、フィアは。別に気にしなくていい。他人行儀では心を通わせられないんだろう?」

「っ、はい!」


 それはきっと、こうやってどんな言葉でも笑って受け止めてくれるからだろう。

 リヨン殿下は優しい。リヨン殿下は私に甘い。

 私にとって、時には実の兄以上に甘えやすい人だった。


「ほら、フィア。親しい人にはどんな口調で話す?」


 あたたかなまなざしが私を促す。

 猫のよう、と言ってしまった愛称で呼んでもいいのだと。

 今までよりも砕けた話し方をしてもいいのだと。


「そ、れは……リー、いいの?」


 声が震えてしまったのは、しょうがないと思う。

 八つも年上の、もう立派な男性に、同年の友人に接するように話してもいいものか。

 おそるおそるリヨン殿下の顔色をうかがえば、彼は私の頭をそっと撫でて、笑顔でうなずいてくれた。


「もちろん。いずれ夫婦となるのだから」

「もう、真似っ子ばかり!」


 安堵も手伝って、私は弾けるように笑った。

 声を上げて笑うなんて、はしたない、と作法の先生に言われてしまうかもしれない。

 けれど、リーは先生ではないから。

 はしたない私も、笑って許してくれるから。

 だから私は、彼の前で飾らずにいられた。

 心も、表情も、仕草も。





 リー、と私が呼んで、フィア、と彼が呼んでくれる。

 “優しいリー”は、“かわいいフィア”とよく私を呼んでくれた。

 それは私の中で、ひとつの拠り所だったんだろう。

 彼が、私と心を通わせる努力をしてくれる人なのだと、疑うことなく信じていられた。


 今は……彼の心がどこを向いているのか、私にはわからなかった。







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