事件並びに邂逅
伊村から津野坂警部との連絡が付いたとの報せを受けて、啓之助は朝から気もそぞろに病棟に赴いた。
廊下でまた誰かに見咎められるかと思いきや、今日は麻耶にも辰代にも出くわさない。尤も、先日怒らせてからは麻耶はあまり干渉しなくなって来てはいたが。
相変わらず悩みは尽きないのだろう、彼女は昨晩も香を聞いていた。知っていて、特に相談に乗ろうとは考えなかった。夫婦の問題に、家庭人でもない自分が力になれるとは到底思えないからだ。
──これで良かったのだろう。
寂しいかというとそんな気もしないでもないが、すっかり『人妻』になってしまった時点で寂寥は訪れていた。時は時計の針の様には巻き戻せないものだ。彼の何処か欠けてしまった精神と、その足が治らないのと同様に。
七月も最後の週となり、世間ではロンドンオリンピックが愈々開催間近と、満州国の話題で持ちきりである。折りしも大衆運動が盛んになり、特高に拠る共産主義者の検挙なども新聞でしきりに取り上げられていた。此処では全てが蚊帳の外、隔絶された世界の様に何も変わらない。
歩き進む彼の視界に入る第三病棟は中でも更に他者を寄せ付けぬ佇まいを見せていた──
──否。
珍しく、建物に入っていく者の姿が見える。白衣を着ている所から、医者だろうとは思ったが見かけない顔だった。 開いたままの扉には、これまた異様にもロープが張られている。
よくよく観察すると、病棟の外にも男達が何人か立っていた。濃紺の、記章の付いたラシャ詰襟に丸帽──そしてサーベル。警官としか思えなかった。
──病棟で何かあったのだろうか。
真逆、と思った。あの男は始終身の危険を感じて怯えている。彼の恐怖が証明されてしまったのかもしれないと。
依頼から一週間待たされたものの、その間無為に過ごしていたわけでは決してない。あの後何度か夜中に抜け出しては件の病棟に行ってはみるものの、男の態度は変わらず、情報が聞きだせるわけでもない。呼び出しには応じるが、警部とまだ連絡が取れないと知るや頭を引っ込めてしまう。挙句「繋ぎが取れるまで来るな」と言われる始末だった。
──もしそうなら、ひどく拙い。
病棟に向いていた足を方向転換して、啓之助は渡り廊下の途中の扉から中庭へと出る事にした。
「何だ、患者か?」
当然ながら、病棟に近寄る間もなく警官の一人が見咎めて足早にやって来る。歳は啓之助よりも幾つか上に見えた。体格もそうは変わらない。
「此処から先は関係者以外立ち入り禁止だ。病室に戻りなさい」
「何か事件ですか」
「関係者かね」
「い、いや。僕はその」
あるとも言えないこともないが、何とも説明しにくい。
警官の肩から向こうを覗き見ると、病棟の端の部屋の窓から外を観察していた人物と目が合った。
──あの男の隣部屋だ。
男は無事なのだろうか。不安になりつつも視線がかち合った相手の様子の方が気になって、啓之助は逸らす事なく『彼』を見続けた。相手が不思議そうな顔をしていても、構わずに。
背広姿の四十絡みの中年男だった。遠くからでもわかる、一見柔和そうな細い目は思いのほか眼光鋭く、四角ばった顎、上背はあまりないが敏捷そうな体格。
刑事だろうとひと目で理解した。
例の男は窓の近くにいないのか、隣室もこちらからは窺い知る事が出来ない。
「関係者じゃあないのだな。だったら帰った帰った! 見世物じゃないんだぞ」
追い立てられ、あっという間に元来た出入り口まで押し戻されてしまう。
仕方なしに伊村のいる病室に向かった。
──彼の事だ、何か情報を掴んでいるといいのだが。
もうすっかり馴染みになった角部屋に一歩入った途端、啓之助はその光景に目を剥いた。
「雁首揃えて、野次馬かい……」
五床並んだ白い無機質なベッドはいずれも空、持ち主達は開け放たれた窓にかじりついて外に身を乗り出している。未だ中天に至らない戸外は明るく、中は逆光で暗いので、背格好で誰が誰かを判別するしかなかった。
よくよく数えれば影は四つ。例に拠って山科老人の姿はない。
「おう、啓さんかい。無謀にも現場に近寄ったあんたに言われる筋合いはないねえ」
笑い含みに振り返ったのは牧野だった。啓之助が用向きのある伊村は何やら仏頂面で外を睨んだまま、微動だにしない。
「一体何の事件だろう? 僕は結局すぐさま追い払われてしまってね」
「尋常じゃあないって事しかわからんね。事件というのなら、そろそろ何かしら動きがあると思うんだが」
振り返りもせずに彼は呟いた。
窓際に近寄り、野次馬の合間から見下ろせば、眼下には丁度第三病棟の陰鬱な佇まいが一望である。
「入院患者に前科のある者でもいたんだろうか……逮捕された、とか」
「それはねえな」
隣の答えは短かった。
ちょうどその時、先ほど啓之助が窓越しに見た刑事らしき男が建物の扉から外に出てきた。この上ない険しい表情で病棟を睥睨し、外にいた警官に何事か耳打ちされ、頷いている。
「……もしかしたら、殺人或いはそれに近い事件かもしれないな」
「患者が、かい?」
「恐らくはな。出張って来ているのは捜査一課だ。しかも監察医が中に入って行ったきり出て来ない。病死なら、幾ら何でもちと遅いな」
目付きが完全に記者のそれになっている。
「病院じゃ患者が死ぬ事だってあるだろう。偶々不審な死に方をしただけかもしれない」
「シッ、ちょっと静かにしてくれ──何か話している」
人差し指を口の前に立てて伊村が啓之助を遮る。鼻白みながら渋々黙ると、確かに刑事らの会話が聞こえてきた。
「……に荒らされた形跡はありませんが……何分にも傷みがひどくて……は綺麗なものでした」
「隣の患者が何か……話を聞いて……」
見るからに上司らしい背広男に言われて、警官は歯切れ良く返事をして病棟へと駆け込んで行く。入れ違いに病棟から出てきたのは、白衣を着た老齢の枯れ枝の様な小男だ。
「……してみないとはっきりとは……。皮膚に……が……、十中八九……で」
「ああ糞っ。肝心なところが聞こえやしねえ」
伊村が忌々しげに舌打ちしたちょうどその時、恫喝が庭に轟いた。
「誰が勝手に検分していいと言ったのだ!」
声の持ち主は一般病棟側から出てきた清太郎、後に数人を従えている。使用人の格好をした見慣れない男と、榎本。松野や翼の姿も見えた。
「おおっ、院長様のご登場だ」
伊村は完全に楽しんでいる。
「此処には官憲諸君に関わるものなどありはしない! 狗の如く嗅ぎまわられては死者への冒涜になる。早々に立ち去りたまえ!!」
「そうしたいのは山々なんですがね、通報があったのですよ。我々としても見過ごすわけにはいかないもので」
清太郎の声は野太く通りが良いので、離れていても労せずしてはっきりと聞き取れた。対する背広男は苦笑している様子ながら、変わらず淡々とした口調で、それでもさっきよりは声が大きい。少なくとも、内容が知れる程には。
「それに、ざっと見た所訝しな点は確かにありましたがね。あれは間違いなく、何らかの薬に拠る中毒でしょう」
「巫山戯るな! 患者は衰弱していた。治療の甲斐なく亡くなっただけだ。無礼にも程がある!」
「では何故、遺体の両手両足に縛られた跡があるのですか」
「此処は癲狂病棟だ。暴れる患者もいるのだよ。放っておけば彼等は己を傷つける場合もある。一時的に手足を縛られていたとしても、生死に関わるものではない」
「ほほう。成程、治療の為に。出来ればその所見なども、別室でじっくりと聞かせてもらいたいものですな」
「その必要はない──否」
いきなり清太郎の声が低く調子を落とした。
「……いいだろう。院長室で話をしようではないか」
言い捨てて、やけにあっさりと踵を返し建物に戻って行く。周囲が後に続いて、病棟から警官さえもが慌てて付いていく。たちまち中庭は無人の空虚と化した。
「いやあ面白い。非常に興味深いね」
腕組みを解いて新たな煙草に火を点け、伊村は悪魔の如き笑みを見せた。
「面白いって……事件なのかどうかまだわからないだろ? それとも記事になりそうな揉め事かい」
「何を言っているんだ。これは明らかに事件だよ。警部の話を聞いただろう」
「聴いたともさ。患者を寝台に縛り付けるのは感心しないが、癲狂では珍しくない話だそうだよ」
「いやいや。全く君は真っ正直に出来ているものだね。院長は途中から術中に嵌まっていると気づいたのさ。警部の声が大きくなったのは、『此処に謀意有り』と周囲に知らせる為だったというのに」
突拍子もない言葉に、啓之助は呆気に取られて一瞬言葉を失った。
「……真逆。深読みが過ぎる」
「俺はそうは思わないが」
「冗談じゃない。曲がりなりにも院長は僕の叔父だ。滅多な事を言ってもらいたくはないね」
怒り心頭にまくし立てながら椅子に座った彼に向かって、伊村は煙草を咥えたまま肩をすくめて見せた。
「誰も君の叔父さんが患者を殺したとは言っていないさ。そこまでの証拠はない。だが、あの場に吾妻侯爵家の家令がいたっていうのが問題なんだ。どうやら奴の息子がいるというのは噂じゃなかったらしいな」
「何だって!?」
これには周囲の老人達からもどよめきが起こった。牧野が口を挟む。
「畏れ多くも侯爵閣下のご子息が、こんな所に? 確かかね」
「侯爵は時折院長に会いに来る。その時に廊下で随従するあの男を見た。で、少し調べてみたのさ。確かだよ」
「しかしよくまあそんな噂を仕入れて来れたもんだ。──だからあんた、相馬事件再びを狙っていたのかね」
「よ、よしんばご子息が本当にいたとしよう。ただそれだけならば、後ろ暗い家庭事情ではあるが事件ではないのじゃないかね」
食い下がる啓之助に、伊村はまた例の含み笑いを浮かべてみせた。
「俺の掴んだ噂はそれだけじゃない。そもそもこのネタ自体が出回らない様、侯爵側で随分と手を回しているらしいからな。もし死んだのが奴の息子なら、ようやくお荷物が片付いたわけだ。関わりを恐れて後始末に使用人を寄越したのだろう」
「お荷物か……まあ確かに由緒正しきお家柄にしてみれば、家督を継げないご乱心者なぞお荷物かもしらん……伊村さんが問題というのはこれが醜聞だからかい?」
探る様な質問をどう取ったのか、彼は片眉を大仰に上げて愉快そうだ。
「当然さ。それとも啓さんは、他に事件性があるとでも考えているのかね」
啓之助は答えに窮して黙り込む。こいつはまだ何か隠している──そして自分が手札を見せるのを待っている。そんな気がした。
「……僕は何も」
実際、知らないに等しいのだ。手札も何もあったものではないし、そんなもの知りたくもない。ただ男の伝言を言付かったというだけの、一般人なのだから。
幸いにもその先を言う事は出来なかった。ふらふらと病室に戻って来た山科老人に、伊村の注意が逸れたのである。
「おおどうだったね。何か聞き出せたかい?」
老人は答えなかった。元来浅黒いながらも好々爺といった風情なのだが、今は酷く顔色が悪い。
「どうした。何かあったのか」
伊村が重ねて問うと、彼は二、三度瞬いてから呆けた声で
「……やっさん、儂ぁ……まだ、生きているかね」
と掠れ声を出した。
「はぁ? そりゃあ確かに棺桶に片足突っ込んではいるらしいが、鬼籍に入るに未だ色惚けが過ぎるんじゃないかね」
周囲からどっと笑いが起きる。
「……そうか。なら……やっぱり、見ちまったのか……」
啓之助は老人の異常に苦笑を収めた。脂気のない額に今日は汗をうっすらかいている。小刻みに震えてもいた。
「見たって、何を」
「──ゆ、幽霊を」
「幽霊ぃ? 山さん、遂に呆けたのとは違うか」
牧野のからかいにも「わからん」と彼は頭を抱えて、自分のベッドに力なく腰を下ろした。中村が湯飲みに麦茶を注ぐと、手渡す。
「まあこれでも飲んで落ち着くんだな。何がどこでどうなったって」
山科は湯飲みを受け取るや否や、一気に麦茶を飲み干し、盛大に溜息をついた。
「詰所に事件があったのかどうか聞いて、ついでに医局にも寄った帰りじゃった。見慣れない看護婦がいたから挨拶をしてみたんじゃよ。いつもそうしとるから、全く何気なく。──二言三言会話したと思う」
一般病棟、つまり二階に上がる階段で出会った。看護婦は下に降りる所、山科は上に上がる所だった。そのまま少し世間話をし二階の廊下を上がり、看護婦は一階の診察室方面に歩いていった。二階の詰所はほぼ真ん中にあり、彼の病室はまだ先だ。ふと思い立って詰め所にいた馴染みの若い看護婦に「新入りが来たみたいだね」と話しかけた。
「帰山さん──その看護婦じゃけど──は『そんな看護婦はいない』って言うんじゃ。しかも薄気味悪そうな顔をして。聞けば、最近看護婦連中の噂にはなっているらしい。数人の目撃情報があるんじゃが、証言はどれも皆違う顔をしているとかで──全く見覚えのない人物らしい。見たと思っても、いつの間にかいなくなるそうじゃよ」
伊村は口笛を吹いた。煙が機関車の様に飛び出す。
「正に夏にお誂え向きだな。差し詰め『白昼の怪談』とでも言うべきか。会った場所も場所だけに尚更だ」
「儂は本当に見たんじゃ! 洒落ている場合じゃないぞっ」
「──その幽霊、僕も見たと思う」
一同の視線が一斉に啓之助に集まった。
背筋に氷を充てられた様な悪寒がする。
「同じものかどうかはわからないし、違うかもわからないけど。僕はその女の顔を思い出せないから」
「本当か、儂はむしろはっきりと覚えているよ。目の横に艶黒子があってのう。儚げな様子の女じゃった……幽霊と言われても納得しそうな、のう」
伊村は黙ってしばし考え込んでいたが、ふと顔を上げて「まあ病院だし幽霊の一人や二人いるかもしれん。それより事件の話を聞かせてくれ」とあっさり話を終わらせた。
「流石、唯物主義を信条とするだけはあるわい……」
ぶつぶつ言いながらも、山科老人は脱力して報告を始めた。
看護婦連中は口が堅く、結局誰が亡くなったのかはわからない。
しかし「亡くなった」のは確かな様で、しかも誰が警察に通報したのかも不明だという。八時過ぎにはもう刑事が来ていて、院長も外科部長も患者の死をそれで知った。最初に駆けつけたのは榎本で、既に現場は警察の支配、中に入れても為すすべもない。一旦は引き上げ一時間後、ようやく院長を連れて舞い戻ったのがあの騒ぎだったそうだ。
「田村さんがたは慌てて医局を出て行ったから、話は聞けなかったがね」
「名前を聞いた事があるな。確か外科担当の看護婦じゃないか。どっちへ行った?」
「外科室の方だったと思うよ」
「ふむ、なるほど──時に啓さん、この病院では解剖を請け負っていると聞いた事があるかい」
「さあ。知らないが、榎本さんなら出来るかもしれないね」
「夏場という事もあるだろうし、解剖ならもう仏さんを移動する頃合か……院長が来客をあしらうのにどれくらい掛かるか、だな」
「何だって、君は叔父達が患者を解剖するとでも言うのか? 病死だと言っていたものを?」
伊村は頷いた。
「恐らく、院長は遺体が病死でない事をもうわかっている。警部──監察医が『薬物中毒だ』と言っただろう。だとしたら、外科部長殿が気づかないわけがない」
彼の言わんとする所がわかって、啓之助は慄然とした。
患者が自殺などで薬を飲んだとわかるのなら、解剖は行わないのではないか。
明らかに中毒だとわかっている──つまりそれは、突き止めるべき『加害者』がいるかもしれない、という事だ。
病院側が公にしたくない事情のある、誰かが。
隣には、過去の事件の存在を匂わせる患者。しかもそいつは清太郎を恐れている。
これは偶然なんだろうか。
ふとあるものが頭の中で引っかかって、啓之助は思索を中断した。
「そういや伊村さん。あんたさっきの警官と知り合いなのか? 刑事ではなく、警部と言っただろう」
「さっきの? ああ、知り合いも何も──」
不意に扉を叩く音が聞こえた。
「失礼するよ」
スリッパの音が床を叩く。
許可を待たずに扉が開いて、当の話題の主がそこに立っていた。四角い顔に、細い両眼。口元は無感情に引き締められている。手に持った背広のポケットから、黒い手帳を取り出した。
表紙には──五角形状の旭日を思わせる、金色の日章。
「警視庁の津野坂だ。伊村靖はいるかね」
「これは警部──お早いお越しで。わざわざご足労願う手間が省けましたな」
ベッドに胡坐をかいたままで笑う伊村を、津野坂は剣呑な眼差しでひと撫で、病室へと足を踏み入れた。