過去からこんにちは
ある夜、森の中。風に揺れる草木のざわめき、枝が折れる音。虫の鳴き声や鳥の羽ばたき。それらとは明らかに異なる、不気味な音が響き、男は手を止めた。耳鳴りのようなその音は徐々に大きくなり、やがて激しい光とともに周囲を包んだ。思わず仰け反り、男は顔を手で覆う。
やがて光が収まり、森に静寂が戻った。しかし、男のすぐそばには奇妙なものが残されていた。それはまるで石炭ストーブのような形をした、大きな鉄の塊だった。
「なんだ、これ……。急に現れたけど、宇宙船か? いや、でも空から落ちてきた感じはないな……」
そう呟きながら空を見上げた瞬間、ギイイ……と、扉が開く音がした。
「おっ、これは驚いた。こんな場所で人に会うとはな」
「えっ」
男は思わず声を上げた。暗がりの中、その鉄の塊から老人が現れたのだ。
「あの、あなたは、それにこれはいったい……」
わけがわからず、パニックになりかけている自分を抑えつつ、男は質問を投げかけた。
すると老人は少し胸を張って言った。
「これはタイムマシンだ」
「タ、タイムマシン……。そんな、信じられない。いや、でも本当だとしか……」
「ああ、本当だ。私は過去からこの時代にやってきたんだ」
「過去から……え? 過去?」
「ん?」
「過去から?」
「そうだ、過去からだ」
「過去?」
「そうだ」
「カコ?」
「だから過去だ。何回聞けば気が済むんだ」
「いや、タイムマシンって言うから、てっきり未来から来たのかと……。でもまあ、そういうこともあるか……。タイムマシンを作っても公表する義務はないし、過去に天才が密かに開発していてもおかしくはないですね」
「そういうことだ。それで、今は何年の何月だ? 私の計算によると二か月先の未来に到着したはずなんだが」
「ああ、今は……えっ、二か月? 二か月前から来たんですか!? どうして!?」
「そんなに驚くことか? タイムマシンが完成したら、未来を見たくなるのが人情だろう」
「いや、それならもっと遥か先の未来に行くでしょう! なんでたった二か月先に!? 過去ならまだしも……。あっ、もしかしてすでに行ってきたあとですか?」
「いや、このタイムマシンの性能上、二か月先までが限界なんだ」
「あ、そう……」
「知りたいか? こちらの時代の話を」
「いや、知ってますよ。過去だから。それに、二か月前なら割と覚えていますし……」
「それで、この時代はどうなっているんだ?」
「いや、二か月前とあまり変わらないと思いますけど……」
「ふーん、そうか」
「はい……いや、何をしに来たんすか」
「さっきからなんだ、その微妙な反応は」
「そりゃそうでしょう。期待して損した気分ですよ」
「知るか。そっちが勝手にここにいたんだろう。人のいない場所を選んだつもりだったのに、こっちが驚かされた。まったく、少子化問題は解決したようだな。未来の世界は、どこもかしこも人だらけか」
「いや、たった二か月で解決できるわけないですよ。わかるでしょ」
「景気は回復したか?」
「二か月じゃ無理でしょ。絶賛インフレ中ですよ」
「クソッ、また私の貯金の価値が下がったか!」
「別に嘆かなくても、タイムマシンがあるんだから、あ、そうか。株や競馬や宝くじの未来の情報を持ち帰れば……」
「そうだ、ようやくタイムマシンの偉大さに気づいたか。まあ、そんなことはやらないけどな」
「え、どうしてですか? かっこつけてるんですか?」
「違う。過去を変えてしまうと、未来に多大な影響を及ぼすことになるからだ。そして、それは後に世界の破滅に繋がるかもしれない……」
「あー、バタフライエフェクトとかなんとかですか?」
「そういうことだ。宝くじ当選者の当たりくじを横取りしたら、少なくとも人ひとりにすぐに影響が出てしまうわけだろう」
「それはそうかもしれませんけど……でも、競馬や株はあなた一人くらい儲けたところで、あまり影響が出ないのでは?」
「まあな。だからそういった情報を持ち帰ろうと思っている」
「なんなんですか。結局かっこつけてたんじゃないですか……」
「うるさいな。タイムマシンの製作にはかなり金がかかったんだ。費用を回収しないとな。まあ、それでも慎重に事を運ばないとどんな影響が出るかわからないがな……それにしても、だから人目につかないように、タイムマシンの座標をセットしたのだが、君はなぜこんな夜中に森の中にいるんだ? 遭難でもしたのか?」
「……いえ、実は、つい最近妻を事故で亡くしまして」
「ああ、それはお気の毒に……まさか、君は自分の妻の後を追いに、でも、そこにあるのは……」
「それで、タイムマシンは過去を変えられないんですよね? たとえば、僕がそれに乗って過去に戻り、妻の死を阻止することは……」
「ん、ああ……残念だが、それは無理だろう。君の妻の死はすでに時の流れに組み込まれている。たとえ救えても、後で帳尻を合わせるように別の形で運命が訪れるだろう。過去を変えるというのは難しい。そもそも、このタイムマシンは一人乗りで、君を連れて行くわけには、あ、な、何を、やめるんだ! 奪っても操作の仕方がわからないだろう、あ、あ、あ、まさか、君が殺し――」
「だから、未来を創るんですよ。僕にとって安心できる未来をね」
男は手に取ったシャベルを老人の頭に振り下ろしたあと、そう言った。老人の動きが完全の止まるまで、森の中に鈍い音が響き続けた。
やがて森に静寂が戻ると、男は後ろを振り返り、思った。
もっと穴を大きくしなければ。忌まわしい過去を埋めるために……。