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香炉  作者: 伯修佳
七月某日 弐
10/13

麻耶の涙

 上の空の勝負が仇となったのか、その後の病室での花札勝負は啓之助の独り負けとなってしまった。

「いいカモが来たな。またよろしく頼むわ」

 とこちらは圧倒的勝利を収めた伊村である。賭けたのが小銭で、上限を設けていたのを惜しがった。

「次は取り返すさ」

「さあそいつはどうかな。飯も食わずに三時間も粘ってこの有様だ。勿論俺はいつでも歓迎するがね」

 彼の言葉にベッド脇の机を見上げた。なるほど卓上の時計は午后二時の手前を指している。一度昼食が運ばれる気配に札を隠したものの、既に負けが込んでいた啓之助は目の前で食膳が並んでも帰るつもりは毛頭なかった。牧野老人から落雁を一つもらってかじりながら、握り飯を持参すれば良かったと後悔してはいたが。

「俺『たち』はじゃな」

 老人達も総じて機嫌がいい。一時的に帰って来た山科という老人は博打に興味がないらしく、食事が終わるなりまた何処かに行ってしまった。枯れ木の様な男だった、と印象はそれ位だ。

 どうにも今日はツイていない、と苦虫を噛み潰しつつも病室を去った。空腹だし暑さもうだる様だし、最悪だ。一刻も早く屋敷に戻って、冷麦辺りを食べて涼みたい。

 二階の廊下を通ろうとすると、退院祝いなのか大勢の見舞い客が一室の前で陣取っていて途中が塞がっているのが遠巻きに見えた。

──面倒だな。

 踵を返してすぐ傍の階段を降りる事にする。一階の外来は午後の診察が始まったらしく、内科の手前が込み合っていた。

 待合室も椅子の空きは少ない。薬草園にいた所を見ると──翼は今日休みらしいが、他の医者だけで手間取っているのだろうか。

 彼の事を思い出して、啓之助はまた不機嫌になった。消化するものもないのに胃もたれしそうだ。

「……こちらでございます」

 聞いた事のある男の声がして、玄関に目をやると体格のいい初老の医師が人を案内している所だった。

──榎本さんと、あれは患者の家族だろうか。

 一見してわかる身形の良さから、恐らくは相当の富裕な華族だろうと察しがついた。背後に数人従えているのは使用人だろう。しかも榎本は外科の部長を務めていて、叔父の信頼を松野と同じ位長く勝ち得ている人物だ。彼が先立ちになって案内するなど、よほどの上得意に違いない。

──いや、何処かで見た様な気がする。確か新聞記事か何かで……。

 ようやく啓之助は、昨日の清太郎の話を思い出した。ではあの神経質そうな中年男が、吾妻直輔侯爵閣下なのか。

 男は目の前を行き交う患者達を一顧だにせず、眉間に皺を寄せた表情で廊下をこちらとは逆方向に歩いていった。

 院長室に行くのだと想像はしたものの、所詮然程の興味もない。ただ麻耶が「金持ち連中」と何処か莫迦にするのも何となく納得がいった。その場にいる者達の何人かが啓之助同様に興味を持ったらしく、ちらちらと去った方を窺っては小声で何か耳打ちしている。

 吾妻の評判はお世辞にも決して良いとは言えない。ただ誰も表立って批判が出来ないだけだ。軍閥政治家は常に虎の威を着て目に余る──そう噂していたのは昔の同僚だった気がする。

 今はもうこの世にいない同僚の思い出に浸って屋敷に戻ると、使用人部屋の辺りで早速辰代に昼食時にいなかった件についてお小言を食らった。

「一体何処にいってらしたんですか! そりゃあもうお探ししたんですよ」

「御免よ、急用だったんだ」

「食事を差し置いて、何の急用があるものですかっ」

 誠心誠意重ねて謝ると「お結びしか作れませんから、それで我慢してくださいまし」と彼女は態度を緩和させた。

「若奥様も心配なさっておいででした。あちこちお探しになっていた様ですから、一声掛けて安心させてあげて頂けますか? 食事は部屋に運んでおきますから」

 僕は小さな子供じゃないんだ、そう言おうとして啓之助は口を噤んだ。これを言うべきは辰代じゃない。妙に苛々して、返事もそこそこに部屋に向かった。

 麻耶を探す気は全くなかった。自分の妻子がいたとしてもきっと、居場所をいちいち言わないだろうという自信があるのに、何故彼女に報告しなければならないのか。全く腹立たしい。

 だが部屋に入ってしばらくすると、扉をノックしてきたのは辰代ではなく当の麻耶だった。握り飯と急須、それに湯のみが載ったお盆を手にしている。

「お昼も食べないで、一体何処に行っていたの? 真逆またあの、伊村さんとかいう人の所?」

 怒っている様子はなかった。熱でもあるのかというほど、妙に冴えない顔をしている。

 普段からは考えられない暗さに多少鼻白んだものの、心を鬼にする決心で口を開く。

「……君ね、もう余り僕に構わないでくれないか」

 啓之助が冷淡を装って言うと、驚いた事に彼女は目を潤ませ俯いた。これまた調子の狂う反応だ。いつもの麻耶なら、「何よ、もう知らないから!」と怒鳴って部屋から出て行く位の事はするだろうに。

「い、いや。言葉が悪かったな、別に麻耶さんがどうこうじゃないんだ。ただもう君は人妻なんだし、従兄とはいえ他の男を構うのは良くないと思ったまでで」

「辰代や房枝だって、兄様を心配しているわ。どうして私だけ駄目なの」

「だから言っているだろう。翼君に僕が怒られてしまうんだよ」

「あの人は関係ないわ!」

 怒りに満ちた烈しい口調に、啓之助は絶句して返事が出来なかった。よく見れば顔色だけではなく、目もいくらか充血している。今涙を浮かべたから、とてっきり思っていたのだが。

「……どうしたんだ。喧嘩でもしたのかい?」

 さっきはあんなに仲睦まじい様子だったのに、そう続けようとしたが流石に出来なかった。

 麻耶は黙って首を横に強く振る。全ての推測を否定している風に思えた。

「何もないの。いつもあの人は私に何も言わない……ただここの所ずっと機嫌が悪いだけなの。今日は特に酷かった」

 でも私には優しいだけだもの、喧嘩なんて出来るわけない──哀しそうに言って、彼女は唇を噛み締めた。

「麻耶さん……?」

 つい頭を撫でて慰めたくなる衝動を抑えつつも、啓之助は首を傾げた。

 機嫌が悪いにしては随分と楽しそうだったが、やはり女の勘というものだろうか。

 不可解な言葉に考え込んでいると、いきなり胸に衝撃を感じた。麻耶が自分の腕の中に飛び込んできたのだ。

「お、おい。離れなさい」

 慌てて両肩に手を掛けて引き剥がそうとする。涙にくぐもった声がした。

「翼さんは私を好きで結婚したんじゃないのよ。あの人が本当に好きだった人は、もうこの世にいないのだもの……」


※※※※


 三十路に入りそれなりに人生経験を積んだはずなのだが、悲しむ女性を慰める事にかけては全く無能に近いのだと、この瞬間啓之助は痛感させられた。

「そ──そうなのか?」

 講談か小説か映画、いずれにもよくありそうな話だ。時として懊悩を呼ぶ、人類の永遠のテエマ。だからこそ陳腐にさえ思えてしまい、声に力がこもらない。

 麻耶の返事はなく、相変わらず彼の胸に体重を預けたまま頭を上下させる感触が伝わって来た。香水など使うとは聞いていないが、花の香りが仄かに鼻腔をくすぐる。薬草園にいたからだろうか。

「しかし、だとしてももう亡くなっているのだろう。確かに死んだ人間の思い出には敵わないだろうが、今は君が奥様なのだから良いじゃないかね。翼君も、君を好いている様に見えるよ」

「あれは!」

 暗にさっきの光景を示唆したのが伝わったらしい。麻耶は顔を上げはしたものの、言葉を続けずにまた俯く。

「……違うの。上手く言葉に出来ないけど、翼さんにはいつも壁があるの。多分そう、原因は『死んだ人の思い出』なんだと思うわ。きっと一生掛かっても、私はあの人を超えられない」

「『あの人』? 知っている人なのかい」

「直接は知らないわ。でも時折垣間見せる仕草でわかるの。一人の時に、その人かららしい手紙を読んだり、写真を持っているみたいで見ているわ。悲しい様な懐かしい様な、私には見せた事がない顔をして。しかも私が部屋に入ってくると、すぐに隠してしまうのよ」

 過去の恋人の写真か、こいつは頂けない──どうせやるならもっと上手く隠せばいいのに。啓之助は内心舌打ちした。

「うん、まあ。悩むぐらいなら少し麻耶さんも悋気を見せてみればいいじゃないか。言わないと気づかないのかもしれないよ」

「出来ないわよ!」

「何でだい?」

 親が決めた(のだろう、利害なしに叔父を頷かせるのは難しい)結婚ゆえの悩みだが、それは裏を返せば彼女の方が立場が強いという事だ。少しぐらい我儘を言ってもいい気がするのに、何を遠慮しているのか。

 麻耶は俯いたまま小さく「お姉さん、なんだもの」と呟いた。

「はっ?」

「だから──お姉さんなの、翼さんの好きだった人。肉親の思い出を忘れろなんて、いくら何でも言えないじゃない!」

 一拍の間啓之助は呆気に取られていたが、次いで大声で高らかに笑い出した。

「兄様!?」

 腹を抱え涙目になるほど暫く笑って、漸く声こそ治めたものの、まだ顔は笑っている。

「莫迦莫迦しい。何かと思えば、心配して損したよ」

「兄様、私は真剣に悩んでいるのよ! ただのお姉さんじゃなくて、離れて暮らしていて──大人になってから再会したっていうし──」

「まあどっちにしろ、浮気したり妾を囲うより数倍増しだろうよ。君への扱いが悪くならない限り、気にする事はないさ」

 安心させる為に言ったにも関わらず、麻耶は顔を真っ赤にして「兄様の莫迦!」と殴りかかって来た。

「痛! 痛いって麻耶さん! 僕は仮にも怪我人なんだぞ」

 女の力で、しかも拳を叩きつける程度の衝撃でも、痛いには変わりない。

 相手が動けないのをいい事に、ひとしきり叩くと彼女は今度こそ「もう知らない!」と立ち上がり出て行ってしまった。

「妾を囲う、が拙かったかな……」

 叩かれてかすかに痛みの残る腕を、さすりながら啓之助は気づいた。

 麻耶の匂いは沈香のものだと。彼女なりに悩みは深刻で、香を聞いて心を鎮めようとしていたに違いない。ほんの少し気の毒にもなった。


 そしてこの時、笑い飛ばすだけで終わらせてはいけなかったのだと──後になって彼は悔やむ事になる。


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