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鬼ヶ里  作者: saki
8/12

其の伍

 鬼愧は明日また出直そうと言ったが、二人は彼女のことを心配しているだろう。それに、志乃も刀を預けていることもあり、予定通り一度村に戻ることとなった。

 何やら村が騒がしい。

 まだ月も高い位置にあるというのに、喧騒が耳に届く。

「何があったの?」

 人だかりに向かい、臆することなく鬼愧が尋ねる。

 途端、志乃に視線が集中する。何故か、尋ねた鬼愧ではなく志乃に視線が集中した。

 志乃はたじろいだ。この視線は前に経験したものだった。そう、城で向けられた猜疑的なものによく似ていた。

「道を開けて」

 少し苛立った鬼愧の声により、人垣が割れた。

 中心のものが目に入る。

 死体だ。

 それは生きていないものであることはすぐに見て取れた。

 桶いっぱいに入った液体をぶちまけられたが如くの血だまりである。その中心にうつ伏せ状態の女が居る。

 それを子供が泣きながら抱きかかえている。しかし、誰も近づかない。ただ遠巻きに眺めているだけだ。

 志乃は息を呑んだ。戦場に行けば死体などいくらでも転がっているし、自分だって殺しはしたことがある。だが、この光景はあまりにも異様であり異常だった。何故、誰も触れようとしないのだろうか。何故、ただ眺めているだけなのだろうか。

 誰も動こうとはしない。誰も近づこうとはしない。

 死体だからなのだろうか。足踏みしている周囲に構うことなく近づき、鬼愧は子供の腕からなかばそれを奪うように己の腕に抱えた。

 一番血が流れている背中が向けられる。

 刀傷だ。

 背後から一息に刺され、そしてそれが袈裟懸けに振り下ろされたのが見て取れる。

 そして、顔が見えるように抱え直せば、それは見たことのある女だった。そう、この人は鬼愧の家に乗り込んできた女だった。

 梅だ。

 梅が倒れていたのだ。

 鬼愧も彼女が誰なのか分かったからか、眉根を寄せた。衝撃のあまりに見開かれた瞳を隠す為、瞼を下ろす。

 しかし、妙な違和感があった。

 彼女の死に顔を見ていると、何故だかひっかかるものがあった。

「角がないわね」

 志乃ははっとした。そう、村で別れる前までは確かに額には小さな角があった。それが今はない。つまりは、切り落とされたのである。そして、周囲を見回す限りそれらしいものはない。これらを踏まえて考えてみると、何の目的なのかは不明だが、犯人が持ち去ったとしてみるのが妥当な所だ。

「相当の手練れだな」

 背中の一撃もそうだが、額の切り口を見る限り、全てを一撃でこなしている。これが下手な者だったら、どれだけ切れ味の良い刀を使おうが切り口にがたつきがでる。だが、この芸術的なまでの滑らかな切り口を見ると、その腕前は自ずと知れるというものだ。

 周囲の視線が再び志乃に集中した。視線を感じ、「おいおい、まじかよ」と呟く。

「いや、俺じゃないからな」

 手を振って否定するが、それでもその視線は止まない。寧ろ、あいつがやったんだろうという声が耳に入ってくる。

 自国の城でのこともそうだが、志乃は殺人容疑に挙げられるこの身を嘆いた。自分がやったわけではないのに、一発で周囲にこういった容疑をかけられるのは何故なのだろうか。何か憑いているのだろうと本気で考えてしまう。

「お前がやったんだろう。これだから人間は信用ならないんだ」

 若い男に胸倉を掴まれ、違うと否定する。

 手は無意識の内に刀を探すが、当然ここにある筈もない。拙いなと思いつつ、その腕を掴んで外させる。

「だから、俺じゃないって言っているだろうが」

「嘘を吐け。だったら、何でお前がここに来たらこんなことが起こったっていうんだよ。今まで誰かが死ぬようなことはなかった。こんなことはなかったんだ」

「そんな変な消去法で犯人を決めるくらいだったら、泣いている餓鬼を慰めることくらいすれよ。ふざけるな。何だってこんな所でも濡れ衣を着せられなきゃならないんだ」

 はぁと若者から顔くれられる。しかし、ここで怯むわけにはいかない。ここで引こうものなら、このままそれを押し通されるだろう。

 あの時に志乃は一度失敗した。その時の絶望にも似た屈辱を今でも覚えている。だからこそ、自分の意思を強く示さなくてはならないのだ。

「無論、その者ではない」

 静かな声が響いた。

 喧騒などまるでお構いなしに、ただ耳に届く声だった。

「長老」

 四方八方から声が揃う。その存在が現れた瞬間に一斉に静まり返る。人望というのがまざまざと見せつけられるようだ。

「その者はあのあとずっと儂等と話をしていた。一度抜けたが、その時は鬼愧と一緒であったし、刀はほれ、現にこうしてここにある。つまり、丸腰の男が刀傷を負わせることはできないであろう? それも、村の反対側で起こったことであるのだとしたら尚更だ」

 それは尤もな言葉だ。反論のしようもなく、若者は志乃から離れた。

「それよりもほら、その者が言うようにまずすべきことがあるであろうが」

 志乃は視線を鬼愧へと戻した。

「梅」

 彼女の夫だと名乗った男が近づき、再び梅と名を呼んだ。

「何故、こんなことに……」

 その声は震えていた。「父ちゃん」と子供が彼に抱きついた。

「父ちゃんが戻って来ないから、心配をした母ちゃんが長老さんの所に向かったんだ。僕もついて行くつもりだったけれど、母ちゃんがお前は家で待っていなさいって言うから、家で待っていたんだ。けど、母ちゃんは全然帰って来なくって、それで探しにいたんだ。そうしたら、母ちゃんがこんなことに……」

 最後の方は嗚咽に紛れ、殆ど掠れていた。それでもしっかりと口にした辺り、この子は心が随分と強い。

「良い、良い。それ以上、言うな。お前が無事で良かった」

 胸に抱きこみ、静かに涙を流す。

 志乃は居た堪れない気持ちになった。

 戦場で沢山の命を屠ってきた。それを当り前だと思い、その意味を考えたことはなかった。だが、志乃が命を奪ったことでこんな風に涙を流す者もいたのだろうか。残された者のことを顧みること無く、ただただ己の力を誇示するように力を振るい続けてきたのだということに気が付いた。殺すにしても、その命の重さを理解していなかったのだ。

 何だかなぁと、志乃は溜息を吐いて宙を仰ぐ。

 あの頃はこんな風に遣る瀬無い気持ちで空を見上げることなどなかった。全てが順風で上手くいっていると信じていたのだ。しかし、それはいとも簡単に覆されてしまった。ここに来てからは、志乃は今まで見て見ぬふりをしてきたもの、見向きもしなかったものと向き合わされているような気がしていた。

「取り敢えず、死体を移動させましょう。もう夜も遅いからしっかりと休み、これからのことは夜が明けてからじっくりと話し合いをしなくては」

 鬼愧の言葉に長老は頷いた。

「そのようじゃな。今日は各々警戒を怠らず、十分に休むように」

 その言葉に従い、大半の者は家の中へ戻った。元々野次馬根性で出てきただけなのだ。それ以上のことには興味がないのだろう。

「ちょっと待ってください」

 だが、一部の者は違うようだ。長老に身振り手振りで訴えている。

「まだこれをやった犯人が見つかっていません。この男がそうじゃないのなら、誰がやったのかを一刻も早く明らかにすべきだ」

 長老は確かにと頷いた。

「しかし、果たしてそれが今の状態でできるのか?」

「どういう意味ですか?」

「頭に血が上っている状態では、その視界は驚く程狭い。そんな状態では見えてくるものも見えなくなり、大切なことを見誤るぞ」

 それは尤もなことだ。

 冷静な判断が下せない状態であったら、それによって周囲にどんな影響を及ぼすかはわからない。怒りや衝動に身を任せてしまえば確かに楽だが、間違いが起こりやすいのは否めない。

 特に戦場ではそれが命取りになる、ということを志乃は知っている。一応は隊長という身の上、沢山の命を預かってきたのだ。下手に突っ込めば敵の策に嵌り、逆に攻め時を見誤れば相手に付け込まれる。頭は常に冷静に、これが鉄則だ。

「では、どうすれば良いのですか?」

「取り敢えず今日は家に帰ったら? 明るくなってからの方が手掛かりは見つけやすいし、それに、ここまで大々的にやってきたってことはまずは牽制とかそういう意味あいでしょうね。そういうつもりだったら、今日は何も起こらないわ。もしもこっそり全滅させる気があるのなら、死体をこうも堂々と晒しはしないでしょう。もっとも、これが目を逸らすとかそういうことじゃなければの話だけれど」

 適当に言っているようにも聞こえるが、ある意味筋は通っている。鬼愧の言うことは強ち的外れではないのだろう。

「俺も鬼愧に賛成だ。この手の手口からして、深追いしなければまずは大丈夫だろう。相手は多分、今は様子見をしている段階だ。こちらがどうやって出てくるのかを伺っているのだろう。下手に単独行動をすればそこを付け込まれるだろうが、固まっている分にはまだ安全だ。こちらか相手がどれだけいるのかという規模は解らないが、鬼という生き物の潜在能力は未知数な分だけ相手もこちらの戦力を知ることはできない。つまり、今何が恐ろしいのかっていうと、こちらの個々の能力を把握されることだ。このことによって、相手が何らかの対策を立ててくる可能性が高くなる。だから、下手を打つことが何よりも不味い。もう少し情報を得てから動くべきだ」

 それは、志乃の実体験によるものである。年齢こそこの中では最年少であるが、それでもそれを補える程の実戦経験があった。

「意外だわ。志乃君がまともなことを言っている」

「おい、それだと俺が普段は変な奴のように聞こえるだろうが」

「別に変っていうわけじゃないけれど、志乃君って箱入りじゃない。だから、微妙に感覚にずれがある気がするのよね。普通なら子供でも知っているようなことを知らなかったりするのが良い例じゃない」

「それはまぁ……」

 志乃はぐっと言葉に詰まった。一応王子の立場にあった志乃は、身の周りのことは大抵召使がやってくれたのだ。戦場に出ている時だって、それを担う役目の者がいた。だから、そういう類のことはまるで解っていないのである。

「とまぁ、こんなことで君たちは納得してくれたかな?」

 鬼愧の視線が若者に向くと、返答は何もないが、何でお前の言うことを聞かないといけないのだと目が訴えている。舐められたままでいれるかとでも言わんばかりだ。要するに不満たらたらなのだ。血気盛んといても良いだろう。だが、それなりに思う所もあるのか反論はしてこない。

「良い、良い。取り敢えず、お開きにするとしよう。主たちもこれで納得しやれ。儂もこの二人の意見に賛成じゃ」

 渋々若者たちは頷くと、この場を離れて行った。

「そんなことよりも、今は……」

 抱き合うようにして泣き崩れている親子を見つめると、言葉を紡ぐことなんてできやしない。

 慰めの言葉なんて、今の彼らは望んでいないのだろう。所詮、それは生者が己の為に使うものなのだ。今を生きている者が心の糧として必要として、ただ救われたいというだけのことなのだ。だから、この場で最も関係の無い志乃がそういう類の言葉をかけることはできやしない。お門違いなのだ。

 志乃の心を読んだのか、長老は引き締めた表情のまま「あぁ、家族だけの時間が必要だろう」と言った。

 だが、この親子をこのままにしておくことはできない。

「お梅さんをお家に運びましょう」

 手伝うと提案をする鬼愧の言葉に男は首を振る。

「いや、大丈夫だ。俺がやる。俺が妻を運びたいんだ」

 そう言われたら何もできず、鬼愧は伸ばした手を行き場がなさそうに引っ込めた。

 去っていく親子を見つめ、残された者達は溜息を吐いた。

「もう時間も時間じゃし、我が家に泊まっていくか?」

「いや、家に帰るんで、お構いなく」

 長老の提案を間髪入れずに断る。一切の迷いがない、殆ど反射的な速さに志乃は苦笑した。

「何故じゃ。今から家に帰るのだったら、大変だろうというせっかくの厚意を」

「自分で厚意って言っちゃう辺りがどうかと思う。そういう風に言われちゃあ、押し付けがましいとは思わないの?」

「何じゃ、忌々しい」

 軽口を叩く風には言っているが、それでも鬼愧を心配してのことだろう。まだ殺人犯がこの村の外に潜伏しているという可能性は無きもあらずなのだから。

「大丈夫よ。私は強いわ。それに、志乃君もいるし」

「俺?」

 急に話を振られ、顔が引きつる。どう考えても鬼愧の方が強いだろう。この誤解を生むような初膳は正直どうかと志乃は思った。

「まぁ、そうじゃの」

 ほれ刀と渡され、思わずそれで良いのかと声が漏れた。

「いや、待て。どう考えてもおかしいだろうが。鬼愧は確かに女だ。しかし、俺よりも強いのは確実だろう。それなのに俺に振るなよ」

 悲痛の叫びはあっさりと無視され、目の前の二人は「それじゃあ」と別れの挨拶を済ませている。

「志乃君、帰るよ」

 何しているのと言わんばかりに声をかけられ、志乃は「あぁ、もう」と髪をかき乱しながらその後を追った。

 長老の言葉の通り、野次馬は家へと帰ったようで辺りは静まり返っている。篝火もなく、あるのは空の光だけだ。

 あの親子はこれから泣くのだろうか。それとも、思い出に浸るのだろうか。志乃にとっては厭な女でしかなかったが、それでもあの二人にとっては家族だったのだ。死んで良かった筈がない。

 ねぇと、鬼愧が口を開いた。

 あの後からずっと黙り込んでいた彼女が話しかけてきた。

「あの子が居て良かったね」

「何が?」

「お梅さんがいなくなってしまって、その上あの子まで居なかったら今頃たった一人だったでしょ? だから、あの子が居て良かったなぁと思って」

「まぁ、確かにそうだな」

 鬼愧の顔があまりにも必死で、何かを堪えているようだったから志乃は頷いた。

「私、あの子がいなかったら多分重蔵は自殺していたんだろうなぁって思うの」

 重蔵という名を聞き、あぁあの男の人のことかと理解した。今初めて名前を聞いたのだから、妙な感じだ。

「何でまた。あの人はそんなに弱い人じゃないだろうが」

 そう、あの人は決して弱くはない。鬼愧に接していた時や梅に接していた時に、何ら差別的なものはなかった。あの子供に接しているときだってそうだ。全て家族に接しているような感じで触れ合っていた。

 鬼愧の立場が危ういのは、今日実際に村人の様子を見た志乃にだって理解できた。それを、長年一緒にいるあの人が理解できないわけがないだろう。それなのに、自分がどう思われるのかとか風当たりを気にすることなく話しかけてくるのだ。そんな人がそこまで弱いわけがない。

「今日会っただけだけれど、見ていて解る。あの人は芯の強い人だ。子供を見ていたら解るだろう?」

 あの子供は気丈だった。それは、親の背中を見ているからだ。それが揺らぐことはないのだろう。

「そうね。良かった重蔵の生きている意味がまだあって」

「何それ?」

 鬼愧の言葉に志乃は虚を突かれた。

「だって、漸く手に入れた自分だけの家族がいなくなってしまったら、生きている意味なんてないでしょう?」

 志乃は、鬼愧が何を言っているのかわからなかった。そして、己と鬼愧との感覚の違いを漠然と理解した。

「いやだって、生きる意味がないっていうのはおかしいだろう? だって生きるっていうことに理由なんて要らない。そんなものは後からつけられるものだ。後付けの理由でしかないんだ。だから、ただ生きているっていうこと、それ自体が生きるっていう意味なんじゃないのか?」

「そんなわけないじゃない。だって、死にたくなることだってあるでしょ? どうしようもなく自分が許せなくなって、それで消えてしまいたくなることだってあるに決まっているじゃない。それだったら、いっそ楽になった方が良いって思うのは間違っているとでも言いたいの?」

 それは、志乃にも経験がないわけではない。みんな、大なり小なり通る道なのだ。もしもそういうことを考えたことがない者が存在しているのだとしたら、その者は充実しているのではなく、生について真剣に考えたことがないのではないかとさえ思う。そして、それを乗り越えた時こそ命の重みを知るのだ。前に進もうと思えた時に人は成長できるのだ。

「鬼愧にはそう思えないのかもしれないけれど、俺にはそう思えるんだ。中には生きながら死んでいるような奴だっている。絶望の淵から抜け出せない奴だっている。中には生を充実していないと思い、己を死んでいると思うのかもしれない。けど、それだって人生だ。息をして、食事をとって、睡眠を必要としているのだったら、生きているっていうことに変わりはないんじゃないか? まぁ、その辺りの定義づけっていうのはかなり曖昧かもしれないけれど」

 そこで区切ると、志乃は髪の毛を掻き回した。

「うーん、言葉にすると難しいな。特に、外傷がなくても頭を強く打って意識が戻らないっていうこともあるしな」

「あぁ、それは私も聞いたことがあるわ。一応息はしているし、排泄もしているけれど、身体が全く動かない状態っていうやつね」

「俺が聞いた話によると、外の国では、栄養素の入った管を直接身体に繋いで延命するっていう技術があるらしい。実際、そのまま何十年と生きられるそうだ。何せ、身体の方はまだ動いて息をしているのだから。けど、そういう場合はどうなのだろうな。どうやって判断すれば良いんだろうな? 人に生かされている状態は生きているのか、それとも己の意思がないのだから死んでいるとするべきなのか」

「まぁ、そうね。ここ周辺の国だったら、そういう技術がまだないから、寝かせた状態で息を引き取ったら終わりっていう感じね。人間は栄養を取れないと長くは生きられないから、そこまで長い日数はもつことはないわね。鬼の場合はそれよりも息をしている期間は長いのだろうけれど、結果は一緒だわ。だから、そこまでいってしまうと難しいところね」

「だよな。精神云々という所までいってしまうと、どこからが生きているとか死んでいるというのはわからない。けど、取り敢えず自分が生きているということについて悩めるのなら、それが生きているっていうことで良いんじゃないのか? だって、そういうことを考えられるのは生きている者だけだろうしな」

「確かに。死んでいたら考えられないことね」

 そう、案外とても簡単で単純なものなのだ。ただ、それ故に複雑でとても深いところに密接に関わった問題なのだろう。

「なぁ、鬼愧。仮にあの人に他に家族が居なかったとしても、本当に自殺をしたと思うか?」

 少し逡巡した後、鬼愧は首を振った。

「しなかったでしょうね。あの子は人の機微には敏い子だったから、たった一人でも悲しむ者が居たらそういうことはしない子だったわ」

「じゃあ、大丈夫だな」

「そう、大丈夫ね」

 大丈夫と彼女は繰り返した。それは自身にも言い聞かせているような響きだった。

 よしと呟いた顔には悲観した色がなく、吹っ切れたというわけではないが、それでも何かを納得できたのだろう。

 彼女につられるようにして前を向けば、不意に手を取られた。

「急いで帰ろうか」

「そうだな」

 鬼愧は微笑んでいた。

 殆ど自然に繋がれた手が嬉しく、志乃は空を見上げた。

 星や月が輝いていて、久々に空を見上げた気分になった。そう、高いのだ。

 それなのに鬼愧との距離は確実に縮まっているような気がして、志乃は妙にこそばゆい気持ちになった。

 不謹慎なのかもしれない。

 しかし、志乃は今幸せなのかもしれなかった。

 こんな風に同じ時を共感できるのが、ただ嬉しかったのだった。


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