第十九話:丑三つ時の祈り事
私がこの世界に来たことに、一体何の意味があるというのだろう。
第十九話:丑三つ時の祈り事
城の豪華な夕食を終え、広い大浴場を楽しんで、もうすっかり夜は更ける。もうそろそろ就寝してもいい時間だが、どうにもそんな気にもなれず、純は城のバルコニーから庭をパルオーロを眺めていた。
城に泊まることとなり、リックの家に残っているはずのいぬについては彼が一晩の世話を引き受けてくれることとなった。思えばずっとあの家に放置されていたのかもしれないいぬは、機嫌を損ねているかもしれない。何かお土産でも買って帰ろうかな、などと考えながら、純はバルコニーの端に歩み寄った。
久し振りに一人になった気がする。息を吐いて、手摺に身を凭れかけた。
本当に色々あった。スペルビアのことも、アーリマンのことも、インウィディアのことも、アカザのことも、レオンのことも。体はしっかり疲れている。それなのに、目は冴えて、横たわる気にもなれない。
――ハザマのことも、その理由の一つである。眠れば、精神世界に行くかもしれない。ハザマに触れて、その温度を確かめたい気持ちは強くある。だが、いざそれが出来る状態になると、怖くなってしまった。
あの、首に残る赤い痕。あれを直視する覚悟が決まらない。
首を取られたのはコピー体だ。あくまで分身であって、本人じゃない。だけどあの痕が、本人との繋がりを示している。あの空間で、自分を導いてくれた彼は、あの時確かに首を切られたのだ。
眠らぬ理由はそれだけではなく、色々ありすぎて思考の隅に追いやられたことを考えたい気持ちもあった。
――アーリマン。レオンと同じ顔と声をした、謎の少年。
レオンの家族は祖父だけだと聞いている。だがアーサーの話では、レオンの祖父は妻子を持っていない。
ならば――人の事情を邪推するようなことをすれば――レオンは、祖父、アガシアがどこかで拾った子供で、アーリマンとは生き別れの双子、などという話が、漫画や小説ではありそうなものだ。
だが、と、アーサーとジュメレを思い出す。
双子でもなく、顔と声が全く同じ存在。そんな存在が、現実に存在した。レオンとアーリマンもそうだとすれば。
この世には、自分にそっくりな存在が三人は居るという。しかしそのコンビが二組も現れるとは、一体どれほどの確率なのだろう。そう、現実逃避気味に純は溜息をついた。
「ジュンちゃん、ちょっといいか?」
そんな純に、声がかけられた。自分しか居ないと思っていたバルコニーに響いた、唐突な人の声に驚いて振り向くと、そこに立っていたのはアカザである。医務室から歩いてきたらしい彼に、純は慌てて駆け寄った。
「いいけど、どうしたの? 用があったなら呼んでくれたら行ったのに」
「大丈夫だってこのくらい」
そうは言うが怪我人を立たせたままにするわけにもいかないと、付近にあった椅子にアカザを誘導する。大袈裟なと笑いながらも、アカザは素直にそこに座った。
「それで、何か用?」
「今日の諸々の話に乗っかるわけじゃないけどよ……そろそろ、情報共有しとこうと思ってさ」
そう言って、アカザは顔を上げて純の顔を見る。
「レオンはもう寝たのか?」
「うん。色々あったし疲れたんじゃないかな。ぐっすりだったよ」
「そっか、なら丁度いい」
丁度いい?
その言葉に疑問を覚えて純は首を傾げる。アカザは椅子に腰掛けたまま、俯いて、ぽつりと言葉を落とした。
「……話の前にひとつ聞きたいんだが。ジュンちゃん、レオンと初めて会った時の事聞かせてくれないか?」
「初めて会った時の事?」
そんな事を聞かれるとは思わなくて、また純は疑問符を浮かべた。初対面から何日経っただろう。なんだか濃い旅路で、もう何年も一緒なように感じるほど、レオンとアカザとは馴染んでいた。
そんな、レオンと初めて会った時の事。今更なようにも感じる質問だが、アカザは真面目な顔をしていた。
「そう。ジュンちゃんが異世界から来たのは知ってる。だからその話じゃなくて、具体的に。
――ジュンちゃんはどうやってレオンと出会って、その時レオンはどんな反応をしたのか」
顔を上げて、真っ直ぐにアカザは純の目を見ている。
……よく分からないが、アカザにはアカザなりに何か考えがあるのだろう。そう思って、純は記憶を掘り返す。
初めて会った時の事。トアロ村で、レオンと出会って、彼の事を知って、自分のことを教えて。思えば、あれが全ての始まりだった。
「……私は、元の世界で家に帰ってる最中、マンホール……まあ穴って認識でいいんだけど、そこに落ちて……気が付いたらレオンの書庫にいたんだ。私はこの世界の地図を見て、異世界に行っちゃったんじゃないかって気が付いて……失神してさ」
それを人に話すのは少し恥ずかしい。非現実的すぎて気絶した、なんてちょっとした笑い話だ。頬をかいて照れ笑いしながら、純は言葉を続ける。
「それで、レオンに起こされて目が覚めたんだ」
――アカザが、がたりと身を乗り出した。
「そこだ」
「へ?」
突然入れられた横槍に順が目を丸くする。アカザはといえば真剣に純を見て、また口を開いた。
「レオンは起きたジュンちゃんとどんな風に話してた? ビビッて物陰から、とかじゃなかったのか?」
「いや、普通に、こういう距離感でだったけど……」
「……そうか」
アカザが体勢を元に戻す。椅子の近くにあったサイドテーブルに頬杖をついて、確信を得たような声で、呟いた。
「成程な。じゃあ、やっぱりその時からなのか」
その言葉の意味が分からずに、純はまた首を傾げた。アカザは顔を上げて、再び純と目を合わせる。
「おかしいと思わないか?」
「おかしいって、何が……」
「よく考えてみてくれよ。トアロ村だぞ? あんな人が寄り付かないような僻地で、しかも自分の家に知らない人間が倒れてたら普通ビビるだろ。しかもレオンだ。あのビビリなレオンが、何でジュンちゃんに限っては平気だったんだ?」
――そう言われてハッとした。
レオンの順応性が高いだけだとその時は思っていた。そうして、それで終わったはずの出来事だった。だから、違和感など感じていなかった。
だが、そういえば旅の道中では、アークハット村の子供達にすら距離をとっていたレオンだ。旅をして、レオンのことを知った今から思い返せば、あのスムーズさはいっそ奇妙に感じる。
レオンは決して、人に対して順応性が高い人間ではない。それは付き合っていくうちに知ったことだ。
「……レオンには、」
アカザが目線を落とし、ぽつりと言葉を落とす。
「レオンにはこの旅が始まってから……いや、ジュンちゃんと出会ってから、いくつか、奇妙なことがある」
そう言って、アカザはまた顔を上げて純を見る。
「ジュンちゃんを責めてるとか疑ってるとかじゃないぜ。ジュンちゃんがいい子なのは俺だって知ってんだ」
そう、安心させるように笑う。その言葉で、純はやっと自分の顔が引き攣っていたことに気が付いた。
――自分が、イレギュラーな自覚はある。もし自分の存在で何か大切なことを歪めていたとしたら、と。そう考えると、恐ろしかった。その不安が顔に出ていたのだと、理解する。ポーカーフェイスの出来ない自身を恥じながらも、アカザの気遣いはありがたかった。
「ジュンちゃんが悪いとかいう話じゃないんだ。ただ……あんまりに、『よく出来てる』」
そうアカザは続けて、眉を寄せた。
「レオンがジュンちゃんを受け入れたのも、そもそもジュンちゃんがピンポイントでレオンの家に現れたのも、物語みたいにスルスルいって、俺達は今ここに居る。
――まるで、誰かに仕組まれてたみたいだ」
純には何も返せなくて、バルコニーは沈黙に包まれた。
誰かに仕組まれていたのかもしれない。自分達の、自分たちで選んだはずの旅路が。
そう考えると、胸の奥にずしりと重たいものが落ちる。それがもやもやと、質量を持った煙になって、純達の心にのしかかった。
「ジュンちゃん。いくつか、って言っただろ? レオンの奇妙なことはそれだけじゃないんだ」
そう、アカザが沈黙を崩して、口を開く。
「……アークハット遺跡と、リシュール祭。それぞれで、『ジュンちゃんが居なくなる不慮の事態』が起こった」
その言葉で、純の脳裏に記憶が蘇る。アークハット遺跡では雷鳥によって、リシュール祭ではスペルビアによって、確かに純はレオンとアカザの前から姿を消した。我ながらよく拉致されるものだなぁと、笑い事ではないが呆れるしかない。
だが、アカザにとってはそれだけではないらしい。真面目な顔をして、純を見ていた。
「――ジュンちゃんが突然消えた時、レオンはどこかおかしくなった。一時的だったが、動転してるじゃ済まされないほど『周りが見えてなかった』んだ。アークハット遺跡の時なんかは本当にここじゃないどこかを見てるみたいだったし、リシュール祭はそれよりは軽度だったが、普段のあいつなら言わないようなことを口走った」
目を見開いた純を見て、アカザは「知らなくて当たり前だよな」と息を吐く。それはそうだ。純が居ない時のことなのだから、純が知るわけがない。だがそれ故にその事実は衝撃的で、純は息を飲んだ。
「……実は」
そして、今、言うべきだと、ほぼ無意識に声を落としていた。唐突に口を開いた純に、アカザが目を向ける。
「シュヴァルツで、レオンとそっくりな顔と声をした人に会ったんだ。闇属性で……」
声はするすると落ちていく。アカザは黙ってそれを聞いていた。
「凄く、怖い人だった。アーリマン、っていうらしくて……人の首を、笑って切り落とすような人だった。レオンにそっくりって言ったけど、顔と声だけだよ。あとは、全然違う」
「……そうか」
アカザが、ついと顔を横に向けた。パルオーロの夜景を眺めながら、彼はぽつり、言う。
「レオンには何かある」
その言葉を純は否定出来ない。
――生命の量が、一定量を下回る場所に引き寄せられる魔物。トアロ村という廃村に、人が一人で住んでいて、魔物に襲われないなど有り得ない。
そう、アークハット遺跡で、ハザマに言われたことを思い出した。レオンが魔物に襲われなかったことも、純をあっさりと受け入れたことも、アカザが見たというレオンのおかしな挙動も。そして、レオンに瓜二つなアーリマンという存在も。それら全て、『違和感』として横たわっているのに、純もアカザも、それを晴らす術を持たない。
アカザが拳を握りしめた。
「……多分。多分、レオン本人も知らない何かだ。俺は……それがレオンをどこかに連れてっちまいそうで、少し、怖い」
純は空を見上げた。今日は厚い雲に覆われていて、星も月も見えない。そんな暗い夜だった。
「……ウィディも、どこか不安定なとこがあるんだ」
アカザが、そう零した純を見た。
「『空白の歴史』から現れたのかもしれない闇属性……、『空白の歴史』を解明すれば、レオンのことも、ウィディの不安定さも、何とかできるのかな」
「……さぁな」
アカザもまた空を見上げた。厚い雲が、ゆっくりと流れていく。
「けど、これでまた一つ、『空白の歴史』を追わなきゃいけない理由ができた」
そう言って、アカザが笑う。挑戦的な笑み。
――そうだ。例え仕組まれていたことだったとしても、歩みを止める理由にはなりはしない。
歩み続けることで、得られる真実があるのなら。
「……強くなろうね、私達」
アカザが純に向けた拳に、純もまた拳を作って、ゴツンとぶつけた。
雲間が切れて現れた月が、バルコニーを少しだけ、明るく照らしていた。
――その同時刻。
「アーサー、そりゃ本気かよ」
ジュメレの困惑の声が、王の寝室に響く。その困惑を受けるアーサーはといえば薄く笑って、手に持っていたものを宝箱の中に戻した。
「勿論。私がお前に嘘をついたことがあったか?」
「いーや無いね。お前は正直で素直な男だからな」
溜息をついてジュメレは首を横に振る。アーサーと同じ赤い髪が揺れた。
「だがそれと同じくらい、お前は聡明な男だ。だからまぁ、お前の考えることは時々俺には分かんねぇよ。けどお前がそう思うなら、それは正しいんだろうな」
そう肩を竦めたジュメレに、アーサーは笑みを深める。ぱたん、と、箱が閉じる音がした。
「有難う、ジュメレ。お前はずっと私を支えてくれた、良き友だ」
「……よせよ照れ臭い。何だ改まって」
僅かばかり赤くなった頬をかいて、ジュメレはぶっきらぼうに答える。顔は同じなのに、こうも表情が違うのは面白いものだ。
――あの日。
研究所の檻の中で目覚めて、初めてジュメレと出会った。双子でもないというのに、自分と全く同じ顔をした少年が――不気味でなかったとは言わない。だが同時に、とても親しみ深い感覚を覚えた。彼がずっと昔から自分の傍に居たような、そんな感覚。
彼はアーサーを見て、笑った。
「大丈夫だ、おれが守るから」
彼はアーサーの頬に触れた。その温もりも、アーサーを安心させるものだった。彼と触れ合うと、まるで、あるべきものが戻ったような安心感に包まれた。
「おれたち、ともだちになろう」
――そして、二人は友となった。アーサーは名も記憶も無いと言う彼に、名を与えた。
ジュメレ、それはアーサーの故郷パルオーロの、昔の言葉で『鏡写しのようにそっくりな』という意味を指す。彼は意味を聞いて、まんまかよ、と笑った。笑いながら、彼は何度も冷たく硬い土の床をごりごりと削り、己の名のスペルを記した。
「ジュメレ」
アーサーは微笑んで、宝箱を撫でる。
「お前は本当に、私に良くしてくれる。感謝しているよ」
「……当たり前だろ。俺達は友達なんだから」
そう言うジュメレは、視線を下向かせていた。
アーサーは、ジュメレが自身に――いっそ献身的なまでに、尽くす理由を知っている。それは友達だと言うだけではない。彼のそれは、罪悪感だ。
「ジュメレ。レオン君を激励したお前がそんなことでどうするんだ」
「……だってよぉ、俺の記憶が無いのは、……お前の未来を奪ったのは、もしかしたら……」
「ジュメレ」
その先を留めて、アーサーは微笑む。
「分からないことを言っていても仕方が無い。それに、お前の手が私を生かしてくれたのは事実なのだから。お前が何であろうと、私はお前と友になって良かったよ」
アーサーがジュメレの頬に触れた。よく知った顔、毎朝鏡で見るような、そんな顔。
その頬を、優しく撫でる。あの日のジュメレのように。あの日と違うのは、不安げな顔をしているのがジュメレで、その顔に触れているのがアーサーであることだ。
「――あの研究所は、もう無い。そして、私達は親友だ。真実がどうであろうとも……証など、無くとも」
――研究所が爆発し、檻がへしゃげた。アーサーとジュメレに大きな怪我が無かったのが幸いだった。いくつかの爆弾で研究所を壊す算段だったのだろうか、まだ爆発音が響いていた。
「逃げるぞ!」
ジュメレはそう叫んで、アーサーの手を取って走った。途中でアーサーは発作を起こし、走れなくなった。そんなアーサーを背負って、彼は炎と煙の中を走っていた。
道中、迷い込んだとある部屋。データを管理する部屋だったのだろうか、よく分からない書類やホルマリン漬けの生き物がずらりと並んでいた。とはいえ、その殆どは焼け焦げ、割れて、床に散乱していたが。
ジュメレはその中で、唯一、奇妙な程に綺麗に残っていたものを手に取った。
「生きたやつが勝ちなんだ。これはおれたちが、こいつらに勝った証だ。おれたちの友情の勝ちだ。これは、おれたちが友達な証だ」
それを握り締めて、二人は研究所を抜け出した。
走って、走って、やがてリシュール領のとある田舎町に辿り着けば、そこからリシュール軍に連絡を取って、城に帰ることが出来た。当時の国王であったアーサーの父はずっと息子を探して軍を東西南北駆け回らせていたらしい。再会した息子を抱き締め、彼は闇属性であったジュメレのことも受け入れた。
――それから、もう二十年と少しの年月が経つ。ずっと、アーサーとジュメレは友達だった。
「……だから、これは未来に託そう。未来を担う、子供達に託そう」
宝箱を撫でる。その中にはかつてジュメレが手に取ったものがある。彼ら二人の、友情の証だったもの。
――同時に、それがただの宝物ではないことがわかったもの。
「彼等は、今までで一番、真実に近付くだろうという予感があるのだ」
そうアーサーは笑う。ジュメレもまた肩を竦めて、苦笑した。
「彼等なら本当に――『空白の歴史』を、解き明かすのかもしれない」
――ただ。
その先は言わずに、アーサーは目を伏せる。
研究所にいた時の記憶は、年々遠くなっていく。ジュメレとの出会いも逃げる道中も、確かな記憶として残りながらも、次第にセピア色へと褪せていく。
だが、たった一つ、脳に焼き付いて離れない記憶がある。良い記憶よりも悪い記憶の方が残るとは皮肉だと、アーサーは密かに自嘲した。
――目を覚まして、ジュメレと出会って。
研究所が爆破される、その少し前だ。いつもの研究者らしい男達ではなく、初めて見る男がアーサーの檻の前に居た。
色の抜けたような白髪は長く、片眼鏡の奥の瞳は空虚に満ちて。
顔に刻まれた皺が彼を初老だとアーサーに教える。だが、その雰囲気は、見た目の年齢よりも歳を重ねているように感じた。
彼が、嗄れた声で、ぽつりと言った。
「失敗だな」
――その言葉の意味を、アーサーは知らない。
だが、その男の持つオーラが、酷く恐ろしかったことを覚えている。
「……きっと、彼等の進む道は易くはない」
アーサーは呟いて、宝箱をまたひとつ、撫でた。
祈るように、願うように。
「だが、どうか――」
「――彼等の行き着く先に、光があらんことを」