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 僕たちはまた、自転車にまたがった。

 一心不乱に漕いで、ただ前だけを見て走った。

 星野さんが僕の腰に手を回していても、ただ、冷えた体温しか感じなかった。

 雨が強くなるにつれて、彼女の熱はどんどん下がって行く。

 大雨の中を、僕たちはまるで泳いでいるようだった。不運なことに僕が走り出したのは上り坂で、体力を多く削られてしまった。


「あそこだ!」

「え、聞こえない?」

「あそこに行こう! ほら、そのカーブの先!」


 雨音にかき消された声を聞き、僕はカーブを曲がり、近くに見えた屋根の下に入った。

 遊歩道と公園の中間ともいったような場所だ。自転車から飛び降り、放り投げるように置いた。


「ふう……、全くびしょ濡れだな」

「天気予報ではそんなこと言ってなかったよ」

「あんまり走ったから、地域が変わったんじゃないか?」

「自動車じゃないんだから、そんなことないでしょ」

「それもそうか!」


 焦げ茶色の屋根に、焦げ茶色のベンチ。三つのベンチがコの字になっていて、僕と千晶は対角線で座った。

 多少は横から水が入って来るが、雨宿りには十分だった。


「あ、お前!」

「何でこっち見て笑うの?」

「制服の泥、すっかり落ちてるぜ? あたしと来てよかったじゃねえか!」

「よかったって……本当だ。でも星野さんの方が、後輪から撥ねた泥がついちゃってるよ」

「いいんだよ。あたしはどうせサボるつもりだったんだしよ」


 指を差しあって、僕たちは二人で笑った。

 屋根の下に来ると、雨音はまるで誰かの笑い声だった。


「……で、何の話をしてたんだっけ?」

「えーと、僕の話? それとも星野さんの……」

「ま、どうでもいいか。それよりさお前、星野さんってもうやめろよな」

「じゃあ星野さんも、お前っていい加減やめてよね」

「ああ、そうだな。憲一っ!」


 やっぱり……と僕は呆気にとられてしまっていた。

 気のせいではなかった。一度だけ、彼女は僕の苗字を呼んだ。

 これで、僕は確信していた。彼女は僕の名前をちゃんと……覚えてくれていたんだ。


「千晶……。僕のこと、知ってたの?」

「いいか? 中間の時の順位。あたしの一個上は憲一だったんだよ」

「う、うそ!」

「嘘ついてどーすんだよ。下に興味ないってんなら、足元すくわれるぞ」

「ふ、不良と順位がそう変わらない……」

「だから失礼だな。ま、でも憲一もあたしのことは知っててくれたみたいだし、いっか。原因は悪い噂みたいだけどさ」


 千晶が目を細めたのを見て、僕の方から吹き出してしまった。

 少し間を置いて、彼女も笑った。びしょ濡れの二人が大笑いしているのがさらにおかしくなって、僕はさらに笑った。


「本当に、千晶のこと全然知らなかったよ」

「あたしも同じだよ。ただのネクラかと思ってたぜ」

「千晶も十分失礼だ」

「あたしは自覚してるからいいんだよ」


 千晶はにひひと笑うと、すぐに真面目な表情に変わった。

 真剣な雰囲気は、雨と土の混ざった匂いに似ていた。


「そういえばさ、今朝、どうしてあんなにぼーっとしてたんだ?」

「ああ、そのこと。ごめん……」

「今謝ったって仕方がないだろ。そうじゃなくて、あたしは理由を聞いているんだよ」

「理由……ええと、はは……」

「なっ、何で照れてるんだよ!」


 ついつい、記憶につられて上を向いてしまった。

 思い返すだけで、顔が熱くなってしまう。我ながら、恥ずかしい理由なのだから。


「えっと皐月涼さんって、知ってる……?」

「皐月が……どうかしたのか?」

「そっか、皐月さんも有名人だもんね……千晶とは違う理由でね」

「余計なこと言ってんなよ!」


 笑いながら言ったあと、千晶は唇を尖らせて続けた。


「……で、お前は皐月が好きだったわけだ」

「え、えええ! なっ、何で分かるの? いや、でも好きっていうか、憧れてたっていうか……」

「バスケ部の高宮センパイと、皐月が一緒に屋上にいたのを見ちまって、ショックで呆けてたわけだ」

「どうしてそこまで……。あれ、もしかして、千晶?」


 疑問を投げかけた僕を見て、千晶は顔を赤くし小さく頷いた。しおらしい彼女の姿は、一瞬前の賑やかな姿とは正反対だった。

 咲いたばかりの花のような、ささやかな表情。白い肌に浮かぶほのかな桃色は、僕にはそう見えたのだ。

 しかし、千晶は小さく顔を振ってすぐに、いつものにかっとした笑顔に戻った。


「じゃあさ、あたしが皐月に聞いてきてやるよ! あたし、あいつと中学同じだったからさ。一緒にいたからって告白だとかそういうのじゃないかもしれないだろ」

「いいよ、気にしなくってさ」

「はぁ? 何でだよ。はっきりした方がいいだろ、そういうのって」

「いいんだ」


 少しだけ強く、僕は念を押した。


「今思うと、自分でも恋だなんておかしいよ。だって、僕は皐月さんのこと何も知らないんだから。どんなことで笑ってどんなことで怒るのかさえ、僕は知らない」

「ただ憧れてただけ、か。でもさ……」

「そう。おままごとみたいなものだったんだよ」


 今となっては、目の前の君の方が色々知っている――。

 いいかけて、言葉は喉の奥へ押し戻って行った。

 遠くを見つめる千晶の表情に、見覚えがあったからだ。僕の、心の中の顔と同じ。


「もしかして、千晶もさ……」

「ばっか、やめろよっ!」


 上擦った声で否定して、千晶は顔を背けた。

 思えば最初の時、千晶は自分もぼーっとしていたと言っていた。


「あ、でもおかしいよね。屋上の二人のこと、知ってたんだもん」

「はは、笑っちゃうな」

「どうしたの、急に?」


 千晶は向こうを向いたまま、肩を震わせた。その声までも震えていることにも、僕は気付いていた。


「あたしも憧れだったって、今なら思うよ。でも……」

「でも……?」

「何かすっげー、悔しい」


 千晶は「ほら」と、スマホの画面を見せつけて来た。よくあるSNSに投稿された一枚の写真。

 皐月さんと高宮先輩が肩を寄せて、それはもうにこやかに笑っている写真だった。


「な、なんでこんなもの見せるんだよっ」


 写真を見た僕は、思わず飛びのいていた。蛇でも見つけたような動きだと、自分でおかしくなった。


「あーもう、おしまいおしまいっ!」


 スマホをしまうと、千晶はベンチから立ち上がった。

 激しい雨も去る時は一瞬。強い日差しが雲間を縫って僕たちを照らし始めていた。


「結局二人仲良く、本人たちの知らないところで失恋してたんだね」

「改めて言わなくていいっ!」


 そう言うと千晶は、少し赤くなった目で笑った。

 千晶の向こうから照らす日差しが眩しくて、僕は思わず目を瞑った。


 自転車のサドルから水を拭って、また僕が漕ぐことになった。サドルはかなり湿っていたけれど、僕たちの制服の方がびしょ濡れだったので、気にはならなかった。

 汗ばむほどの晴れ間。


「もうちょっとだけ付き合えよ」

「いいよ。どうせもう、授業も終わってるしね」


 僕たちは行く先なんて決めずに、河沿いの砂利道を走っていた。随分と走って来たものの、まだまだ川の始まりには遠いようだ。


「でも千晶ってさ、意外と慣れてないんだね」

「はあ? 何にだよ」

「恋愛」

「ばっ……。仕方ないだろ! そもそも男子は寄りついてこないし、近寄って来てもチャラチャラした奴ばっかなんだからさ。あたし嫌いなんだよね、ああいうの」

「そりゃまあ……僕みたいなタイプ、千晶みたいな子には話しかけにくいよ」

「失礼だなぁ、ったく」


 後ろの千晶は、今度は僕の肩をいたずらっぽくとんとんつつく。

 そのまま、にひひと笑ってから彼女が続けた。


「そういうお前は、見た目通り慣れてなさそうだよな。あ、失恋には慣れてるのか?」

「それもっと失礼でしょ! 大体、失恋にだって慣れてないよ。ちゃんとした恋なんてこれが初めてだし、あれ、でもただの憧れだったんだし……ん?」

「ちゃんとした恋なんて、あたしもどうやるのか知らねえよ。それよりもうこの話はやめだ、やめ」


 苦笑いを交えながら、僕らは走って行く。上り坂も、いつの間にか苦ではなくなっていた。


閲覧ありがとうございました。

次話もぜひよろしくお願いします!

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