お返しします ~あなたとあなたの愛人の奴隷になるために生きてる訳ではありません~
第2王子セイラン・ヴァルグレイスは苛立ちを隠そうともせず、寝床に横たわる書面上の妻へと歩み寄った。
「また倒れたんだってな! ふざけるなよ、この大事な最終局面に。さっさと起きろ!」
リュシア・ヴァルグレイスは呻き声を漏らした。ストロベリーブロンドの髪を掴まれ、布の寝床から無理やり引きずり出される。
寝床と呼ぶにはあまりに粗末なそれは、ただの布切れが地面に敷かれているだけだった。
「おい、このボロを負傷兵のところへ連れてけ」
「はい、とっとと来い。いつまで寝ている」
副官ベイルが命令に従い、リュシアの腕を乱暴に引く。 王子妃への扱いとは、到底思えない。
その様子を見ていた王子の側近シグルドが、静かに口を開いた。
「お待ちください。食事をさせないと、また倒れるのでは」
「そうやって甘やかすから、過労などと言ってサボるんだ」
「そうですよ」
兵士ドランが同調するように頷いたが、ジグルドが1歩前に出て反論した。
「しかし、そう言って3日間、食事を与えなかった時は力が使えなくなり、回復に1週間もかかりました」
「はあ……仕方ない」
セイランが渋々言うと、彼の愛人エルミナが優雅に笑いながら口を挟んだ。
戦場には似つかわしくない豪奢なドレスを纏っている。
「それなら私の食べ残しがあるから、恵んであげるわ。感謝しなさい」
彼女はわざとパンを床に落とし、それをリュシアの口元へ突きつける。
セイランがふざけた調子で言った。
「おい、そんなにやって太ると困るだろう。一応、まだ王族なんだから」
「私が公務もパーティーもパートナーを務めてるんだから、いいじゃない。このみすぼらしいお飾りのネズミじゃ無理よ。平民だもの」
エルミナの声には鼻持ちならぬ誇りが混じっていた。指揮官ザイクがさらに追い打ちをかける。
「それはそうです。このネズミに、いくらカヴァネスをつけても無駄ですよ。エルミナ様とは比べ物になりません」
「当然だ。比べるまでもない」
セイランはそう言って、妻であり聖女でもあるリュシアの腹を蹴った。
「さっさと働け、グズ」
「戦ってるわけでもあるまいし」
兵士ロキが鼻で笑いながらリュシアの腕を引っ張ると、彼女の服が裂けた。
それを見たエルミナは、美しい顔を歪めて笑った。
王都の門が開かれると、戦勝を祝う歓声が空を裂いた。
第2王子セイラン・ヴァルグレイスとエルミナ・ロウヴェル侯爵令嬢が並んで馬車から降り立つ。
市民たちは花を投げ、声を張り上げて英雄とその麗人を讃えた。
その馬車の隅、荷物のように押し込まれていた王子妃リュシア・ヴァルグレイスは、ボロ布のまま身を縮めていた。誰も彼女に目を向けない。
彼女が戦場で何をしていたかなど、誰も知らない。知ろうともしない。
王宮では祝宴が開かれた。
金と宝石が散りばめられた広間に、貴族たちの笑い声が響く。
セイランは王子として、エルミナはその伴侶として、中央の高座に並ぶ。
リュシアは壁際に立たされた。
食事も椅子も与えられず、ただ“そこにいる”ことだけを許された存在。
彼女の足元には、戦場で預かった痛みが静かに積もっていた。
それは誰にも見えない。
だが、確かにそこにあった。
祝宴の光が、彼女の影を長く引き伸ばしていた。
その影の先に、誰も気づいていない波が、静かに揺れていた。
王の印が刻まれた杯が交わされ、音楽が天井の金箔に溶けていく。
貴族たちの笑い声が層になって広間を満たし、光はやさしいふりをして残酷に明るかった。
セイランが立ち、手を上げる。視線は滑らかに会場を渡り、止まった先は壁際の少女に向かう。
「王子妃リュシアは治癒の聖女として戦場に赴いたにも関わらず仕事を怠け、命がけで戦ってる兵士を横目に我が儘ばかり。これでは国母に不適格。よって婚姻を解消する」
空気が一瞬、喝采の準備をした。
しかし彼女の声が、その前に割り込んだ。
「では、これまでのことに対する謝罪を。それと出国許可証に慰謝料白金貨200万枚ここへ」
リュシアは床を指差した。
沈黙が走り、遅れて嘲笑が追いつく。
「少なすぎたか。では500万枚」
「狂ったか」
セイランが抜刀した瞬間、広間が崩れたように全員が床へ這いつくばる。
痛みが一斉に体へ押し寄せ、呻きが波となって金の天井に反響した。
「何が起きてる?」
聖女が笑う。穏やかで、冷たい川面のような笑みだった。
「お前」
リュシアは指を伸ばし、宰相候補シグルドを指差した。
「出国許可証と慰謝料、陳謝状、離縁届。軽傷だから動けるでしょう」
「……何が……何が起きてるのか」
ジグルドの声は震え、言葉が靴音のように転ぶ。
「お前。自分に質問できる権利があると思うのなら、相当に頭が悪い。
お前が加害者でなくても私は、まだ王子妃。誰に口をきいている」
あちこちで息を飲む音がする。
「……申し訳ありません。すぐに用意いたします」
貴族達の顔色も旗色も、かつてなく悪い。
彼らの痛みは、彼女が5年間で静かに積み上げた記録の一部だった。返却は始まったばかり。
リュシアは玉座に腰を下ろし、頬杖をついたまま静かに指を伸ばした。
「お前」
指先が示したのは、広間の隅で身を縮めていた兵士ロキだった。
「ここへ来て踊れ」
「へぇっ?! け、怪我してるのに何をっ」
ロキが慌てて声を上げると、リュシアは首を傾けて微笑んだ。
「『戦ってるわけでもあるまいし』」
その言葉が空気を裂いた瞬間、ロキの手足が吹き飛んだ。
悲鳴が広間を満たし、貴族たちは息を呑む。血が床に広がり、空気は完全に止まった。
「次、お前」
リュシアの指が、指揮官ザイクを捉える。
「ひっ、な、なんだ、この化物!」
ザイクの顔が引きつり、声が裏返る。
リュシアは爆笑した。その笑いは冷たく、広間の空気を凍らせる。
「おい、そこの阿婆擦れ。鏡を貸してやれ。見てる間、裁きを保留してやる」
エルミナが震える手で、手鏡を差し出す。その指先は白くなり、形のいい唇は引きつっていた。
「お前」
リュシアの視線は、副官ドランへと移る。
「その貴族のカツラが、どこまで飛ぶか。飛ばして見せろ」
「ひいいい! や、やめてくれ、頼む!」
貴族の叫びも虚しく、ドランの手が振るわれる。
──パサーン。
カツラが宙を舞い、床に落ちると同時に貴族の悲鳴が響いた。
「ぎゃああああ」
「お前」
次に指されたのは、兵士ベイルだった。
その瞬間、ベイルの体がペチャンコになり床に沈んだ。
骨の砕けた音だけが遅れて残った。
「『とっととこい。いつまで寝ている』
……聴こえてないな」
聖女が、首を捻る。
広間は沈黙に包まれた。
誰もが床に這いつくばり、女王の指が次に誰を示すのか、を恐れていた。
玉座の上、彼女は静かに頬杖をついたまま、裁きの帳をめくった。
「お前」
リュシアの指が、震えるエルミナを捉えた。
広間の空気が一瞬で冷え込む。玉座の上から見下ろすその視線は、強い光を帯びていた。
「ひっ! わ、私は悪くない! 全部セイラン殿下に命令されただけ! 王族だから逆らえなかった」
エルミナが叫ぶように言い訳を吐き出す。
だがその声に、セイランがすぐさま反応した。
「何だと?! 逆だ! 俺は、こいつから指示されていた」
「何ですって? 私が、いつ指示したっていうの? 全部あなたが決めたんじゃない」
「お前が唆さなければ、こんなことにならなかった! お前のせいだ!」
「あなたが悪いんじゃない!
『結婚しないと聖女を利用できないから』って。『王太子になるには、聖女の力が必要だから』って」
「黙れ」
リュシアの声が静かに響いた。
だが、セイランとエルミナは互いの罪を押し付け合うことに夢中で、その声を聞いていなかった。
次の瞬間、2人の顔が激しく歪んだ。
「ぎゃああ! 顔が……顔が」
悲鳴が広間を裂く。
皮膚が焼けるように痛み、視界が揺れる。
リュシアは、冷たく言い放った。
「私は、お前達に発言を許可していない。 命令していないことをするなら、次は鼻と舌がなくなるぞ」
セイランとエルミナは沈黙した。
広間の空気が凍りつき、誰もが息を潜める。
「お前」
再び指されたエルミナは、震えながら顔を上げた。
「服を脱いで外に出て、今まで私にしたことを全て大声で叫べ。その間は止血しておいてやる」
リュシアが手を軽く振ると、エルミナの傷口から流れていた血がぴたりと止まった。
その静けさは、まるで処刑台の前の風のようだった。
エルミナの瞳に映る鏡の中、自分の顔はもう“美”ではなかった。
それは、罪の記録だった。
リュシアの指がゆっくりと向きを変え、セイランを射抜いた。
玉座の前、血に濡れた石床が鈍く光る。
「お前」
「そこの蛆虫の腹を捌いて、内蔵を1つ1つ出せ」
セイランの体から流れていた血が、命令と同時に止まった。
彼は、ぐっと膝に力を入れて立ち上がる。
手には剣。刃の先がわずかに震え、視線はリュシアとザイクの間で揺れた。
斬るのは誰か。迷いは、英雄の仮面をはがす音に似ていた。
「いいことを教えてやる。私の能力は治癒ではない」
広間にざわめきが走る。貴族たちの喉が乾いた音を立てた。
「なぜ私が5年間、戦場にいたかわかるか?」
リュシアは視線を巡らせ、さっきカツラを奪った貴族を指差した。
貴族は痙攣する口で、言葉を探す。
「ひっ、い、あ、え、聖女様だからです」
リュシアは爆笑した。
笑いは涼しく、刃より速く会場を横切って沈黙を切り裂く。
「聖女というのは、お前達が勝手に呼んだのだろう。私は、自分のことを聖女だなんて言ったことはない 。
皆私の力を勘違いしてる 。
私の能力は治癒ではなく"怪我を預かる"だ」
その言葉に、床へ伏した者たちの顔が一斉に上がった。
恐怖は理解へ、理解は絶望へ、段階的に色を変えていく。
「つまり、いつでも返せる 。しかも返す相手は、預かった本人じゃなくていい 。
これが私が戦場にいた理由」
セイランの剣先がゆっくりと下りた。
命令と恐怖の間で揺れながら、彼は自分の喉元に絡みつく沈黙を噛んだ。
ザイクは後ずさり、足を滑らせる。
広間の空気は重く、音も熱も、すべてが“返却”の言葉に従属していた。
リュシアの目は淡く光り、5年分の痛みの帳が静かに開かれていた。
その頁には、名と行為と日付が、誰より正確に記されている。
返すべきものは、まだいくらでもある。
シグルドが震える手を押さえ、書類を差し出す。
「お待たせいたしました。こちらが書類です。王印が入れば完成です。
慰謝料ですが、すぐ金貨で全額用意するのは難しく、宝物庫の財宝を売るしか……」
王が顔を真っ赤にして割って入った。
「何を寝ぼけたことを! 先祖代々の秘宝を」
「しかし、国家予算5年分の現金を用意するには」
シグルドの声が震える。言葉は冷たい算段を示しただけで、情に欠けていた。
「バカを申すな。祖先にどう顔向けするか」
王は鞭のように言い放ち、貴族たちの視線を集めた。だが、その視線はもはや守るべきものを持たない。
「良い。ならば国を滅ぼしてやる。あの世で祖先と話し合え」
リュシアの声は静かで、だがその言葉は刃のように広間を切り裂いた。
彼女が手を挙げると、王宮のあちこちから悲鳴が上がる。
「ま、待ってくれ、そ、そなたには人の心が無いのか」
王の声は喉に詰まり、震える。
リュシアは笑った。冷たい、希薄な笑いだった。
「おい、手鏡をこの豚に」
ザイクのところにあったエルミナの手鏡が、震える手によって王へ差し出される。
王は手鏡を受け取り、己の顔を確かめるように覗き込む。
だがそこに映るのは威厳ではなく、虚栄の殻だけだった。
「お前は王を名乗るだけで、怪我を預かることも、人を説得することも、息子をまともに育てることも、何もできない無能なゴミだ。お前のような無能なゴミの祖先もまたゴミである。いったい何の顔を向けるんだ?
たった1人の少女に依存しないと勝てない戦を始めて、その少女を多勢に無勢で虐げた犯罪者になった、という報告か。滅びろ」
言葉が放たれると、広間の空気が凍りついた。王は手鏡を握りしめ、顔がひきつる。周囲の貴族たちは視線を落とし、口を閉ざした。
リュシアの言葉は赦しを与えるものではなく、長年溜め込んだ清算の宣告だった。
王の胸の奥で、誇りと権威が音を立てて崩れていく。床に散った金箔が、かつての栄華の残像のように煌めいた。
リュシアが静かに立ち上がった。玉座の影が長く伸び、彼女の足元に集まるように広間の空気が沈黙する。
「小切手で良い。今すぐ書け。3日後に換金できなければ、国を滅ぼす。
お前と、お前」
彼女はセイランとドランを指差した。
ざわめきが広がる。貴族たちの顔が青ざめ、誰かが椅子を倒す音が響いた。
「これらはペットとして連れていく」
広間の空気が凍りつく。誰もが耳を疑った。
だが、リュシアの声は揺るがない。
「四つん這いになってついてこい。私を見下ろすことは禁ずる。返事は“ワン”だ。
以後、人間の言葉は口にするな。生意気だから」
セイランの顔が引きつり、ドランは膝をついた。
外では、エルミナが裸で泣き叫んでいる。声はかすれ、磨き抜かれた足には泥がついている。
「外で叫んでる裸の無駄な豚も連れていく。では行くぞ」
リュシアは1歩、踏み出す。
その背に、国の罪と痛みが静かに引きずられていく。
誰も止められない。誰も赦されない。
彼女が歩いた先に残るのは、記録された怪我と、返却された裁き。
そして、滅びを待つ王国の静寂だった。
□完結□




