表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/13

10.ただの風邪と身勝手ないきもの



 懐かしいにおいがする。

 それを、懐かしいと思うほどに、ここ最近は離れていた事実を噛みしめる。

 青臭い薬湯のにおい。

 前回のような嘘などではなく、本当に倒れてしまった私のために、用意されたもの。

 私はゆっくりと、目を開いた。


「リー……どうしてそんなに離れているの?」


 部屋の隅、カーテンに隠れるようにして立ち尽くしている彼に声をかける。

 いったいいつからそこにいたんだろうか。

 浮上した意識が真っ先にリーを捉えたのは、それだけ私が彼を求めているからなのかもしれない。

 上体を起き上がらせようとするとくらりと目眩がしたので、行儀は悪いけれど寝たままで許してもらうことにした。


「今の君に近づくのは、危険だと思って」

「吸血鬼にも風邪は移るの?」

「いや、そういうことではなく……」


 はぁ、と吐息の音が聞こえた。

 彼の声には覇気がない。疲れているのかもしれない。

 きっと、ずいぶん心配をかけてしまったんだろう。


「そもそも、病人を放って男と二人きりにするのはどうなんだ。侍女も下がってしまうし……」


 二人きりって、と私は呆れてしまいそうになる。

 リーは自分の立場をわかっているんだろうか。


「あとは薬が効くのを待つだけだもの。国王陛下が婚約者のお見舞いに来て、誰が咎めると言うの」

「そう……なんだが……」


 どうにも納得しきれないようで、リーは難しい表情をしていた。

 表情、と言ってもリーはまだ窓際にいて、目が覚めたばかりの視界ではぼんやりして見えた。

 もっと近くに来てほしいのに、リーは不自然に空いた距離を詰めようとはしない。

 それは妙に私の心をざわめかせた。


「リー、執務に戻らなくてもいいの?」

「ああ。君が寝込んだと報せを受けてすぐ、補佐官に執務室を追い出された。どうせ仕事にならないだろうからいるだけ邪魔だと。まったく、部屋の主は僕なんだがな」


 苦笑を浮かべながらの冗談すらも、どこか硬さが残る。


「リー?」


 問うように名前を呼ぶと、彼の表情が、崩れた。

 今にも泣いてしまいそうな、あの、見覚えのある顔になる。

 ああそうだ、と私は気づく。

 こんなふうにベッドで弱っている姿を見せるのも、四年ぶりだ。


「……心配した」


 聞き取るのが難しいほどかすれた声は、まるで私が帰らぬ人になるのではと想像でもしていたようで。

 大げさだと笑い飛ばしてしまいたいのに、あまりにも彼が真剣すぎて、できなかった。

 心配、なんて。

 そんな言葉では、きっと足りない。

 彼は、私の身体に、背負わなくてもいい責任を感じているようだから。


「ありがとう。大丈夫よ、本当にただの風邪だから」

「だが……」

「これまでずっと付き合ってきた身体なのよ、わかるわ。呼吸も苦しくないし、食事も取れる。これはリーの血のせいじゃない」


 十四年間、病だと思っていた症状は自分が一番よく知っている。

 今回は、軽い熱と頭痛、節々の痛みと倦怠感。ずっと苦しみ悩まされてきた症状と比べると、病とも呼べないような軽い不調でしかない。

 季節の変わり目だったことと、婚姻の儀の準備で忙しくしていたから、疲れが出てしまったんだろう。

 風邪を侮るわけではないけれど、“死”を隣人のように感じるあの症状とは似ても似つかない。


「……僕は、ずっと、後悔していて」


 リーは、唐突に話し始めた。

 静かな声を聞きもらさないようにと、私は耳をそばだてる。


「人ひとりの人生を歪めてしまった。その罪の重さは、十二の僕には耐え難いものだった。せめてもの罪滅ぼしに、できるだけ君に優しくしようと、そう決めた」


 リーが、“優しいリー”だった理由。

 罪の意識。負い目。罪悪感。言葉にするならそういったところだろう。

 責任感の強い彼らしい、と落ち込むより前に思った。


「でも、そんな風に考えていたのは本当に最初だけだった。君は、一日一日を、一瞬一瞬を、懸命に生きていた。つらいことのほうが多いだろうに、笑顔を忘れずに、未来への希望を語って。それが、婚約者に向けた外面ではないことは、年に一度の滞在でも見て取れたよ。そんな君に、僕のほうが励まされていると気づいて。優しくしよう、ではなく、優しくしたい、と自然と思うようになった」


 じんわりと、あたたかなものが胸のうちに広がっていく。

 おままごとのような未来を語る私を、リーは笑って受け入れてくれた。かわいいと言ってくれた。その言葉は上辺だけのものではなかったのだ。

 リーは、きちんと私を見て、私を知ってくれていた。私が私だったからこそ、優しくしてくれていた。

 私に向けられていた優しさは、決して義務感から来るものだけではなかった。


「……なのに、結局こうして気遣われて。失敗してばかりだ」


 自嘲の笑みを吐いて、リーは窓のほうへと顔を背けた。

 そうされると彼の表情がうかがえなくなってしまう。

 たったそれだけのことなのに、とたんに不安が押し寄せる自分の弱さが嫌になる。


「リーは、いつだって優しかったわ」

「そうかな」

「ええ、私はそんなリーのことが……大好きだったもの」


 想いの断片を言葉にするだけで、声が震えそうになった。

 初恋だった、とまでは言えなかった。リーが望んでいるかどうかわからなかったから。

 ただ、落ち込んでいるように見える彼を、やわらかな言葉で包み込んであげたくなった。

 リーは何も失敗してなんていない。そう伝えたかった。


「――かわいいフィア、いいことを教えてあげよう」


 静かな声が、二人の間に落とされる。


「吸血鬼はとても身勝手で、自分のためならいくらでも嘘をつけるいきものなんだ」


 その言葉を、彼はいったいどんな顔で言ったのだろう。

 どこか投げやりな声が、私の心のやわらかな場所を引っ掻いた。

 リーはこちらに顔を向けることなく、窓を離れて扉に足を向けた。


「明日と明後日の予定はすべて取りやめて、充分身体を休めるように。いいね?」

「リー!」


 一方的にたたみかけ、扉を開けて寝室を出ていこうとするリーを呼び止める。

 ようやく振り返ったリーは、仮面のような笑みを浮かべていた。


「無理をしてはいけない。フィレアの花のようでありたいんだろう?」


 それは上体を起こしかけた私を咎めるように告げられた。

 口はきれいに弧を描いているのに、目が、少しも笑っていない。

 彼の優しさの意味を知り、近づいたと思った心が、また遠ざかっていくのを感じる。

 私が言葉をなくしている間に、リーは部屋を出ていってしまった。



 リーの心が、見えない。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。



― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ