看護婦
「へえ、胃腸炎で入院とはね。そんなに繊細には見えないが」
「会って間もないのに中々言うじゃないか」
自分のベッド脇にあった丸椅子を啓之助に勧めると、伊村は愉快そうに笑いながら煙を吐き出した。灰皿に潰されたフィガロ煙草の吸殻は、早くも四本を数えている。
「医者にも言ったが、俺は病気なんかじゃないさ。ちょっと空き腹に酒を流し込んだら血を吐いただけでな」
「それは胃腸炎ではないのじゃないかね。周りが心配するのも無理からぬ話だな」
全くだ、と周囲から笑い声が起こる。豪放磊落とでも言うのだろうか、彼が自然と人を引き付ける類の人間だと納得するのに、然程時間は掛からなかった。明らかに同室の中では最年少にも関わらず、会話の中心は大体伊村だ。人に水を向けるのも巧い。なるほど記者ならではという所か。
他の三人はいずれも六十代から七十代位までの老人で、職業は駄菓子屋の店主から金貸しと様々だった。空いていたベッドは使われていないわけではなく、伊村の煙草に辟易していつも院内を彷徨っている、山科という老人が主らしい。
「なんだい、しっかり迷惑を掛けているじゃないか」
「違うんで旦那、煙が嫌いは表向き。……山科のジイさんは看護婦とよろしくしたくて、遊びに行く名目が欲しいだけですじゃ」
金貸しを生業にしているという牧野老人は、そう言って梟の様な笑い声を立てる。酒好きそうな赤ら顔に、真っ白な白髪頭の小太りな男だった。
「そうそう。聞けば若い頃は何人も女を囲ったと自慢の嵐。今じゃ細君に頭が上がらないといって、外では遊べない鬱憤をせめて病院でという話でさあ」
向い側の中村老人も失笑気味に言う。こちらは牧野とは対照的に浅黒い皺肌に灰色の髪、枯れ木を思わせる痩せた男である。
付き合って笑う老人、国仲は禿頭に耳の付近だけ白髪が残っている中肉中背の男で、元は所謂何処かの商社の社員らしい。商社務めと言えば当節ではモダンな職業の代表だ。日焼けをあまりしていないので内勤なのだろうが、興味がなかったので深くは聞かなかった。
「ま、こんな閉鎖された建物の中じゃ娯楽も少ないしな。かく言う次第で、俺は奴の為にもこうして煙草を吸っているというわけさ」
嘯く伊村に啓之助が苦笑していると、中村老人が「おうおう」と膝を叩いた。
「娯楽と言えば、やっさんがこの間言っていたあの女優さん──ほら。『朝日の女』に出ていた──松竹の。何と言ったかねえ」
「ん? ああ。筒井志真子の事か?」
「そうその筒井志真子さ、どうやらこの病院にいるのは間違いないらしいんだよ。看護婦連中が噂話していたって、山科のジイさんが言っていたんだ」
「何だって! こりゃ朗報だ。あのジイさんの好色もようやく役に立つ日がやってきたな」
伊村の気怠げな双眸にぎらついた光が灯った。
筒井志真子──彼らの会話に拠ると女優らしいが、流行から遠ざかって久しい啓之助には馴染みない名前だった。ぽかんとしていると中村老人が「今大人気のサイレント女優だよ」と補足してくれた。どうやら彼は映画好きらしい。
「御府内に住んでいたんだろう? 映画は見ない口かね」
啓之助は苦笑した。軍隊に入ってからは、本を読むのが精一杯だったのである。
「昔は観ていたが、近年はさっぱり……」
「そうかい──今丁度リバイバルをやっているから、そのうち観てみたらいい。トーキーにも近年じゃ出始めているしな。役者の中には声がいけねえってんでお払い箱になった奴も多いんだが──志真子は素晴らしい女優さ。声もまた、役どころで全く変えられるってえ話だ」
熱を込めてまくしたてる。血色のなかった頬が、仄かに色づいて見えた。
「また始まったよ、中村さんの志真子贔屓が」
「何を他人事に。最初に言い出したのはやっさんじゃあないか」
「俺はただ『志真子が何処ぞの病院に入院している』とあんた達に話しただけだぜ。銀幕のスタアより生身の阿婆擦れの方が好きなもんでね」
違いない、とまた一同に笑いが起こった。
「でも伊村さん。あんたはその筒井何とかという女優を探しているんじゃないのかね? ……それなりの用事があって」
啓之助の静かな問いに伊村は薄く笑った。
「さあて。そうかもしれないが、どうだろうね」
それより、と短くなった煙草を灰皿に押し付ける。自由になった右手の親指で窓を差した。
「この病院の方が興味深いね。窓の外にある、別病棟なんか特に」
「癲狂棟の事か。聞いた話じゃ、不況のせいで最近精神を病んだ者が増えたかららしいが。ぞっとしこそすれ、あまり近寄りたくないものじゃないか」
「まあ不景気になれば失業者も増える。その上この相場の値上がりだ。軍の奴らは国民の目を外に向けさせる為に外国を攻めている、なんてえ噂もあるぐらいだしな──だが俺の気にしているのはそんなネタじゃない。明治に起こった『相馬事件』を知っているか?」
相馬事件、の言葉にそれまでにやけていた老人達の表情が凍った。
「おいおい、やめとけよやっさん。いくら何でもそりゃ、お前さんの首が飛ぶだけじゃ済まないだろう」
「そうじゃそうじゃ。本当に今の世にもいそうだから尚恐い。ゴシップ記者の名が泣くぞい」
明治十七年に小石川にある加藤癲狂院に入院したという旧中村藩主・相馬誠胤の事件は、当時の報道によって派手に騒ぎたてられた。芝居の台本にも取り上げられた程である。
事の発端は幻覚・妄想を訴える様になった誠胤が、家の者によって癲狂院に入院させられたものに拠る。家臣の錦織剛清はこれを『お家相続を妨げる為の陰謀だ』として病院側に激しく抗議、挙句当人を連れ帰ってしまった。その後誠胤は明治二十五年に病死したが、錦織は主君の死に謀殺の疑いありとして主家の家令志賀道直と転院先だった巣鴨癲狂病院とその医師らを告発した。
これを受けて報道も内務省の役人さえもが錦織に同調し、騒動は埋葬された遺体を掘り起こしてまで法廷で真偽を問うという、歴史に残る大事件へと発展していったのである。
当時世論は精神病に対して大いに偏見を持っており、相馬事件が癲狂病院を叩く恰好のネタとなったのは事実だ。
だが結果として、原告である錦織は敗訴。逆に明治二十七年の最終判決で彼は誣告罪で懲役四年及び罰金四十円(現在の約十五万円相当)という実刑を受けている。
錦織以外の関係者は無罪となった相馬事件と内容が似ていたとしても、同様に今の世で無罪になるとは思えない──誰の顔にも、そう書いてあった。
「今は特高が幅を利かせているんだ。相手に拠っちゃ実刑どころかあっさり殺されても訝しかない世の中じゃないか──悪い事は言わない、女優の醜聞辺りで手を打っておきましょうよ」
それまで黙っていた国仲までもが諌めに掛かっていた。
確かに明治四十四年に設置された特別高等警察は近年法改正により飛躍的に権限を伸ばし、思想・政治犯の弾圧を強めていた。
直轄は内務省、未だ華族出身の役人も多い。何処から圧力が掛かるとも知れないのだ。
「……ふん。ま、そっちの方が確実だしな」
新しい煙草をふかしながら、伊村の視線はまたも気怠げなそれに変わっていった。
面白いのはこの男の方だ、と啓之助は思う。どうやら、自らを好事家と称するのは見栄やはったりではなさそうだ。癲狂棟を本気で諦めていないらしい事も想像が付いた。
「女優の醜聞というが、中村さん。筒井志真子というお人には、何かそんな噂でもあるのかい?」
話を軽い方へ逸らそうと発した啓之助の言葉はだが、老人の皺顔を呆然とさせる威力を持っていた。
「本当に、旦那は志真子をご存知ないんですな……」
信じられない、と嘆息するばかりの彼に代わって伊村が「噂ならたんまりとある」と苦笑しながら言った。
「デビュー当時から艶聞の絶えない女でな。上は政治家から下は行きつけの店の店員まで、そりゃまあ次から次へと情人を変えるので有名さ。服を着替える様に男を変える、とはよく言ったもんだ」
「服──た、確かに凄いな」
「で、その志真子がいきなり入院だ。これは愈愈妊娠スキャンダルか──と記者連中は蠢き出した。かく云う俺もその一人ってわけだな。」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。じゃああんたは、仕事の為にわざわざ入院までして彼女を調べようとしているのか?」
「いや、血を吐いたのは本当さ。胃だってまだ結構痛む──此処に入院しなくても、というのはあったがね」
あっけらかんと笑う伊村に啓之助は絶句した。全く気にする風もなく彼は続ける。
「ところが中に入ってみれば、此処には『あの』若医師がいるじゃねえか。予定とは違うが、新たなネタの匂いがぷんぷんするんだ。どうにかして特別病棟に入り込めないかと考えているんだが……守りが堅くてなあ」
いつもなら啓之助はゴシップ記者など軽蔑していただろう。だが身体を張ってまでネタを探そうとする根性には、感歎半分呆れ半分である。
同室の老人達の様子を見ていると、恐らく似た様な気持ちなのかもしれないと思えてきた。
しかし翼がいくら優男だからといって、必ずしも志真子の餌食になるとは限らない。──否、なってもらっては困るのだ。
「伊村さん……もしそんな話になったら、僕にも教えてくれないか」
先回りして止めさせる事ぐらいなら、出来るかもしれない。
伊村は企みの笑みを浮かべた。
「いいともさ。但し、俺がすっぱ抜いた記事を読むっていう形になるがな」
「……そうだよな」
非常に不本意だが、麻耶の為にも彼なりにその女優を調べる必要があるかもしれない。
その後は様々な話題に移り、気づけば二時間以上を病室で過ごしてしまっていた。薬の時間だと暇を告げ、啓之助は再び杖を握り締め廊下を急ぐ。
「頓服なら此処で飲めばいい」という誘いを断ったが、薬が必要なのは本当だった。
ただ、頓服ではなく注射だったので自室まで戻らねばならない。
──まずい。
痛み始めた右足に顔をしかめて、彼は廊下を急いだ。
当時彼を治療してくれた軍医もここの外科医も、傷自体は完治していると言う。ならば何故、こうして断続的に痛みを覚えるのだろう。今日の様に少し歩いただけで、痛みはひどくなる。予め薬を打って来ていなければ、最初から此処までは来られなかったかもしれない。
こんな状態で階段を降りられるのか──果たして彼は階段を一段降りた時点で、激痛に転げ落ちそうになった。
「危ない!!」
背後から女性の声がして、啓之助の右肩を鷲掴みにする手の感触と共に彼の身体は何とか転落を免れた。
呆然自失から暫くしてようやく振り返ると、看護婦が片手で手摺を掴んで彼を支えているのが目に入った。
「あ、ありがとう……」
体勢を立て直した彼に女は微笑んで「とりあえず階段を降りましょう」と手を差し出した。いつもの強がりも出ない程、足の痛みはひどい。ここは助けてもらうしかないだろう。
一階までようやく辿り着いて、啓之助は看護婦に改めて礼を言いその顔を見た。
「いえいえ、お礼など。足の方は大丈夫ですか? お大事になさってくださいね」
柔らかく微笑む様は年の頃二十代半ばに見えた。そう美人というわけではないが目鼻立ちは割と整っていて、人の良さそうな女性だった。色が白く、鼻の付近に薄くそばかすが散っている。髪は昨今の流行か切り下げ髪の少し短い──俗に云う、モガ・スタイルという奴だ。
病院内に看護婦は多く、しばらくいたぐらいで顔を覚えるのは至難の業だ。なので初めて見る顔ではあったが、偶偶なのだとしか思わなかった。
「それより、大丈夫ですか? 何でしたらお屋敷まで付き添いますよ」
「いや、廊下ならば一人で大……」
言い掛けて怪訝そうに看護婦を見る。相変わらず微笑んだままだ。
「何故それを?」
「院長の甥御様の啓之助さんでしょう。医局の者は皆存じておりますもの」
「あ、ああ成程」
誰がどんな風に説明したのだろう。苦笑して彼は屋敷に続く廊下へと足を進めた。
「そう言えば、君──」
名前だけでも聞いておこう、そう思って彼が振り返ると、彼女は階段のふもとに立ったままこちらを見ていた。優しげな表情は顔から消えている。啓之助はぎょっとした。
──この女は、誰だ。
先ほどまで自分に肩を貸していた人物と、同じだとはとても思えない。
「貴方」
女は唇を開いた。声もまるで違う。さっきはこんな艶めいた声ではなかった筈だ。
だが啓之助は看護婦の声を思い出せなかった。
「命が惜しいのなら──お気をつけなさい。……早く此処から出て行った方がよろしくてよ」
看護婦の恰好をした女は踵を返し、元来た階段を登って二階へと去って行った。
脚注6:誣告罪→他人に刑罰を受けさせる目的で虚偽の告訴をする内容のもの。現在では「虚偽告訴罪」と呼びます。
サイレント/トーキー→無声映画/有声映画の事。当時無声映画は俳優がしゃべらず、弁士と呼ばれる者が代わりに台詞を劇場でしゃべりました。