其の弐
鬼愧が住んでいたのは随分と外れの方だったようだ。一本道ではあるものの、ほぼ下山をするような感じで進んで行く。
辺りはすっかりと夜の帷が下りてきた。空に一番星が輝いているのを見つけた。
道中は誰も話さない。一つとして会話もなく黙々と進んで行くだけに、妙な気まずさが漂っている。
やがて、前方の方にうっすらと篝火が焚かれているのが見えた。ここがどうやら鬼ヶ里のようだ。
それほど大きな村ではない。軒数は二十~三十といったところだろう。普段どこでも目にする村のような造りの家が連なっている。
ざわめきが耳に届く。
視線が突き刺さる。
敵意を肌で感じる。
歓迎されていないということは一瞬で感じ取れた。鎧こそ纏っていないものの、刀は携えてきた。志乃の手にしている刀には自然と力が籠る。
不意に、その手に横から手が被せられる。鬼愧と目が合えば、彼女は首を振った。
「今ここで襲ってくる輩は居ない。適度な警戒なら良いが、過度に警戒をすれば逆効果よ。相手の神経を逆なですることになる」
はいそうですかと納得できるわけではないが、ここでは志乃だけが晒されている。完全に部外者なのだ。郷に入れば郷に従えというわけではないが、従った方が良いだろうという判断に基づいて刀から手を放した。
こんな大事になってしまっては、志乃を匿っていた鬼愧の立場も危うい。だが、鬼愧は嫌われてはいるが、それなりに周囲には評価される立場にあるようだから、それ程危険なことはないのだろう。それに、鬼愧が力のある鬼なら彼女に手を出そうという無謀な者はいない筈だ。
周囲の家に比べると大きく、幾分か頑強そうな造りをした家の前で止まる。よくよく見ると、この家もそうだが周囲の家だって大分年季が入っているのがわかる。
「長老、しつれいします」
男の後に続いて、鬼愧、そして志乃は中に入る。梅は男に帰るように言われ、途中で自宅へと戻った。
「さて、その若者が此度の騒ぎの元凶かい? 皆がざわめいておるわい」
しわがれた声だった。
長い月日の重みを感じさせるような重厚さがある。
「突っ立っていてもしかたがないだろう? かけなさい」
促され、囲炉裏を挟んで老人と向き合う。
男とも女ともつかない。枯れ木というよりは古木を連想させる肌に、これまた幹のような角が両耳の上から生えている。鬼愧のものに比べると劣るが、それでも彼女の養い子よりも、ちらりと見かけた村の者達よりもずっと立派なものだった。
鬼愧は俯いている。肩が震えているのが目に入り、そっと顔を覗いてみれば、志乃はぎょっとした。
「何で、笑っているわけ?」
そう、鬼愧は笑いを堪えていたのだ。しかし、声をかけたことによって爆笑した。
「いやー、そんな風に町長をやっているとあの小さかった子がと思ってなんだか笑えてくる。昔はおねしょをして泣きべそかいていたというのに、今じゃこんなしわしわになって……うける。何でそんな気取っているのかわけわかんない」
呆気にとられていると、長老が「儂は鬼愧の友人の子なのじゃよ。これでも鬼愧の次に長生きしておる」と言った。
「それにしても、主はまったく変わらない」
「それはそうでしょ。貴方ができた頃にはもう、私は人格形成ができあがっていたのよ。変わりようがないわ」
「だが、それだけ大人げがないということだろう」
「生意気なことを言わないで。悔しかったら後千年は生きることね。そうしたら、耳を傾けてあげないこともないわ」
楽しそうにしている姿を見て、志乃は「俺、何でここに来るのを渋っていたのかわからないんだけど」とぼやいた。
すると鬼愧は笑顔のまま「だって、笑えるじゃない」とは言っていたが、目は笑っていなかった。志乃は不意に、あぁそうかと気づいた。自分が何時まで経っても若いままなのに、彼女を置いて周りは年老いて先に逝ってしまうということをまざまざと見せられているのだということに。
成程、と思う。確かにそれは顔を出したくないわけだと。
話を切り替えるように、長老は咳払いをした。
「して若者よ、名はなんと言う」
「志乃です」
「では、志乃。話を始める前に聞かせてもらいたいのだが、人間から見て鬼はどういう風に見える?」
それは、鬼愧が初めて交わした会話にも似ている。もっとも、その時は志乃が殆ど一方的に捲し立てたのだが。
「どうと言われても……。一応教わったこととしては、人間を食べるとか、昔人間に悪さをして、それで人間は鬼を滅ぼしたとかそういう感じがまぁ一般的なものですね」
「成程なぁ。では、自身ではどう思うのか?」
「それは、まぁ……」
口籠り、志乃は鬼愧の顔色を窺った。先程まで笑い転げていたが、今はそれも止まり、しっかりと正面を見ている。
「それが真実だと思っていたんで、そういう感じだったとしか言えませんね。けど、今は違います。鬼愧に拾われてから、鬼と人間って何処が違うんだろうって考えることが多くなりました。だって、一緒に暮らしてみれば人間と大差ないんですもん。あの話が嘘だったって断言はできないけれど、悪い奴じゃないってそう思っています」
はっきりとした口調だった。その表情からは、嘘もおべっかもなく、ただ真実を言っているのだという自負があった。
「良い目をしている。若さというのは良いなぁ。そうは思わないかね?」
横で男はえぇと頷き、鬼愧も照れたように頬を掻きながらまぁねと言う。
「若さというのは、何にも代えがたいものだ。それは未熟と称されることも確かにあるが、それでもその時にしかない力強さがある。生命力に満ちているのじゃ。志乃、お主はそれを大切になさい。儂等のように年老いてはもう二度として手に入れることのできない、とても輝かしいものなのだから」
不思議と重みがあった。積み重ねてきたものが垣間見える言葉だった。瞳は懐古しているような穏やかさがあった。
「因みに、儂等っていうのに私も入っているわけ?」
何となく良い感じになっていたというのに、しょうもない鬼愧の問いかけに、全員の視線は彼女へと集中する。全員が無言のまま、少し引いた目をした。
「何、その目は。目は口ほどに物を言うのよ。言っておくけれど、私はまだまだ若いわ。現役よ」
「年を取った者程そういうものだ。確かに見た目は若いが、一番の年長者であろう」
「そうじゃ、儂よりも千は上のくせに何を若者ぶっているのだか」
「力も体力も衰えていないわ」
「だが、自分でそう思っているだけだとは思わないのか? 肌とかそういうところで、思わぬ差が出てくるものだぞ」
「いい加減、自分の歳を理解することをお勧めする。若い若いと思っていても、いつか皺寄せがくるものじゃよ」
見た目こそ若いが、それでも誰よりも年長者な少女は悔しげに唇を噛んだ。そして、志乃の方を向く。
「志乃君は、私が若いと思うわよね」
肩を掴まれ、同意を求められる。確かに若い。志乃よりも年下に見える。だが、そう断言できないところも生活する節々で見えてくるわけで、志乃は視線を逸らした。
「……無回答で」
その途端、鬼愧は「畜生っ、男なんて」と突っ伏した。何て声をかけるべきかと手を伸ばすが何もできず、おろおろとしていると「いい加減にせんか」と助け舟が入る。
「これからする話題をことの他主が嫌悪しているのはわかる。だが、そういう変な風に無理やり話を逸らそうとするのは止めんか。妙に現実的な分だけ、こっちとしてもどう接して良いのか複雑な気分になるんじゃ」
何処か遠い目をしている。何となく、志乃も居た堪れない気持ちになっただけに、それは理解できる気がした。横を見れば、あの男の人も似た目をしているだけに、気持ちは同じだということだろう。
「それで、その触れたくない話題とは?」
話の先を促せば、「鬼と人間との間で起こった大戦について」と長老は言う。
正確な年齢の推定はできないが、彼女自身が先の大戦で力を揮ったとは言っていた。だから、その戦いに関わっていたとしても何ら不思議ではない。
「志乃、お前は鬼愧のその傷がどうやってついたか、つけたのは誰かという話を聞いたことはあるのか?」
答えは否だ。
これまで何度でも聞くことはできたが、それでもあまりにも堂々と晒されているだけに、逆に聞くことができなかった。だが、気にはなっていた。何でもないように振る舞ってはいたが、それでも、志乃が思うに彼女の右目は光を宿してはいない。右からのことに関しては反応が薄かった。つまりは、失明しているということだ。
「それは、その大戦が起こるきっかけとなった、ある事件に関係している。そして、それによって、鬼を不利な状況に陥らせたのは鬼愧だと皆は思っている」
志乃は息を呑んだ。驚きに目を見開く。
「一応、鬼達の間ではそういうことになっている。そして、それ以外を皆は知らない。その少ない情報しか知らないんだ。だからこそ、本来なら上の立場にある鬼愧が周りの鬼達から侮られるという立場になっている。本当は、誰よりも俺達のことを考えてくれているというのに」
「左様。皆は何も知らない。そして、深くは知りたがらないのじゃ。しかし、鬼愧が全ての元凶ということにされている。つまりは、誰か一人を貶めることによって自分は救われようとしている。誰かの所為にすることによって、その憂さを晴らそうとしているのじゃ」
「自分は惨めじゃない。自分よりも下がいるって思うことによって、自分を慰めているのだろうな」
「つまりは人柱じゃよ。鬼愧が犠牲になることによってこの鬼ヶ里は成り立っている。鬼愧によって生かされている」
二人は訥々と言葉を漏らす。
鬼愧は何も言わない。
「何で、何も言わないんだよ」
彼女の方を向けば、驚く程の無表情だった。感情と呼ばれるものの一切が排除され、驚く程の冷たい目をしている。
それを見た瞬間、志乃は居た堪れない気持ちになった。何で、彼女がこんな目に遭わなくてはならないのかという怒りが込み上げてきた。
志乃は立ち上がり、「何だよ、それ」と怒鳴った。
「鬼愧が悪くないと解っているのなら、何でそういう風にしないんだ。ここに来て間もない俺にすら、こいつがどんな立場なのかは分かった。それなのに、身内であるお前たちは何もしないというのか」
怒りも露わにするが、そんなことはこんな若造に言われるまでもないのだろう。二人は長い間、鬼愧のことを憎からず想っているのだ。何度も考えたに違いない。だが、何もできなかった。それは、当人である鬼愧本人がそうしようとしていないことに他ならない。
鬼愧は己のことに驚く程無頓着だ。無防備というよりも、無謀だとさえ言っても良い。稀に、他人の為に死力を尽くしてまで行動できる者がいるが、その反面、自分のこととなるとてんで駄目だという人間はいる。そして鬼愧は、典型的にその型に嵌った生き物だ。
鬼愧と一緒に暮らすうちに、志乃は思った。鬼愧は自分自身のことが嫌いなのだと、自身に何よりも絶望しているのだと。
唇を噛み締めていると、頬に手が伸ばされた。
「志乃君、何で君がそういう顔をするの?」
「だって、悔しいだろう。哀しいだろうが」
「何故?」
「だって、自分が好きな奴周りの奴らに悪いように言われたら、誰だって厭に決まっているだろうが」
そう、志乃は鬼愧に惹かれていた。
ずっと、そうだったのだ。彼女に触れ、ずっとこの想いは育っていた。
本当ならもっと想いを育み、それから口にした言葉だ。こんな所で勢いに任せて言う言葉ではなかった。
二つの対になった瞳が志乃に向いていたが、それでもそれは気にならなかった。何故なら、志乃は何も間違ったことなど言ったつもりはなかったからだ。
ありがとうと鬼愧は言った。
眉根を寄せた、何処か困ったような笑みだった。
「ここから先は、私の口から言おう」
しかしと横から制止が入ったが、鬼愧は首を振った。
「聞かせてあげよう。志乃君には聞いて欲しいんだ。今は鬼達さえも知らない真実の物語を」
鬼愧は語る。
自身の過去を。彼女が鬼達に招いた悲劇にして喜劇を。