家族の肖像
一体あの女は何だったのだろう。
考えに耽っていた啓之助は、テエブルに並んだ西洋風な夕食を突くばかりでいっかな食べようとしなかった。不意にそれまで黙っていた清太郎の野太い声に思考を遮られるまでは。
「明日、吾妻閣下がお見えになる。昼二時に到着予定だそうだから、君も出迎えに来る様にな」
結城家の人間が一同に介するのは食事の時のみ、広々とした食堂は花瓶やら絵画やら飾られているが、食欲をそそる手助けにはならない。立ち込めている何とも息苦しい空気のせいだ。
「はい」
最上座に座る清太郎の右隣、彼と角を挟んで垂直に位置している翼が答えた。隣には麻耶、薔子と続いている。
翼の向かいには啓之助が座っているが、本来ならばいる筈の董子が席に着かない為の席順らしい。どうやらまだ体調が優れないのだろう。
「吾妻閣下とはもしかして、この度政友会の内閣書記官長代理に就任された吾妻直輔氏の事ですか」
つい最近新聞で目にしたばかりの名前を聞いて、思わず啓之助は問いかけた。
「然様、森閣下が近頃持病の喘息でご静養なさっていてな。埒が開かないと吾妻閣下自ら、儂を閣下に推薦して下さったのだ。まあその関係で少しお話にいらっしゃる」
清太郎は常になく多弁で、得意げに笑ってさえいる。
吾妻は華族出身の妻を持つ、製鉄業社長から身を起こした政治家である。
辛亥革命・張作霖爆殺事件などの立役者と噂される同党の森恪氏に師事、師匠と同様軍部との関係を政治基盤に持つ次期書記官長候補と専らの噂だ。
結城家は代々高貴な人物を相手に匙を取っていた医家だが、当代の清太郎はとりわけ身分権力を信棒する傾向が強かった。特別病棟などというものが存在するのが歴とした証拠、聞けば華族や政治家・金満家などの診察は全て清太郎が行っているという。
「政友会と言えば、岡田海軍大将閣下が斉藤閣下の跡を継がれましたね。巷間では挙国一致などと取沙汰されておりますが」
「ふむ。陛下もようやく軍部の言に重きを置いて下されたという事だ。軍縮などと世迷言を申す輩への牽制となるのは喜ばしい限りだな。啓之助君もそう思わんかね?」
翼が振った話題を転じられ、啓之助は「はあ」と曖昧に笑って誤魔化した。
五・一五事件で立憲政友会所属の犬養毅前首相が暗殺されて以降、今上陛下が政党政治に懸念を示される様になった。首相を政党に所属しない枢密院もしくは軍部出身の政治家より選ぶ事とした結果の、斉藤内閣に続く中間人事だと言われている。
前の戦地に行く前ならば、もしかしたら力強く頷いていたかもしれない。
だが偶々にせよそれまでと違い上海では初めて「死」を間近に感じた。今では果たして軍部の台頭が最善なのかどうか、断言出来ない己がいる。
甥の生返事に頓着する風でもなく、清太郎は娘婿相手に弁舌を振るい続けた。
「そもそも海外征伐ないし軍需産業があったればこそ、昨今の恐慌を脱する糸口となったという事実を与党が軽視し過ぎなのだ。大体、政党政治が何を行った? 金を解禁などしおって、おかげで為替相場は大暴落だ。影響でロンドン会議でも諸外国と軍部の間で右往左往しておった」
「そう言えば、ロンドン会議において政友会が取った政策がきっかけで、犬養閣下が暗殺されてしまったというお話もあるそうですね」
相槌を打つ翼の横で、麻耶が仏頂面をしているのに啓之助は気づいた。
「でもお父様。政党政治もそう悪くはないのではないのかしら? 大蔵大臣をされていた高橋閣下も政党ご出身だと言うではありませんか。不景気を立て直したのもその方なのでしょう」
明朗とした声が横から聞こえて、清太郎以外の人間が皆そちらを振り返る。
末席にて挑戦的に笑う娘に父親は顔をしかめた。
「薔子。誰がそんな事をお前に吹き込んだのか知らんが、今度同じ発言をしてみろ。女学校を辞めさせるぞ」
「学校は関係ありませんわ。世間はお父様が思っていらっしゃる程、無知でも蒙昧でもありませんもの」
「何だと! 生意気な。口の利き方に気をつけろ!」
凄みを利かせた脅しにも、彼女はつんと顎を突き出しただけで動じなかった。
音を立てて立ち上がった清太郎を冷ややかな眼差しで眺めている。
「お義父さん、落ち着いてください」
「そうですよ。──薔子さんも、お父上に謝った方が良い」
宥める啓之助らの言葉も全く無視して、ご馳走様でしたと薔子は席を立った。
「わたくし、一足先に失礼します。今日は夕食の味がしませんので」
「待ちなさい。いくら何でもいきなり過ぎるだろう」
「放っておけ!」
足音荒く歩み去り、次いで勢い良く扉を閉める音。
食堂を一層の静寂が包み込んだ。
「……私も、失礼します。ご馳走様でした」
感情の伺えない麻耶の声に啓之助ははっとした。
両手を合わせて視線を伏せている従妹の顔には不快さが滲み出ている。
この人の気性なら、本来真っ先に何か言いそうなものだが──
「麻耶さん」
声を掛ける夫をちらりと見て、彼女は僅かに首を横に振る。
そのまま食堂を出て行った。
「全く……誰に似たものか、まるで言う事を聞かん。翼君、君も婿養子だからといって遠慮せずに、きちんとあれを躾けておきなさい」
翼は一瞬目を瞠ったが、ややあって「はい」と短く答えた。
以降伏し目がちに黙々と食事を進め、痛い程の気まずい状況である。
──またか。
勿論啓之助が屋敷に来てからというもの、親子間の言い争いを目にしたのはこれが始めてではない。
娘が二人とも黙って従うという性格だったならば、こうはならないのかもしれないが──総じて勝気で頭の良い姉妹だ。分けても薔子は女学校でも常に首席らしく、将来について度々清太郎と議論になっていた。
己に恃む所の多い彼女は職業婦人を目指しているという。
娘達がいなくなってしまった為、清太郎が一足先に去った後、啓之助は久しぶりに翼と二人きりで食堂から部屋までを歩く事になってしまった。
空気が重い。
──書斎にでも寄って、本を借りて来よう。そうすれば途中で別れる。
「啓之助さんは、軍国主義に対して懐疑的なのですか」
廊下をしばらく歩いた頃、話しかけられて彼はぎょっとした。
翼から声を掛けるなどと滅多にあるものではい。
「軍隊にいらっしゃるのなら、賛同なさるものと思っていました」
「……君はどうなんだ。叔父上との話では、満更でもない様子だったが」
少しでも軍部を否定する言葉を口の端に上らせれば、特高に共産主義と糾弾されかねないご時世だ。迂闊な事は言えない。
そのまま返すと翼は口の端だけで笑った。
「何も。ただ、家族を奪われるのは悲しいでしょうね。房枝さんの様に」
え、と言葉に詰まり横を見る。では房枝の息子は戦死したのだと衝撃を受ける。
だが何故、翼は同情的な言葉と共に笑っているのだろう。
「啓之助さん。これだけは言っておきましょう。……モルヒネ注射は程ほどになさってください。素人が扱うと、中毒になりかねませんよ」
※※※※
啓之助は更に驚いた。
「どうしてそれを」
「使用人が噂しています」
部屋の掃除に身の回りの世話、様子が訝しければ推測は出来ると。そう彼は続けた。
「……ご忠告、痛み入るね。てっきり僕は君に嫌われていると思っていた」
半分は皮肉、残り半分は医者の忠告に対しての礼を込めて答える。
「真逆。貴方に何かあったら、麻耶さんが悲しみますからね。──それに」
辿り着いた階段に足を掛け翼は振り向く。
冷え冷えとした黒い双眸が啓之助を射抜いた。
「もし邪魔なら、何も言いませんよ。僕は不言実行の人間なので」
「おい、前々から思っていたが。僕が何かしたのならはっきりと言っ──」
言い募ろうとした矢先、階段を降りてくる房枝が目に入って彼は口を閉じた。
「ああ、啓之助様。丁度良うございました。奥様がお呼びでございます。おいで頂けますか」
「董子義叔母さんが? 何でまた」
さあ、と房枝も啓之助に負けず劣らず怪訝そうであった。
ここに来て最初の日の話を彼は思い出した。そう言えばあれは奇妙な話だったと眉をひそめる。
気を付けるべき事柄といえば些細なもので失念していたが、一体余所者とは誰の事なのか。
気づけば翼は既に階段を登りきっていて、自室へと廊下を曲がった所だった。なので董子についてあれこれ考えつつ、彼女の部屋に向かう。
「お入りなさい」
ノックに答える声は弱弱しかった。
彼が扉を開け中に入ると、房枝はベッド脇のサイドテエブルにあった夕食の膳を掲げて部屋から出て行った。
「お加減は如何ですか」
部屋の右手、大きな天蓋付のベッドに董子は半身を起こしてこちらを見ていた。挨拶の時も思ったが、まるで以前の面影がない。きらびやかな室内の中でただ彼女だけが闇を纏っている。
かつては、華族の血を引く瓜実顔に品のある目鼻立ちをしていた。それが今ではやつれて顔も皺が増え、眼の下にははっきりと隈がある。眠ってばかりいる筈なのに。
優艶としていた口元は厳しく引き結ばれ、厳しい眼差しを客人に向けていた。
「今日はね。啓之助さん、貴方にお話の続きをしておかねばならないと思いまして」
「ああ、あの時のですか」
「ええ。わたくしは恐らくもう長くはないと思うから、この家の事を」
不吉な発言にぎょっとして、慌ててベッドの隣に歩み寄る。そこにあった椅子に腰掛けた。
「何を言うんですか、縁起でもない。医者にそう言われでもしたのですか?」
「いいえ。榎本さんは気鬱の病だとしか言いません。でもわかるのですよ。でなければこんなに枕が上がらないわけがないのですもの」
董子が病みついてから、一年程になると言う。確かに原因がわからないというには長い闘病期間だ。
「わたくし、誰かに少しずつ毒を盛られているのではないかと思っているのです──それに、貴方は感じなくて? この屋敷に漂う訝しな気配を」
「そんな莫迦な。第一、毒などすぐに人に知られるではありませんか。出来るわけがない」
強く否定しつつも、屋敷については彼も同じ事を考えていたと驚いた。尤も、彼自身は麻耶が言った病院ならではの『死の匂い』だろうと納得していたのだが。
「あの建物」
ぎくりとして顔を上げる。董子が首だけでカーテンの下りた窓を示していた。
「旦那様があんなものをお作りになったからだと思うのよ。あれが出来てからこの家にはろくな事がありません。──夜中に不気味な泣き声が聞こえるというし──」
「泣き声?」
「ええそうよ。家の者達が噂しているのだそう。啓之助さんはお聞きになった事ありません?」
「僕は全く……」
言いさして彼は口ごもった。夜はいつもモルヒネを打って寝ているのだ。聞こえる筈がない。
「聞こえるのは夜だけなのですか」
「ええ。男性のものらしい、それは悲しげな泣き声が庭の向こうから聞こえるのですって。もう私、その話を聞いてから再三旦那様にあれを取り払う様に申し上げているのに。全く耳を貸していただけないの」
それはそうだろう、と彼は先ほどの清太郎の様子を思い浮かべた。
莫迦げていると一蹴するのが目に浮かぶ様だ。事実彼でさえも、董子の話は突拍子もないと思う位なのに。だが。
「確かに不気味な話ですね……」
病棟が関係あるかどうかわからないが、夏の怪談にしても薄気味が宜しくない。
「わかりました。僕もあの辺をちょっと調べてみましょう」
結局は、幽霊の正体見たり枯れ尾花──という事になるのだろうが。
軽い気持ちで提案すると、董子は目を爛々と光らせて彼の手を取った。
「有難う、啓之助さんだけが今は頼りなのよ。この屋敷の人間は皆、きっと騙されているんだわ。誰もわたくしの味方をしてくれないの。きっとその内に良くない事が起きると、繰り返し警告しているのに!」
「だ、騙されている? 一体誰にですか」
「あの男よ! 涼しい顔をした、人の姿をした鬼畜生! わたくしは騙されないわ──」
ひっ、と董子はいきなり目を剥いたかと思うと、ベッドにそのまま倒れこんだ。
「董子義叔母さん!?」
仰天し彼が身体を揺さぶろうとした時、扉をノックして房枝が再び部屋に入って来た。
「ふ、房枝さんっ。義叔母さんが──翼君を呼んで来てくれないか」
だが房枝は首を横に振ると、持っていた盆の上にある薬の紙包みを一つ取って董子に近づいた。さらさらと口に流し込み、同じくあった水差しの口を其処にあてがう。
「いつもの事なのです。それに、奥様は若医師を大層嫌っていらっしゃいます。何かお話をされませんでしたか」
「……いや、彼の事だとは……。どうやら夜中に不気味な事があって、精神的に消耗しているらしいが」
「根も葉もない妄想でしょう。変な泣き声は他の者も申しておりますが、ここは病院なのですよ。別段不思議でもございませんし」
溜息混じりに彼女は盆をサイドテエブルに置くと、「くれぐれも真に受けはなさいません様に」と言って扉を開けた。
どうやらもう帰れ、という合図だろう。
「……いや、まあ確かに……」
──そうか、翼君を指して言っていたのか。
呼ばれたにも関わらず、追い立てられるとは理不尽だ。部屋を出て自室に帰ろうと歩き出して彼はそれでも理解した。董子が食堂に来ない理由を。
確かにこの屋敷は何処か訝しい。
あんな支離滅裂な事を言う家族がいるのに、まるで何事もないかの様に振舞っているなんて。事情があるのは間違いないのだろうに。
脚注7:挙国一致→挙国一致内閣とも。国の危機的状況において、対立する政党をも包含する政治体制を言います。