満月の下
ソフィアは眠れないでいた。自分の素性を洗いざらいジンに打ち明けたことで、暫く思い出すことも無かった過去の記憶が鮮明に蘇ってきたからだ。父のこと、母のこと、そして今も逃亡を続ける妹カリーナのこと。だが顔を思い出そうとしてもぼんやりとしか面影しか浮かばず、家族との思い出も断片的でしかない。
(ソフィアとしての人生を生きるにはどうすればいいの? 思い出すらほとんど残っていないのに……)
額に手を当てるとジンからもらった薬が効いてきたのか熱はほとんど無かった。ふと寝床から起き上がると、枕元に新しい衣服が置いてあるのに目がついた。
(そういえば三日も風呂に入ってないな。身体中が汗でべたついて気持ち悪い)
そっと小屋の木戸を開けて外へ出ると、満月のおかげで外は意外に明かった。冷たい夜風が頬を撫でる。砂にまみれた髪は酷く絡まっていた。ソフィアは周囲に気を張りつつ、昼間飛び込んだ河原の方へと歩いて行った。雑草がまばらに茂るあぜ道を暫く進むと、やがて土手が見えて来た。川辺へ下り月を映した水面にそっと足を浸すと、ひんやりと冷たい感覚が身体中を駆け巡った。
周囲を見回し人気の無いことを確かめると衣服を脱ぎ、静かに肩まで浸かる。そして大きく背伸びをすると、そのまま身体を水面に浮かべた。雲一つない夜空には見事な満月が浮かんでいる。月明かりを眺めている間だけは、さっきまでの迷いや不安も忘れ去ることができた。
(これからのことを今いちいち考えてても仕方ないわ。寝ればまた明日が来る。ただそれだけよ)
水浴びを終えたソフィアは、新しい衣服に着替えると再び小屋へと戻った。そっと木戸を開けジンが寝息を立てているのを確かめると寝床に横になった。眠気を覚えて瞳を閉じると、やがて深い眠りについた。
†
眩しい朝日に照らされてソフィアは目を覚ました。大きく背伸びをし眠い目を擦りながら辺りを見回すがジンの姿は無い。明るくなって室内を見直すと、板張りの小屋の中は馬小屋のようで、隙間から光の矢がいくつも差し込んでいる。そこにはジンの書き置きがあった。
ーー魚釣りに出かける。脱いだ服は河原で洗ってから持って帰る。それまで鍋の粥を食べて待っておきなさい
鍋の蓋を開けると、昨日と全く同じ色艶の粥が残っていた。木の器に注ぎ一口頬張ると昨日より味気なく感じた。その時、木戸が開きジンが帰ってきた。その手には木の枝で作った粗末な釣り竿と、何も入っていない網かごがぶら下がっている。
「今日もまた釣果無しじゃ。暇つぶしにはなったがの」
ジンは顔中に皺を作って高らかに笑った。
「おはようございます道師様。この度は大変お世話になりました。しかしこれ以上ご迷惑をおかけするわけにも参りませんので、そろそろお暇したいと思います」
深々と頭を下げるソフィアにジンは言った。
「顔色も良いし、熱も下がったようだな。だがまだ服が乾いておらんぞ。それに外は不審な輩がうようよしておる。恐らくお前さんを探しているのだろう。いずれにしても出発は夜まで待った方が無難じゃ」
「釣りに出かけられたのは、本当はそれを探るためですか」
ソフィアはジンの思慮深さに感心して思わず大きく目を見開いた。
「いや、本当に魚を食べたかっただけだ。かれこれ三日もお目にかかっておらんからな。毎日雑草粥じゃ身体が持たん」
ジンはケラケラと笑うと釣り竿と網かごを壁に掛けた。
「それでは出発までの間、何らかの形で恩返しをさせてください。どうかお願いします」
ジンは力強く訴えかけるソフィアの瞳の奥に、悲しみに似たものを感じ取った。
「お前さん……澄んだ目をしておるな。そして哀しみを秘めている。白銀のシオンと恐れられた将とはとても思えんな」
その言葉に目を伏せたソフィアを見て、ジンは不用意な言葉がついて出たことを申し訳なく思った。
「いや、すまなかった。もうその名は捨てたのであったな。忘れてくれ」
ジンは何かソフィアが手伝えることが無いか懸命に考えた。
「そうじゃ、お前さん裁縫は出来るか? 」
「ええ、決して上手な方ではありませんが……」
「元々立派な服ではないから見た目は気にせんよ。いくつかの服に穴が開いておるから塞いでもらいたいのじゃ。頼んでも良いかの」
「はい。ぜひやらせて下さい。頑張ります」
「そうか。それは助かる」
ジンは目を輝かせて張り切るソフィアの目の前に、一見ぼろ切れのような服を積んで小さな山をこしらえた。
「熱が下がったばかりだから無理する必要は無いからな。わしはこれより隣村まで子供達に勉学を教えに行って来る。昼頃には戻るのでそれまで小屋を出るでないぞ」
ジンは小屋の隅の小さな机に置いてあった布袋を背負うと、ソフィアに微笑んでから出かけて行った。ソフィアは早速目の前の服の山から一着取り出すと、用意していた裁縫針に糸を通して穴を縫い合わせた。最初のうちは慣れない裁縫に悪戦苦闘していたソフィアだったが、黙々と作業を続けるうちにだんだん楽しくなってきた。
(そういえばお気に入りのスカートに開けてしまった大きな穴を、お母さんは手品のように塞いでくれたっけ)
なぜか遠い昔の思い出が蘇ってきた。手際よく穴を縫い合わせる母の後ろ姿。その傍らで小さな寝息を立てている妹のカリーナ。心のどこかに置き去りにされていた幸せな記憶。探しても見つからなかったものが今は自然と見つけられた。それは心の平穏を取り戻したからだろうか。小鳥のさえずりに耳を傾けつつソフィアはそっと目を閉じた。
ドンドンドン……
そんな平穏な時間は木戸を叩く音に突然止められた。
ジンの帰宅にしては早すぎる。ソフィアは木戸の隙間から外を伺う。そこに立っていたのは昨夜ジンが看病した子供の母親だった。ソフィアは息を殺しその様子を観察した。母親はジンが留守だということを悟ったのか、片手でやっと持てるほどの大きなカゴに布を被せると扉の前にそっと置いた。
扉の向こうから食欲をかき立てる良い香りがする。おそらくカゴ中には焼きたてのパンでも入っているのだろう。ジンはこれを見たらどんな顔をするだろうか。恐らく満面の笑みを浮かべ子供のようにはしゃぐに違いない。ソフィアはその姿を想像して思わず吹き出した。
その時、扉に向かって深くお辞儀をしそのまま立ち去ろうとする母親を誰かが呼び止めた。それは馬に跨がり青いマントと甲冑を身につけた兵士だった。その両脇には槍を担いだ軽装の兵士を従えている。
「ここには誰が住んでいるのか」
「はい、道師様がお一人でお住まいです」
まさか昨日河原で言葉を交わした老人がその道師だったのではないか。兵士は一瞬困惑の表情を浮かべた。
「道師?その者の名は? 」
「ジン様とおっしゃいます」
ジンという名を聞いて両脇の兵士の表情から血の気が引いて行くのが分かった。
「ジン?まさか道師サン・ジンか? 」
「さぁ、本名までは存じません。私たちは普段道師様、ジン様としか呼ばないので。ではこれで失礼します」
母親は小さく頭を下げると足早に立ち去った。兵士たちはその後ろ姿を立ち尽くしたまま追っていた。
「隊長、道師サン・ジンだったらどうします? 」
「もしそうなら俺たちは手出しできない。道師が匿っているという証拠も無いし引き返すか」
そう言って兵士たちが踵を返そうとした時だった。
「ん?あの服は女物ではないか。さっき女は道師は一人で住んでいると言っていたな」
兵士は軒下に干してあった衣類に、女物の服が干してあることに気がついたようだ。
「怪しい。窓から中の様子を探って来い」
脇にいた二人の兵士は無言で頷くと、足音を殺しながらゆっくり小屋に向けて歩いてきた。
(まずい。隠れないと)
ソフィアは慌てて床に伏せると、身を隠せる物が無いか辺りを見回した。しかし簡素な室内にはそのような物は見当たらない。ならば武器は?剣は枕元に立てかけある。しかし一番遠い所にあるからそれを取りに行くのは無理だ。
(どうする?玄関ドアを蹴り開けて逃げるか)
するとソフィアは床に衝いていた右手に違和感を感じた。床板がそこだけ隙間が出来てカタカタと音を立てている。爪を立ててそっと板を外すと、そこには銀色の鞘に収まった短剣が置いてあった。
(これは……)
ソフィアは短剣を握り、ゆっくりと刀身を引き抜く。その瞬間、突如短剣が眩い光を放ち始めた。驚いてすぐに鞘に収め直すと、窓からの視線に気がつき壁にぴったりと身を寄せた。




