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香炉  作者: 伯修佳
七月某日
2/13

香炉と沈香

「本当にご無沙汰していましたわ。何年振りかしら? 最後に会ったのは確か、私がまだ十七位の頃だったから──七年?」

「そうだね。僕はあの時高等学校を出て軍隊に入ると、ご挨拶に伺って……それがもう今や三十一さ。君も大人になるわけだよ」

「あら、兄様もすっかり貫禄が出てご立派になられましてよ」

「世辞が巧くなったじゃないか。確かに人の奥さんになっただけはあるな」

 元来屈託のない気性の啓之助はこの家の中では麻耶と一番馬が合った。甘やかされて育った割に本好きな彼女は思索好きで存外歪んでいない。知的な会話も学生の自分に引けを取らなかったものである。

 それこそ以前はこの書斎で文学について語ったりもしたのだが。彼にとってあくまでも妹の様に可愛がっていた存在、すぐに年齢など忘れて子供扱いしてしまう。

「兄様はそういう所、変わらないのね」

 良かった、と麻耶はにっこり笑った。

──綺麗になったな。

 何の気なしに、心底啓之助はしみじみ思う。

「若奥様。立ち話も何ですから、下の客間でお茶でも如何です? 医師せんせいもお呼びになって、ご一緒に」

 房枝の提案に麻耶も即座に賛成した。

「そうね。今は丁度あの人部屋で調べ物をしているから」

「医師? 君の主治医の能登医師の事かい」

 啓之助の問いに直接は答えず、「そうそう、忘れるところだった」と麻耶は笑う。

 書斎に引き返して程なく、手にぶ厚い本を一冊持って戻って来た。

「頼まれた本、持たずに帰りそうだったわ。──ああ、さっきの話。医師なのは間違いないけど、能登医師じゃないの。呼んでくるわね」

「それには及びませんよ、麻耶さん」

 聞き覚えのない男の声がして、啓之助は廊下を書斎とは反対側へと顔を向けた。

 低く、訛りの全くない、どこか物憂げにも関わらずやたらと響く声だ。美声の部類に入るだろう。

 だが声の持ち主を一目見た刹那、怖気おぞけにも似たものが彼の背中を通り抜ける。

──先刻窓にいた男だ。

 まるで絵姿から抜け出て来た様な、整った優しげな顔立ちの男だった。背丈はやはり啓之助よりやや大きい。恐らく六尺には満たないかもしれないが、がっちり骨太な自分に比べてやや線が細いせいか余計に背が高く見える。

 何時からそこに立っていたのか、ブルジョワを思わせるシャツにベスト姿は仕立ても良く皺一つない。にこにこと笑う様はいっそけちの付けようがない男振りだった。

「あら、業を煮やして取りに来たの?」

「まあそんな所ですね──それより、お客様に紹介して頂けませんか」

 笑みを絶やさない彼に何故か麻耶は顔を赤らめて、一つ咳払いをした。

「えーと……そうね」

 だが啓之助にはすっかりわかってしまっていた。二人並ぶと、まるで名画を切り取った如しだ。

 差し詰めテーマは陰と陽、白と黒、天使と悪魔。

「啓之助兄様、こちらが私の夫の翼さんです。結城医院の内科部長を務めているわ。……翼さん、彼は私の従兄の結城啓之助さんよ」

 黒。真っ先にそう印象を受けた自分が啓之助は不思議だった。彼の服装はベストも薄いグレーの麻ツイイドで、どう見ても明るい出で立ちなのに。

 その黒い青年医師は人の良さそうな笑みを見せたまま軽く会釈をしてきた。

「お義父さんから話は伺っています。戦傷の治療に来られたそうで。──微力ながらお手伝いさせて頂きますので、宜しくお願いします」

「こちらこそ」

 埒もないと、内心の動揺を振り払って啓之助も会釈を返す。

「啓之助兄様、上海の土産話を聞かせてもらえるのでしょう? 私とても楽しみにしていたの」

 階段を率先して降りながら、麻耶は瞳を輝かせて振り返った。

「ああいいとも。君達先に行っていてくれたまえ。荷物に土産も入っているんだ。持って来よう」

 彼はにっこりと笑う従妹に頷き部屋へと踵を返そうとした。視界の端に翼を捉えてふと眉をひそめる。

 窓から見下ろしていた時と同じ表情をしていたのだ。

──ああいう整った顔立ちの人間に限って、無表情だと怖いものがあるだけだろう。

 気のせいだと思う事にして、荷物が届いているであろう自分の部屋へと房枝の後に続いた。

 

※※※※


 折しも昭和恐慌と呼ばれる程の不景気の真っ只中だというのに、世田谷のこの屋敷を見ていると別時代に迷い込んだ様な気にさせられる。

 瀟洒しょうしゃな客間の壁には印象派の絵画、エドワード王朝時代のサロンテエブルには花の金盛が美しい、アール・ヌーボオ様式の花瓶に深紅の薔薇。

 テエブルに掛けられた草模様ギュピールのレエスクロスは眩しい程に清潔そうで、如何にも特注品に見えた。

 今この部屋には啓之助と麻耶、それに翼の三人きりであった。房枝がティーセットをテエブルに置くと、「晩餐の支度がございますので」と使用人部屋へと戻ったからだ。

「まずはご結婚の祝いを述べさせていただこうか。披露目に駆けつけられなくて悪かったね」

 椅子に座って開口一番にそう言うと、夫妻は揃って笑いながら「ありがとうございます」と会釈を返した。

「でもいいのよ。こんなご時勢ですもの、ごくごく内輪で祝宴を開いて頂いたぐらいだったから」

「二人の馴れ初めを聞いていいかな。翼君は内科の医者だという話だけれども」

 嫌ねえ、と照れながらも麻耶はやはり嬉しそうだった。

「ええそうよ。能登医師がお年を理由に引退すると仰って、代わりに主治医としてここにいらしたのがきっかけなの……勤務自体は今年で三年目になるわ」

 ほう、と思わず感嘆の声を上げる。高高勤続三年目で跡取り娘の婿に抜擢される位だ、余程家柄が良いのか医者として優秀なのか。

「本来ならば結婚祝いにはもう少し豪華なものが相応しいのだろうが、これはきっと君が気に入るだろうと思ってね」

 啓之助がテエブルにそっと載せた上海土産に、麻耶は瞳を輝かせた。

 青色の、かなえ型の足を持つ六角形の陶器に、小さな紙袋。

「これはもしかして、香炉?」

「ああ。蓋を開けてみて御覧」

 胴体には、白釉はくゆうと呼ばれる塗りの団花紋様が施されていて可愛らしい。

「蓋の把手は猿ね。細かいわ」

 啓之助は笑った。

「それは雄獅子だよ。さしもの景徳鎮も、麻耶さんにあっては形無しだな」

 あら、と悪びれず麻耶も一緒になって笑った。

「これは上海の街でお求めになったのですか?」

 初めて翼が口を開いた。面白がっている様な顔をしている。どうやら骨董に興味があるらしい。

 最前の悪印象を振り払うつもりで、啓之助も愛想良く答えた。

「いや、まあ僕はあまり真面目な隊員でなくてね。あちらに着いてからも上官の目を盗んで租界をうろうろしていたんだが。その折に偶々見つけたんだよ」

「中に何か入っているわ」

 蓋を取って底を覗き込んでいた麻耶が声を弾ませた。

「それは沈香の香木だよ。試しに灰と炭団たどんを少し入れておいたんだ。生のものは隣の紙袋にも入っている」

「まあ……でもこれって、すごく高価なものではなくて?」

 香木は概ね高価で、ティースプーン一杯程度でも国宝級のものもあるという。流石に大人になって分別がついたのか、手放しでもらうのを躊躇う様子だ。

「いやいや、伽羅きゃらならばいざ知らず。上質には違いないが、安南の辺りの馬蹄香さ」

「でも」

「これも淑女としての嗜みの一つだと思えば良いのさ。細かい事は抜きにして、香を聞いてみようじゃないか」

「ええ、それは聞いてみたいけれど」

 尚も何か言おうとする彼女を無視して、啓之助は懐から燐寸マッチを取り出し香炉から炭団を取り出した。

 テエブルに置かれていた灰皿にやおらそれを載せ、火を灯してくゆらせる。

 白く色を変えたのを見届けて、紙袋に入っていた小さな火箸──火筋こじというらしい──で香炉灰に穴を掘りそこに埋めた。上から灰をかぶせ、中心に小さな穴を開ける。

「これで完成だ。簡単だろう」

 麻耶は感心しきりに頷いていた。

「それにしても、兄様がこんな風流に造詣が深いなんて知らなかったわ」

「僕も七年の間にちょっとは成長したという事かな」

 本当は買い求めた店で説明されただけなのだが、年長者の威厳くらい保たなければと笑って流した。

「清浄心身の言葉通りですね。懐かしくも奥ゆかしい──」

 香炉から立ち上る香気に翼も瞳を閉じて聞き入っている。この男は骨董が似合うなと、素直に啓之助は賞賛の念を抱いた。

「翼君の方が余程風流が似合うかもしれないね」

「この人は気取っているだけなのよ。気になさらないで」

 それは非道いな、と目を開いて彼は笑った。

「麻耶さんはいつもこうして僕を虐めるんですよ。お従兄殿の前で位、大人しくしていてもらえませんか」

「残念でした。私の性格はとっくに兄様もご存知ですもの」

 お道化て舌を出してみせる。

「ははは、いいじゃないか。夫婦仲良き事は美しき哉、君達はお似合いだよ」

 第一印象が嘘の様に、翼は好青年と彼の目に映った。一体あれは何だったのだろう。ここの所の環境の変化に少し敏感に過ぎていたのかもしれない。

 復員より数年の幕間を経て動員、上海に上陸したものの、度重なる極度の緊張に少しも気が休まる時はなかった。

 実は土産と持参したこの香炉も、幾度か自分で使った事がある。

 軟弱と蔑まれぬ様、同僚の目を盗むのは大変だったし、そう何度も機会には恵まれなかったが。

「翼君は兵役を?」

「徴兵検査では第一補充兵に入りました。教育召集は受けています。啓之助さんは現役で出征されたのですね」

「元々僕は志願兵だったんだ。もう退役になるだろうがね」

 昭和二年に制定された『兵役法』では国民全てに兵役を課す事が等しく定められ、二十歳を越えた男子は全て徴兵検査を受ける義務があった。尤も、甲種と言われる健康頑健な男子にしても、軍人でない一般の者は大抵人員が不足しない限り補充兵とされる。現役以外の兵士を訓練させる為に召集するのを教育召集と言った。

 仮に戦地に常駐させられたとしても陸軍で二年、海軍で三年。終えれば予備役として自宅待機がほとんどである。

莫迦ばかげているわ、戦争なんて」

 呟かれた言葉には、聞く者をはっとさせる程の強い感情が籠っていた。啓之助の顔が瞬時に凍りつく。

「麻耶さん、口を慎みなさい。日本国民は今、皆お国の為に戦っているんだよ。僕だってそうさ」

「だってそうでしょう? 生きたくても生きられない人だっているのに、どうしてわざわざ他国まで行って殺し合わなければならないの。啓之助兄様は、また戦争に動員されたら行きたいと本気で思っているの?」

「そ──それは勿論、そうさ。日本男子の務めだからね」

 何故か語尾に力が入らない。そんな自身に彼は衝撃を受けた。

 従妹の為にも、非国民と罵倒されない様ここは諭さねばならない。

 兵士となり、戦いたくとも兵役で落とされ自殺した人間もいるのだ。

 選ばれただけで名誉なのだと。なのに。

 威厳など何処へやら、きつく怒鳴り返す事さえままならず、気づけば膝の上の手が震えている。

 何だ──また、『あれ』が来るのか。

「麻耶さん。啓之助さんは少しお疲れのご様子じゃないかな。やはり部屋で休んで頂いた方がいい」

 翼がやんわりと取り成した。それでも何に対してか、麻耶の怒りは収まらないらしくすぐには返事をしない。

 彼は立ち上がり、啓之助の隣の椅子に立てかけてあった松葉杖を手に取った。

「動けますか? もし良ければ、手をお貸ししますが」

「い……いや……大丈夫だ」

 胸が息苦しくて、翼の手を振り払うつもりがバランスを失って椅子から床に転げ落ちた。

「啓之助兄様!」

「大丈夫です。どうやら眩暈を起こされた様だ──麻耶さん、松葉杖を持って来て下さい」

 骨太で甲種に合格した啓之助、戦地の生活でやや落ちたものの、体重は今でも優に十七貫はある筈だ。それを半身とはいえ易々と、翼は肩に担ぎ上げた。

 心配そうに見守る麻耶の横を抜けて、客間の扉から廊下に出る。

「……済まない……」

 遠のきそうな意識の中、何とかそれだけの言葉を搾り出した。

 恐らく彼にしか聞こえないだろう程度の囁きが返ってくる。

「僕は医者ですから。頼って頂いて結構なのですよ……復員された方にはよくある事ですし」

「何、を」

「夜よく眠れないのではありませんか」

 啓之助は黙り込んだ。両手両足をだらりと下げて、意識を失った振りをする。

「これはいけない。──誰かいませんか、担架を持ってきて下さい」

 暗転した世界に音ばかりがやけに響き渡る。程なくして複数の人間が走り寄る足音が聞こえ、彼の身体は水平に持ち上げられた。

──全く、面目ない。

 身体の自由を奪われる事が、これほど自信を喪失させるとは思わなかった。

 戻るのだろうか、足さえ元に戻れば全て。

 部屋のベッドに身体を横たえられ家人が去った後、啓之助は目を開けて窓から庭の木々を眺めた。

 一体いつまで、夢の続きを見ているのだろうと思いながら。

脚注:ギュピールとは飾り紐という言葉から作られた、英国のレース工法です。レリーフ状に盛り上がる高級レースを指します。

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