金糸雀人形
自由都市ガリャーナの朝は早い。空が白み始めたらすぐに、市民たちは慌ただしく動き出す。
ひとつめの鐘が鳴り響く頃には、市場に商人たちが集まってくる。次に動き出すのは職人たちだ。やや遅れて、ふたつ目の鐘が鳴ると城塞の外に畑を持つ農民たちが、続けて役人の姿が増え始め、最後にすっかり辺りが明るくなると、女子供が一斉に街に広がり賑わい始める。外からの旅人が入って来るのも大体この時間からだ。
石造りの街は、太陽が昇ると日の光を反射して白く輝いて見える。ガリャーナが『荒野に浮かぶ白亜の都』と称される由縁であった。
街の中心部の広場では、毎日旅商人達が集まっては市を開く。異郷の物が集まる自由市は、近隣に他の都市が存在しないが故に、ガリャーナの一大名物だった。
その市場の隅、僅かに出来た露店の無い空間に、人だかりが出来ていた。澄んだ竪琴の音が聞こえてくる。
ミドルテンポの旋律が、弾ける。軽快な弦の揺らぎは子守歌のような穏やかな響きを持って、雑踏に染み込んでいった。喧騒を抜け出した人々が吸い寄せられるように足を止め、穏やかだがどこか郷愁を思い出させる楽の音に溜め息を漏らした。
思いを寄せる女の可憐さを、故郷の自然の美しさに例えている、西の楽曲。
それを奏でるのは、一風変わった少女だった。年は14、5程度。成人を迎えるかそうでないかの外見である。幼さを残しながらも端正な顔立ちを飾る、真っ直ぐで艶やかな黒髪は腰掛けた花壇の花に触れる程に長い。伏し目がちに弦を見つめる瞳は髪と同じく黒曜石のような美しさで、金髪や赤髪が圧倒的に多いこの地方の人間の目を楽しませた。
そして何より市民たちの興味を引くのは、少女の纏っている異国の装束である。商人たちは、それを『ワブ』と呼ぶ。山脈を挟んだ、南東地方独特のもので上着とズボンという概念が無く、長くだぼっとした袖を持つ、前合わせの胴長の衣である。それだけではひらひらと不安定なので、腰のところを帯で結ぶ。裾はくるぶしほどまであり一見動きにくそうに見えるが、温暖で湿気の多い南東地方では体に密着しにくく、蒸れにくくに汗をかいても着替えが容易な『ワブ』は労働に適した着衣であった。
ガリャーナのような物流が多い都市なら、市場に冷やかしに行けば――機会はそう多いものでもないが――子供でも『ワブ』を目にすることが出来る。しかし、それを着ている人間となれば話は別だった。
南東地方は、つい十数年前にセールンヌ教会に従属した土地である。当初は紛争が多かった影響もあり、聖職者や聖騎士ではない者にとってはまだまだ未開の未知の地で、足を踏み入れたことのある者は多くないし、こちらに来る南東人も非常に珍しい。
少女の着ている『ワブ』は、黒地に白と橙で花のような模様が描かれたものだった。模様自体は申し訳程度の質素なものだったが、美麗すぎない俗な雰囲気が、『ワブ』の少女が竪琴を奏でているといったある種の童話的な光景に拍車を掛けていた。
白く細い指の動きが、次第にゆるやかになっていく。溜めのある爪弾きが幾度か続いて、その後に訪れた静寂が、しっとりと曲の終わりを告げた。
伏せていた黒曜石の瞳が、ゆっくりと閉じられ、細く長い息と共に、またゆっくりと開かれていく。
わあっと、歓声と拍手が飛んだ。びくりと少女の肩が跳ねて、まるで今初めて観客たちの存在に気付いたかのように、目を丸くし頬を紅潮させる。
人だかりの最前列にいた男の子が、少女に話し掛けた。満面の笑顔を浮かべた少女よりずっと年下の幼子だったが、少女は困惑したように肩を震わせた。幼子の『なまり』があまりにも強くて、聞き取れなかったのである。
その後にまた何人かが声を掛けたが、少女はその半分を理解して、もう半分は理解出来なかった。理解出来た言葉には反応を返そうとするが、そうしたら理解出来なかった言葉を発した人を無視することになる。それが申し訳なく思えて、ただおろおろと視線をさまよわせた。
観客たちはその様子に気付かないようで、少女に賞賛の言葉を投げていく。中には喋らない少女に興が冷めたのか、物見料に小銭を投げて立ち去る者もいた。
「あ、あの……」
ようやく、ためらいがちにその一言だけが出た。小さな声だったが、少女の発言に気付いた者が口を閉ざし、波打つように場が静まっていく。
観客たちが、一様にして少女の声に耳を傾けていた。何かを期待されているのに気付き、少女は更に困窮した。
弱り果てた少女が、もう一度楽を奏でて間を繋ごうと再び弦に指をかけたその時、ざわめきとともに少女を囲んでいた人垣がふたつに割れた。
人垣の向こうからやって来た人物を見て、少女の表情がぱっと明るくなる。
体のラインを隠すゆったりとした着衣は教会の法衣。白と黒が基調になり、緑の刺繍で流線的な紋章が描かれていた。教会から司祭と同等の権限を与えられた謡師――神が与えたもうた神秘の力の管理を担う、聖印院の最下位の聖職――の証だ。
その人物が足を踏み出す度、少女よりは拳ひとつ分ほど短い金の髪が、日の光を反射して揺れた。ややうねり気味の毛先を編んでまとめている。長身で、法衣を着ているにも関わらず、身のこなしから細身であることが分かる。
謡師が、少女の脇に立った。
その顔貌を見た男たちが、揃って感嘆の溜め息を吐いた。
造形の美しさは、著名な芸術家が造った彫刻の如し。瞳は髪の色と同じ金色だったが、眼光は不思議と射抜くように鋭かった。夜空に浮かぶ月のような存在感で、それが謡師の美貌に氷の様な冷たさを与え、見る者にどこか浮き世離れした印象を植え付けた。
金の瞳が、じっと少女を捉えた。薄い唇が少女にだけ分かるように僅かに動いて、それを意味するところを悟った少女は、こくこくと二度頷いた。そして竪琴の弦に視線を落とす。謡師の氷の美貌が伝わったかのように、少女にあった可憐な気配が霧散し、その表情が冷水に浸したかの様に引き締まっていく。
竪琴の高音が、ひとつふたつ、空気を揺らした。
謡師の唇が開く。
その瞬間、観客の感覚から市場の喧噪が消え去った。
まるで、娘から女へとなったばかりの無垢さだった。
どこか子供の声のような輪郭の甘さと優しさを含みながらも、その硝子細工のように透き通った伸びかやなソプラノは、美貌と相まって不可侵の神性を聴く者に訴えかけた。
吟じているのは、神話に登場する、精霊に娶られた娘を案じる父親の心境を歌った曲だ。この地に住むものなら誰もが知っている歌が、まったく別の命を吹き込まれたかのように踊る。
歌声と、竪琴の音が絡み合う。楽の音が複雑にうねると、歌声は逆に穏やかに、さざ波のようにスキャットを重ねていく。歌がスキャットから歌詞に変わると、一転情緒的な勢いのあるメロディになり、少女の楽の音が変則的に舞いそれを支え、装飾していく。懇願するような悲哀に満ちた声音は、精霊に自らの想いを訴えかける父親の切なさを物語っている。
次第に曲はクライマックスを迎え、やがて父の命が時の流れで燃え尽きてゆくように、物哀しく、静かに終息していった――。
曲が終わっても、すぐさま反応できる人間は人垣の中には居なかった。謡師が礼をした後、ようやく我に返ったように歓声が湧き起こる。その人数は楽士の少女ひとりだった時の倍以上に膨れ上がっていた。
割れんばかりの拍手喝采、お布施として投げられる金銭、瞳を潤ませて拝んで来る老人たち。それを見た謡師は少女に視線を送り、困ったように微笑んだが、それに答える少女の顔は、飛び交う歓声とは反対に沈んでいた。
ガリャーナには、セールンヌ教会の礼拝堂が両手で数えるほどある。その中でも最大の規模を誇るのが、フェシュタ聖堂である。
新築の部類に入る建物であり、その外観、内装共に都市の栄華を繁栄するかのように豪奢である。ガリャーナ一帯は土地があまり豊かでなく、木々に恵まれない環境である。にも関わらず、建物の要所要所にアクセントとして木材が使われている。ガリャーナの貿易力と、聖堂の財力、権威を表していた。
とは言え、それは礼拝堂に限った話であった。神官たちが暮らす空間は、教義の通り清貧な作りとなっている。
つい先刻、市場を席巻した美貌の謡師と楽士の少女は、この聖堂の修道院を宿にしていた。
憮然とした態度で席に座る謡師の傍で、楽士の少女は肩を縮こませて薬湯を煎れていた。
二人は部屋に着いた頃どころか、歌を披露したその時から一言も言葉を交わしていない。謡師は人目がなくなるまで愛想笑いを浮かべていたが、聖堂に戻ってきてからはずっとこうだし、少女はその謡師の態度を怖れて何も喋ることが出来なかった。
少女は煮詰めた薬草を入れたポッドを脇に置き、湯気を立てるカップを見つめていた。薬湯の水面に映るその表情は今にも泣き出しそうだ。つんとした薬草の匂いが、鼻と目を刺激する。
「……どうぞ」
少しの躊躇いの後、そっとカップを謡師の手元に差し出した。さすがに無言では失礼に当たるので、一言添える。
謡師は月の瞳で薬湯と少女を交互に見た後、はあっと盛大に溜息を吐いた。
「――楽しかったですか?」
謡師は少女の故郷の言葉で、言葉を紡いだ。
ここに先ほど市場で歌を聴いていた者が居たら、仰天したことだろう。美術品のような繊細な美貌を持ち、類希な美しいソプラノを奏でた唇から出た声は、低く、明らかに男のものだった。
「……すみません」
少女はそれに驚いた様子はなく、ただ申し訳なさそうに俯き、小さな手はワブを握りしめ震えている。
少女の声はその外見が与える印象の通りで、遠慮がちだが濁ったところのない、上澄みのような柔らかい綺麗な響きを持っていた。
謡師の地声を聴いた後では、先程披露した歌は、実は楽士の少女が歌っていたのではと考えても不思議ではない。
「どうしてあんなことしたんです」
責めるような、呆れたような謡師の口調に、少女の体が震える。
それを見て謡師の方は何か思うところがあったらしく、ばつが悪そうにその端正な顔をしかめた。
「黙っていては分かりませんよ、シズ。別に俺は怒っている訳じゃないんです。貴女はああいうことをするような印象が無かったから、驚いているだけで」
謡師の声が、諭すような柔らかいものに変わる。
シズと呼ばれた少女が伏せていた目線を上げると、眉根を寄せ、困り果てたような複雑な表情をした謡師が視界に映った。シズの心は恐怖から一転、焦った。
「も、申し訳ありません。その、昨日、ミシェイユ様に、褒めて頂いて……嬉しく、て」
つい、とは声にならず、唇だけが動いた。
少女の言い分に、今度は、謡師の方が焦った。
確かに昨日、ミシェイユはシズを褒めた。シズがミシェイユの従者になり、故郷を発ってからふた月程。当初は竪琴の扱いも知らず、楽譜も読めなかったシズの曲のレパートリーが、ようやく片手で数えるのでは足りなくなった。演奏の腕もミシェイユを唸らせる速度で上達していて、昨夜ここの司祭長の頼みで、晩餐の席で一曲披露したのが大好評だったことから、ひとつの節目かと今までに無い勢いでシズの努力を褒めたのだ。恐らく山奥育ちの世間知らずで純粋なこの少女は、それで浮かれてしまったのだろう。
旅の途中、今まで聖堂から宿場町の酒場まで、様々な場所で曲を披露してきたが、それが喜ばれるのはミシェイユの歌があるからと考えていたのだろう。まさか自分の演奏であんなに人が集まるとは――ワブの少女という物珍しさもあるが――夢にも思わなかったに違いない。本人としては、ちょっとした気晴らしだとか、少し自信がついて無意識に、といった感じで事に及んでしまったのだろうと、ミシェイユは事態に結論付けた。
「あまり、感心はしません」
「すみません、まだまだ未熟なのに……自分勝手なことを」
「怒っているわけではない、と言ったじゃないですか。君は、まず自己評価を改めるべきですね」
シズはミシェイユの意図するところが掴めず、首を傾げた。
「君の格好は、まず珍しいんです。容姿も整っているし、油断していると人攫いに遭いますよ。きっと高い値が付くでしょう」
真顔で迫る月の瞳に、ぶるりとシズの体が震えた。その状況を思い描いたのだろう、全身から血の気が引いていく。
「まあ、そんな訳で、ちょっと心配したんです。まだこっちの言葉も覚えたてですし……。俺が居ない時に出歩くなとは言いませんが、こういう人の多い街では、出掛ける旨だけでなく行く場所、帰る時間も書き置きしておくようにお願いしますよ」
「は、はい」
蒼い顔で何度も頷くシズの姿がおかしくなってきて、ミシェイユはくすりと微笑んだ。その姿は女性にしか見えない。
どうやら怒られることはなさそうだと安堵したシズの胸の内に、ひとつの疑問が湧いてくる。
「……あ、ところで、ミシェイユ様。お話は済んだのですか?」
基本的に、旅に不慣れなシズがミシェイユの傍を離れることはほとんどない。数少ない例外のひとつに、ミシェイユが教会の人間と機密の会話をする場がある。シズはミシェイユの従者という立場で一応修道女の身分を与えられてはいるが、機密に触れることは許されていない。今回のケースはそれで、シズは時間を持て余していたのである。
市場に出てきた時点で話し合いは終わっていたと考えるのが自然ではあるが、先ほどのやりとりの後だと「見慣れない不審な楽士が市場にいる」と通報されたのではないかと不安が芽生えたのだ。
「まあ、大体は。面白いことはなかったですがね」
溜息と共に不安を一蹴され、シズは改めて胸を撫で下ろした。
その一言で話は一段落したと判断したのか、ミシェイユはおもむろにテーブルに手を突いて立ち上がった。女物の法衣を片手で摘んで引っ張る。
「とりあえず、俺は着替えてきます。そのまま先ほどのお布施を司祭長に渡しに行くので、薬湯は君が飲んでしまってください。冷めると不味いですし」
返事を待たずに、ミシェイユはすたすたと別室に繋がる扉の方へ歩み寄って、扉の取っ手に手を掛けた。そのまま行ってしまうかとシズがその背を見守っていると、何かを思い出したように振り返った。
向けられた視線に何か嫌なものを感じ、シズは平静を装いながら息を呑む。
「……気分も落ち着きますよ?」
含みのある笑顔を浮かべてから、ミシェイユは隣の部屋へと消えていった。
残されたシズは、ぽかんと口を開けて立ち尽す。
胸が早鐘を打っている。めまいがするような気さえした。
思わず、心の臓を押さえつけるように胸に手を置いた。怒っているミシェイユが怖くて、こっそりいつもの薬草と似た匂いのする、鎮静効果のある薬草を煎れていたのだ。
どうしてバレたんだろう――そんな思いが、薬湯の湯気に溶けては消えていった。
昼時を告げる鐘が、みっつ鳴り響く。
ガリャーナの一日は、まだまだこれからだった。