10.ただの風邪と身勝手ないきもの
懐かしいにおいがする。
それを、懐かしいと思うほどに、ここ最近は離れていた事実を噛みしめる。
青臭い薬湯のにおい。
前回のような嘘などではなく、本当に倒れてしまった私のために、用意されたもの。
私はゆっくりと、目を開いた。
「リー……どうしてそんなに離れているの?」
部屋の隅、カーテンに隠れるようにして立ち尽くしている彼に声をかける。
いったいいつからそこにいたんだろうか。
浮上した意識が真っ先にリーを捉えたのは、それだけ私が彼を求めているからなのかもしれない。
上体を起き上がらせようとするとくらりと目眩がしたので、行儀は悪いけれど寝たままで許してもらうことにした。
「今の君に近づくのは、危険だと思って」
「吸血鬼にも風邪は移るの?」
「いや、そういうことではなく……」
はぁ、と吐息の音が聞こえた。
彼の声には覇気がない。疲れているのかもしれない。
きっと、ずいぶん心配をかけてしまったんだろう。
「そもそも、病人を放って男と二人きりにするのはどうなんだ。侍女も下がってしまうし……」
二人きりって、と私は呆れてしまいそうになる。
リーは自分の立場をわかっているんだろうか。
「あとは薬が効くのを待つだけだもの。国王陛下が婚約者のお見舞いに来て、誰が咎めると言うの」
「そう……なんだが……」
どうにも納得しきれないようで、リーは難しい表情をしていた。
表情、と言ってもリーはまだ窓際にいて、目が覚めたばかりの視界ではぼんやりして見えた。
もっと近くに来てほしいのに、リーは不自然に空いた距離を詰めようとはしない。
それは妙に私の心をざわめかせた。
「リー、執務に戻らなくてもいいの?」
「ああ。君が寝込んだと報せを受けてすぐ、補佐官に執務室を追い出された。どうせ仕事にならないだろうからいるだけ邪魔だと。まったく、部屋の主は僕なんだがな」
苦笑を浮かべながらの冗談すらも、どこか硬さが残る。
「リー?」
問うように名前を呼ぶと、彼の表情が、崩れた。
今にも泣いてしまいそうな、あの、見覚えのある顔になる。
ああそうだ、と私は気づく。
こんなふうにベッドで弱っている姿を見せるのも、四年ぶりだ。
「……心配した」
聞き取るのが難しいほどかすれた声は、まるで私が帰らぬ人になるのではと想像でもしていたようで。
大げさだと笑い飛ばしてしまいたいのに、あまりにも彼が真剣すぎて、できなかった。
心配、なんて。
そんな言葉では、きっと足りない。
彼は、私の身体に、背負わなくてもいい責任を感じているようだから。
「ありがとう。大丈夫よ、本当にただの風邪だから」
「だが……」
「これまでずっと付き合ってきた身体なのよ、わかるわ。呼吸も苦しくないし、食事も取れる。これはリーの血のせいじゃない」
十四年間、病だと思っていた症状は自分が一番よく知っている。
今回は、軽い熱と頭痛、節々の痛みと倦怠感。ずっと苦しみ悩まされてきた症状と比べると、病とも呼べないような軽い不調でしかない。
季節の変わり目だったことと、婚姻の儀の準備で忙しくしていたから、疲れが出てしまったんだろう。
風邪を侮るわけではないけれど、“死”を隣人のように感じるあの症状とは似ても似つかない。
「……僕は、ずっと、後悔していて」
リーは、唐突に話し始めた。
静かな声を聞きもらさないようにと、私は耳をそばだてる。
「人ひとりの人生を歪めてしまった。その罪の重さは、十二の僕には耐え難いものだった。せめてもの罪滅ぼしに、できるだけ君に優しくしようと、そう決めた」
リーが、“優しいリー”だった理由。
罪の意識。負い目。罪悪感。言葉にするならそういったところだろう。
責任感の強い彼らしい、と落ち込むより前に思った。
「でも、そんな風に考えていたのは本当に最初だけだった。君は、一日一日を、一瞬一瞬を、懸命に生きていた。つらいことのほうが多いだろうに、笑顔を忘れずに、未来への希望を語って。それが、婚約者に向けた外面ではないことは、年に一度の滞在でも見て取れたよ。そんな君に、僕のほうが励まされていると気づいて。優しくしよう、ではなく、優しくしたい、と自然と思うようになった」
じんわりと、あたたかなものが胸のうちに広がっていく。
おままごとのような未来を語る私を、リーは笑って受け入れてくれた。かわいいと言ってくれた。その言葉は上辺だけのものではなかったのだ。
リーは、きちんと私を見て、私を知ってくれていた。私が私だったからこそ、優しくしてくれていた。
私に向けられていた優しさは、決して義務感から来るものだけではなかった。
「……なのに、結局こうして気遣われて。失敗してばかりだ」
自嘲の笑みを吐いて、リーは窓のほうへと顔を背けた。
そうされると彼の表情がうかがえなくなってしまう。
たったそれだけのことなのに、とたんに不安が押し寄せる自分の弱さが嫌になる。
「リーは、いつだって優しかったわ」
「そうかな」
「ええ、私はそんなリーのことが……大好きだったもの」
想いの断片を言葉にするだけで、声が震えそうになった。
初恋だった、とまでは言えなかった。リーが望んでいるかどうかわからなかったから。
ただ、落ち込んでいるように見える彼を、やわらかな言葉で包み込んであげたくなった。
リーは何も失敗してなんていない。そう伝えたかった。
「――かわいいフィア、いいことを教えてあげよう」
静かな声が、二人の間に落とされる。
「吸血鬼はとても身勝手で、自分のためならいくらでも嘘をつけるいきものなんだ」
その言葉を、彼はいったいどんな顔で言ったのだろう。
どこか投げやりな声が、私の心のやわらかな場所を引っ掻いた。
リーはこちらに顔を向けることなく、窓を離れて扉に足を向けた。
「明日と明後日の予定はすべて取りやめて、充分身体を休めるように。いいね?」
「リー!」
一方的にたたみかけ、扉を開けて寝室を出ていこうとするリーを呼び止める。
ようやく振り返ったリーは、仮面のような笑みを浮かべていた。
「無理をしてはいけない。フィレアの花のようでありたいんだろう?」
それは上体を起こしかけた私を咎めるように告げられた。
口はきれいに弧を描いているのに、目が、少しも笑っていない。
彼の優しさの意味を知り、近づいたと思った心が、また遠ざかっていくのを感じる。
私が言葉をなくしている間に、リーは部屋を出ていってしまった。
リーの心が、見えない。