もう自由なんていらない
行方知れずのシド先輩の居場所が分かった。隣町にある建設会社の、窮屈な作業員宿舎に身を潜めているらしい。出先でたまたまシド先輩を見かけた楽器屋の店主が、僕に知らせてくれたのだ。
おいおい、シド先輩、そんなところに隠れていやがったか。まったくよお、何があったかはしらないが、人から借りた金は返せよな。半年前に貸した十万円、今日こそはきっちり耳を揃えて返してもらうぜ。トンズラなんて絶対させねえからな。必ず取り立ててやるからな。僕は、鼻息を荒くして、その建設会社を訪ねた。
シド先輩は、五つ年上の地元の先輩で、かつてのバンド仲間だ。僕が未成年の頃、彼からロックバンドを組みたいと人づてに誘いがあり、駅前のスタジオで出逢ったのが付き合いの始まり。手前味噌だが、当時僕は地元のアマチュアバンド界では、名の知れたギタリストだったから、ロックキッズの噂を嗅ぎつけたのだろう。
出逢った時、彼は既に「シド先輩」という奇妙な愛称でまわりから呼ばれていた。セックスピストルズというイギリスの伝説のパンクバンドに在籍したベーシスト「シド・ヴィシャス」に容姿や生き様が似ているというのが愛称の由来らしい。たしかに彼の素行は極めて悪く、絵に描いたような性格破綻者だったし。偉そうに人をバンドに誘っておきながら自分はギターもドラムもからっきし出来ないし。じゃあ歌のほうはというと、これがまた同情するほどの音痴だし。なるほど往年の「シド・ヴィシャス」を彷彿とさせる人物であり、シド先輩という愛称は言い得て妙であった。
寮母さんに案内をされて「鈴木善範」という名札が貼られた部屋を覗く。鈴木善範……マジかよ、これがシド先輩の本名? 善の模範って、いやいや、豪快に名前負けしとるがな。
彼は、四畳半一間の一室に、タトゥーだらけの体を扇風機に晒して、パンツ一丁でごろ寝をしていた。人の気配に気付き、慌てて正座をし、ダルダルになるまで履き込まれたブリーフの横っちょからはみ出した睾丸を、急いで中に収める。
「なんだよ~、ジミーかよ~。まったく、驚かすなよ。俺は、てっきり番頭さんがいらしたのかと思ったぜ。……ってか、うおおおおおおおおおおお、ジミーが何故ここにいいい?」
鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして、大袈裟に奇声を上げる。会った瞬間からどっと疲れるこの感じ。相変わらずだなあ。
「捜しましたよ、シド先輩。こんなところに隠れていたとは驚きです。さあ、半年前に僕が貸した十万円、今すぐ返して下さい」
「はて、ジミーから借りた十万円? う~ん、いったい何のことだ?」
「とぼけないで下さい! 田舎の母親が急病で倒れた、でも実家に帰る金がないとか何とか言って、僕から借りたでしょうが!」
「あ、思い出した。そんなこともあったな。ごめんなジミー、田舎の母親が急病、あれは真っ赤な嘘だ。俺は、ただ目先の遊ぶ金が欲しかっただけ。あんなはした金、飲み食いと風俗通いで、三日で消えちまったよ」
「あ、呆れた。ざけんじゃねーよ! 人の誠意を踏みにじるのもいい加減にしろ!」
「……ジミー、悪いなあ。本当に申し訳ねえなあ。でもよお、金返せって言われてもよお、無いものは無いんだな、これが」
そう言うと、シド先輩は、瞬きすら惜しむかのように、俺の目を見詰めて、はらはらと泣きはじめた。開き直って逆上をして、この場で僕をボコボコにするという展開を想定していたので、少々肩透かしを喰らってしまった。勝手にお邪魔をしているのは僕のほうだが、シド先輩がずっと正座をしたままだったので、とりあえずこちらから足を崩すことを勧め、ついでに扇風機を首振りモードにしてくれと頼み、それから、シド先輩がこの状況に至るまでの経緯を尋ねてみた。
「どうもこうもないさ。フィリピンパブのホステスに誘惑されちゃって、ついつい抱いちゃって、まさかの妊娠させちゃって、中絶をしたいと泣きつかれちゃって、反社から金を借りちゃって――」
「ちょ! ちょ! ちょ! ちょっと、ストップ! 奈落の底に落ちるにせよ、もう少しゆっくりお願いします。破滅への展開が、目まぐるしくて付いて行けません。え~っと、差し当たって気になったのは、そのホステスが、本当に妊娠しているという証拠は?」
「だって、泣いたもん。俺の前で」
「だ、か、ら、その咽び泣くホステスのお腹の子が、シド先輩の子だという確固たる証拠はあるのかって聞いているの」
「証拠? だ、か、ら、彼女の涙」
「おっと、こいつは二つの意味でおめでたい」
「俺、そのホステスに、子供を産んでくれってお願いをした。結婚する気はさらさらないけど、子供はぜひとも産んで欲しい。産んだ子供は俺にちょうだいってね。俺、こう見えて意外と子供好きなんだぜ。ところが、そのホステスときたら、なんだか知らないけれど、頑なに中絶すると言って聞かない。らちが明かねえから、俺、手術代をくれてやったよ」
「いくら?」
「二百万円」
「にひゃ、にひゃ、二百万!」
「感心するぐらい親切に貸してくれる反社から借りたのさ。あまりに親身になってくれるから、俺は彼らの将来を案じて逆にアドバイスをしてやったよ。あなたがた、お人よしもほどほどにしなさい。こんなきっぷのいい貸し方を続けていたら、いずれ破産してしまいますよってね」
「迷うことなく、我が身を案じろ!」
「それから、そのホステスに、『ワタシ、故郷二帰リタイ、オ金、モットモット必要デス』なんて泣きつかれちゃってさ」
「オマイガッ。渡したのか。まさか、またお金を渡したわけではあるまい」
「渡した。もう三百万円」
「さんびゃ、さんびゃ、さんびゃ。合計、ごひゃ、ごひゃ、ごひゃ」
「あのホステス、今ごろ、故郷で幸せに暮らしているといいのだけれど」
「そのホステス、今ごろ、別の店で、札束を数えながら、シド先輩のことを、せせら笑っていなければいいのだけれど」
「でさ、仕事なんてまともにしてねえから、借りた金を返せる筈がねえじゃん? 返済をしばらくシカトしていたら、なんと、反社の連中に拉致されちゃってさ。金を返す気がねえならテメエの角膜や臓器をもらって海外に密売する、なんて集団で脅しやがるからさ、俺、かっとなってそいつら殴っちゃって、ナイフとか振り回しちゃって、ちょっとその後のことはよく覚えてねえんだけど……とにかくそこから逃げて、そんで、なんだかんだで、今はこのタコ部屋で身を隠しつつ、日々建設現場で汗水垂らして働いているってわけさ――あれ? やばい。やばいなあ。おい、ジミー、俺、やらかしちまったのかな? 俺の人生、どうやら今度という今度は、盛大にやらかしちまったみたいだなコリャ?」
「よっ! 断トツ! 首位独走! 見事にやらかしちゃいました! 僕は、あなたにクラッカーを打ち鳴らしたき衝動を禁じ得ない!」
シド先輩から反論がない。長い沈黙が、作業員宿舎の一室を包む。僕の全身全霊の皮肉も、シド先輩の耳には念仏だ。彼が感覚だけで生きている人間だということは重々承知をしているつもりだったが、それにしたって、あまりの馬鹿さ加減に、もうかける言葉が見当たらない。
「……あれれ? おいおい、ジミー。お前、ひょっとして泣いているのか?」
「ななな、泣いてないっすよ!」
「俺のために、涙を流してくれるのかい?」
「やめろ、おちょくるな!」
理由のよく分からない涙が頬をつたう前に、潤んだ眼球を、扇風機で乾かす。
「シド先輩。逃げるなら、もっと遠くに逃げなきゃダメっすよ。反社の追手に見つかるのなんて時間の問題、地元付近に身を潜めているのは、はっきり言って自殺行為です。いっそのこと銀河を離れ、イスカンダルまで飛んで行け」
「違う、違う、そうじゃない、そうじゃないんだジミー、聞いてくれ。俺は、ここで真面目に働いて、借金を返す決心をしたのさ。もちろんお前から借りた十万も、いずれきっちり返すつもりだ。本当だよ。信じてくれ。――俺、ここへ来てからずっと考えていたんだ。自由とは何だろう、ってな。なあ、ジミー。自由って、いったい何だろうなあ」
「……なんですか急に、気味が悪い」
「俺は、ガキの頃から、テレビや映画や音楽から垂れ流される自由ってのが、大嫌いだった。俺は、騙されないぞ。こんなもの、絶対に自由じゃない。テレビや映画や音楽から垂れ流される自由なんて、しょせんは自由の真似事だ。本当の自由ってのは、理屈じゃない。自由に理由なんていらない。自由とは、かしこまって論じ合うようなものでも、戦って勝ち取るようなものでもない。違う。絶対に違う。俺はそう信じて、この体の衝動や欲求のまま、その瞬間の自分が赴くままに生きてきた。
たとえば、人を殴る。すると、世間のやつらは、決まって俺にこう質問をする。どうして殴った? いったい何が気に入らなかった? いやいや、理由なんてないさ。俺はただ殴りたかった。ただそうしたかった。
たとえば、物を盗む。どうして盗んだ? 生活に困っているのか? むしゃくしゃしていたのか? 本当にみんな分かってねえなあ。理由なんてあるはずがない。ただなんとなく盗みたかった。それだけさ。だって、自由だもん。俺は、自由だもん。
喰いたい時に喰い、遊びたい時に遊び、犯したい時に犯す。そんな生活を続けていると、俺は、だんだん自分がケダモノに成り果てていく気がした――」
「シド先輩。お言葉ですが、それはケダモノに失礼です。あいつらは厳しい野性の掟の中で懸命に生きています」
「――そうか、そうだよなあ、ジミーの言う通り、俺はケダモノ以下。さしずめ地獄の餓鬼。酒やドラッグやセックスに溺れ、自由を暴飲暴食して、なのにずっと腹ペコなのさ。自由だ! 自由だ! どいつもこいつも見ろ、俺様は自由!……結局、俺の人生って、無人島で一人ぼっちでそう息巻いているようなものだったのかなあ。叫んだところで返事はない。俺を相手にするやつなんて、もう誰もいない。だって、ここは無人島。群衆の海に浮かぶ孤島だから。
なあ、ジミー。俺は、もう自由なんていらないよ。自由なんて、もうウンザリだよ。俺は今、猛烈に何かを強いられたい。ただならぬ苦役に服したい。ジミー、一生のお願いだ。ほら、お前にこの両腕を差し出すよ。どうか俺に手錠を掛けてくれ。どうか俺から自由を奪ってくれ」
……駄目だ、この人は、もう手遅れだ。もう何も聞きたくない。これ以上こちらの感情をなぶらないでくれ。僕は、心の耳を塞いだ。
「シド先輩、溜まりに溜まった自由のつけは、必ず回ってきます。本当にもっと遠くへ逃げなくてよいのですか?」
「ああ、俺は、もう逃げないぜ。きっちり精算を済ませるつもりさ。安心しろジミー。お前から借りた十万も、ここでコツコツ働いて、いつか必ず返すからな」
「いや、あのね、僕の十万なんて、もうどっちでもいいですよ……シド先輩、僕はね、場末のライブハウスで、シド・ヴィシャスの真似をして『マイウェイ』を歌っていたあの頃のあなたが好きだった。あの頃のあなたはカッコよかった。同じステージでギターを弾きながら、僕はあなたに憧れていた。シド先輩、なんと言うかその、とても残念です……」
そう言い残し、僕は、作業員宿舎を後にした。
それから一週間後、作業員宿舎から一キロほど離れた場所を流れる川の河口で、シド先輩は上がった。人づてに聞いた噂なので、真偽のほどは定かではないが、ぶよぶよに膨れたその水死体に眼球はなく、胸部や腹部は大きく切り裂かれ、まるで包丁でハラワタを出した魚のように、あらゆる臓器が抜き取られていたと言う。
精算を済ませたのだ。