アパートメント
「上海はそろそろ終わるだろう」
男の言葉は予想の範疇だったから、如何に重々しく切り出したとしても残念ながら女を感嘆させるには至らなかった。
その手に掲げ持つ杯に満たされた芳醇な液体の方が、よほど魅力的だと言えただろう。俗にブランデーと呼ばれる異国の酒は、炎にも似た情熱で喉を潤す。日本酒よりも果実より生まれる年代もののそれを、女は割と気に入っていた。
酔いに温まる身体とは裏腹に冷めていく内心を悟られぬ様に、女は神妙に頷いてみせる。
布張りのカウチソファは敷き詰めたクッションのせいで、身体が沈みこんでしまいそうだ。半身を傾けて一方の端に凭れ、首だけを話す相手に向けている。一見退屈そうに見える体勢だが、しなやかな身体の曲線とガウンの襟から覗く鎖骨の線が、女を色彩をまとった猫の様にも見せていた。
英国の何某という建築家に設計させたというアパートメントの一室はモダンな造りに侘寂を利かせて、彼女の『愛人』という今の役割に相応しい。円形の硝子窓に透かし彫りの格子。壁には波斯織のタペストリと、小さな階段調の薬戸棚が置かれている。高尚にして雑然。男があくまでも知識人を「気取って」いると、容易に窺い知れた。
ここは彼が彼女に買い与えた、密談の場所である。健全な生活を心掛ける男は、決まって夕方に訪れた。例えばそう、今日の様に。
「嘉定が占拠されたそうですわね。呉淞砲台を撃破したとか。勇猛を鳴らした十九路軍も形無しでしょう、あそこは中国陸軍の要と聞いております」
知的な会話を好むこの初老の男に合わせて、女は様々な政治的教養を仕入れていた。彼女の様な職業の者には珍しい事で、だからこそ男に気に入られたのだろうが──内心は現実味のない別世界の話でもあった。
「確かに戦局は我が国に有利に働いて来ているが、いかんせん被害が甚大となり過ぎたな。租界の利益が損なわれると列強が躍起になって停戦を要請してきておる。近いうちに停戦条約が結ばれるだろう。問題は大陸政策を奉じている連中の助長を如何に防げるかという所だ」
酔いも手伝ってか、男の弁舌は普段より緩やかだ。右隣のソファに座って、外国より取り寄せたという美酒を舌で堪能しては一つ、また一つと語りだす。いつもそうなのだが、決して心から酔う事はない。
己の胸の内に様々な思惑を収めて、手下を動かす時には用件しか話さないと評判の老練な政治家。実は命令を下す前に多くの因果をさりげなく含めているだけなのだと、恐らくは彼女以外に知る者は少ないだろう。
伊達に並みいる政敵からの答弁をかわして来たわけではないと頷ける──こんな風に話すのも、別に自分に愚痴を零しているわけではなく仄めかしているのだ。彼女に何をすべきか理解させる為に。
「軍国主義は国を滅ぼす。芽は早いうちに摘んでおかねばならん──頭は無理かもしれないが、右腕を潰すぐらいは出来るだろう。例の話はどうなっているかね」
女は赤い唇を吊り上げて、嫣然と微笑んだ。ほんの少し伏せていた上体を起こすと、動きに添って絹のガウンが衣擦れの音を立てる。打掛を仕立て直したそれは、艶やかで白い膚に背徳的ですらあった。
「恙なく運んでおりますわ。結納が来月に決まったそうです」
そうか、と男は真っ白な顎鬚を手で撫でながら目を細めた。
「あの男も執念だな。奴の倅がいる事がわかってから三年か。巧くいけば色々と使い道もあろうに、医者にしておくのはちと勿体ない気もするが」
「伝えておきましょう。事が成った暁には、もうあの家には用事もないでしょうから」
是非に、とは返って来なかった。まだ判断する時ではないと思っているのだろう。
「鍵屋の店主は見つかったのかね」
「ええ、医局に納入証が残っていましたので。夫人に付いて訪れましたが、中々興味深い人物でしたわ」
全く君にとっては何もかもが観察の対象なんだろう──感心とも呆れとも付かない笑みを男は浮かべた。
「そんな事ありませんわ。旦那様のお役に立てるのが、私の喜びですもの」
「まあそういう事にしておこう──私は君の理解者でいるつもりだよ。この点では恐らく彼よりもね」
現世こそ幻と言ったのは誰だったか。少なくとも女には大いに共感出来る台詞だったが、吹聴する事はしない。いつもただ笑って誤魔化すだけだ。
「嫉妬してくださるのですか?」
「いや、そこまで私は若くないさ。君が彼を愛しているのは知っているよ。退屈凌ぎの玩具としてだが」
面白そうにしていた女の柳眉が初めてほんの少しひそめられた事に、男は気づかない振りをした。そのプライドの高さこそが、彼女を美しく見せるのだとわかっていたから。
「奴の倅を始末するとなると、あの刑事が出てくるだろう──ほら、何と言ったか。警視庁の堅物だ」
「元より心得ております。知られない様に片付けますので。いざという時の壁も用意してありますし」
「五年前の時は随分と執念を燃やしたそうじゃないか。奴に圧力を掛けられて断念したそうだが。確かに惨い事件だった。もしあの時犯人として逮捕されていたなら、結果はかなり違ったものになっただろうな」
しみじみと嘆息する男から目を逸らして、女は黙ってグラスを傾けた。仮定の話には興味がない。それにきっと『あの狂人』が逮捕されたとしても、彼は似たような人生を歩んだであろうと確信していた。
「優秀な刑事さんだそうですね。でも、邪魔はさせませんわ」
「頼もしいな。それで、決行はいつになるんだね」
外は梅の花薫るうららかな春だというのに、女の笑みは真冬の細氷の如しだった。
「七月二十五日の夜ですわ。お姉さんの──入谷初音さんの命日に、加賀野裕幸を殺します」
脚注:嘉定・呉淞→第一次上海事変において最終激戦区となった土地。この地を占拠後、支那軍が非戦闘地域に撤退した為、日本軍は総攻撃を中止したといわれている。