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鬼ヶ里  作者: saki
6/12

其の参

 鬼愧は、剣神と名高い鬼緒の娘として生まれた。

 その頃は鬼の数も多く、鬼の一族全体としては最善期と呼ぶべく時代。直系の子である鬼愧は姫として育てられた。

 鬼も人間も差は無かった。交流は盛んにあり、鬼と人間の間に生まれた子供も多い。互いに手を取り合い、協力して暮らしていた時代だった。



 鬼の寿命は人間と比べると驚く程長い。特に、純血である鬼愧は尚更だ。

 同じ頃に生まれた鬼達が成長していく中、取り残されていくようにして幼いままの姿を保ったままだった。

 気が付けば友人たちは結婚をし、子供を作って、順当に年老いていった。そして、寝るようにして息を引き取った。

 中には不慮な事故や病気、命のやり取りをして亡くなった者もあった。

 友人達はどんどん年を重ねた姿に変わっていき、子供たちはどんどん育っていた。やがて孫どころかひ孫までもが生まれが、鬼愧はまだ少女のままの姿をしていた。

 鬼愧の周りではそれが普通だった。

 両親も兄弟も、祖父母も曾祖父母も若い姿のままで健在だった。

 時が止まったようだった。

 周囲の時は確かに流れているというのに、鬼愧の周りだけはその流れとは無関係の所にあった。

 怪我をしてもすぐに治り、病気知らずの肉体。毒も身体に殆ど影響がない。

 何時だって周囲には置いてきぼりだった。周りの者は不老不死だと言うが、そういうわけではない。

 肉体は死ななくとも、心が死ぬのだ。

 何時しか、鬼愧の心は少しずつ腐敗していった。どんどん溶かされ、そこから流れていったのだ。

 鬼は不老不死というわけではない。ただ、それに近いだけだ。

 鬼愧の頃にはいなかったが、鬼緒が子供の頃にはその身内が自殺をしたらしい。中には己の死に場所を探し、二度と戻ってこなかった者も居た。他には、自らを殺してくれる者を探してただひたすら戦いに明け暮れた者も居たらしい。

 鬼緒は、後者だった。

 鬼は強い。それこそ、人間よりも遥かに強い身体能力を持っている。結局のところ、鬼緒は死に損なった。そしてその戦い姿から、剣神と呼ばれるようなったのだ。

 鬼愧は父が死ななかったことに安堵している。しかし、死ななかった替わりにその心はまだ死へと向かっているのかとずっと気になっていた。



 しかし、そんな鬼愧にも転機が現れる。

 鬼愧は、恋をした。

 


 鬼愧が愛したのは人間の男だった。

 彼の名は志紀。とある小国の国長だった。

 小さいながらも豊かな国で、そこに住む人々は皆が満ち足りた顔をしていた。つまりは、平和だったのだ。

 外に出れば野党や人攫いなんかが多発していたというのに、その国はそういうのとまるで無縁だった。領主である彼がきちんと制度を作り、誠実潔白な性質だった為に民からの不満など一切なかったのだ。そんな絵に描いたような国、優れた長がそこにはあった。



 鬼愧が彼と出会ったのは、狩りの最中だった。

 その頃から薬師をしていた為、頻繁に山に入った。そして薬草を採りに行ったついでに、その日の食事の材料を得るというのが常だった。


 摘んだ薬草が入った籠を背負い、崖を降りて行く。

 人間であろうと、他の生き物であろうとも尻込みしてしまうような切りだった崖だ。そこを、それこそ、道に咲いた花を踏まないように飛び越えるような気軽さで飛んでいく。

 重力を無視した脚力だった。

 跳ねるようにして崖の壁を足場にし、近くを飛んでいる鳥をすれ違いざまに手でつかんだ。

 早業だった。

 鷹もなければ弓も銃も要らない。至極簡単な狩りだった。こんな業をやってのけるなど、他のどんな者にもできない。それこそ、鬼であったとしてもできる者は少ないだろう。しかし、鬼愧にはそれが簡単にできた。

 鬼を超えた鬼。鬼らしい鬼。それが鬼愧の名の由来だ。その名の通り、鬼愧は鬼の中でも五本の指には入る程の強さを持つまでに成長していた。

 壁を弾くと今度は木の枝へと移る。衝撃が伝わり、木に停まっていた鳥が数羽飛んで行った。

 握り潰さないように足を持っていただけに、鳥は往生際が悪く羽をばたつかせている。否、鳥自身も何が起こったのか理解していないだけなのかもしれない。

 鬼愧は慣れた手つきで首を掴むと、それを捻った。縊り殺したのだ。

 初めのころは首を捩じ切ってしまったが、今では手加減するのも上手になったものだ。鳥は醜い声を一つ上げたが、それだけだった。血も出ていなければ内臓が出てきたわけでもない。絶妙な力加減であったことに満足すると、それを無造作に籠に放り込んで木の枝の上で伸びをした。

 今夜は鍋も良いかもしれないと鬼愧は思った。野菜もたっぷり入れたあれが一等好きなのだ。

 早く帰ろうと身体を動かしかけるが、その時に何やら声が聞こえた。

 鬼は聴力も良い。耳をよく澄ませてみると、確かにそれは聞こえた。

 ふむと一つ漏らした。

 まだ空は青いままだ。日暮れには十分時間はある。時間には余裕もあるようだし、少し見て来るかとそういう気まぐれを起こした。

 崖の次は木。今度は木の枝の上を足場にして進んで行く。

 でっぱった枝がある時は注意をしなければならないが、それ以外は案外早い移動ができるだけに快適だ。ぬかるんだところも段差もないだけに、楽だといえば楽だ。忍が木の上を移動するのも頷ける。

 不意に、何かが移動している気配を感じた。

 足を止めてその方を注視する。

 視界に影が過った。

 男だった。

 人間の男がもつれるような足取りで駆けて行く。怪我をしているようで、血の滲む肩を押さえている。そうしている間も背後を気にしていて、少し離れた所に目を向ければ成程と頷いた。

 熊だ。

 男は熊に追いかけられているようだ。

 あれは詰んだなと鬼愧は思った。刀は持っているようだが、肩を怪我している時点で生存率はずっと低くなる。足じゃないだけまだましかもしれないが、それでも時間の問題だろう。

 熊と出会った場合、静かにしてやり過ごすということをあの男は知らなかったのだろうか。よほどのことが無い限り、野生の動物というのはこちらから手を出さない限り、向こうからも手を出してくることはない。

 眼前では男が熊に追いつかれたようだ。刀を持っているが、それが覚束ない。どうやら、怪我をしたのは利き手の方だ。

 ご愁傷様と呆れにも似た眼差しを送る。高みの見物を決め込んでいたが、男の目を見た時に気が変わった。

 抵抗こそしているが、それが無意味だと本人は解っている。あれは、死を受け入れている瞳だった。鬼緒がふとした瞬間に見せるそれに似ていた。

 唇を一舐めすると、鬼愧は枝を蹴った。

 勢いを保ったまま熊に突っ込み、脳天に踵落としを決める。

 赤が散った。

 脳髄がぶちまけられた。

 熊の身体は地面へと崩れ落ちる。頭は原型を留めておらず、身体だって真っ二つに割れて体内のあらゆるものを晒していた。

 返り血を浴びて血塗れになった足を見て、軽く眉を顰める。男にもそれが飛び散ったようで所々が染められていた。

 彼は驚愕の目で鬼愧を見ていた。

 またかと内心では思う。長い年月を生きていたら人間を助けることは少なからずある。これが鬼だった場合は軽いのりで「しくじったみたいだわ。礼は今度するから」くらいで済むのだが、人間の場合は違う。彼らは恐ろしい化け物でも見たように怯えるか、逆にこちらに襲い掛かってくるかのどちらかだ。助けられた身でありながら、彼らは鬼を心のどこかで嫌悪している。

 だから、鬼愧はこの男もまたその類の人間だと思った。冷ややかな目で男を値踏みする。

「すげぇ」

 彼はもう一度、「すげぇ」と言った。

「うわっ、すげぇ。今の何。鬼ってこんなこともできるのか。つえぇ。かっけぇなぁ」

 凄く輝いた瞳だった。

 なぁあんたと声がかけられる。

「俺の住んでいる所にも鬼はいるけれど、あんたみたいに力を使う所は初めて見たよ。それに、そんなに立派な角も初めて見た。あんた、鬼でも結構強い方なんじゃないのか?」

「うん、まぁ」

 歯切れ悪く頷いた。

 こんな反応をされたのは初めてだった。同じ鬼達からは一段上の存在として遠巻きにされ、人間からは恐怖の対象でしかなかった。だから、こんな風に真っ直ぐな瞳を家族以外から受けたのは初めてだった。例えそれが友達でも例外ではない。彼らは彼らで鬼愧のことをやはり姫として扱っていたからだ。

「俺は志紀。あんたの名前は?」

「鬼愧」

「そうか、鬼愧か。覚えたぞ」

 そう繰り返し名を呼ぶと、まるで好物の菓子でも与えられた子供のように笑むのだ。無邪気ったらありゃしない。

 外見に反して幼い言動。変な奴。それが鬼愧の見解だった。



 それが切っ掛けで、鬼愧は男と度々会うようになった。あの後に志紀の怪我を治してやったのも一役買っているのだろう。鬼愧が作った薬の評判も上がり、その小国によく薬を卸すようになった。

 志紀に乞われ、国に行った時には必ず彼の所に顔を出した。

 だからといって、特に取り立てるようなことは何もない。ただ、世間話をして茶菓子を抓むようなそんな間柄だった。つまり、茶飲み友達だった。

志紀は鬼愧に明らかな好意を持っていたし、鬼愧も満更ではなかった。初めて向けられる感情に浮足立っていた。

 乞われて顔を出すのではなく、自ら顔を出すようになった。彼に会うことが楽しくなったのだ。

 いつの間にかその行為は逢瀬へと変わった。

 若い男女の関係に発展するのには時間がかからなかった。



 だが、二人の間には種族の違いという大きな問題があった。

 鬼愧の方は割りかと早く解決をした。

 鬼の純血ではあったが、それでも鬼愧には兄弟が居た。その為に血筋を残すという問題なら既に解決されているのだ。その上、家族は鬼愧にそういう相手ができたということを殊の外喜んだ。だから、何一つとして問題はなかった。

 一方、問題は志紀の方にあった。

 彼には兄弟がいなかった。そして、父母もいなかった。居るのは、叔父とその家族だけだった。だからこそ、志紀には血を残すという問題があった。

 鬼が正妻ということで問題があるということだったのだから、彼が人間の正妻を娶ればそれは解決されることだった。しかし、彼はそれを拒んだ。彼は鬼愧だけを愛するのだとそう断言した。

 意思は固かった。揺らぎないものを感じてか、終に叔父は折れた。


 そして、家族一同介しての顔合わせをすることとなった。


 鬼愧は舞い上がっていた。

 自慢の家族を愛する男に紹介できるのが嬉しかったのだ。

 酒宴の席に、鬼愧と志紀は始終笑顔だった。目を合わせるだけで、幸せだということが互いに感じられたからだ。

 杯は重なり、いつしか意識も朦朧としてきた。

 そして目を開けた時、一瞬夢だと疑うような惨状があった。



 一面の赤が見えた。

 無造作に転がっているものが見える。

 首だ。

 家族の首が胴体から離れて転がっていた。

 鬼愧は混乱した。夢かと思った。

 慌てて志紀の姿を探せば、彼は彼が叔父だと紹介した人物と言い争っていた。

「叔父上。これは一体どういうことなのだ。俺が少し席を外した瞬間にどうしてこういうことになっているんだ。この惨状はどう説明をつけるつもりなんだ」

 志紀は食って掛かるが、叔父は愉快だと言わんばかりに大声で笑うだけだった。にやりと口角が上がったそれからは悪意しか感じられない。全てが悍ましかった。

「やっと好機が巡ってきたのだ。御上は鬼を恐れている。鬼が反乱してくるのではないかということを恐れているのだ。だから、純血の首を差し出せばいい。そうすれば、御上はこの国を取り立ててくれる。この国は生国では終わらない。もっと大きくなれるのだ」

 狂っていると鬼愧は思った。

 鬼のようだった。鬼よりも余程恐ろしくて残酷な存在が目の前に居た。

「さぁ、お前も刀を振るえ。今こそ名を上げる時なのだ」

 男は志紀に刀を取るように促す。彼に鬼愧の首をとれと言っているのだ。

 鬼愧は唇をぐっと噛み締めた。力の入らない身体を叱咤して立ち上がる。

「貴方達は、私たちを騙したというの?」

 二対の瞳がこちらを向いた。

 志紀は振るえる声で「良かった、生きていた」と言ったが、今はそちらを気にしている余裕はなかった。

「おぉ、鬼の御嬢さん。お目覚めかね。いやはや、鬼というのは非常に恐ろしい。無味無臭だったとはいえ、人間だったらとっくに致死量である筈の毒を数千人分も口にしたのだ。それですぐに意識を取り戻すとは、もう、化け物だな」

 距離が詰められる。

 視線で舐られて、値踏みされる。

「まぁ、御嬢さんもすぐに大好きな家族の元へ送ってあげるから安心しなよ。みんな一緒なんだ、寂しくないだろう?」

「止めろ、叔父上」

 その制止の声も虚しく、彼の叔父は鬼愧に向かって刀を振り下ろした。

 刀は鬼愧の顔面を切り裂いた。

 熱い。ただ、熱かった。

 痛いのはほんの一瞬で、その後はただ生暖かい液体の温度と、傷口が燃えるように扱った。

 角があった為にそこは何ともないが、その下が拙い状態になっている。眼球が完全に切断されていた。

 男に向かおうとするが、平衡感覚が狂って覚束ない。

 死角ができたこともそうだが、毒がまだ体内に残っている。更に男が振り上げた刀が見えないし、避けられないというのを瞬時に悟った。

「死ねぇ」

 唾液を撒き散らしたまま、男が近づいてくるのが認められた。

 そして、目の前で志紀が凶刃に晒されていた。

 赤が飛び散る。

 見慣れた不吉な赤だった。

「ごめん、鬼愧、こんなことになるなんて本当にごめん。ただ、僕は君を愛したかったよ」

 志紀が倒れた。

 床へと崩れ落ちる様がやけにゆっくりと見えた。

 慌てて志紀の口元に手をやるが、反応がない。心の臓に耳を当てるが、そこは何も刻んでいなかった。

「後で始末するつもりだったが、手間が省けた。まったく、我が甥ながら馬鹿すぎて反吐が出る。政治手腕も武芸の腕もなかなかだったから、虎視眈々とこの国を乗っ取ってやるつもりだったが、鬼なんぞに恋をするから隙ができた。それがこいつ最大の失敗にして最高の汚点だわなぁ」

 高笑いをしている姿を見て、何かが弾けた。

 鬼愧は声を上げた。

 咆哮だった。

 空気が揺れ、壁が振動している。

 誰もが踏み込め名に様な異様さがそこにはあった。

 鬼愧は志紀の右の目に手を入れると、それを引きずり出し、代わりに抉り出した自分のそれと入れ替えた。神経が繋がっているわけではないから、当然のように見えはしない。寧ろ、鬼の生命力に任せた方が自然治癒する可能性はあった。だが、どうでも良かった。今はもう、全てに対してやるせない想いが込み上げてくる。

「さて、どうしてくれようか」

 誰に向けたわけではなく、そう呟いた。

 肌の色は褐色がかったものへと変化し、手が変形する。爪が伸びて、牙が唇から露わになる。

 赤い片目と、何も映さない片目が男を見つめる。

 殺気だ。

 先程まであった怒気が薄れ、今はただ殺したいという欲求だけが全てを支配していた。

 男は息を呑んだ。

 その迫力は野生の動物なんて比べものにならない。熊や狼のような肉食獣であったとしても、すぐに尻尾を丸めて逃げただろう。

 格が違う。

 生き物としての根本的なものが違っていた。

 全ての頂点に立つ、明らかな捕食者がそこには君臨していた。

「貴様だけは許さない」

 瞳で射殺さんとするような眼差しに、男は後退した。怖気づいたのだ。

「待て、待ってくれ。ほんのでき心だったんだ」

 助けてくれと男は言った。

 鬼愧は口角を釣り上げて笑んだ。

「許さない」

 言うなり、男の首を一瞬で刎ねた。

 血が飛び散り、鬼愧の全身へと降り注ぐ。顔を上げているものだから、虚ろな瞳からは血の涙が流れたようにも見えた。

 

 鬼愧はただただ力を揮った。

 目の前に居る者全てを薙ぎ払った。

 やがて、そこは血の海と化した。

 目の前に居る者は全てが敵だった。例え女子供老人であろうと、情け容赦するつもりはなかった。

 鬼と罵られはしたが、鬼が鬼だと言われたところでどうっていうことはない。ただの事実でしかないのだ。

 空が明らむ前には決着が着いた。

 城だけに留まらず、その国での生存者は鬼愧しかいなかた。



 そのことが引き金となり、鬼は危険な存在だという話が瞬く間に広まった。人間は鬼と見れば徒党を組んで見境なく襲ってくるようになった。それこそ、昨日まで笑い合っていた隣人が正義を語って殺しにやって来て、家族だった存在がよくも騙してくれたなと子供ともども屠ってくるのだ。

 そして、中には優れた武器の材料として鬼を狩る者も現れた。道徳の精神なんてどこにもない。あるのは、ただの敵だけだった。

 世界の均衡は崩れた。

 人間が襲ってくるから鬼もそれに対抗し、やがてそれは各地に飛び火した。争いが大きな戦へと発展したのだ。

 当然、鬼愧もその戦には参戦した。

 鬼からは非難され、後ろ指を指され、死ぬ場所を探しての参加だった。

 生きている意味などなかった。鬼緒の瞳の意味が漸く理解できた。

 対する人間軍で指揮を執ったのは、志紀の叔父の息子だった。

 彼には弔い合戦という立派な名目があった。その上、鬼の首をたくさん狩ったことが認められたのだ。そう、鬼愧の家族を殺した功績が認められてその地位に就いたのだ。

 戦いは熾烈を極めた。

 個々の能力だけを見るのなら、鬼の方が身体能力は圧倒的に勝る。しかし、数が違った。

 ただでさえ迫害され、その上主戦力の殆どをあの場で失った鬼には勝ち目がないというのは火を見るよりも明らかだ。

 結果、あの息子は勝利軍師となり、御上に取り立てられた。あの叔父が望んだように、その息子の手へとあの小国を含めた周囲の国はその手へと落ちたのだ。

その国は大きくなり、その後名を改め、今では「(しの)(つく)(くに)」と呼ばれている。



「……ちゃんちゃん。これでお仕舞。聞いてみたら結構単純な話でしょ? 何処にでもありそうな、誰だって考え付くような山門芝居みたいな内容なんだもの」

 軽い口調だった。

 くだらないと言わんばかりの投げやりな言い方だった。

 しかし、顔を見ていればわかる。その泣き笑いのような、どうして良いのかわからないのだと言わんばかりの表情を見ていれば、この場に居る者は何も言うことができなかった。

「けど、わかったでしょ? 私が事の発端だっていうことは」

 しかし、それは違った。誰がそう思おうと、誰がそう言おうと、例え彼女自身がそうだと思い込んだところで、彼女の所為にしてはいけないのだ。

 鬼愧は確かに強くはあるかもしれないが、全てを抱え込める程の強さはない。肉体的に屈強であろうとも、精神的には脆弱だ。ただの女の子でしかないのだ。幾ら長生きしていたところで、その時からまるで前に進めていない、止まった時間の中で生きている弱い存在でしかない。

「俺はさぁ、お前はもっと自分のことを労わってやるべきだと思う。もっと自分のことを愛して良いと思うんだけど」

「何、それ?」

「だって、お前はあまりにも傷つきすぎた。それを更に傷つける必要なんてない。気休めでも何でもいいから、自分のことを慰めても良いと思うんだ。頑張りすぎて疲れたんじゃないのか?」

 視線を逸らさず、諭すようにそう言えば、鬼愧は唇を噛み締めた。「私は許されちゃいけないんだ」と彼女は言う。

「そんなことはない。誰にだって、許される権利はある筈だ。だからこそ、人間は大金を積んでまで極楽浄土に行きたがるのだろう? そこに鬼も人間も関係はない。心を持つ生き物として、自分が救われたいと思うのは当然のことなんだ」

「それなら、私にはそういう考えが欠落しているんだ。私が救われるのは、絶対にあってはならないことなんだ」

「何で、そんなに頑なになるんだ?」

「私がいなければ、こんなことにはならなかった。いつか起こったことかもしれないが、ここまで最悪の自体にはならなかった。あの後に志紀に会いに行かなければ良かったんだ。そもそも、助けなければこんなことにはならなかったのに」

「違う。それは結果論だ」

「違わなくなんかない」

 怒声が響いた。

 夜なのに近所迷惑だなんて言っていられない。これは、鬼愧の心の吐露なのだ。彼女はあまりにも多くのものを貯め込みすぎた。

 なぁ鬼愧と、その名を呼ぶ。

 とても穏やかな感情だった。そこには憐れみも慰めもなく、ただただ凪いだ感情だった。

「鬼愧、俺さ、後悔っていう言葉はこの世に存在しないものだと考えている」

 ゆっくりと思いを伝えるように言葉を紡ぐ。これまでにないくらいの真剣さで志乃は心を語っている。

「人生っていうのは、その時その時の積み重ねなんだ。だから、その瞬間に正しいと思ったことを常に選択している。だったら、間違いようがないんだ。それで仮に失敗したとしても、その時にできる最善のことをしている筈なんだ。だから、反省はしても後悔っていうのはおかしいと思うんだ」

 戯言だと馬鹿にしたいのならそうすれば良い。だが、志乃にも譲れないものがあった。ここで引いたりしたら、鬼愧の心とは一生向き合えない気がした。

「なぁ、鬼愧。もう、良いんじゃないのか? 俺は、お前が立派にやっていると思うよ。腐らず、真っ直ぐに生きている。だから、もう、良いんじゃないのか? そろそろ前向きに生きたって。自分のことはどうでも良いなんて悲しいことは言わないでくれ。お前がそんなことを言うと、お前を慕っている奴はどうして良いかわからなくなるんだ」

 そう、心を持っているのだから、全ての者に好かれるということはまずありえない。己を嫌っている者は何処にでも居る。好きであったとしても、その人間の全てを肯定することができることなんてできるわけがない。だからこそ、たった一人であったとしても自身の味方が居たらそれだけで幸福なのだ。否定をせず、肯定してくれる者が居たらそれは奇跡なのだ。

 かつて、志乃はそういう存在が欲しかった。しかし、得ることはできなかった。だが、今は自分の力でそれを得ようとしているのだ。欲しがってばかりじゃなくって、認めてもらおうと足掻いているのだ。

 思いがけない言葉を言われ、鬼愧は息を呑んだ。志乃の真剣さに気圧され、よろけるようにして立ち上がった。

「ちょっと、風に当たってくるわ。頭を冷やしてくる」

 身を翻し、外へと出て行った。

 彼女は逃げたのだ。

 具体的には人間である志乃こそ部外者ではあるが、一人の鬼を大切に思っているという共通点から、この場の部外者は鬼愧だった。だからこそ、彼女はこの場に留まることを恐れたのだ。

 やれやれと一つ溜息を零すと、志乃も立ち上がった。

「追いかけて来る。刀を持ったままだとあれかもしれないし、預かっていてくれないか?」

 武士の魂云々というわけではないが、刀が無いのは酷く心もとない。村人からよく思われていない以上、襲われでもしたら身を守る術がなくなる。

 しかし、鬼愧を追いかけるのに刀は必要ない。寧ろ、邪魔な存在でしかないのだ。

 志乃が刀をその場に残して立ち上がれば、おいと声をかけられる。

「何か?」

「いや、さっきのはなかなか良かったぞ。鬼愧は押しに弱い。いけると思ったら一気に行け」

「お主は良い目をしている。鬼愧を頼んだ」

 志乃は泣き出したいような、笑い出したいような気持になった。

「はは、言われなくっても」

 外を潜り、外へと向かう。

 月がもう随分と高い位置にあり、村はしんと静まり返っている。

 いてもたってもいられなくなって、志乃は走り出した。

 叫びだしたくなった。

 鬼愧はあれ程自身に対して嫌悪していたのに、それを大切だと認めている者が確かに居るのだ。それが羨ましくもあり、それなのにそれを捨ててしまおうとしている鬼愧の生き方が悲しかったのだ。

 目的なんてない。

 ただ、本能のまま走った。

 本能のまま、彼女を求めた。

 鬼愧と名を呼んだ。

 その腕を掴み、力でその身体を自身の方へと向ける。

 彼女はゆっくりと顔を上げた。

「何か言いたいことでもあるの?」

 泣いてはいなかった。しかし、笑ってもいなかった。怒ってもいなかった。哀しんでいるのかもしれないが、鬼愧と志乃は別の存在だからその心はわかりようがない。己の感じるままにしか相手を理解できないのだ。

「俺は馬鹿だから、こんな時にどんな言葉をかけて良いのかなんてわかんないんだ。だから……」

 泣きたいなら泣けばいい、と言って志乃は鬼愧を懐に抱きこんだ。

 鬼愧が息を呑んだ。

 何か口を開いたのが気配で分かった。しかし、その頭を強く引き寄せることでそれを阻止した。

「なぁ、今度は俺の話を聞いてくれるか?」

 志乃は鬼愧を抱きしめたまま、己の過去を語った。



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