病院と庭
昭和七年は、政党から軍閥へと政権が移行するきっかけとなったとされる『五・一五事件』が起きた年でもあった。
その他にも啓之助が急遽参加した上海出征や満州国の建国、桜田門事件など歴史的大事は枚挙に暇がなく、前年より引き続く激動の時代と言っても過言ではなかっただろう。
そもそも上海事変には第一次と第二次があり、当年起きたのは第一次を指す。上海市に置かれた列強を中心とする外国人慰留地、『国際共同租界』の周辺で起きた日華両軍の衝突がきっかけで起こった。背景には上海で強まり続ける中国人への反感があったと言われている。
とある発砲事件が引き金となって決壊した──少なくとも、当時の啓之助等帝国民にはそう告げられていた。
これに対し、日本政府は一月三十一日を皮切りに陸海両軍の派遣を行い、同年二月二十日には総攻撃を開始する。欧米列強の反発に遭って三月末より停戦交渉は始まっていたが、合間にも小競り合いは続き死傷者は増加し続けた。
ちなみに啓之助が所属していた宇都宮第十四師団はその後、満州事変・日中戦争と戦歴を連ねていく事になる──
※※※※
世田谷の屋敷に来てから一週間が過ぎた。
過去にも数日滞在した記憶はあるが、健常な身体と怪我人とでは事情が異なる。
読書にもいい加減飽きが来ていた──大体、こういうものは健全な男子ならば合間にするものだ──し、何よりも彼を退屈させたのは結城家の人々だった。使用人は世話をかいがいしく焼き過ぎるし、主一家は何と言うか──変わり果ててしまっている。
「啓之助様、どちらに?」
松葉杖を駆使して厨房の前を横切ると、丁度出て来た家人の辰代に見咎められた。
「散歩がてら病院内を見学に行って来るよ。歩かなくてはならないからね」
「ではわたくしもお供致します」
辰代は食膳を持っていた。上には出来たての料理が湯気と共に、旨そうな香気を立てている。拵えからして、誰のものかは察しがついた。
「いや、辰代さんは義叔母さんの部屋に行くのだろう。大丈夫さ、別に傷が痛むわけじゃない」
本当の所は少しでも結城家の人間達と離れたかったのだが、正直に言える程の冷血漢ではない。ただ善良だというだけで、過剰な気配りは罪に値しないのだから。
「これを置いたら用事は一区切りですし。お一人で行かせるなど、わたくし共が旦那様に叱られます」
五十を幾つか超える辰代は己の母親を思わせ、啓之助は幾分声音を優しくした。
「……それじゃあ、こうしよう。辰代さんは仕事に没頭していて、僕に気づかなかった。どうだい?」
「ですが万一の事があっては」
「叔父さんもきっと今は仕事中さ。よく外に往診に行くだろう? 一時間以内で戻るから」
何の解決にもならない提案である。案の定、辰代は「私も病院に急用を思い出しました」と後を付いて来た。
「参ったなあ、他にも仕事があるだろうに。それこそ僕が叱られるじゃないか」
「あら、兄様どうしたの? 病院に用事?」
屋敷と病院を繋ぐ渡り廊下に差し掛かった時、向こう側から屋敷に戻ろうとする麻耶と鉢合わせた。
啓之助は苦笑して先刻の遣り取りを話した。
「まあね。ちょうどいい、君連れ帰ってくれないか。僕は一人で歩きたいんだ」
「そんな事言って。階段で転んだりしたら、目も当てられなくってよ。辰代は正しいわ」
「こういうものは独立心が大事なんだよ。君ならわかってくれると思ったんだけどな」
身体が弱かった頃の麻耶はよく、使用人の目を盗んであちこち出歩いては叱られていたものである。
それを指摘すると彼女は笑った。
「わかるからこそ、ね。あの頃結局最後は具合が悪くなって、次の日ベッドから出られなくなったのよ。無茶はするものではないとしみじみ思ったわ──そうだ」
私が代わりについて行きましょうか、と麻耶は提案した。
「辰代は仕事があるでしょうし、何かあった時きっと結果に拠らず怒られてしまうわ。私ならお父様に対抗出来ると思うの」
「とんでもない、君の世話になったら僕は叔父さんより翼君に叱られてしまうよ」
慌てて止めると麻耶は唖然とした顔を見せた。
「嫌ね、何を言うのかと思ったら。からかわないで」
「本当さ。気づいていないのはきっと君ぐらいのものだよ。全く、恋する男というものは恐ろしいね」
冗談だと思ったらしく、彼女は「いい加減にしないと松葉杖を取ってしまうわよ!」と顔を赤らめて怒り出した。
全く以って冗談ではないというのに──その証拠に、傍らにいる辰代はちっとも笑っていやしないではないか。
「わかったわかった。病院に行くより先に君に転ばされては元も子もない。どっちでもいいから、付き添いを連れて行く事にするよ」
麻耶は快哉の笑みを浮かべた。表情がころころと変わって、相変わらずこの娘だけは退屈させない。
「最初から人の厚意は素直に受けるものよね。さ、行きましょう」
「君で決定なのか……」
「料理が冷めたら、お母様がお怒りになるもの」
辰代に侘びを入れようと振り返る。さっきよりも数段心配そうな顔が目に入った。
その理由を、恐らく自分は知っている。
「しかし麻耶さん、病院から戻って来たのじゃないかね。用事は大丈夫なのか? もし何か持ち帰ったというのなら」
夏の暑さ厳しい昼日中、廊下の窓は開け放してあった。周囲を木々に囲まれているとあって、時折虫の死骸が廊下に転がっている。
目に入ったのか、顔をしかめて床を見ながら歩いていた麻耶は問いに気づくと「平気よ」と顔を上げて答えた。
「看護婦さん達に差し入れをしに行っただけだもの。……それにしても、毎日掃除しているのに虫が凄いわね」
「差し入れ? 君がかい」
驚いて聞き返すと、彼女は眉を上げた。
「そうよ。何か文句ある?」
「いや、文句はないが……そんなものは遣いを出せば良いじゃないか」
未来の院長夫人として世話を焼くのなら、何もわざわざ足を運ばなくとも事は足りるのではないだろうか。
麻耶は少し決まり悪げに、両手を背中で組んでそっぽを向いた。
「看護婦さんには私自身もお世話になったから、顔見知りもいるの。話するのは結構楽しいしね」
その仕草に、病弱故に学校も行けず同年代の友達が出来なかった、少女の面影が垣間見えた気がした。
「……今からでは想像も付かないよ。能登医師のおかげかな。それとも、翼君の?」
「またからかう気?」
振り返った顔には最早少女の憂いはない。仄かに赤く色づいてはいたが。
「邪推だよ。病気の話をしているだろう。優秀なんだってね。叔父さんも褒めていたよ」
「そうね、確かに今の私があるのもあの人のお陰だもの。能登医師は世話をしてはくれたけど、病弱は治せなかったから」
不思議な事に、言葉とは裏腹に麻耶の表情は冴えなかった。空気を明るくしたくて、敢えて冗談めかしてみる。
「美男子な上に有能とあっては、さぞかし看護婦連中が放って置かないだろう。さては麻耶さん、差し入れなどと称して見張りに行っているな」
「人気はあるみたいね。見かける時は診察時以外だけど、いつも看護婦さんが側にいるわ」
これは藪蛇だったらしい。浮かない表情のままの従妹に啓之助は慌てた。
「まあ、医者だし病院は看護婦の方が多いから。当たり前だよな」
「気にしてないわよ。私はそんな事、どうだっていいの。問題は──」
「問題?」
麻耶は問いには答えず、窓から外の風景に視線を移した。途端に顔色を変え、目を背ける。
「外に何かあるのかい?」
今しがた見ていた右側の窓を啓之助も目で追った。何と云う事はない、風にそよぐ庭の木々。合間に見える建物は別病棟と聞いている。特に変わった様子は見られなかった。
「……何もないわ。気のせいね」
言うなり先に立って歩き出す。かと思えば、不自然な程明るい声で「何の話をしていたかしら」と彼女は振り返った。
「翼君が君に夢中だという話かな」
意地悪半分で蒸し返す。途端に睨まれた。
「くどいわね。一体何の根拠があってそんな」
「僕は一週間で気づいたのになあ。……余程君に知られたくないんだね」
出来すぎな位の好青年かと思いきや、翼には唯一にして重大な欠点があった。
悪感情を口に出さない代わりに、態度に出すのだ。
特に麻耶と自分が二人きりでいるのを嫌うらしく、そんな機会が知れた後はまるきり態度が違う。病的な嫉妬深さと言っていい。
しかも麻耶本人に気づかれない様にするのだから、これまた陰湿だ。
屋敷に着いたばかりの時の、房枝の言動の意味がそれでわかった。あの時は書斎で二人きりになるのを心配していたのだと、後日彼は房枝に教えてもらったのだ。
病院勤務になったという杉崎も、書斎で麻耶に会うのを翼に見咎められたのが原因で身体を壊し、自ら職替えを懇願したという。
──女々しいものだ。
とは言え、暴力を奮われたりするわけではないので如何ともし難い。単に悋気が過ぎるというのは、裏返せばそれだけ情が濃いわけで。
麻耶の手前変わらぬ風を装ってはいたが、そんな理由で今では翼と二人で会話する事はなくなっていた。
「それは夫婦ですもの、ある程度好きでいてくれた方がいいと思うけど。夢中とか、そんなんじゃないと思うわ」
「はいはい、仲が良いのはわかっているさ。僕も早いとこ嫁さんを貰いたいものだよ」
不貞腐れた様に言うと、彼女は苦笑する。
「啓之助兄様こそ、あちこちで女の人を泣かせているのではないの?」
「生憎と、泣かせる程女性と関わる機会に恵まれなくてね」
学生時代にはそれなりに花街の得意客にもなったが、軍隊に入ってからはそれどころではなかった。見合いをしようにも赤紙に邪魔された事も一再ではない。拠って起つ活路を求めて志願した道ではあったが、こうなってみると独り者というものはいささか頼りない気もする。
──国を守る為戦うのだからと、信念を金科玉条としていた時期もあったな。
柄にもなく感傷に浸っていると、横でふふ、と笑う声がした。
「何だい?」
「ちょっと昔を思い出して。私、子供の頃は兄様のお嫁さんになりたいって思っていたから」
「そいつは光栄だね」
啓之助も笑った。
「残念ながら、僕は奥さんにするならもう少し大人しい方が──痛っ!」
脇腹をすかさず肘鉄が襲い、啓之助は危うくバランスを崩す所だった。
「何するんだ!」
「あら、蜂でも避けたの? 急に踊り出したりして」
こいつめ、と追いかける振りをすると如何にも楽しそうに声を上げて逃げる。
つくづく不思議だと思う──何故同じ姉妹なのに、そして親子なのにこうも違うのだろうと。
厳格で頭の堅い叔父清太郎、権高な義叔母の董子ともう一人の従妹の薔子──実は反りが合わず、昔から彼は苦手だった。確かに軍国主義を信棒する清太郎も華族出身の董子も、表向きは名誉だとして啓之助を丁重に扱う。だが使用人や身分低き者には明からさまに差別意識があり、余り快く思えずにいた。
薔子に至っては難しい年頃なのかもしれないが、素っ気ない挨拶程度しか会話しなかった。一家はお世辞にも仲が良いとは言い難く、主一家が一同に介すると冷え冷えとした空気しか流れない。
近年董子が病を得て床に伏してからは、それすらもほとんど機会はないと聞いている。実際、自分が来てから一度も全員が食堂に揃った事はなかった。
こんな家族環境で、麻耶だけが曲がる事なく育ったというのは奇跡だろう。
「そう言えば、今でも裏庭にあるのかい? 君が丹精していた薬草園は」
彼女が身を捩った先、窓越しに遠く温室が見える。件の病棟の手前隣だ。記憶にある姿と変わらない、古びたものだった。
「ええ、あるわよ」と外に視線を移して微笑むと、麻耶は温室の方を指差した。
「今は私と翼さんが世話をしているわ。彼は薬草の研究にも熱心だから──そうそう、薬草で思い出した。あの辺りに新しく沈丁花の木を植えたのよ」
「へえ。どうしてまた」
「兄様から貰った沈香、とてもいい匂いだったから。庭でもそんな匂いがしたら良いなあと思って」
ここは薬臭いでしょう、とほんの少し表情を歪めて言った。
「確か、沈丁花は春の花じゃないのかい? それに仕方がないよ、病院なんだもの」
「いいのよ、今から来年を楽しみにするから」
室町時代以前に中国から日本に渡って来たという沈丁花は、香りは沈香に、花の形が丁子に似ている事からその名が付いた。別名を瑞香とも言う通り、二月から三月に掛けて開花し強い芳香を放つ。
「何ていうか……染み付いているのが嫌なの。死の匂い、みたいなものが」
先ほどまでの朗らかさが一変して、白い面に憂いが差す。確かに健常者には用のない施設、人死にに遭う機会も多かろう。何とか慰める言葉はないものかと、言葉を捜して周囲を見回した。
そして彼の視界に入って来た建物の窓に、『それ』は映っていたのである。
「──あれは」
さっきも見た、別病棟だった。窓から誰かがこちらを覗いていた様に見えた。
だが白い影の様にしか見えず、正確な所はわからない。
病棟の窓には頑丈な鉄格子が嵌まっていたからだ。
「どうかしたの?」
「麻耶さん、あの病棟もしかして……」
「ええ、五年前に新しく出来た病棟よ。第三病棟──癲狂棟とも言われているわ」
噂には聞いていたが、巣鴨にあるものなどが専門で有名だ。総合病院にはそもそもあまり置かないのではないだろうか──そう思って聞くと、「こんな世相でしょう。心に病を持つ患者さんが増えてきて、内科で扱うわけには行かなくなったのよ」と返事が返って来た。
「今、あの病棟の窓に人影を見た気がしたんだが。回診でもしているのかな。患者は出歩けないんだろう?」
何気なく続けた言葉に、麻耶の表情が一瞬固まった様に見えた。
だが気のせいか、すぐにとぼけた様な普通の態度に変わる。
「そうかもしれないわね、きっと。私はあそこの回診日程はよくわからないけれど」
行きましょ、と腕を軽く引っ張って彼女は廊下の向こうへと足を早めた。
「お、おい。僕はそんなに早く歩けないんだって──」
「訓練よ訓練!」
先刻麻耶が見たのはあの病棟の窓ではなかったのだろうか、そんな考えが啓之助の頭をよぎった。
だがそれも鈍重な足を必死に駆使して病院に入る頃には、汗と共に綺麗さっぱり忘れられてしまう事となったのである。
脚注4:「癲狂」「精神病」などの言葉は、現在では差別用語として公に使う事を禁じられています。あくまでも当時の表現とお受け止め下さい。