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鬼ヶ里  作者: saki
4/12

其の壱

 雪解けが大分進み、所々春の兆しが見えてきた。

 風はまだ少し冷たくはあるが、それでも暖かくなってきたのは事実だ。

 麗らかな昼下がり、志乃は日差しの下で大きく伸びをした。

 鬼愧に拾われて数か月、すっかりと傷も癒えた。痕は残ってしまったが、それでも服に隠れる位置だ。五体満足でこうして生きていることに感謝の念を抱く。

 薬師というわけあって、その腕は本物のようだ。そうでなければ、この傷から出た血によっての失血死、傷口が膿んで悪化する場合だってあった。そんなこともなく、回復に向かったのだからたいしたものである。

 熱に浮かされたことも多々あったというのに嫌な顔一つせず、甲斐甲斐しく看病する姿は人間よりも余程人間らしい。それも、志乃からは大した礼ができるわけがないのを承知でやってくれているのだ。

 つまりは無償だ。

 この関係は彼女の温情によって成り立っている。食べ物も住処も与え、身の世話を一手に引き受けてくれている。金を払ったところで、ここまで尽くしてくれる者なんてなかなかいないだろう。

 こんな何でもない時に、志乃はふと思う。人間と鬼とどこが違うのか、と。

 初めて会った時に彼女の言った通り、何ら変わりのないように思える。慈悲の心や思い遣りの心などといった道徳の精神はちゃんともっているし、物語にあるように人間を食い物にしているわけではない。生活だって至って普通だ。角が生えているというのを除いて、どこに違いがあるのだろうか。

 人間の間で言われている鬼の姿とはまるでかけ離れていて、それだけに戸惑いが隠せない。彼女には理性も知性もあって、その深い知識に触れた時にはただ感心させられるばかりだ。そして、彼女の人となりに触れた時、もっと知りたいと思うのは志乃が利己主義なだけなのだろうかと、最近はそればかりを考えてしまう。

 深く考え込んでいる自身に気付き、志乃は首を振る。頭の中から考えを追い出そうとした。

「志乃君」

 あの柔らかな声音が悪いのだ。親からも聞いたことのない穏やかさなのだ。だからこそ、無性に気持ちが浮足立ってしまうのだろう。落ち着かないのだ。

「志乃君」

 もう一度、今度はさっきよりも大きな声で名前を呼ばれた。「何」と返事をする。

「どうしたの? 何かぼうっとしていない?」

「そう?」

「そうだってば。だって、さっきから呼んでいるのに気付いてくれないんだもの。暖かくなってきたからって、呆けているんじゃない?」

「違うって」

 ぼうっとしていたのは事実だが、それでもはいそうですかとは頷けずに否定すれば、「本当に?」と鬼愧は目を細める。疑うというよりは、からかうといった意味を含んだものだった。

 そして、「まぁ、良いんじゃない」と彼女は言った。

「平和って証拠だもの。何にもなく、ただ穏やかに日々が過ごせるのなら、それって本当に良いことだって思うもの」

 今日は本当に良い天気ねと空を見上げる鬼愧の姿から、彼女が巷で言われるような鬼だとは想像できる者がどこにいようか。残虐性なんてまるでなく、ただの女の子にしか見えない。

 ふと、彼女が志乃の方を見た。思わず見すぎたかと考えたが、鬼愧はにこりと笑んだだけだった。それを見ると、また、どうしようもない感情がこみ上げてきた。

 志乃はこんな感情は知らなかった。こんな、叫びだしたくなるような掻き毟りたくなるような、その何処かで心地良さを覚える心音など今まで感じたことがなかった。

 しかし、鬼愧は唐突に表情を一転させた。

 はっと目を見開いた。

「まずい。志乃君隠れて」

「何だよ、急に」

 あまりにも急に切羽詰まったように言うものだから、志乃は困惑した。だが、鬼愧は構うことなく言葉を繋げる。

「良いから、家の中に入って。食料庫の中にでも隠れていて」

 絶対に出て来ないでと念押しされる。何が何だか解らないし、納得なんてできないがその剣幕に押されて家の中に戻った。しかし忠告の通りに地下室へは向かわず、「一体何だっていうんだよ」とぶつくさ呟きながら戸の隙間からそっと外を伺う。

「こんな辺鄙な所にまで来るなんて、珍しいわね」

 戸を背にしているため、鬼愧の顔は見えない。耳に届いた声音は優しげではありながら、どこか警戒をしたような鋭さが微かに感じられた。

「珍しいも何も、用がなければこんなところまで来ないよ。村で唯一の薬師が居るんだったら、辺鄙であろうと何であろうと、足を運ぶしかないだろう。あたしらはあんたと違って、病気も怪我の治りも早いわけではないのだから」

 対する声も、親しさというものが一切感じられない。吐き捨てるような憎々しげな、刺々しいものが含まれていた。

「わざわざすみません」

「そう思うのなら、早く村の方まで足を運んでおくれよ。ここんところ、まったく出てこないじゃないかい」

 あぁ疲れたなんて白々しくも言われたら、直接言われたわけではない志乃の方が苛っとした。傍から聞いていてこれなのだから、耐えている鬼愧の辛労は計り知れない。

「それで、今日はいつもので良いのかしら?」

「あぁ、それで良いよ。あと、傷薬もちょっと分けておくれ。こっちは家族が居る分、冬場は肌の荒れが激しいんだよ。一人身のあんたと一緒にしないでちょうだい」

 その直接的な皮肉に、志乃は今にも出て怒鳴りたい気持ちを抑えるのに必死だった。好き勝手言いやがってと、その胸倉を掴んで睨みつけたくてしょうがなかった。

「そうですね。とってきますので待っていてください」

「あんた、こんな所まで足を運んだ客に茶の一つも出さないのかい。家に上げて休ませることくらいするのが常識っていうやつじゃないのかい」

「……そう、ですね」

 微妙な間があった。どうぞと鬼愧が家の中へと促す声を聞き、志乃は慌てて取っ手を掴み、半地下となっている食料庫へと身を潜めた。

「汚い所で恥ずかしいのですが」

 鬼愧の言葉とは裏腹に、薬の材料以外は必要最低限の物しか置かれていない室内が汚い筈がない。文句のつけようがなかったのか、女はふんと鼻を鳴らした。

「茣蓙くらいしかないのですが、お使いください」

 今お茶を淹れますと、事務的な坦々とした口調で言った。感情がまるで籠っていなかった。

 志乃はそっと上戸を上げて室内を見回す。鬼愧と、初老に差し掛かったくらいのいかにも図々しそうな女が居るのを認めた。額の真ん中から、鬼愧のものとは比べものにならない程小さな角、それこそひよこの嘴並みのものが生えている辺り、あの女も鬼ということだろう。

「これ、あんた、こんなのを持っていたかい?」

 指差されたのは、壁際に積まれた志乃の鎧だ。刀も一緒に置かれていて、訝しがった女はそれを手に取った。そして、乱暴に引き抜く。

 自分の刀を乱雑に扱われたのだ。この野郎と志乃は呟き、今にも飛び出そうとした。しかし「お梅さん」と、鬼愧の怒号のような怒声が響き渡る。

 空気をびりびりとするそれがあったと思った瞬間には、鬼愧は対角線上で反対の位置まで移動していた。つまり、反対の端まで動いていたのだ。そして、その手には志乃の刀を握っている。

 瞬きもする間もない程の一瞬の動きであり、見ていた志乃は勿論のこと、梅と呼ばれた女も刀を奪われたことなどまるでわからなかったのだろう。鬼愧と己の手を見てはぽかんと口を開けている。

「すみません。これ、大切な物なんです」

 にこりと笑んではいたが、追随は許さないと言わんばかりの凍てつくような笑みだった。そこには無言の圧力がある。

「親しき仲にも礼儀あり。もっとも、私とお梅さんはそこまで親しいというわけではないですよねぇ。だからこそ、人様の物を勝手に手にするのはどうかと思うの。そちらこそ、常識どころか礼儀を疑ってしまうわ」

 梅はかっと赤くなった。先程の自身の言葉を上げ足に取られるような形になったのだ。しかし反論しようにも、鬼愧の言葉の方が正しい。ここで何かを言おうものなら負け犬にも等しい。

 志乃は胸がすかっとした。流石は鬼愧だと、口笛を吹きたくもなる。

「それじゃああんた、これはどういうつもりだい?」

 繕った後はあるが明らかに上等な男物の羽織やら、日常的に使っていると思われる二人分の食器を指差すが、鬼愧は特に慌てることなく「私だって見た目は若いのですから、そういうことだってあるでしょうね。そういうのを問いただすのは野暮っていうやつでしょう」と軽くかわす。ここで取り繕いもすればぼろが出るというものだが、そういう風にさらりと言われれば、納得することはできなくとも深く追及することもできない。ここの空気は完璧に鬼愧が握っていた。

 梅はまだ、「あんたの口からそんなに浮ついた言葉が出るなんて、終ぞ思わなかった」とぶつぶつ言っていたが、鬼愧の「幾つになろうとも、女は女ですから」とやんわりとした言葉がその先を許さない。

 やがて、「お茶を淹れたので、どうぞ」と湯呑を置き、「では、私は薬を出しますので、少しお待ちください」と言うと、棚の引き出しを開ける。

 敵わないと分かったのか、鼻を鳴らすと梅はおとなしく茶を啜った。

「そういえばあんた、食料の方は大丈夫なのかい?」

「何のことでしょう?」

 鬼愧は手を止めて振り返った。

「最近、頻繁に狩りをしているようじゃないかい。男衆がそう言っているのを聞いてね。ただ珍しいと思っただけさ」

「別に何でもないわ。冬眠中の動物でしたら簡単に殺せますから、非常食を作っていただけ」

「本当かい? あの、必要最低限の獲物しか狩らないと言っているあんたがねぇ」

「今回はたまたまですよ、たまたま」

 ふーんと、猜疑心も露わに「まぁ、そんなに食料があると言うのなら分けてもらおうか」とそう言うなり、鬼愧が止める間もなく梅は食料庫の取っ手を上げた。そして、身動きできない志乃は梅と目が会った。

 人間だ、と唇が動いた。

 次の瞬間、唇が捲れ上がって驚く程に発達した犬歯が見えた。牙だ。

 牙を露わにし、吊り上った目で鬼愧を睨みつける。爪も伸び、手は太く変形し、その力で今にも取っ手を握り潰さんばかりの迫力があった。

「あんた、人間の男を匿っていたのかい」

「確かに彼は人間だけれど、お梅さんが思っているような類の者ではないわ」

「何を言っているんだい。あたしらを裏切るつもりか」

「ちょっと、お梅さん。聞いて」

 鬼愧は彼女を宥めようとするが、今にも掴みかからんばかりのぎらついた瞳を隠そうともしない。

「だったら、どういう訳なんだい。村の男衆に目向きもしないと思ったら、若い男が好きだって? とんだ阿婆擦れだね。確かに人間の男は若い。若い男だったらから、誑かされたって口かい?」

「おい、いい加減にしろよ。こいつはてめぇが言うような奴じゃねぇよ。言いたい放題言いやがって。鬼愧は黙っているが、こっちが我慢できねぇよ」

 食料庫から出て、梅に向かい合う。猛獣というよりも、獰猛な獣だ。獲物を前にして飢えを隠そうともしていない。

「人間が口を出すんじゃないよ」

「それじゃあ、そっちこそこっちの事情に首を突っ込むなよ、うざったい」

「人間風情が生きがるんじゃないよ。人間は口ばかりが達者で、中身はてんで餓鬼だ。獣なんかよりも余程性質が悪い。そして、そんな餓鬼ばかりに構ってさぁ、鬼愧。だからあんたは懲りないんだよ。またこんな変なのを拾ってきて。前のであんな目に遭ったっていうのに、何を考えているんだい」

 その含みを持たせた言い方が妙に引っかかる。瞳は完璧に侮蔑した風に鬼愧のことを見下している。

「どういう意味だ?」

「そうか、あんたは知らないのか。なら、教えてやろうか。こいつはねぇ「いい加減にしてください」と、鬼愧はその上に言葉を被せた。

「不愉快だわ。貴女はまだその時に生まれていなかったでしょうが。それなのに、知ったかぶりをして何を偉そうに。それ以上続けるというのでしたら、それ相応の覚悟があると取っても?」

 吐き捨てるように言った後、鬼愧は俯き気味だった顔を上げた。

 赤だ。

 瞳が爛々と輝いている。

 呼吸ができない。志乃が初めて会った時に向けられたそれよりを遥かに上回る圧力だった。

「貴女如きが、名に鬼を冠した私に勝てると思っているのかしら?」

 空気が振動した。

 家鳴りが起こる。

 文字通り、鬼愧を中心として圧力が広がっている。それは様々なものを押しつぶし、周囲のものを圧倒させて押しつぶそうとしていた。

 怒りだ。

 鬼愧は怒っていた。

「それで、貴女はどうしたいのでしょうか?」

 唇が三日月のように模る。発達した犬歯がきらりと光った。

 ゆっくりとした足取りで距離を詰めてくる。見ている方が哀れに思うほど、梅は怯えていた。

「絞殺、撲殺、毒殺っていうのがお手軽と言えばお手軽ね。それに今丁度手元には刀があるから、斬殺っていうのもありだわ。否、惨殺か。先の大戦があったとき、厭でも人間をいっぱい屠ったわ。数なんて数えきれないくらい命のやり取りをした。だから、慣れているのよ。場合によっては拷問なんかもして、えぇ、本当にたくさんの血を浴びたわ。平和呆けしている今じゃあ考えられないほどたくさん、ね」

 それは冗談ではないのだろう。彼女は事実を口にしているだけに過ぎないのだ。

 あまりにもの豹変ぶりに志乃の喉が鳴った。唾液を嚥下する。

 鬼愧は狂ってなどいない。人格が変わったようだが、あくまで正常のまま言葉を口にしている。つまり、彼女にとっては事象を述べているだけに過ぎないのだ。

「さて、どれが良いのかしら?」

 ひたりと刀の腹を梅の首に当てる。

 刀は、志乃の時のように鞘に収まっているわけではない。勿論、刃挽きなどされていない。切れ味は良い。それも、抜群に。

 本来なら刀は使い捨ての消耗品だ。数人も人間を斬れば刃毀れや脂ですぐに駄目になってしまう。それを解消できるよう、極限にまで切れ味を上げる為に刃は反対側が透けて見える程にまで薄い。強度はまるでないが、それを補えるように鞘は丈夫なものを使っている。それこそ、周囲では鉄の替わりに鬼の骨を使い、鞘には金剛石を使っていると謳われて「鬼殺し」と銘打たれる程に。

「鬼殺しが本当の鬼殺しになっちまう」

 志乃の呟きを拾った鬼愧は、へぇと言葉を零した。

「この刀、鬼殺しっていうんだ。成程ね、良い刀よね。何せ、本当に鬼の骨――それも角を使っているんだもの」

「それって、謳い文句じゃないのか?」

「まさか。この類のものは先の大戦があったころに、数はそう多くはなかったけれど出回っていた品よ。私も何度か戦場でお目にかかったことがあるわ。まぁ、角となると本当に希少ではあったけれどね」

「あんたも戦場に出たのか?」

「えぇ、勿論。だって、私は鬼の直系だもの」

「どういう意味だ? 鬼は鬼だろう?」

「鬼の中にも血筋があるのよ。人間と混じれば子を授かる確率が高い為、長い歴史の間で鬼は人間との合いの子を度々作った。しかし、鬼としか交わらずにその血を守り続けた者が居る。人間の血が一滴たりとも入っていないその者達のみ、名に「鬼」の文字を入れることが許されている」

「それじゃあ、鬼愧も?」

 えぇと頷く。

「私も鬼の直系よ。そして、鬼の強さはその角の大きさに比例する。あとは寿命もね。角が立派であればあるほど、強くて長寿っていうのが私達の常識」

 だから鬼愧は、外見的にはどう見ても年上である梅のことを若輩者扱いしたのだ。

「強い鬼であればあるほど、その肉体は屈強よ。鬼の骨は何にも勝る鋭さがある。特に、鬼の肉体の中では角が一番頑丈なの。だから、鬼を殺すために殺した鬼の死骸から剥いだ角や骨を打ったのよ。この刀、刃毀れ一つとしてしたことがないでしょう?」

「あぁ」

 思い返してみれば、志乃は初陣の頃にこの刀を手にして以来、刀を取り換えたことがなかった。

「攻撃は最大の防御なり。強度がないから諸刃の剣ではあるけれど、優れた腕前の者が使えば、まさに最強の一振りと化す。一歩も引かず、果敢に攻められる者にしか扱えない代物よ」

 本当に残酷よね、と鬼愧は続ける。

「巷では根も葉もないことが真実の歴史だとされ、鬼達はもう絶滅したことにされている。そして、その原因が原因なだけに私は私自身に絶望するわ」

「なら、あんた一人で逝きなさいよ。あたし達はみんな思っているわ。確かに血筋は上等なものであったとしても、あんたの所為で鬼達は滅亡の危機に瀕した。だったら、責任を取ってあんたが死ぬべきだ」

 えぇそうねと、無感情な声がした。

「だったら、一人くらい道連れにしたって良いでしょ? どうせ、鬼は極楽になんて往けるわけがないのだから」

 泣きそうだと志乃は思った。

 親とはぐれて迷子になった幼子のように、どうして良いかわからない表情を鬼愧はしていた。だから志乃は彼女の名を口にしようと、唇を開きかけた。

「止めんか」

 しかし、それは横から入った制止の声によって遮られた。

「鬼愧、刀を下ろしてくれ。非礼なら俺が詫びる」

 初老に少し差し掛かる年齢の男だった。言葉の通りに「この通りだ」と頭を下げられ、鬼愧は興醒めだと言わんばかりに刀を鞘に納めた。

 刀が下されると、梅はすぐに男のもとへとかけて行く。

「あんた、何でそんなことを言うんだい。こんな性悪女に。この女がいなければこんなことにはならなかったというのに」

 男は「梅」と名を呼ぶ。

「まったく、いつまで絶っても戻ってこないと思えば、お前もお前だ。それは村で禁句とされていることだ。もう終わったんだ。それを今更穿り返す必要なんてない」

「けど、この女が」

「この女ではない。鬼愧だ。この人がそう呼ぶように言うからそうなっているだけで、本来なら様をつけなくてはならないのだぞ」

「そんなに血が大切なの? こんな女でも純血ってそんなに大事なわけ?」

「それは違う。彼女が彼女だからだ。確かに彼女のしたことは重大なことだ。だが、それは遅かれ早かれなっていたことだ。そして、それを引き起こしたのがたまたま彼女だったというだけのこと。その後はみんながちゃんと知っている。彼女は俺達の為に東奔西走と忙しくしてくれた。彼女がいなければ鬼は疾うに途絶えていた。だから、その責を彼女に全て押し付けるのは間違っている」

「でも……」

「でも、じゃない」

 叱咤され、梅は口を噤んだ。

「本当に、妻がとんだ無礼を。俺は人間のことは好かん。だが、こちらに負はある。この場は君にも頭を下げたいと思う」

「いや、別に……」

 志乃は毒気を抜かれた。明らかに年長であるというのにも関わらず、こんな若造に頭を下げたということもそうだが、何よりもその実直な物言いに驚いたのだ。人間は年を重ねれば重ねる程、己の非を認めることができない。特に、権力が絡んだ時はそうだ。この場合は種族間に互いに嫌悪があるというのに、それでも先に頭を下げることができたこの男の誠実さに驚いたのだ。

「あーぁ、君が出てきたんじゃあこの場は収めるしかないか」

「ありがとうございます」

 きっちりときれいに頭を下げている辺り、この男は鬼愧に対して敬意を払っているようにも見える。彼の妻とは大違いだった。

「人間、不思議か?」

 話を振られ、志乃はどきりとした。しかし男は気にすることなく、「単純な話だ」と言った。

「俺はこれでも、現存する鬼の中では長く生きている部類だ。俺が生まれた頃には戦いが終わって数年と経った後だったが、それでも貧しくてひもじい思いをすることの方が多かった。あの頃は本当に皆が肩を寄せ合って生きてきた。その最中に親を亡くし、鬼愧に育ててもらったのさ。つまり鬼愧は俺の親代わりであり、恩がある。そんな存在を敬わない奴が何処にいる?」

「成程ね、納得したよ」

 育て親に敬意を払うのは至極当然のことだ。深く付き合っているのなら、鬼愧の内面をよく知っているのであろう。それなら、彼女に好意を持っていたとしても何ら不思議ではない。

「さて鬼愧、行くか」

 彼は鬼愧に顔を向けるが、彼女は両手で大きくばつを作って首を振る。

「厭よ。私は行きたくなんかない」

「どこかに出かけるのか?」

 あぁと男は頷いた。

「長老の所へ行く」

「絶対に厭」

 間髪入れずに否定の言葉が入る。顔まで顰めているのだから、本当に拒否しているようだ。

「我儘を言わないでくれ」

 幼子を諭すような声音だった。これじゃあどちらが本当は年上なのかわかったものではない。

「だったら、志乃君のことを誰にも言わないでくれたら良いわ。この場だけの秘密ってことにしてくれたら解決よ」

「俺を困らせてくれるな、鬼愧」

 彼は溜息を吐く。

「鬼愧が面倒を見る気になった人間だ。現に見逃せと言ってくるのだから、悪い奴ではないのだろう。だが人間にこの場を知られた、それが問題なんだ。若い連中は人間を見たことのないという奴も多い。中には血気盛んな者だって。だからこそ、彼に対してどういう対応をすべきなのかを決めなくてはならない」

 そうだろうと同意を求められれば、鬼愧は渋々頷いた。

「揉め事があったら、長老の所で話し合う。それがここでの決まりだ。だから、長老の所へ行こう」

 流石の鬼愧も養い子には弱いのか、それとも彼が言うことが正しいからか、志乃が思うに多分その両方の意味で彼女は両手を上げて降参を示した。

「わかったわよ。行くわよ。行けば良いんでしょ」


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