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自転車を漕ぎながら、会話は弾んで行く。
僕は前を見ていて、景色を楽しむ余裕はあまりなかった。星野さんは軽かったけれど、二人乗りというのは案外体力を使うのだ。
もう三十分以上も走っているせいで、額のあたりがじんわりと汗ばんできた。通り抜けて行く風よりも、汗の方が速くなっているせいだ。
「よし、じゃあ変わろうぜ」
「え?」
まるで申し合わせたかのように、星野さんは提案した。
僕がちゃんとした返事をする前に、星野さんは自分の足でブレーキをかけた。微妙に体勢を崩しながら、道路の脇に自転車を止める。
星野さんの後ろに座ると、彼女はすぐに漕ぎ始めた。思っていたよりもずっと安定感があった。
それでも河川敷の道ではかなり揺れるので、僕は星野さんの肩をそっと掴んだ。
「う、うわぁっ」
「ど、どうしたの?」
「いや、何でもねえよ。ったく、掴むなら先に言えよな……」
星野さんは、僕よりもスピードを出して走っていく。
二人乗りの後ろだと、視線は自然と景色に向いていた。
川の青と、芝の緑色。あっという間に通り過ぎていくけれど、ずっと続いていく。そんな果てしない景色の中を、僕たちは走っていた。
「ほら、気持ちいいだろ?」
星野さんの横顔が、こちらに向いた。口の端が少し笑っている。
小さく頷くと、それを見た星野さんは視線を前に戻し、また笑った。
車通りは少なく、河川敷ではキャッチボールしている子供さえいなかった。学校も幼稚園も会社も、この時間は通常営業なのだから当たり前だ。繁華街でもないし、補導される心配もない。
サボっている僕たちは、そんな時間から切り離されているみたいだった。
こうやって疾走する強い風を浴びていると、後で怒られる心配もどこかへ飛んで行ってしまう。
「星野さんは、どれくらいサボるの?」
「どれくらいなんて、考えたことねぇよ。面倒だなぁって思った時にこうやってサボるからさ。普段はここまで来るので昼過ぎちまうけど、今日はアシがあったからよ」
「僕の価値、自転車?」
「いやあ、中々楽しいぜ、誰かとサボるのはさ」
星野さんはスピードをつけたあと、ペダルから足を話す。
すいーと、自転車は勢いをつけて河川敷の土煙を巻き上げていく。
「全く、いつもは誰を巻き込んでるのさ」
「いつもって、誰かを連れたのなんて今回が初めてだぜ?」
「どうして、今日は一人じゃないの?」
「…………さあ、何でだろう?」
何かをごまかしたような返事は、星野さんから初めて聞くものだった。
後ろに乗っている僕には、彼女がどんな顔をしているのか分からなかった。
焦げ茶色の鴨が空を飛び、沈黙のあいだ僕はそれを目で追っていた。
「あー、何か腹減ったな」
時々交代しながら、僕たちは川を上流に向かって進んでいた。
時間にすると、それはかなり長い時間だった。お腹が空くのも無理はない。
適当なところで自転車を止め、河川敷の芝へ向かう。
すっかり知らない土地であった。回りには民家があるばかりで、何かのお店はない。
生活の中心も、電車から車に変わったようで、主婦らしい人の乗った車の通りが増えていた。
「ピクニックって感じだな」
「そうだね。確かに、風が気持ちいいや」
「お、やっと分かって来たか、お前も」
「まあね。こんな何もないところでお弁当食べるなんて、新鮮だよ。小学生以来かな」
「いいもんだぜ。あたしも普段は屋上とか公園とかで飯食うからな」
「公園って、完璧サボりの時じゃないか」
笑い合いながら、僕は地べたに何も敷かずに座った。制服は泥んこなのだから、これ以上汚れようが関係ない。
星野さんと僕の間には、鞄が二つ。
それぞれ、弁当の包みを取り出した。僕のが灰色の味気ない袋なのに対して、星野さんの方はピンク色で、白いメタセコイア系の植物の模様が入っていた。
「ば、ばっかこれはだな……」
僕がじっと見つめていて、何を考えているのか察したのだろう。
星野さんは焦った様子で包みをほどく。
見ているこっちが気まずくなってしまい、僕は自分のお弁当を開けた。
「げ、いんげん嫌いだって言ってるのに……いる?」
「あのなー、いんげんくらい食べなくてどうするんだよ。作った人の気持ちも考えろよな」
そうは言っても、苦手な物は苦手なのだ。
「それよりさ、星野さんのお弁当を見せてよ」
「はいはい」
彼女が蓋を開け、僕は覗き込む。包みもさながら、中身の方も盛り付けが可愛くなるように気を遣っているのが分かった。
タコの形に切られたソーセージやハートのピックが刺さったミートボールはもちろん、赤いパプリカや橙色のにんじんなど色味にも気を遣っている。
僕のお弁当の色は全体的に茶色で、並べてみると差は歴然。僕の母親と同世代とは思えなかった。
「いいなー。僕もこういうお弁当の方がよかった。君のお母さん、何歳?」
「母さん? ああ、いいや。あたしだよ。親父の弁当も作らなきゃならないから……、あたしが作ってるんだよ。悪いかっ」
「星野さんが? あっ……作った人の、気持ち……ごめん」
「いいかー、作ってる方は工夫してるんだぜ、色々。うちの親父も好き嫌い多くてさ。でもこうして可愛くしてやると残さないんだ。悪くって残せないんだとよ。現金なことだよな」
「でも、僕の母さんはそこまで考えてないよ。はあ……」
「ばか!」
ため息をついた僕に、星野さんは大きな声を出した。
それは彼女の笑い声からは想像のつかない、激しい怒号だった。鼻の頭を赤くして、強い目で僕を見た。
一分ほどだろうか――星野さんは怒った顔で僕を見つめ、やがて視線を川に向けた。
「ごめん……」
「えっ」
突然謝られて、僕の方が困ってしまう。僕はそのまま、星野さんの話に耳を傾けた。
「あたしさ、母さんいないんだ」
「いない……?」
「そ。あたしがまだ小さい頃に死んじゃってさ。母さんのことなんてもう全然覚えていないんだけどさ、『飯食ってるときにため息をつくな!』ってよく怒られたんだ。楽しい記憶よりもそういう記憶の方が覚えてるって変かもしんないけどさ、とにかく、そればっかり覚えてんだ。ま、お前に押し付けることでもなかったよな」
「ごめん」
「おいおい、やめろよ」
僕は一言だけ謝って、お弁当のいんげんを全部まとめて口の中へ放り込んだ。
「んぐっ」
独特の苦みが舌を這いずり、豆の凝縮された匂いが鼻の中を駆け巡る。ぶじゅると染み出てくる汁は、僕の胃液を逆流させんばかりだ。
だが、僕は咀嚼したいんげんをそのまま一気に飲み込んだ。
「何やってんだ、お前?」
「けほっ……。こうするしかないって思ったから。無神経なこと言って、好き嫌いだああだ言って……」
自分が、恥ずかしくなって。
我ながら何をやっているのだろうと情けなくもなったが、そうしなければ自分が本当に格好悪いままで嫌だった。
「気にするなって。あんまり小さい時の話だと、悲しいなんて覚えてないもんだ。それよりさ、あたしの弁当の中に何か好きなモンないのか?」
「ど、どうしたのいきなり?」
「あたし、弁当のから揚げって好きなんだよ。ほら、何か一個交換しようぜ」
僕が返事をする前に、星野さんは僕のお弁当箱からから揚げを一つ取っていく。
「んー」
「……何?」
「うまい、うまいよ。お前のことを何も考えてないなら、こう美味しくはならないぜ」
「……何だよ!」
僕は、つい大きな声を出していた。目を丸くする星野さんをよそに、そのまま続けた。
「どうしたんだよ、急に?」
「みじめじゃんか」
「みじめ?」
「僕は星野さんみたいに料理できないし、しっかりしてないし……それなのに気を遣ってもらって……」
結局、関係がなかった。
僕が見栄を張ったからといって、彼女の方が人間的に上なことは変わりがない。
心のどこかで、僕はきっと彼女のことを見下していた。不良だから、噂だからって――彼女に自分勝手なレッテルを貼っていた。
「ふうん」
「ふうんって、何?」
「いや、お前もそうやって怒るんだなーって。大人しそうだったから、意外」
「……か、からかってる?」
星野さんの反応は、全く予想外だった。
彼女は僕とは違う。
僕と違うところが、結果、僕のことをみじめにさせている。
何よりその差があって当たり前なのに、みじめに思う僕が子供なんだと、自覚ができた。
瞬間、今朝の光景が目に浮かんだ。
僕の好きな人は、僕よりずっと大人びているあの人と二人で会っていた。当たり前だ。高宮先輩は、僕だって憧れている。
僕なんて、敵うはずがない。
僕なんて、誰にも――。
格好の悪い連鎖は、僕の中でだけ大きくなっていく。
「もう……」
「お、おい! 早く弁当しまえ!」
「えっ……?」
追って何かを言おうとした僕は、星野さんの言葉に遮られるだけだった。
「ほら、雨だよ! 早くしないと弁当が駄目になっちゃうぞ!」
彼女の言葉で、ようやく自分の頬に当たる水滴に気付いた。
ぽつ、ぽつというのはほんの一瞬。雨はすぐに連続した水音を立て始めた。
僕は慌てて、お弁当箱に蓋をした。強い雨で、何もかも隠れてくれたのだろう。
「どっか、雨宿りできる場所に行こう」
「うん。僕が漕ぐよ」
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