其の肆
志乃はとある国の王子として生まれた。
王子といっても妾腹だ。
男児であったが、正妻に男児があった為にその継承権は低い。更に、その男児が志乃よりも年上だったとしたら尚更だ。
小さい頃から父には義兄を助けるようになれと言われ、母からは絶対に王位へと返り咲くのだと言われ続けた。
それは互いに保身の為だろう。
父は王宮内での分裂を避ける為。母は自身の居場所を確立する為。王宮というのは陰謀が渦巻くところだ。それぞれの思惑や野望があったところで何ら不思議ではない。寧ろ、至極当然のことなのだ。
それでも夫婦仲は表面上悪くはなかった。というよりも、正妻や妾という立場があったとしても、父は公平な男だったのだ。
王は国の頂点である。そして、それより下は全てが民なのだ。
つまり、妻であったとしても民に他ならない。
だからこそ、全てに置いて平等であった。しかし、女としてはそれが不満なのだろう。
志乃の他にも三人程妾はいたが、その女性たちにも常に公平であった為に、水面下では争いが勃発した。父が懸念していた争いは既に静かに始まっていたのだ。
そんなある意味殺伐とした世界の中で、志乃は幼少期を過ごすこととなる。
志乃は、勉学においては特に経済学が得意だ。寧ろ、それ以外の科目はてんで駄目だと言っても良い。
それなのに何故経済学に置いて優秀であったのかというと、それは、物事の流れや本質をよく理解していたからだ。理解していたというよりも、勘とか鼻が利いたといった方が正しいのかもしれない。
現在の状態とこれまでの資料と総合して、これからどうなるのか予測するのが高確率で当たった。その上、理論的に物事を説明することにも長けていた。そのことによって、この分野に置いては国の運営をほぼ一任される程にまでなっていた。
見抜く力と見極める力、それこそが志乃の武器だった。
それは、剣技において優れた才覚を持っていたのにも似ている。
相手の出方を伺い、そして隙を突いて一刀する。一撃で持って相手を倒すのが志乃の得意な戦術であった。
そして、それによって敗れたことは一度もない。つまりは、十割の確率で相手の技を読み、相手の業を見切る先見の明があったのだ。
これによって、志乃はこの国随一の剣士となった。軍の大将が相手であろうとも、まったく引けを取ることはなかった。
この実力を認められ、志乃は度々戦へと赴いた。そして、次々に武功を上げて武勇を築き上げてきた。
一方の義兄は、勉学は万遍なくできたが、それもそれなりといったところ止まりだった。器用にできる分、突出しているものがない。それ故に平坦で平凡に見えてしまうのだ。
武術に置いてはその片鱗も見られず、志乃は義兄が刀を握っている所をみることが殆ど無かった。
この頃から、志乃を支持する声は増えてきた。平等すぎる父であったからこそ、能力で判断するようにという声が上がるようになってきたのだ。
志乃の生国は大きな国ではあったが、不思議と周囲では争いが絶えなかった。
父王は公平な男であったというのに、本当に不思議なことである。自分の国も、周囲の国も全ては自分の民だという扱いをして贔屓などしていなかった。それなのに争いは頻繁に起こったのだ。
大国であった。しかし、否、だからこそ小競り合いが絶えない国であったのだろう。
大国というのは実は脆い。危ういという方が正しいだろう。
国が大きくなればなる程、人は増える。そして、目が行き届かなくなる部分も多くなってくる。その小さな綻びこそが、後々に避けようがない大惨事へと繋がる。つまりは、どんな頑強な砦であろうとも土台の一部が崩壊すればそれが広がり、終には全てが崩れ去ってしまうということだ。
そして、父王はそのことに気が付かなかった。その小さな罅が志乃の身を滅ぼす元凶となった。
父が死んだ。
王が崩御したのだ。
その報せを志乃は戦場で聞いた。
速く駆けの馬に乗った城の者がやって来たのだ。
「志乃様、国にお戻りください」
それは至極当然のことだった。しかし、志乃は顔色一つ変えずに「何故?」と尋ねた。
「父君が、王が亡くなられたのですぞ。早くお戻りになって弔いの準備をせねばなりません」
この国にはそういう風習がある。家族が亡くなった場合、何をやっている途中であったとしても、その全てを投げ打ってでも駆けつけなくてはならないという習慣があるのだ。
しかし、ここは戦場だ。
目の前では自国の戦士が志乃の指揮を待ち、少し離れた所では敵が潜伏している。いつ戦いが再び開始されても不思議ではない状況なのだ。
空気が張りつめている。
戦場独特の殺伐とした空気だ。
この持ち場を離れるつもりは志乃にはなかった。
ここは国の命綱なのである。国に敵を侵入させない為の最後の砦なのだ。それを任されている以上、言うなれば国民の安全を背負っているも同然。こちらが戦線離脱したからといって引いてくれるのなら、そもそも戦なんて起こらなかっただろう。誘いだと取られ、攻め入られる確率の方が高かった。
志乃は溜息を吐いた。
「悪い、戻るつもりはない」
「失礼ですが、今がどういう状況なのかお分かりなのですか?」
「あぁ、解っている。ここで戻らないのは息子として失格なのだろう」
「なら、何故ですか?」
「戻らない、というよりは戻れないだろう」
周囲を見回せば、長年苦楽を共にしてきた仲間の強い視線を感じる。死線を共に潜り抜けてくたからこそ生まれた強い絆だ。
「俺達が今やっているのは遊びじゃない。規模は小さいかもしれないが、歴とした戦争だ。お前はそれを解っているのか?」
「解っておりますよ。それがどうしましたか?」
彼は文官だ。本当の意味で戦争を理解してはいない。彼らに見えているのは数字でしかないのだ。数値しか見えていないから、ここで生きている者達の想いをまるでわかっていない。
「それじゃあ、ここを離れるということは、俺達は負けるということだ。離脱した戦いに引き分けなんてありはしない。その意味は解るか?」
「何を馬鹿なことを。そんなに経歴が大事なのですか? ご自分の父君が亡くなったというのに、それよりも勝ち続けることが大事だとでも」
矢張り、この男はまるで解っていない。周りの部下が殺気立っているというのに、そのことにさえも気づけていない。
この鈍感さは命取りだ。己が正しいと思っているから、目には見えないものに築いていない。戦場では殺してくれと言っているようなものだ。
「俺は先王にここを任された。つまり、父が俺に最後に任せた仕事だ。その想いに酬いる為にも、俺がやらなくてはならないんだ」
「後悔なさいますよ」
それは、志乃の心を案じてではない。身の置き場的な意味合いや、自分の忠告に従わなかった者に対する屈辱的に対するものなのだろう。
お好きにどうぞ、と志乃は内心で呟いた。
「ここは戦場だ。戦意の無いものはさっさと去るが良い」
冷めた目で突き放すように言えば、男はぐっと息を呑んだ。そして、悪態を吐きながら天幕から出て行った。
「大丈夫ですか?」
長年の副官が心配そうに声をかけてくる。
「あの男、王子の気も知らずに好き勝手言いやがって」
「そうですよ。あんな男、道中で流れ矢にでもやられれば良いんだ」
それを始め、次々に周囲から文句が上がる。
「文官という奴は少し勉学ができるからといって、それだけで偉ぶって本当に鼻につく」
「そうだ。実際に戦っているのは我々兵だというのに、その現状を見ようともしないくそ野郎どもだ」
「本当に動いているのはこちらだというのに、すぐに自分の手柄のようにしやがって。そして、戦いが終わればお荷物扱い。俺らは命を張っているっていうのに、むかつくったらありゃしない」
皆の不満は尽きないようだ。戦中で気が立っていることもあって、それこそ次から次へと止めどない。
ぱんっと掌を叩いた。
声に対すれば小さなものであったが、それでも一気に静まり返る。そして、視線は志乃へと集中する。
「ほら、お前達。緊張感がない。どうせだったら、さっさと終わらせて、奴らに一泡吹かせるくらいの発想にはならないのかよ」
いいかと志乃は続ける。
「これは亡くなった先王への手向けだ。派手にやろうじゃないか」
応、応、応と声が連なる。
先程までの文句はぴたりと止み、空気が引き締まった。今や、気持ちは一つになったのだ。
「さぁ、戦いの始まりだ。遅れずについてこいよ」
応、応、応。
志乃は馬に乗ると刀を掲げ、駆けだした。その後に副官、そして兵士たちが続いていく。
志乃が背中を任せても良いと思う彼らと一丸になり、その力を見せつけんばかりに振るった。
結果でいうと、志乃の軍の圧勝だった。
少年の頃より戦場に出て、十五の頃には既に軍を任される程の力量を備えているのだ。こんな所で負けようがない。
油断こそは禁物ではあるが、それでも今回の闘いも面白い程策が成功した。先が見えているのではないかという程の冴えた読みだった。
帰還後、そのまま戦の報告に向かう。
城の中は妙な空気だった。
戦から帰ってきて陰口を叩かれるのはいつものことだ。しかし、今回ばかりはどうにも様子が違った。
猜疑的なのだ。
ひそひそと何かを呟いている。
「何か、様子がおかしいですね」
当然そのことに気が付いた副官に声をかけられ、あぁと頷いた。
「おや、これは我が国の戦乱の英雄ではないか」
「義兄上」
向かいの廊下から来た義兄と出くわした。
彼は志乃を見ると、にやりと口角を上げた。完全にこちらを見下した、人の悪いものだった。
「戦とはそんなに楽しいものなのかね?」
「はぁ?」
「何て野蛮なんだ。聞けば、使者が向かったというのに、彼はけんもほろろに追い返されたとか。そんなに人殺しが愉しいとは恐れいった。流石は、鬼神なんて呼ばれているだけのことはある」
「貴様っ、志乃様に向かって無礼な」
「止めろ。ここで手を出せば思う壺だ」
刀に手をかけた副官を制止ながら、目の前の男の余裕は何だと油断なく探る。
顔を合わせれば嫌味の一つも言われるのは恒例のことであったが、それでもここまで強気に出てくることはなかった。その大仰な言動は含みにも似たものが感じられ、どうにも裏があるようにしか思えない。
「本当に野蛮だ。この私に刀を向けてくるなど、普通なら逆賊として捕らえられて当然なのだが、まぁ良い。私は寛容だから許してやろう」
「それはどうも。寛大な処置に感謝します」
棒読みでそう言い、すぐにこの場を離れようと身を翻す。
先程から頭の中で警報が鳴っているのだ。このままここに留まっていてはいけないと、戦いの中で鍛えられた直感がそう訴えている。
「志乃様、言われっぱなしでよろしいのですか?」
不満も露わにされるが、あぁと返す。
「何を言われようと、早く離れたい。ここに長居するのは得策ではない」
そこから真剣なものを認めたのか、すぐにはっと応えがある。戦場から帰ってきたばかりだけという理由だけではない剣呑さが見て取れたのだ。
待て、と背後から声がかかる。
「何でしょうか」
志乃は振り返らずに応じた。
「何故、父が亡くなった時にすぐ戻って来なかったのだ」
「それについて、貴方と議論に応じるつもりはありません」
「つまりは、暗殺を自分がやったと認めるということか」
はっと振り返った。
そこにはにやついた笑みがあった。
志乃は父が死んだのは聞いたが、それは長年の病気によるものだと思っていた。あの使者は「暗殺」だなんて言葉は一度たりとも口にしなかった。
だから、志乃は知らなかったのだ。それによって志乃がどういう立場になっていたというのかを。
「俺は父が殺されたなんて知らなかった。それに、俺はこの城から離れた所にいたんだ。俺ができるわけがない」
「開き直ったか。言い逃れできるとでも思ったのか」
「逆に聞かせてもらうが、何でそういう結論になったんだ? 三段論法を一気に飛び越えすぎじゃないか」
「貴様は父とは折り合いが悪かった。つまり、王のことを父と認めていなかった。違うか?」
堂々と、それこそ自分の言葉に酔ったような物言いだった。それは、父が死んだということをまるで悲しんでなんかはいない。それどころか、これを機とばかりに志乃を貶めにかかってきたのだ。
「言いがかりも止してください。不愉快です」
「なら、何故、戻って来なかった? 息子であると主張するのなら、すぐに帰還すべきだ。戦場などに出ているからこういうことになるのだ。人を屠ることで喜びを見出す貴様には無理な話なのかもしれんがなぁ」
志乃は一瞬言葉を失った。この男は一体何を言っているのだと耳を疑ったのだ。
志乃が居たのはこの国の防衛線ぎりぎりの所だ。つまりは、最後の砦である。そこを突破されては、国に侵入され、国の中が戦場へと変わったことだろう。それをこの男は理解しているのだろうか。
この男だけではない。あの文官にしてもそうだ。国の現状と周囲のことが見えているのだろうか。
いかれてると志乃は小さく呟いた。
何故、ここに居る者達はその異常性に気が付かないのだろうか。そして、どうして帰還した兵士に向かって嫌悪と蔑みの感情しか抱かないのだろうか。
ここは自国の城でありながら、志乃達は完全に孤立していた。
間違っているのにそれを堂々と、それこそが真実であると言わんばかりの口調で義兄は続ける。
「それこそが反逆の証。自身が戦場に居るということで、その目を避けられるとでも思ったのだろう。実に愚かな」
「それは貴様達だ。自分達が何をやっているのか解っているのか」
「それは弟が義兄に向ける言葉か。私は弟であろうとも容赦はしない。貴様に目をかけていた父の無念、父に代わって今ここで果たさせてもらう」
義兄が刀を抜いた。
そして、そのまま切りかかってくる。
志乃はほぼ反射的にその刀を鞘で受け止めた。
刀は鞘に収まったままだ。
戦場にさえ赴いたことのない男の、その緊張感も命の重みも知らない軽い刀など、その一撃が軽い。気迫というものがまるでないのだ。
そもそも、訓練さえも碌にしたことがないのだろう。ここまで様々なものを抱え、泥だらけになってでも積み重ねてきた自分というものがないだけに、それには重さがまるでないのだ。
つまり、目の前の男は雑魚でしかない。
だが、ここで志乃が切り捨てようものなら確実に己の身を追いやることになるだろう。この男を斬り、刃向ってくる者を全て斬り続ける技量こそあってもその覚悟は志乃にはなかった。
兵士というのは、国とひいては国民を守るものなのだ。国民という身内を殺す為にその力を振るうものではない。
「手を出すな」
副官に命を下す。彼がここで手出ししようものなら、彼の首などあっさりと飛ぶだろう。先程のこともある。確実に処刑されるのが目に見えている。
あぁどうしようかと志乃は思う。しかし、四方から刀を抜いた男に切りかかられ、遂にはその刀を抜いた。
殺らなければ、殺られる。
それこそが戦場で身についた覚悟である。
殺す気でかかってくる者には本気を、それが戦場での礼儀だ。そして、それを志乃は無意識の内に発揮してしまった。
義兄こそは殺さなかったが、それでも周りから襲ってきた者を一閃してしまった。
血が舞い、事切れた肉体が倒れる。
その後はもう蜂の巣を突っついたような騒ぎだった。
女官の悲鳴が響き渡り、槍や刀を構えた男たちが志乃へと刃を向ける。
その間があまりにも短すぎた。つまりは、最初から仕組まれていたということなのだろう。
志乃は反逆者とし、謀反人に仕立てられた。
このままでは国に居られなくなる。残れたとしても、その肩身はとても狭いものになる。これまで通りに暮らすことはできなくなるだろう。
だからこそ、ある意味己の保身として、己の居場所を作る為に、自分こそが王位には相応しいと主張してそれを訴えた。
しかし、それは全て却下された。既に、義兄の手がかかった者だけが高官になっていたのだ。志乃の主張が認められる筈がない。
この国は手の施しようがないくらいにまで腐っていた。このままここに留まるということは、志乃にとって危険でしかない。
そうして、志乃は国を抜け出した。
副官は当然のようについてくると主張をしたが、それは断った。あの時、切りかかってきた者に志乃は手を出したが、副官は手を出さなかった。それが全てだ。
道中、刺客には何度も命を狙われた。
中には見知った将軍も居た。彼よりは志乃の方が力量は上だった。だが、多勢に無勢。
一対一ではなく、一斉に向かってこられれば対処のしようがなかった。将軍に止めを刺した瞬間に四方八方から身体に刃が刺さった。
しかし、志乃は諦めなかった。生きるというよりも、戦うことを止められなかったのだ。
その場にいた全ての者を屠った後、志乃は覚束ない足取りで歩きだした。明らかに血が足りなかった。傷を負いすぎていた。
歩く度に足元の白を血が赤く染め上げていく。
止血なんて考えは既になかった。
意識も朦朧としていた。
それでも志乃は歩き続けた。力のない足取りで前に進み続けたのだ。
そして、力尽きて倒れた。
彼女を見たとき、最初は迎えが来たのかと思った。
だからそこで、「いきたいか」という不思議な問いをかけられたのだとそう思ったのだ。
それで応えた。
だが、志乃はそこで答えた自分の言葉は決して間違いではないと今ではそう感じている。
「俺が今ここに居るのは、お前がいるからだ。他でもないお前に助けられ、生きたいとそう思ったからここでこうして生きているんだ」
志乃は腕に抱いた鬼愧の目を覗き込んだ。その引き込まれそうな深いものと視線が絡まる。
「俺が王子をやっていたのは、篠筑国。俺はそこで権力争いに敗れて亡国した。つまりは、お前を貶めた男の子孫だ。その血を引いた末裔なんだ。なぁ、お前は俺のことが憎いか?」
それは純粋な問いだった。だがその分、勇気が要った。
しかし、鬼愧は首を横に振った。
「そんなわけない。憎めるわけがないじゃん」
ぽつりとした呟きだった。
「知っていたよ、そんなこと。君が志紀の子孫だとは知っていたよ。まぁ、彼に子供はいなかったし誠実な性格だったから、隠し子的な感じの子孫ではないだろうなぁとは思っていたけれど。そっか、あの男の子孫だったんだ」
その言葉は、思っていた以上に志乃の心を抉った。必然的に、自身が鬼愧から全てを奪った男と血が繋がっているのだと理解させられる。
「志乃君はさぁ、志紀に凄くよく似ている。性格はまるで違うけれど、顔なんて瓜二つだよ。それこそ、ぱっと見あそこ志紀が倒れていたと思ったくらいには」
何と返して良いのかわからなかった。喉が引きつった。
「それはあれか? 俺の顔が好みだったから助けてもらえたって取った方が良いっていうことか?」
つまりは、自惚れるなという牽制なのだろうか。そう考えると、自分で自分の考えに項垂れる。
「まぁ、最初はね。けど、あそこで志紀が倒れているわけはないって冷静な心は訴えていたから。だから、君が志紀じゃないってことは知っていた。それに、君に関わってみれば君は君でしかないんだもの。まぁ、最近は人に慣れていない猫が懐いてきたようで楽しかったけれど」
あぁそうかと志乃は思った。彼女の中で、まだ志紀は生きているのだ。そして、その区切りはまだできていない。しかし、志乃が現れたことで彼女は彼のことを心の中で屠ろうとしているのだ。
「鬼愧が言うように、俺が志紀に似ているのだとしたら、俺にもまだ可能性はあるっていうことだよな」
「何の?」
「いや、俺は志紀に瓜二つだっていうのなら、この顔はお前の好みなのだということで納得することにしたっていう話。胸中は複雑ではあるけれど、逆に考えることにしたんだ。俺にはまだ可能性があるって」
「だから、何の?」
少し苛ついた感じに返され、志乃は「鬼愧」と彼女の名を呼んだ。
「俺は、お前を傷つけたくない。お前には傷ついてほしくない。幸せになって欲しいんだ」
そこで、言葉を区切った。そして、鬼愧としっかりと向き合う。
「俺は、お前と生きていきたい」
愛していると言った。
それは告白だった。
誤魔化しようのない真っ直ぐな言葉に、鬼愧は視線を逸らした。口を開いては閉じるというのを繰り返し、言い淀んでいる。
「わかんない。志乃君はこんなところに放り出されて、他に頼る人がいないからそう言っているだけだよ。所謂吊り橋効果っていうやつ。そうじゃなきゃ、そんなこと言う筈がないよ。冷静になってみて? 後で絶対に後悔するよ」
「後悔はしない」
それは断言であった。
そういう自信があった。
舞い上がっているからではない。今目の前にいる鬼愧と一緒になるのが幸福なのだとそう思うのだ。
「わかんない。今は違うけれど、私はきっと君に志紀を重ね、変に期待をするかもしれにない。私も君のことは好きだけれど、恋愛っていうことになると自身はない。だって、君は君であるのに、私は志紀のことを忘れたくないんだ。君じゃなくて志紀のことを探している自分がいるんだから」
そっか、と志乃は言った。
それは諦めでも絶望でもない。ただ口から零れてきたのだ。
「待つよ、俺は」
「何で?」
「いや、だって待ちたいから。それに、ここではっきり振られていないっていうことは、まだ可能性があるっていうことだし、今はそれでいいや」
「楽観的ね。自惚れているの?」
「まさか。ただ、鬼愧を愛しているということに偽りがないから、かな。だからこそ、鬼愧が忘れたくないっていうのを無理に忘れる必要もないんじゃないかって思ってもいる。確かに、俺そっくりな男に劣っているというのは男として気が気じゃないが、それは俺がそれ以上の存在になれば良いっていうだけだから、まぁ、大丈夫さ。俺、戦に関しては負けたことはないからな」
「呆れた。恋愛も戦争も同じだっていうわけ?」
「あぁ、同じさ。だって、これは所謂駆け引きだ。俺はお前にも、志紀にも勝つつもりさ」
志乃の中に確固たる意志を見つけ、鬼愧は呆れた。どうしてこの一族はこうも情が厚いのだろうか。
「さぁ、戻ろうか。急に出て行ったから二人も心配している筈だ」
鬼愧を腕から出すと、その手を握った。
その華奢な見た目に反して皮が厚く、固い掌だったが志乃にはそれが心地良かった。そして、二人は連れ立って村へと足を進めた。