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香炉  作者: 伯修佳
七月某日 弐
8/13

謎の男

ここから残酷描写が入ります。


話の構成上不可欠な為、苦手な方は読まない事をお勧めします。

 何処かから、幼い子供の泣き声が聞こえる。

 見渡す限りの瓦礫の海が広がっていた。砕けた瓦や壁の破片、合間に立ち上る灰色の煙。

 かつて活気ある歓楽の都と隆盛を誇った北四川路きたしせんろ、日本と支那、それに仏蘭西ふらんすの文化入り混じった租界の街も、今や砲撃に平らにならされ見る影もない。

 啓之助は、誰一人見当たらない無人の廃墟に立ち尽くしていた。

(……師団は何処にいった。仲間は)

 便衣兵──民間服を着用した、中国兵だ──に悩まされていた日本陸戦隊が、後発で投入したのが彼の所属する第十四師団だった。甲斐あってか租界に紛れていた便衣兵は次々と捕獲された。苦戦していた日本軍に手段を選んでいる余裕はなく、商店立ち並ぶ街中で土嚢どのうを積み、白昼夜間問わず銃撃戦を行う事となった。そこには未だ民間人も普通に生活していたというのに。

(僕はどうして、こんな所に独りなのだ。銃も持たずに)

 瓦礫に半ば埋もれ、横倒しになった店の看板が見える。「ODEON」と辛うじて読める処から、オデオン座のものらしいと何となくわかった。本場には劣るものの、租界の繁栄の象徴の一つだった、壮麗な劇場の残骸。

 子供の泣き声は相変わらず続いていた。

(何処だ)

 出所を求めて首を巡らす。突然足元にある「何か」につまづいて彼はたたらを踏んだ。

 民間人の死体だった。かつと目を見開いたまま亡くなっている。

(いや──便衣兵だろう)

 そう思い直して顔を上げると、いつの間にか瓦礫ばかりだった筈の周囲は、死屍累々と転がる地獄絵図と化していた。

 啓之助の喉から、声にならない悲鳴がほとばしる。

 しかばねが小高い丘を作り、その頂点に子供がうずくまっていたのだ。

 足元に横たわる女性の亡骸に縋って、泣いている。

(莫迦な──巻き込まれたのか)

 女を殺すなんて。

 愕然として己の足元を見下ろす。折り重なった遺体の合間、確かに老人女子供のものが紛れていた。

 その内、特に目を惹いた子供の亡骸。

(胸から下が──)

 手足の取れた人形の様なそれは、血まみれでなければ全く現実感がなかった。あるべき部分が空白になってしまっている。残っている胴体もところどころ皮がめくれ上がり、剥き出しになった肉と──焦げた内臓らしきものが覗いていた。

(これが)

 間違えて殺した、で済むわけがない。そもそも間違えたのかどうかもわからなかった。

 支那の子供は日本人を疎まなかった。砲撃を開始する前、飴をやろうとすると、ほてほてと寄ってきて無邪気に笑ったのを覚えている。

(これが、僕達のやった事か)

 耐え切れず声の限りに叫び続ける啓之助の目の前で、首と胴体だけの子供の遺体が、勢い良く両の眼を見開いた。


 テアシヲチョウダイ


 血のこびりついた小さな口元が、紛れもなくそう動いた時──彼の足に激痛が走った。


※※※※


「……うあああああああ!!」

 啓之助は滝のごとく寝汗をかいた状態で目を覚ました。

 暗闇の中に虫の鳴き声が鈴と冴え渡る。己がいるのが結城家の一室だと、気づくまでにひどく時間が掛かった。

──いつの間にか寝入っていたのか。

 叫び声を誰かに聞かれてしまったかもしれないと不安になる。

 啓之助は暗闇の中起き上がると、枕元のランプを灯してテエブルの置時計を確認した。

 午後十一時。房枝が件の「声が聞こえる」と言っていた時間帯だ。

 モルヒネ注射を打てば──忠告にも関わらず、彼は未だ止める決心をつきかねていた──朝まで眠りから覚めないであろうと、あえて使わなかった。

 故に横になって仮眠を取ろうと考えたのだから、試みは成功と言って良かった。もう二度と戻りたくないと思っていた戦場の夢を見たせいで、濡れたシーツの不快さと恐怖に脈打つ心臓を宥めなければならないのが代償だったが。

 震える手でテエブルの引き出しの一番下を探り、注射器と小瓶を取り出す。

 赤い跡が幾つも残る腕に注射針を刺し入れ、モルヒネではなく医者が処方してくれた痛み止めを打った。それで足の痛みは何とか治まり人心地付く。

 ベッドに座った状態のまま、彼はそれまで着ていた浴衣を着替え、綿シャツとズボン姿になった。松葉杖を引き寄せ立ち上がる。

 勿論、昼間董子が話していた「不気味な泣き声」の正体を突き止める為だった。

 あの後小一時間待ってから、房枝を使用人部屋で捕まえて詳しい時間帯を聞きだした。渋面で返答を躊躇うのを無理強いするのは骨が折れたが、曲がりなりにも約束は守るべきだろう。もしかしたら謎が解ければ、義叔母の病も軽減するかもしれない。

 それに彼にはわかっていた──どうせ幽霊などよりも、生きている人間の方が何倍も恐ろしいのだと。

 夜中に家の中から外に出る方法は、実は一つしかない。

 全ての扉は午后十一時に松野が点検して回り、鍵を閉めてしまうのだ。拠って正面玄関や勝手口など、ありきたりな出入口は使えない。

 啓之助が実行しようとしている方法は、別のものだった。

 自室を出ると、足音や杖に気をつけ廊下をやり過ごして書斎に向かう。

 書斎はあまり施錠される事がないのだ。他に音楽の間や食堂など、共通の部屋は閉める必要がない、とこの家の人間は考えているらしい。個人の私室は全て鍵が掛かるのだが。

 そして、と扉を開けて書斎に滑り込むと、彼は松葉杖に括り付けてあった袋を中央のテエブルに置いて、中身を取り出した。

 蝋燭、燐寸、そして真鍮しんちゅうのランタン。陸軍用に支給されている予備を以前失敬したもので、割と小さく軽い。

 書斎で危険ではと思いつつ、燐寸を擦って蝋燭に明かりを灯し、グローブを開けて中に立てた。

──さて。

 この書斎は二階を吹き抜けにした造りになっており、コの字になった本棚の中央に一階への階段がある。不思議な話で、一階からは書斎に入る扉はない。

 そして一階には、裏庭に出る内開きの扉が付いていたのだ。

 彼はランタンの柄を口に咥えると、松葉杖を駆使して階段を降り始めた。

 ようやく一階に辿り着き、庭への扉に身体を預けて鍵を片手で開く。

 それでも杖を使う様になってから、随分と我慢強くなったものだと自分を褒めてやりたかった。

──風がないのが何よりだ。

 ガラスグローブに守られているとはいえ、蝋燭が消える心配をしなくて済むのは有難い。

 未だ一部の灯りが点いている建物内部に比べて、庭は漆黒の闇に覆われていた。

──こんな風にこそこそと庭に出ていると叔父さんが知ったら、さぞかしお冠になるだろうな。

 そう考えると、ちょっと楽しくなって来た。

 書斎から第三病棟に向かう途中には、麻耶の薬草園があった。色とりどりの草花も、今はランタンの僅かな明かりで一部を見せるのみである。

 夜になって気温が大分下がったとは言え、七月の盛夏に向かおうという頃、むせかえる様な夏の湿った熱気が啓之助の身体に纏わり付いた。

 じっとりと汗をかき始め、薬草園半ばを通り過ぎた辺りで一休みしようと考えた、丁度その時。

──聞こえる。

 まだ病棟には距離があるのに、余りに静か過ぎる夜陰のせいか。

 はっきりと啓之助の耳に届いた。啜り泣く声が。

 男の声だと房枝は言ったが、成程男のものとも思える。

 魂切たまぎる悲しげなものというよりは、「めそめそ」といった苛立たしい泣き声だ。なので一瞬怯んだ彼の恐怖心は、全くもって吹き飛んでしまった。

 啓之助は更に建物に近寄った。松葉杖を抱えたまま、右手を駆使してランタンを口から外し横柄に声を掛ける。自分こそが闖入者なのだが。

「誰かいるのか」

 だが次の瞬間、流石に肝を冷やす光景に出くわす羽目となった。

「誰……だい……?」

 癲狂と聞くが、鉄格子が何本か嵌まっている以外は他の病棟と何ら変わるところがない。

 窓も大きく、中を見るのにさして苦労は要らない位置にあった。その、中に。

 病人服姿の男がカーテンを開けて、こちらを見ていた。

 痩せて骨と皮ばかりの、枯れた茂みの様なぼさぼさ頭。髭も伸び放題だ。

 涙で濁った両眼ばかりが大きく、異様に熱を帯びている。

 ひと目で「これはまずい」と思ったが、逃げるわけにもいかない。

「僕は屋敷の者だ──あんたこそ、何で泣いている。頼まれたのさ、訝しな泣き声がするからと」

「屋敷の……じゃあ、君は……結城家の人間か……」

 よくよく見れば、内窓のガラスが少しばかり割れて穴が開いている。声が聞こえる筈だ。

 一体全体、医者はきちんと此処を巡回しているのだろうか。

「まあ一応そうだが」

「僕がここに入れられて、初めてだ──君みたいにまともに口を利いてくれた人間は」

 嬉しそうに言われて、啓之助は逆に首を傾げた。

 確かに癲狂棟にいる患者に、理路整然とした話が通じるとは思えない。そう考えるのが普通だ。

 しかし今の所、意味不明な唸り声や暴力といった、彼が想像したものはない。会話も成り立つ。

「ずっと言って来たんだ……でも、誰も聞き入れてくれなくて……」

「それで泣いていた、と?」

 男は頷いた。

「僕は狂ってなんかいない。ただ、見てはならないものを見てしまったから……閉じ込められているんだ」

「閉じ込められているって。随分と穏やかじゃないな。真逆叔父さんに、なんて言わないだろうね」

 叔父さん、の言葉に男の顔色が変わった。

 魚眼の如き双眸から、再びぼろぼろと涙が零れる。

「君は院長の血縁者か! ならば帰ってくれ──嗚呼何て事だ、折角助けが来たのかと思ったのに……」

 声を上げておいおいと泣き出した男に、啓之助は辟易しながら一応聞いた。

「静かにしないと、誰か起き出して来るぞ……おいあんた。見てはならないもの、とは一体何だ?」

「信じてなどもらえるものか。どうせこの会話も、院長に注進するのだろう!」

「内容に拠っては、そうだな。話さないといけないだろうね」

 この男が自分で言う通り、不当に監禁されているのだったら由々しき事態だ。

 それこそ相馬事件再びともなりかねない。

「だから話してみてご覧よ。もし本当なら、誓って悪い様にはしないから」

「嘘だ! 信じられるものか……そんな巧い事を言って、院長に僕を始末させる気なんだ!」

 怯えに彩られた男の顔が、縋っていた窓際から離れた。

「あ、おい。ちょっと待てよ──まだ話の途中だろ」

 だが男はぶつぶつと「信じない。結城家の人間なんて」と呟きながら病室の奥へと消えて行ってしまった。

「待て待て! わかったよ、絶対に院長には言わないと約束する。だから話を聞かせてくれ」

 自分は何を言っているのだろうと思った。本当に黙っていられるかの自信はない。

 大体叔父さんはどうして、こいつに此処まで恐れられなければならない?

 独善的な院長だとは聞いていたが──正気の人間を患者として閉じ込めるなど尋常ではない。

 よしんばこの男が本当に狂っていて、単なる被害妄想だとしても、余りに聞き逃せない話だ。詳しく聞いて判断したかった。

「僕みたいなお人好しはもう二度と来ないかもしれないよ。此処から出たいんだろう?」

 多少卑怯な言い回しだと思うが、付け加えてみる。

 それでもやはり、室内からは応答がなかった。

──駄目だったか。

 諦めて、屋敷に戻ろうとランタンを口に咥えなおした時である。

 男の頭だけが再び覗いて、驚きの余り啓之助は呻きそうになった。

「……君が本当に僕の力になってくれるというのなら……警視庁の津野坂警部に伝えてくれ。『あのお嬢さんは事故死なんかじゃなかった』と……」

「何だ、全く要領を得ないじゃないか」

 慌ててまた口からランタンを外し、抗議する。

「今は詳しくは話せない。警部なら、それで動いてくれる筈だ」

 待っているよ──言い置いて男はまた視界から消え、閉められたカーテンは今度こそ開く事はなかった。

脚注8:北四川路→上海の有名な商業街。現在の四川北路。魯迅公園などが有名。

オデオン座→租界にあった娯楽劇場。同名にて日本にも数箇所存在。言葉そのものがギリシア語で劇場を指す。

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