入院患者
板張りの廊下を歩く事しばし、突き当たりには医局がある。窓口の前を通りがかると、麻耶に向かって次々と看護婦達から挨拶の声がした。
「お疲れ様でございます」
「奥様、もしかして何かお忘れ物ですか?」
「いいえ、ちょっとこの人に病院の中を案内してあげるだけよ」
彼女が鷹揚に笑って通り過ぎると、ガラス窓の向こうで看護婦達は皆頭を下げる。
「貫禄充分じゃないか」
「本当に。そんなに気を遣わなくてもいいのにね」
感心しきりな啓之助に向かって、麻耶は苦笑して見せた。
医局を通り過ぎ病院の診療棟に入ると、向かって左手には玄関ホールを背後に居並ぶ長椅子。待合室だろう、椅子に座っていた着物姿の老女と娘が白衣を着た看護婦に呼ばれて立ち上がった。
彼女達が案内されたのは右手にずらりと並ぶ診察室の内、一番手前の『内科』と書かれた札が下がっている扉だった。
他にも待合室には十数人の老若男女が座っている他、踝まであろうかという長い丈の腰スカートを着た看護婦達が慌しく行き交う。独特の薬品の匂いが鼻を突いた。
「今まで用事もなかったからあまり具に見た記憶はないが、随分と西洋被れな病院だな」
待合室の椅子も骨は樫材を使っている様に思えるし、背後の壁にある窓にも重厚そうなカーテンが幾重にもドレープを作っている。それが却って日光を遮る羽目となり、待合室は余り明るい印象はなかった。
「屋敷に合わせて建築したからかしら。……いつもは医局辺りで翼さんに見つかってしまうのだけれど。今日はまだ診察中ね」
何故か少しばかり楽しそうにしている麻耶は「ここは内科、順に手前隣から外科、産婦人科。奥は手術室、検査室、処置室と続くわ」と説明した。
「処置室は本来、診察室の隣に置くものなのだけど。便宜上奥になっているの」
「へえ、暇さえあれば病院に忍び込んでいただけはあるものだ。随分と詳しいじゃないか」
とは言え、いくら未来の院長夫人だといっても所詮は医者でもない箱入り娘だ。世の上流婦人は歌劇に夜会にと遊興に耽るか、大人しく家でお茶だのお琴だのに精を出すものなのではないだろうか。
「忍び込んでいたなんて人聞きが悪いわね」
言葉とは裏腹に、随分と嬉しそうだ。
「ところで、このまま外来を通り抜けるつもりなのかい?」
「あらどうして? 見学に来たのでしょう。入院患者なんて見ていても退屈じゃないかしら」
「いやしかしねえ」
幸いにもまだ翼は仕事中らしいが、時間はもう午を過ぎている。大体こういった場所はそろそろ昼休みになる筈で、今彼に見つかるのは余り心楽しい展開にはならない気がした。
内科入り口の手前で立ち止まり、啓之助は小声で囁く。
「出来れば僕は、医局まで戻って二階に上がりたいんだが」
階段はそこと反対側に二箇所。二階が一般の男子病棟、三階が女子となっているらしい。
「そんな事言っても、もう此処まで来てしまったもの。真っ直ぐ行きましょうよ」
「お、おい。ちょっと待ってくれよ」
「一体何を気になさっているのかわからないわ。訝しな兄様」
麻耶が苛立って来たのがわかって、彼は観念する事にした。理由を正直に言ったら、間違いなく「しつこい」と本格的に怒り出すに違いない。
外来を無事通り抜けると、突き当たりに更に渡り廊下が延びているのが目に入った。
「あっちは特別病棟だったかい?」
左手の階段に足を掛けながら問うと、「ええそうよ」と素っ気無い答えが返ってきた。
「華族様や金持ち連中はあちらに入るの。一般人は立ち入り禁止よ」
「そうかい。そいつは残念だな」
気のせいか、「金持ち連中」と答える麻耶の声音に小馬鹿にした様な響きがあった。
自分もその金持ち連中の一人だと言うのに、と何だか面白く感じてしまう。
松葉杖を操りながら階段を登るのは容易な作業ではなかった。手を添えようとする従妹を振り払って悪戦苦闘する事しばし、ようやく二階に足を載せられたと息をつく。
「いきなりそんなに頑張らなくても」
麻耶の呟きを聞こえない振りをして病室に目を向けたその時、一番側の角部屋から呵呵大笑する男の声が聞こえて来た。
扉こそ閉まっているものの、上の小窓が換気の為か全開だ。声はそこから聞こえて来る。風に乗って煙草の臭いまでした。
「……莫迦言っちゃいけねえや。次のダービーはオオツカヤマが来まさあね。そう度々ワカタカに華を持たせてたまるかってえの。いくら旦那が情報通だからって、こればかりは譲れませんぜ」
「いや爺さん。俺は目黒にゃ結構通ったが、あの馬場は芝がどうも都会者向けさ。次が根岸と来りゃあ、岩手の名馬といえども田舎馬には勝手が悪い。十月に来るのはワカタカかヤマヤスのどちらかで決まりだね」
啓之助は扉の脇に掲げてある号室の札を見た。『二三五号室』という表記の下に五人の氏名が連なっている。
成程此処は五人部屋なのだとただ思っていると、麻耶がいきなり病室の扉を開け放った。
「誰ですか! 煙草を吸っているのは。他の方のご迷惑になるでしょう、お止めなさい!」
唖然とするばかりの啓之助を尻目に、麻耶はつかつかと室内に入って行く。
「お、おい。麻耶さん──」
「何だいあんた、いきなり入って来て」
左手奥の老人が彼女を睨み付けた。
「ここにゃそんなもん気にする奴は居らん。病室を間違えていやしないかね」
部屋にいるのは男ばかり四人、シーツの上に胡坐をかいて陣取っている。一人は所用かベッドは空だ。漂う白煙はやや薄れてはいたが、相当な数の煙草を過ごしているものと見えた。
老人が三人と、どう見ても堅気の職業とは思われない体格のいい中年男が一人。同時に睨まれて、普通の女性ならば怯むだろう。
だが麻耶は全く臆する気配を見せなかった。
「間違えてなどいませんわ。貴方がたがそうでも、窓が開いているでしょう。それに、見た所外科の患者でもない様子。道楽ならば退院してからおやりなさい」
「ほう。こりゃまた、随分と威勢のいい奥方様だ」
左手手前のベッドにいた中年男が、手にしていた煙草をサイドテエブルの上の灰皿に押し付けて、にやりと笑う。
「後ろのあんたはご亭主かね」
自分の事だとわかると、啓之助は苦笑して首を横に振った。
「僕は単なる親戚だよ」
「へえ。まあいい女には違いないが、こんなじゃじゃ馬が細君なら、亭主はさぞかし大変だろうな」
「大きなお世話よ! 貴方こそ何の病気か知らないけど、大概にしないと退院させるわよ?」
「退院させる? あんた一体何様だい」
男はゆらりと立ち上がると、靴を履いてゆっくりとこちらに近づいて来た。背が高く、麻耶とは頭二つほども離れた上から冷ややかに見下ろす双眸は凄味があり、何故かの剃髪も相俟って迫力のある面相この上ない。
「随分偉そうじゃねえか。院長夫人にしちゃあ若すぎる様だが?」
麻耶も負けじと、きりとした眼差しで睨み返す。
「私は貴方の様な、お金を払えば何をしても良いという輩が嫌いなの。それだけよ」
「はっはっは! こいつは傑作だ」
男は豪快に笑い出した。背後の老人達も笑っている。明らかに侮蔑を含んでいた。
「そんな洗いざらしてもいないお綺麗な格好をして、何を抜かすのかと思えばなあ」
「マダムはマダムらしく、晩餐に着るドレスの心配でもしてりゃいいんだよ」
放っておけばいつまでも続きそうな嘲笑を、啓之助は見かねて遮った。
「そこら辺で勘弁してやってくれないか。この人は確かに院長夫人ではないが、言う事を聞かないと本当に追い出されるぜ」
「ああん? そういうあんたは一体何者だい」
剃髪の男が胡乱な目を向けた。寝巻きのポケットからまた新たな煙草を取り出している。
啓之助は溜息をついた。
「お互い様だ。僕も君と同じくただの庶民だがね、この人は違う」
「庶民かね? 大方復員軍人か何かだろうさ。英雄は戦場でなくとも活躍する、か」
啓之助は思わず男の顔を凝視した。足の怪我くらいは誰もが気づくだろうが、そこまで観察されていたとは思わなかった。
「……あんたこそ、堅気の人間には見えないな」
男の笑みは麻耶に向けたものとは変わって来ていた。面白がっている風にも取れる。
「俺は単なる物好きさ。西洋風に言えば──情報を食い物にする、しがないディレッタントかね」
啓之助は素早く男の身形を観察した。右手の中指に尋常でない胼胝がある。大きな図体にはひどく不似合いだった。
「では僕も君の正体を当ててみせようか。君は恐らく──」
「ちょっと! 煙草を吸うの止めなさいって言っているでしょう」
男は心底煩わしそうに麻耶を睨み付けた。
「俺は女性と子供には割と丁寧に振舞う性質だが、殴られない内に出て行った方が身の為だぜ。あんたには用はねえ」
出て行きな、と言うなり男は麻耶の肩に手を伸ばした。
正に掴みかかろうとする寸前、別方向から伸びてきた腕にそれは止められた。皮膚に食い込む程の強い力で、横に勢い良く振り払われる。
「痛てっ! 何しやがる──」
男が邪魔をした相手をねめつけて、そのまま渋面を浮かべた。
「私の妻に乱暴は止めて頂きましょう、伊村さん」
「……若医師」
麻耶も驚いて横を振り向いた。
白衣を着た長身の男が、この上なく冷ややかな瞳で男を見返している。
「翼さん!? どうして此処に」
「昼休みを取ろうと医局に行ったら、林さんが教えてくれましてね」
剣呑な目つきのまま翼に言われ、彼女は流石に決まり悪そうな顔をした。
「じゃあこのおん──いやご婦人は、院長の娘か。道理で偉そうだと思ったぜ」
伊村、と呼ばれた男は不遜に笑って慌てる気配もない。
「妻も言っていた通り、貴方は煙草を控えるべきですね。胃だけでなく肺も駄目になるとあっては、長生き出来ませんよ」
「若医師、俺は道楽に命を懸けるのが性分でね。騙されでもしなけりゃ、別に入院なんかしなくても構わんさ。ちょいと周りに余計な心配をする奴が多くてな」
端整な面をしかめていた翼は、ふと啓之助を振り返った。
「ところで、お二人はどうしてこんな所にいるのですか? 見学というには随分と騒々しい」
──来た。
予期していた問いにも関わらず、言い訳を探して思考は空転するばかりだった。
内心を窺い知れない黒目がちの双眸が、麻耶ではなく自分ばかりを捉えている。
「僕は──その、実は」
何か発想のきっかけはないものかと病室を見回し、彼は咄嗟に近くの伊村の腕を掴んだ。
「実はこの、伊村さんと僕は以前ちょっとした事で知り合いになってね。病院を見学に来たら、偶然此処で再会したという訳なのさ。いやあ、懐かしいな!」
ははは、とわざとらしく笑う。
「兄様……?」
「そうですか。なるほど、世間は狭いとはよく云ったものですね」
怪訝そうな麻耶に対して、翼は愛想の良さを取り戻していた。
「ではもう、麻耶さんは戻っても差し支えありませんね」
「えっ」と驚く妻の背中に手を置いて、早病室から出て行こうとしている。啓之助はにこやかに手を振った。
「あ、ああ。そうだね、麻耶さんどうも有難う。僕は大丈夫だから、もう帰ってくれたまえ」
「ちょっと、翼さん! 兄様帰りはどうす──」
彼女の言葉が終わらない内に扉は完全に閉められてしまい、後に何を言っていたのかはわからなかった。
「……やれやれ」
啓之助はかいてもいない額の汗を拭う。気持ちとしては冷や汗のかき通しだった。これで翼の態度が少しは和らげば良いのだが。
彼は伊村を振り返ると、「邪魔して悪かったね」と病室を出ようとした。
「おいおい待てよ。お前さん、俺と何処かで会っていたか? これっぽっちも覚えていないが」
「まあ気にしないでくれ。人生には往々にして忘れた方が賢明な事が多い」
肩をすくめる素振りを──松葉杖のせいで何とも不恰好だったが──すると、伊村は愉快そうに笑った。
「あの二人はともかく、お前さんは面白いな。ここに入院しているのか?」
「いや。僕は結城家に居候の身だ。足の治療に来ていてね」
「名前ぐらい聞いておいてやるよ」
「啓之助だ。結城啓之助──あんたの言う通り、復員兵だ。足の傷が戦傷だとわかったのか?」
伊村はにやりと笑った。
「それだけじゃねえよ。体格や日焼けの跡、頬にある痣なんかも証拠だな。銃を構えている人間ならば、そこに痣が残ると聞いている」
「よく見ているな。流石だ」
三度煙草を取り出して口にくわえながら、彼はあちこちに視線を彷徨わせている。燐寸を探しているのだろう。
こちらを見ずに聞き返して来た。
「ほう? じゃあお前さんも俺が何者かわかったとでも?」
「ああ。恐らくはもの書きを生業にしている人間だろう。作家には見えないから──新聞記者とでもいった所かな」
老人の一人が差し出した燐寸で煙草に火を点けると、伊村は笑い声と共に煙を盛大に吐き出した。
「残念ながら、当たりだな。俺は伊村靖──都民日報の文化部で記者をやっている。平たく言うとゴシップ記者だ」
脚注5:根岸=横濱競馬場の別称です。
ディレッタント=好事家の意