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香炉  作者: 伯修佳
七月某日 弐
9/13

心中話

「もしかして何かしでかしたのかい? 啓さん」

 啓之助はぎょっとした。勿論いつの間にか自分が略称で呼ばれていたからという理由ではない。

 幽霊退治は昨日の今日、朝食を終えるなり病棟へ足を運んだのは顔の広そうなこの男を思い出したからだが、如何に話のついでを装ってみたとしても内容の唐突さは拭えようもなく。

 流石腐っても新聞記者、すかさず飯の種の匂いを嗅いだと見えて、目付きが途端に鋭くなったのには閉口した。

「僕じゃあないよ、ただ知り合いに一寸頼まれただけさ。伊村さんなら、蛇の道は蛇でつなぎを付けられないかな」

「そりゃあ社会部の奴らに伝手を辿れば出来ない事もないが。ただ会いたいと言われてもなあ」

「頼むよ。余り間に人を入れたくないんだ」

「仮に繋ぎが取れたとして、どこで会うつもりだい? 真逆事件もないのに、おいそれと病院に呼び出すのは無理だと思うぜ」

 伊村は右手に煙草を挟んだまま、小指で額をかきながら目をすがめた。

ちなみに君は警部と面識はないかい」

「会った事はないな。刑事部捜査一課の叩き上げで知られたお人ではあるがね。四十半ばで警部まで上がったからには、まず敏腕の部類に入るだろう」

 相変わらずその器用さに感心しつつも、啓之助はシャツのポケットから茶封筒を取り出した。

「会えないとなれば、致し方ない。一応手紙も書いて来たんだ。中身を他に見られない様に渡してもらうだけでも出来ないだろうか」

 それまで手に持っている急須の口から流れ出る、煎茶にばかり目が行っていた中村老人は不意に顔を上げた。

「もしかしてそいつは俗に言う『密告』じゃないんですかい」

「出たよ。中村さんの銀幕狂いが。不思議と来れば、すぐに事件と結び付けやがる」

 牧野老人のからかいはあながち間違いでもないのだが、こちらで説明するのを躊躇っている内に中村老人が「実はさ」と楽しげに返した。

「志真子の今度の映画は推理ものらしいんだ。庭に死体を埋めた女の役でさ」

「んなこったろうと思ったよ」

 軽くあしらう伊村とは対照的に、啓之助は内心ぎくりとさせられていた。

 事故ではない女の死。

 気にしすぎだと己を叱咤する。あくまで偶然に過ぎないし、殺人を題材とした映画なども近頃では出てきているではないか。

 とりあえずは津野坂の伝言への反応次第、全てはそれから考えようと思いなおした。

「事件といやあ、儂ゃこの病院に何年か前にも入院していたんですがね。女の土佐衛門が担ぎ込まれたのを見たことがありますよ」

 牧野老人は好物の落雁らくがんを茶で流し込みながら、ただでさえ赤い顔をさらに上気させて言った。

「喉でも詰まったのかい?」

「やっさん、憚りながらこちとら金勘定をきっちり数えるのが仕事でさ。まだそこいらの若造に『ここ』の中身で引けを取りはせん、年寄り扱いはやめてもらいたいね」

 白髪頭を人差し指で軽く叩く。

「別に爺さんのもの覚えを疑ってなんかいないだろ。借りた方は忘れて欲しいだろうがね──で何だって? 土佐衛門?」

 心中だったんでさ、と牧野は額に皺を寄せた。

「儂はそん時もこの部屋でして。今でもそうですがただでさえ人の足音は煩いし、堪ったものじゃありませんでしたよ。特に急患なんか来たらもう酷い騒ぎでしてね。儂は育ちがいいせいか、静かでないと眠れないもんですから」

「言うに事欠いてまあいけしゃあしゃあと」

 中村老人から笑い含みの横槍が入った。多分普段は構わず寝れているのだろう。

「で、その晩も。夜中の一時頃だったかと思いますがね」

 真夜中に何人もの足音が騒がしかったので、怒り混じりに起き上がって病室の扉を開けた。文句の一つも言ってやろうと。──だが目の前の出来事に気を取られてしまい、それは叶わなかった。

「階段でしくじりがあったのか、担架からちょうど患者が転げ落ちるのが見えたんですよ。布からはみ出た長い黒髪と、まっ白い腕がね」

 一見退屈そうに聞いていた伊村が「土佐衛門は見りゃわかるかもしれないが、何で心中ってわかったんだ?」と鋭く聞いた。

「後で同じ部屋の奴に聞いたんですよ。儂はそん時は『溺れたんだな』としか思ってなかったんですがね……だから騒音が去ったとばかり寝ちまいまして。後から来たらしいんですよ、男の方が」

「ずぶ濡れで?」

「へい。一時間位後で、だったそうです。儂は見ませんでしたが」

「全体訝しな話じゃないか。一度目で叩き起こされたものを、どうして二度目は見なかったんだい」

 それは、と牧野老人は答えに詰まる。

「いやあんなもの、そうしげしげと観るものでもなし」

 何故かいきなり吃り出したので、老人二人からどっと笑いが起こった。

「おいおい、また『育ちがいいから』なんて言うんじゃないだろうな」

「本当は耄碌もうろくして覚えていないだけじゃねえのか?」

 違う違うと、むきになる彼を子供の様に囃し立てた。

「──恐かったから、じゃないのかい」

 発した啓之助にしてみれば、単純な疑問でしかなかったのだが──どうやら予想以上に意外な発想だったらしく、注目を一斉に集めてしまった。

 軽く怯んだものの、思い切って視線を上げる。

「あんなもの、そうそう見慣れるものじゃない。牧野さんが見た女性が死んでいたかどうかはわからないが」

「そうなのかい、爺さん?」

 伊村の問いに牧野は答えなかった。

「しかし面妖だな。男が見付かったのが随分と後で、か。流されたのか、それとも……」

 何やら思案げに「心中なら警察も動いただろうな。前後の状況を見ないと、何とも」などと呟いている。周りが話しかけてもしばらくはうんともすんとも言わない。

 啓之助は小声で隣の中村老人に「いつもこうなのかい?」と聞いた。

「ゴシップ専門のくせにひとっつも飯の種にならない謎が大好きなんだとさ。貧乏性だよなあ」

 的を射た表現かは甚だ疑問だが、確かに彼の関心は牧野にすっかり集中してしまっていた。

「──次の日の新聞に載っていたかどうか、覚えているか?」

「さあ。載っていなかった気もするがいかんせん、かなり前の事なもんではっきりとは。やっさんこそ、新聞記事になったのならわからないもんかね。本職じゃろう」

 矢継ぎ早の質問に悔しかったのか、そう牧野はやり返した。

「いやあ俺は逆に見覚えがあり過ぎて、どれがどれだかわからんよ。昨今の心中事件の多さと来たら、非道いもんだからな」

「そりゃあ半分は『天国に結ぶ恋』などと美化した、お前さんがたのせいじゃないかね」

 老人は鼻を鳴らした。憤懣ふんまんやるかたない、といった風情だ。

 昭和に入ってからとにかく多かった自殺者は、今年の五月に起きたある心中事件を皮切りに、集団めいたものに変わりつつある。

 世に言うこの「坂田山事件」は、某華族出身の青年と資産家の令嬢との間に芽生えた叶わぬ恋の果ての心中として騒がれ、一躍社会現象を巻き起こすまでとなった。

 男は慶應けいおう大学の学生、女は女学校出身の才媛だったという。結婚を娘の親に反対された為、大磯の小字坂田の丘で昇汞錠しょうこうじょうを飲んで心中を遂げたのである。遺体で発見された二人は、親族が引き取りに来るまで近くの墓地に仮埋葬される事となった。

 ところが、翌日になってみると女性の遺体だけが墓地から盗み出されており、捜索の甲斐あって再び見つかった折には何と、一糸纏わぬ全裸死体となっていたという。

 遺体盗掘の犯人は火葬場の男だった。しかし骸が傷ついていなかった為新聞各紙は『死体愛撫』と騒ぐ一方、恋人二人については『プラトニック・ラヴ』と純潔を賞賛した。

 あまつさえ「無名の丘では情緒がない」と心中現場に名前まで付けてしまった。それが坂田山の由来だという。

「実のところは単なる情死に猟奇趣味がおまけに付いた、何とも──こういうのを何と言うのだったか? 啓さん」

「エゴイスティック、かな」

「そう、それじゃよ。死して尚骸さえも弄ばれる。げに恐ろしきは人の欲望よのう。映画なんぞまで作りおってからに」

 映画好きの中村老人は、塩辛いものを飲み込んだ様な顔をしている。

「そりゃ何かの洒落かね。金の亡者のあんたが欲について語るなんざ、世も末とはよく言ったもんだ」

「何おう!」

「……おい、二人とも大概にしたらどうだね。また看護婦に怒られるぞ」

 鼻息を荒くする老人の間に啓之助は割って入った。

「国仲さん、あんたも黙って笑ってないで何か言っておくれよ」

 だが遠巻きに傍観していた老人は、にやりと笑うだけである。代わりに伊村が答えた。

「あれは今年のものだろう? しかしまあ、今に坂田山は学生連中の骸で埋まるんじゃないかと思っちまうよ。若い身空で勿体ない話さ」

 自殺しようって奴の気持ちははなからわからんが、と伊村は煙を盛大に吐き出しつつ片頬だけで笑った。

「やっさんはこの世の娯楽を謳歌して往生する側の人間だものなあ」

 中村の言葉に啓之助もまた笑った。こんな時に酒があればさぞかし進んだだろう。多少残念な気持ちになる。

「せめて花札でも持って来たら良かったな」

「おお、啓さん持っているなら今度頼むよ。全く退屈で敵わん」

「今、持って来よう」

 松葉杖に手を伸ばした啓之助に伊村は眉をひそめる。

「大丈夫なのか? 何なら明日でも構わないぜ」

「問題ないさ。脚も大分使える様になった」

 純粋な心配なんだろうとは頭ではわかっていたが、かすかな苛立ちを追いやる為に彼は嘘をついた。

 まだ十時にもならないというのに、早くも蒸し暑さを感じながら廊下を急ぎ屋敷に戻る。

 蝉の声が今日は一層煩い。

──あれは。

 汗が流れ落ちるに至って一休みと立ち止まると、窓の外に薬草園が見えた。

 大きな麦わら帽子を被った麻耶が草花の間に見える。少し離れた場所に、もう一人野良着姿の男がいる。どうやら翼らしいと判断がついた。

 暑さに気力を削がれたのもあったが、何とはなしにぼんやりと様子を眺める。二人は如何にも仲睦まじげに時折会話していた。翼が何事か言い、麻耶が顔を赤らめて怒っている。啓之助も思わず笑った。

──本当に、変わっていない。

 昔から麻耶は素直ではない所があって、根は優しいのに一見生意気に思われがちなのだ。

 可愛くない餓鬼だと思った事もあったなと、しみじみ懐かしんでいると、当の本人がこちらに向かって手を振るのが見えた。しかも満面の笑みだ。

 無視するのも何なので笑って手を振り返す。彼女に歩み寄る夫に厄介な気配を感じた。さっさと立ち去った方が賢明だろう。

 案の定、次の瞬間彼は浮かべていた苦笑を凍り付かせる羽目となった。

 翼の動きは素早かった。妻の身体を引き寄せて、その唇を自分のそれで塞いでいる。

 麻耶は目を見開いたまま、しばらく固まった様に接吻を受けていたが、拒む様に一度両手を夫の肩に掛け腕を突っ張らせた。が、抵抗虚しく一層引き寄せられてしまった様だ。

 目を閉じて、為すが侭にされている。

 人の接吻など、映画ぐらいでしか見た事がなかった。しかもそれが幼い頃から知っている従妹とは──衝撃としか言いようがない。

 しかも麻耶に口付けたまま、翼がちらりとこちらを流し見たのがわかった。

──くだらん。

 己が勝利を誇示するかの所作に、鈍い怒りを感じる。

 勝手に嫉妬しているのはあちらの方なのに、何故自分がここまで不快にさせられなければならないのだろう。そもそも不快の理由がよくわからないのが更に腹立たしい。

 啓之助は顔を背け、再び松葉杖をがむしゃらに動かして屋敷へと向かった。

脚注9:昇汞錠→水銀剤。塩化水銀とも言う。昔は殺虫剤や防錆などに普通に使用されていた。猛毒。

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