始
この作品は、歴史的事実に基づいて書かれたフィクションです。実在するいかなる個人・団体・思想にも寄与する意図のものではありません。
また、作中に一部当時の雰囲気を出す為に現在では公に使用を禁じられた差別的表現があります。
文体も同じ理由で古めかしく、ルビに無理がある漢字や難読字を出来るだけ多用致します。携帯からの閲覧は試してみましたが、読むのに多少の気合が要りそうです。
尚、猟奇的表現を含む場所が途中ありますので(直前にご案内も致します)苦手な方はご注意ください。
「佐知子さん、御覧なさいな。あの庭に咲いてゐる沈丁花、一部分だけ丹い花が咲いてゐるわ。まるで何かを隠してゐるみたいに」
「訝しな事を仰い。貴女少し神経質になつてゐるのではなくて。……講談でもあるまひし。男の骸が埋まつてゐる、なんて言わないでせうね」
──筒井志真子主演映画作品 『沈丁花』出
※※※※
最前に此処に来たのは未だ自分が高等科の学生の頃だった筈だから、世は辛うじて大正の御代であったろう。
結城啓之助は車窓から外を眺めつつ、過去に迷い込んだかの様な錯覚を頭から振り払った。
爾来数年、昭和の元号を数えて七年となるというのに、世田谷の叔父の屋敷は全く変わらぬ佇まいを見せている。
彼の実家がある上野付近は都市開発も著しく、拠って空気もやや塵と煙たい。それが高高車で一時間程度、辺り一面の田園風景が広がるさまは圧巻だ。否が応でも見る者にノスタルジイを覚えさせる。
「叔父上がたには変わりはないかい?」
彼は車で自宅まで迎えに来てくれた運転手の大杉に、後部座席から問い掛けた。
「奥様以外はご息災でいらっしゃいます」
「ああ、そうだったね。僕は任地にいたものだから、手紙でつい最近知ったよ。随分と長い患いだが、経過がお悪いのだろうか」
「わたくし共には何とも。お医者様はお身体に異常はないと申しておりますが。詳しい事はわかりかねます」
大杉の返答は歯切れが悪い。世間話程度に聞いただけなので、啓之助もそう追及する気はなく「ふうん」と相槌を打って話を終えた。
記憶にある時点で既に壮年を迎えていた筈の彼はあまり変わった様に見えなかったが、ルームミラーに写る双眸はよくよく見れば皺が増えている。
「他に変わった事と申せば、三月ほど前に麻耶お嬢様がご結婚なさった事ぐらいでございますね」と大杉は話をあっさりと切り替えた。
「あの子供子供していた麻耶さんがねえ。月日の経つのは早いものだ」
「全くその通りで。お嬢様も今年で二十四を迎えられます。もう押しも押されもせぬ若奥様にお成りで」
車停めに停車すると、大杉は先に降りて後部座席のドアを開けてくれた。
「ありがとう」
当然の如く両足で立ち上がろうとして、啓之助は思わず顔をしかめた。
「宜しければお掴まりください」
大杉が両手を差し延べている。
「……大丈夫だよ。ホラ、この通り松葉杖もあるんだ。甘やかすと治るものも治らないからね」
多少の苛立ちを内心押し隠して、けれども顔はあくまで愛想良く、座席の足元に横置きしていた松葉杖をかざして見せた。
恐縮して一礼する運転手の、慈悲深い面に一瞬間違いなく憐憫の情が浮かんだ。
「失礼を致しました」
「いや、気にしないでくれ」
動かない左足──学校を卒業してすぐに徴兵検査に合格、お国の為と遥々戦地を転々とした彼の、唯一自身に持ち帰った手土産がこれだった。
名誉の負傷と褒め称えられ英雄と迎えられても、結局残ったのは不自由な身体と苦痛にのたうつ生活。
見兼ねた両親は父方の叔父が経営する病院で、専門医の治療を受けてはどうかと彼に提案したのだった。
眼前には、緑豊かな自然に囲まれた英国風の洋館と、同じ様式の隣合った優美な建物が聳え建っている。
生憎の湿った曇り空のせいか、森閑とした中に聞こえるのが蝉と鳥の鳴き声のみのせいか。彼はすぐさま玄関に入るのを躊躇って、しばらく建物を見上げていた。
「啓之助様、どうかなさいましたか」
「いや──」
何でもない、と言おうとして口を閉じる。不意に見えた光景に、彼は目を見開いた。
二階の窓の一つに人影を認めたのである。
見た事がない男だった。年の頃は三十代前半辺りだろうか、漆黒の髪に白い衣服が対照的、身長は啓之助と同じかやや高い位かもしれない。更に驚いた事に、明らかに向こうもこちらを見ていた。しかもどう勘繰りしても好意的な表情ではない。
──何処かで会った事でもあっただろうか?
高等学校或いは配属先の上海陸戦隊に於いても、特に品行方正とは言い難い彼ではあったが、流石に初対面の相手に怨まれる様な覚えはないと思う。
「啓之助様、お早く」
「あ、ああ。わかったよ」
大杉の催促に彼が一瞬視線を外し──再び見上げた時には既に、青年の姿は窓から消えていた。
※※※※※
「ようこそおいで下さいました、啓之助様」
「久し振りだね、松野さん」
大杉に連れ立って館に入ると、玄関ホールで老執事に恭しく出迎えを受けた。
家令の松野は代々結城家に仕えて来た一族の出だ。如何にも厳格そうな面持ちの冷静沈着を絵に書いた様なこの老人が彼は館の象徴に思えていた。前時代的で、懐かしくも黴臭い。
尤も、頑迷で旧態依然という点では主の結城清太郎には敵わないのだけれども。
大杉が同じく出迎えた家人の青年に啓之助の旅行鞄を手渡した。
「まあまあ、お久し振りですね啓之助様! すっかりご立派になられて。この度は武勲を立てられてのご帰還、本当にお目出度うございました」
左手の廊下に同じく並んで出迎えた老女が微笑んでそう言った。
「……ああ、房枝さんだったね。有難う」
ぎこちない笑みを浮かべて彼は何とか愛想を保とうとする。
武勲も何も、五月頭に停戦協定が政府のお偉方によって取り決められた為の撤退に過ぎない。勝っても敗けてもいないのだ。日本国内で報道が規制されているのは知っていたが、内容までは聞いていなかった。
真逆、陸軍の撤退を凱旋とでも偽るまではしないと思ったのだが──
「だが、左足がこの通りでね。英雄には程遠いよ。着替えさえ一人では儘ならない有様さ」
多少皮肉めいた気持ちで自嘲気味に笑うと、房枝はそんな事ありませんよ、と殊の外力を籠めて否定した。
「他に同じくお帰りになった陸軍の方の中には、伝染病にお苦しみの方もいらっしゃると言うではありませんか。戦傷とは申せ命に別状もなくお帰りになったのはそれだけでもご立派なものと、わたくしなどは思います」
「はは、そう言ってくれるのは房枝さんぐらいさ」
停戦に先駆けて四月に帰国した麻布第三連隊の兵士一人が、天然痘と診断を受けた。為に隊員四十二人全てが隔離されるに至ったのは、まだ先々月の話と記憶に新しい。
どちらかと云うと、傷痍軍人は大抵冷ややかな目で世間から見られた。刃こぼれをした刃物程、無用なものはないからだ。玉砕もせずにおめおめと生き残った臆病者、そう陰口さえ叩かれる。女性ならではの優しさは、生ぬるく今の彼には居心地が良くなかった。
そう云えばこの房枝にも確か息子が何人かいた様な気がする。満州に出向いたと聞くが、生きているのだったろうか。──記憶を辿ろうとして啓之助は、不意に息苦しさを覚えて止めた。
「お部屋の用意は出来ておりますので、荷物は先にお運びしておきます。旦那様はまだ病院でお仕事中ですので、お休みになりますか?」
房枝の声で思考が中断されたおかげで、辛うじて彼は平静を保ち続けた。
「……いや、では先に義叔母さんにご挨拶に伺おう。会えるかい」
──うっかりしていた。
戦地から帰って以来、時折こうなる。あの狂気とも言える日々の事を思い出そうとすると、急激に動悸や眩暈がしてひどい時には立っていられない。
故に今では夜に夢の中でうなされる時以外は、極力それについては考えない様にしていたのだった。
「多分起きていらっしゃると思います。聞いて参りますね」
「一緒に行こう。どうせ通り道だ」
事前に聞いた分には、義叔母董子の長患いは昨年来のものらしい。詳しい病状は彼の母親も知らされていなかった。ただ手紙に「病気になった」とだけあったのだ。
かしこまりました、と房枝はホール右手側の、吹き抜けの脇にある階段へと向かった。
足を掛けると、啓之助が付いて来ているのを確認するかの様に背後を振り返る。
その心配そうな眼差しに幾らかむっとしたものの、いつもの様に無視して松葉杖を駆使してゆっくりと後に続いた。
階段を漸く登りきり左に曲がると、更に左手にある扉を房枝がノックしているのが目に入った。
「奥様。啓之助様がいらっしゃいました。ご挨拶なさりたいそうですが、宜しいでしょうか?」
部屋の奥から小さく「入りなさい」という声が聞こえる。
二人が中に入ると、右手奥に横向きになった寝台の中に部屋の主の姿が見えた。
「ご無沙汰しております、董子義叔母さん。お加減は如何ですか?」
天蓋付きの寝台に半身を起した体勢の董子は、血の気の全くない白い面を煩わしげにこちらに向ける。
その変わり様に、さしもの啓之助も絶句して二の句が継げなかった。
「貴方こそ、戦地で負傷されたそうね。何もない所だけど、ゆっくりと療養されると宜しいわ」
凡そ優しい気遣いの溢れる声音とは言い難かったが、それは以前と変わらないので驚くには当たらない。問題は彼女の顔色の方だろう。しかし明らかに悪そうな相手に「随分と具合が悪そうですね」と言う程、啓之助は無神経というわけでもなかった。
「ありがとうございます。ご迷惑をお掛けしますが、宜しくお願いします」
「もう主人には会いましたか」
「いえ、勤務中と伺いましたので遠慮しておりました。夕食前にでも皆様にご挨拶致します」
「では最初にわたくしに会いに来たのね。殊勝な心掛けです事」
やはり権高な所は変わっていないらしい。彼が内心苦笑していると、化粧気のない少女の様な顔を義叔母は更にしかめた。
「忠告を貴方に最初に与えるのがわたくしになるなんて、きっとお導きに違いないわ」
「忠告とは?」
「この邸には一人だけ、気をつけなくてはならない余所者がいます。あれに心を許してはなりません」
「余所者ですか。新しく来た使用人で?」
しかし使用人ならばそもそもそんな胡乱な者を雇う必要はないだろう。全く意味がわからない。
「いいえ、もっと性質の悪いものです。今にきっと良くない事が彼に拠って起こされます」
要領を得ない、と尚も説明を求める啓之助を横から房枝が遮った。
「奥様。啓之助様はお疲れでいらっしゃるそうなので、そのお話は後ほど如何でしょう」
だが董子は彼女をねめつけると「また邪魔をする気なの」と呻いた。
睨まれた方は悲しげに微笑む。
「奥様もお疲れなのでございます。やはり一眠りなさった方が良うございます」
「全くお前達と来たら、誰も彼もそう! 皆わたくしを気違い扱いして──」
「誤解でございます。そんな事は決して」
柳眉を逆立てて董子は怒りを露にした。込み上げて来る激しい感情が、やつれた容貌に鬼女もかくやと思われる凄味を与えている。
「いいわもう、さっさと出てお行きなさい。そうして何が起きるか、指を加えて観ているがいいわ!」
※※※※
「……今のは、一体何なのだい」
女主人の部屋を出て呆然と啓之助が問うと、房枝は沈痛な面持ちを見せた。
「わたくしにもわかりません。ですが奥様は一年前から寝付いたきり、時折あの様におなりです。榎本さんは気鬱の病だから外に出てはと勧めるのですが、当の奥様が承知なさいません」
「気鬱の病か……」
何とも茫洋な言葉だ。平安時代でもあるまいに。
「奥様の仰った事はお忘れ下さい。讒言の様なものですから」
ああ、と釈然としないながらも頷いて、彼はふと廊下の逆側、突き当りにある扉に気がついた。
「こちらが啓之助様のお部屋に──如何なさいましたか」
「房枝さん。僕は先に書斎にご挨拶をしていこうかと思うんだが、構わないかね」
言って今しがた発見した扉を指差す。
結城本家の屋敷で彼が唯一楽しみにしていたのが、多彩な蔵書を誇るこの書斎で本を読み漁る事だった。
豊かな自然や美しい庭はそれはそれで素晴らしいものではあったけれども、裏を返せば都会の若者に適した娯楽はない、田舎。
未だ学生の頃は、父に連れられて挨拶に来る度に他にする事もなく、ここに入り浸ったものである。
「左様でございますか……ですが、そちらは今生憎と人が入っておりまして」
実は一番挨拶したかったのは結城家の本、と彼なりに洒落を決め込んでみたのだが、房枝の表情は意外なものだった。
明からさまな困惑と危惧。むしろこちらの調子が狂う程の。
「人が? ああ、杉原さんだっけ。蔵書の整理でもしているのかい」
啓之助は記憶の戸棚からここで本の番人として働いている書生の名前を挙げた。
「いえ──杉原さんは今は病院の方で働いておりまして。そうではなく」
「何だい。やけに迂遠な言い回しだな。昨日今日の付き合いでもあるまいに」
「実はその、若奥様がそちらに今いらっしゃるものですから……」
数年の間に何かのっぴきならない変化が起きたのかと身構えた啓之助は、あまりの拍子抜けに思わず声を立てて笑った。
「なあんだ。そんな事か。麻耶さんだろ? それが一体何だと云うんだね」
「も、申し訳ございません。ですがここは一先ずお部屋にお入り頂きます方が宜しいかと存じます」
「別に構わないのじゃないかね? 丁度いい、ついでに挨拶がてら麻耶さんの成長振りでも拝見しようじゃないか」
訝しい位に狼狽を見せる房枝に多少得心が行かぬでもなかったが、軽くいなして彼はドアに手の甲を当ててノックしかけた。
「お待ち下さい。いけません、今は本当に」
「──どうしたの房枝。お客様?」
啓之助は扉を叩けなかった。先にそちらが開いて、中にいた先客が顔を覗かせたからだ。
「麻耶さん……かい?」
呆気に取られて口を開いたまま立ち尽くしている青年に、彼女──結城麻耶は怪訝そうな顔を見せた。
「そうですが……」
「若奥様、こちらはお従兄の啓之助様でございますよ」
房枝の声音から先程の狼狽振りは、綺麗さっぱり消え失せていた。
麻耶は一瞬考える素振りを見せたが、すぐに思い至ったらしく驚きを満面に表す。
「まあ、そうなの? 貴方があの啓之助兄様!? 御免なさい、見違えてしまったわ」
「それは君の方だろう。しかし思い出してくれて安心したよ」
「嫌ね、忘れる筈がないじゃない。小さい頃は私、兄様に育てられた様なものですもの」
彼女は鈴を転がす様な軽やかな笑い声を立てた。
啓之助も、内心苦笑しつつもお道化てみせる。
「そうだったかなあ? ただ君が僕の後をいつもくっついて来ようとしていたのは覚えているよ」
記憶の中のこの年の離れた従妹は、生まれ付きひどく身体が弱かった。病がちで屋敷から出るのを医者に禁じられ、日にも当たらぬ身体は血色も悪く肉付きもないに等しい子供だった筈。それが今では影も形もない。
今も昔も変わらないのはその瞳の光と射干玉の黒髪位か。
時の流れにやや寂寥を感じつつ、啓之助は麻耶の耳隠し──髪にパーマネントを当てるなど、よく許してもらえたものだ──を見つめた。
脚注:「訝しい」は「おかしい」とお読みください。
(冒頭の雰囲気を出す為にルビを振っておりません)
爾来→以降。
耳隠し→長い髪にパーマをかけてウェーブを出し、後ろの低い位置に結う当時の妙齢の既婚女性の髪形です。