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第十四話 思いの剣

 夜も更けるという時刻。手元の明かりだけをつけて、テキアは自室で書類をまとめていた。内容は大概、近隣に住む商人たちからの切実な訴えが多い。それらの数は日を追うごとに増えるばかりだった。

 時折魔物が姿を見せる最近は、彼らの生活をも脅かしているのだ。これでファミィール家がやられれば、彼らはもう生きてはいけない。そんな思いがそこには込められていた。

「戦闘が起きれば、隠していても伝わりますからね……」

 机に向かっていたテキアは、つぶやくと音も立てずに立ち上がった。そろそろバンが情報収集を終えた頃だろうか。そう思って時計を見ると、日付もとうに変わった時刻だった。彼は苦笑を浮かべると、凝り固まっていた肩をほぐす。窓を揺るがす風の音が、無愛想に彼の耳に響いた。

「テキア殿」

 すると戸を叩く音がして、ついで名を呼ぶバンの声が聞こえてきた。予想通りだ。開いています、とだけ答えて、テキアは書類の上に封筒を載せる。大きな扉はゆっくりと開いた。そこから顔を出したバンは、安堵したように微笑を浮かべていた。

「まだ起きていましたか」

「あなたからの報告がまだでしたからね。それに仕事も残っていましたし」

 瞳を細めるバンに向かって、テキアは手近な椅子を勧めた。しかし首を横に振って断ったバンは、そのままテキアの傍へと近づいてくる。テキアは軽く眉をひそめた。これは何かあるなと、身構えながら気を引き締める。

「大した情報は得られませんでしたので、先ほどの報告とほとんど変わりません。ただアース殿から興味深い話が聞けました」

「興味深い話?」

「ええ。しかし他は誰も知らないようなので、内密にお願いします」

 バンはテキアの傍まで来ると、意味ありげに微笑んだ。情報操作をしようというのか。その徹底ぶりに半ば呆れながらも、テキアはすぐにうなずいていた。そういうバンの姿勢は嫌いではない。魔物との戦いを考えれば、取りうる全ての手段を講じるべきだろう。その方が賢いやり方だった。

「確定はしていませんが、救世主の名前がわかりました」

 そう告げたバンは、悪巧みをする子どものように口角を上げた。名前、とテキアは小さく繰り返す。救世主のことについては、全てが謎に包まれていた。女だという噂があるくらいで、他は何もわかっていない。だから名前だけといえども重要な情報だった。テキアはバンへと、視線でもって続けるように促す。

「救世主の名前は、レーナとかいうらしいです」

「レーナ……?」

「わたくしも聞いたことはありませんが。ただ襲ってきた魔物が、そう叫んでいたという話です」

 テキアはその名を口の中で唱えた。女だと言われれば違和感はない名前だが、しかしそれよりも気になる点があった。それはある者たちだけが知る、一種の記号でもあったのだ。それを一人の人物の名前として用いることは、普通はしない。少なくともテキアは聞いたことがなかった。

 もしもそれが一般人の名前なら、たまたまだと考えるべきだろう。しかしそれがこと救世主のものとなると、本当に名前なのかも怪しかった。その魔物は暗号として使っていたのだろうか? それも判断できずに、テキアはさらに眉根を寄せた。何かが腑に落ちない。

「しかしその救世主は現れなかったようですな」

「そう、ですね」

「出る必要性もなかったということでしょう。我々だけで何とかなりましたからなあ」

 だから会話を続けるバンの声も、テキアの頭を軽く素通りしていった。救世主の素性が、ますます彼は気になっていた。魔物が屋敷の攻撃より優先させる者が、一体どんな人物なのか予想もできない。ただとんでもない実力者であることは明白だったが。

「しかし救世主のこと、気になりますな」

「……そうですね」

「魔物をそれだけ動揺させるとは。何の目的で我々を助けているんでしょうなあ」

 緑の瞳を光らせて、またもやバンは何やら考え込んでいるようだった。その横顔を一瞥し、テキアは口をつぐむ。

 救世主の目的など、テキアにもわからなかった。だが利用できるのならば利用する。その方が賢いことだけは自明の理であった。助けてくれるのならば利用するべきだ。ただし、油断だけはしてはいけないが。

「何にせよ、魔族の中に動揺が広がっているのは事実です。きっといずれ尻尾を出すでしょう」

「そうですな」

「そのためにもそろそろ準備を始めなければなりません。バン殿、明日各隊長を呼んでくれますか? ああ、シィラ殿はいいですが」

 テキアはもう一度時計を見上げた。もうゼジッテリカは深い眠りについている頃だろう。シィラの方は起きているはずが、小さな姪は夢の中だ。その眠りがもう妨げられなければいいと、テキアはひっそりと願った。次の戦いは大規模なものになる、そんな予感がする。

「はい、テキア殿」

 バンはそう答えると頭を下げた。その様をちらりと見て、テキアは静かに相槌を打った。

 窓を叩く風の音が聞こえる。それにつられるように、明かりに照らされた二人の影が揺らいだ。




 いつものように食堂へとやってきたゼジッテリカは、昼食の真っ最中だった。今日の昼食はゼジッテリカの大好きなふかふかのパンだ。それを手でちぎっては口の中放り込み、広がる甘さに頬を緩める。そして新鮮なミルクを飲む。そんなことをずっと彼女は繰り返していた。やはりこのパンは好きだ。黙々と食べ続けてしまう。

 だが途中でふとシィラの視線を感じて、ゼジッテリカは目を向けた。そこには穏やかな顔のシィラがいて、その瞳が真っ直ぐゼジッテリカを捉えている。自分はほとんど食べていないというのに、満足そうな眼差しだった。

 こうやって見られることは、別に今に限ったことでもなかった。それでも何かが気になり、ゼジッテリカは首を傾げる。いつもとは何かが違う気がした。何が、と具体的には答えられないが、違和感があるのだ。

「どうかしたの? シィラ」

「いいえ」

「でも何か変だよ? シィラ」

「そうですか?」

 尋ねてみてもやはり返ってくるのは普通の答えで。それが歯がゆくて、ゼジッテリカは頬を膨らませた。するとシィラは困ったように微笑んで、それから何かを思いだしたのか軽く手を叩く。軽快な音が食堂に響いた。

「そうそうリカ様、何だかもうすぐ事件が解決しそうな雰囲気ですよ」

 話を逸らすための話題だろうと高をくくっていたが、予想以上にそれは重大なことだった。驚いたゼジッテリカは息を呑み、口元に運ぼうとしていたパンを手にして硬直する。

 事件とは、それはつまり魔物との戦いのことだろうか? それを確かめるべく、姿勢はそのままにゼジッテリカは口を開いた。唇が震えそうになる。

「ほ、本当?」

「ええ、本当です。先ほど隊長ばかりがテキア様の部屋に呼ばれていたようですから。おそらく作戦会議ですね」

「ま、魔物たちを倒せるの?」

「きっとそうですよ」

 それは夢の中の話のようだった。あまりにも信じがたくて、全く現実感がわいてこない。それでもシィラが言うのだから嘘ではないのだろうと、そうゼジッテリカは自らに言い聞かせた。魔物が倒せる。そんな日がすぐそこにやってくるとは、なんてすごいことなのだろう。

「……あ」

 しかしそれが意味するもう一つの事実を、ゼジッテリカはまた思い出してしまった。まだ遠い日のことだと思いこんでいたから、今までは平気でいられたというのに。それなのにその日は確実に迫ってきていた。ゼジッテリカは顔を強ばらせる。

「どうかしました? リカ様」

「あのさ、この事件が解決したらさ……シィラはここを出て行っちゃうんだよね」

 わかりきっている事実を、ゼジッテリカは怖々と口にした。するとシィラはほんの少し瞳を細めて、困ったように頭を傾ける。長めの前髪が揺れて、その頬にかかった。何も言えなくなったシィラを見ていられなくて、ゼジッテリカは視線をパンへと戻した。それでもそれを食べる気にはなれない。

「我が侭だって、わかってるけど。でも私もう一人は嫌だよ」

「リカ様……」

「お母様もお父様もいないのに、テキア叔父様だけになったのに。また私のご機嫌ばっかり取ってくる大人たちとしか会えないのはやっぱり嫌だよ。叔父様だって、お父様が病気になってからはずっと、忙しくてほとんど会えなかったのに」

 涙声にならなかったことだけが、唯一の救いだった。こんなことを告げてもシィラが困ることだけはわかっている。困らせたくないとも思う。だが、それでも寂しいのだ。

 ゼジッテリカがそっとシィラを見上げると、細い手が短い金髪へと伸びてきた。髪をすくい取るその指先が優しくて、ゼジッテリカは泣きそうになる。こういう時のシィラはずるい。つい甘えたくなってしまう。

「ずっとここにいてはくれないの?」

 かすかな希望を込めて、ゼジッテリカは尋ねた。無理だと前にも言われているけれども、もう一度確認したかった。いや、本当は確認したくなかった。けれども問わずにはいられなかったのだ。

「それは無理なんです、リカ様」

「どうしても?」

「私がリカ様の足枷になるようでは、駄目なんですよ。リカ様はいずれ自分の足で立たなければならないんです。そうでなければ、いつまでだってもリカ様とファミィール家の娘は一つになれませんから」

 シィラの言うことは、もっともだった。けれども容易には受け入れたくなかった。ゼジッテリカは唇を噛むと、テーブルの上の皿をじっと睨みつける。温かいスープからは、ゆらゆらと湯気が上っていた。それも少し歪んで見えてくる。

 シィラがいつかここを出ていってしまうことはわかっていたのだ。だがそれが思っていたよりも早いことに、動揺しているだけ。もっと一緒にいられると思っていたのにと、狼狽えているのだ。それは自分でも理解しているけれど、だからといって波立った心は落ち着いてはくれない。そんな弱い自分にますます悲しくなった。

「リカ様は、もう一人じゃありませんよ」

 頭に置かれていたシィラの手が、ついで頬へと触れてきた。驚いたゼジッテリカはシィラへと顔を向ける。頬を、一筋の涙が伝っていった。はっきりとした視界に映ったシィラは、想像通り微笑んでいた。その眼差しは柔らかくて、朧気な記憶の中の母親とどうしても重なる。

「リカ様は愛されて生まれてきて、そしてこれからも愛されて生きていくんです。会う人全てに好かれる人なんていません。だからたとえあなたを傷つける人が現れたとしても、それが全てだとは思わないでくださいね。ほら、リカ様にはお母様の人形があるでしょう? 辛い時はそれをちゃんと思い出してください」

 シィラの言葉は、どうしてこれだけ胸に染み入るのか。そう不思議に思いながらも、ゼジッテリカはうなずいていた。

 そうだ、シィラだって皆に好かれていたわけではないのだ。目をつけられたり疑われたり不審に思われながらも、それでもこうして彼女は笑っている。そんな風になりたいと、ゼジッテリカは強く思った。シィラのように強くなりたい。大切な人を励ますことができるような、そんな存在になりたいと。

「じゃあ私からも、プレゼントしますね」

 そこで突然、思いがけない言葉が飛び出してきた。ゼジッテリカが驚いて瞳を瞬かせていると、シィラは懐から一本の短剣を取り出す。鞘に収められたそれは、ゼジッテリカが持つには少し大きい物だった。だが手にしてみると軽い。その鞘には軽い紋様が彫り込まれていて、それが光を反射して鈍く輝いていた。装飾品のような剣だ。

「シィラ、これ……」

「私が作った剣です。リカ様の危険を察知して、結界を張って守ってくれます。だからちゃんと身につけていてくださいね。あ、大丈夫です。これで人は切れませんから」

 受け取った剣を凝視していると、シィラはそう付け加えてくすりと笑った。顔を上げたゼジッテリカは、シィラと短剣を交互に見比べる。

 つまりこれは、魔物からゼジッテリカを守る武器なのだろう。と同時にシィラの思いが詰まった物なのだ。人形と同じ、ゼジッテリカのことを思っていてくれているその証拠となる物。大切な宝物だ。

「わ、わかった」

 鞘ごと短剣を胸に抱いて、ゼジッテリカはうなずいた。これでシィラのように強くなれると、不思議とそんな気がしてならなかった。

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