猫についていた隠しカメラを好奇心で見たら……
カリカリっと窓から音が聞こえてきた。見るとすりガラスの窓から茶色の丸みを帯びた物体がいた。茶トラの猫『ニャーゴ』だ。
ニャーゴはフラフラッと気まぐれにやってきて、こうやってすりガラスを引っ掻いてやってくるのだ。窓を開けるとスルッと入ってきて、俺の足をスリスリする。早くご飯をおくれとばかりに。
ニャーゴは野良猫のようで俺のようなご飯のお世話してくれる猫好きの家を回っているようだ。
「ニャーゴ、チュールだぞ」
チュールの袋を見せるとニャーゴは目を見開いて、早く寄こせとばかりに俺の足をガシガシ前足でひっかく。ジーンズを履いているとはいえ、ちょっと痛い。
器にチュールを出してあげると、ニャーゴはすぐに食べ始めた。夢中で食べるニャーゴの姿を愛でていた所、首に何かついていた。
「あれ? ニャーゴ、お前、ついに家猫になったのか?」
なんとニャーゴにはオレンジ色の首輪がついていたのだ。しばらく見ないうちに誰かに飼われるなんて、ちょっと驚きだ。ただその首輪はちょっと重かった。
「……ニャーゴ、お前、その首輪は重くないのか?」
首をかしげるニャーゴの首輪を見ると下に丸みを帯びた長方形の物が見えた。プラスチックのようでプレートには見えない。
なんとなく邪魔じゃないのかな、猫って首輪が好きじゃ無いって言うし。だがニャーゴは邪魔に思っていないようで、つけているのも忘れているくらい気にしていなかった。
ニャーゴは美味しかった、撫でさせてやろうとばかりにお腹を出して寝っ転がる。猫好きの人間にとってはご褒美である。俺は存分にモフモフした。
その時、ニャーゴの首輪についていたプラスチックの物がポロッと取れてしまった。
「あ! 取れちゃった!」
再びつけようとするとニャーゴは嫌がり、スルッと逃げてしまった。
ニャーゴはチラッと俺の方を振り向くと、入ってきたすりガラスの窓から帰って行った。
「それにしても何だろう? これ?」
俺はあらためてプラスチックの物を見た。よく見ると小さなレンズが入っていたのに気が付いて、背筋が凍った。
え? もしかして……と思い、継ぎ目を見つけたのでちょっと力を入れたらパカッと開いた。
中には色のコードとレンズが付いた黒い小さな機械はあった。機械に詳しくないけど俺だけど、なんとなく分かる。
多分、これは隠しカメラだ。
*
「お前が監視されてる? ストーカーされてる? そんなわけないだろ!」
大笑いしながら友人の鈴木がスマホを操作して、とあるネットショップのサイトを見せてくれた。それはニャーゴが首輪につけていた物と似ていた。
「ほら、猫の世界が見れるカメラ。ネットショッピングとかに売っているんだよ。動画サイトにも、そういった映像が載っているぜ」
「はいはい。俺はセレブリティな物なんて知りませんよ」
次の日、俺はニャーゴの首輪に入っていた隠しカメラを持って通っている大学に行き、授業前に友人の鈴木に相談した。不安で恐ろしくて俺にとっては大事件だったのに、鈴木は大爆笑で済ませてしまった。
俺もスマホで『猫 首輪 カメラ』で調べて見ると動画やネットショップのサイトがズラッと並んだ。猫に隠しカメラをつけてどうするんだと思ったが、使用目的に留守番の時の様子を見るなどがあった。
なるほど、ペットカメラ的な役割をしているのか、それならつける理由はなんとなく分かる。
「だとしたら、ニャーゴはセレブの家の猫になったのか。それでも俺の所にやってくるなんて。良い子だよ、ニャーゴ」
「うーん。もしくは逃げ出したのかもね。元野良猫だから」
鈴木が「ニャーゴってどんな猫だ?」と聞いてきたので、俺はすぐさまスマホからニャーゴの画像を出した。茶トラの毛とまん丸な瞳、カギ尻尾なのがチャームポイントの可愛い猫なのでついついいっぱい撮ってしまう。
「いや、多いな。そんなに撮るのかよ」
「チュールをあげると、撮ってもいいぞってばかりにポーズを取ってくれるんだ。あとお触りもさせてくれる」
「随分と貢いでいるな、その猫に」
人間相手だったらドン引きされるだろうが、ネコだから許されると思う。
俺の自慢のニャーゴの愛らしい画像をもっと見せようとした時、「あ」と女の子の声が背後で聞こえた。
俺達がパッと振り向くと気まずそうな顔で目を逸らした柚野さんが居た。どうやら後ろから俺のニャーゴの画像を見ていたようだ。
「ごめんなさい。可愛い猫だったから、つい見ちゃった」
申し訳なさそうに言う柚野さんだったが俺は別に構わない。むしろ見て欲しいと思い、柚野さんにニャーゴの画像を見せてあげた。
「わあ、可愛いね」
「でしょう。たまに俺のアパートにやってくるんです」
柚野さんは興味津々でニャーゴを見てくる。癖のない黒い髪、薄い化粧でも映える目鼻だち、華奢な体を包むのは真っ黒なレースのワンピース、手を見ると可愛らしい黒猫のネイルをしている柚野さん。俺達と同じ授業を受けているのだが、誰もが認めるくらいの美人さんだ。
「見せてくれてありがとう」
しかも、こんなに綺麗なのに礼儀正しく、優しいのだ。柚野さんがほほ笑み、お話しをしてくれるならニャーゴの画像なんてどんどん見せるよ!
「おい、お前。鼻の下、伸ばしすぎ」
柚野さんと話しを終えると鈴木が小声で注意する。俺は「うるさい」と言おうと思ったが、講師が入ってきたので睨んだ。
俺はか細い声の講師の話しを聞き、必死にノートに書き写していた。だが隣の席の鈴木が勝手に俺のノートの隅にメッセージを書いていた。
『猫がついていた隠しカメラを見せて』
授業中だぞ! そして俺のノートに書くな! と思ったが、俺は素直に隠しカメラを出して渡した。
鈴木は隠しカメラを机の下で観察すると、再び俺のノートの隅にメッセージを書いた。
『しばらく、この隠しカメラを貸してくれ』
『その前に俺のノートをメッセージ代わりにするな!』
『だって授業中だし。もしスマホでメッセージを送ったら、没収されるだろ?』
仕方がないだろと言わんばかりに俺の方を見てくる。仕方がない。俺は『早く返せよ。警察に渡そうと思うんだから』と書いた。
鈴木はお茶目な絵文字と『分かってる!』と書いた。
お昼休みになり、鈴木と一緒にカフェで飯を食べる。もちろん俺はお洒落なカフェのメニューを頼まず、自分で作ったおにぎりを食べる。本来ならメニューを注文しない俺はカフェで食べる権利なんて無いのだが、連れの鈴木はカルボナーラを頼んでいるので多分大丈夫だ。
カルボナーラを優雅に箸で食べながら「あの隠しカメラの映像、見れるかもしれない」と言いだした。
「はあ? そういうのって、飼い主がアプリを介してパスワードとか打って見れるんじゃないのか?」
「まあ、聞け。あの隠しカメラの中身がヤバい物だった」
「隠しカメラ自体がヤバいものだろ」
「そうじゃないんだ。あのカメラが入っていたケースは確かに海外のメーカーが作っている猫の監視用のカメラだ。位置情報とかも分かるようになっていて迷子対策もきっちりしている商品だ。だがカメラ自体はヤバイサイトで売っている盗撮用のカメラのみなんだよ」
「え? どういう事?」
「もしかしたら、ニャーゴはセレブの飼い猫になったんじゃないかもしれないって事」
そう言いながらお蕎麦のようにカルボナーラを啜る鈴木。唇に着いたソースを舐めながら、更に言う。
「海外のメーカーの商品の録画時間は数時間だが、盗撮用カメラは三日くらい記録が残せる。もしかしたらニャーゴは犯罪組織や変態に付けられて犯罪の片棒を担いでいるかもしれないんだ」
「むう、ニャーゴの可愛さに付け込んで悪い事をするとは最悪な奴らだ。早く警察に届けよう」
「いや、その前に俺達も見よう!」
鈴木の言葉に「いや、なんでだよ!」と突っ込んだ。
すると鈴木は子供のようにワクワクした笑みを浮かべて口を開いた。
「だって猫が見ている世界を体験できるんだぜ。映画製作のインスピレーションになりそう」
「お前が所属する映画研究会の題材にするのかよ。と言うか、そういう番組とか映画とかあるだろ、『猫歩き』とか」
「あれは異常に猫に好かれる中年男性カメラマンの目線だ。だけどこれはニャーゴの目線だぞ。面白いし、興味があるだろ?」
「別に面白そうとは思えない。好奇心は猫を殺すって言うし」
とは言ったが、ニャーゴは俺以外にも餌をもらっていたようなので、どんな人がニャーゴを可愛がっているのかちょっと気になった。そしてどこに行き、どこへ帰るのだろうか?
その気持ちを鈴木は察したようで「ねえ、面白そうじゃん?」ともう一度、聞いてきた。
俺は猫すら殺す好奇心に勝てなかった。
*
早速、鈴木は映画研究会の先輩にニャーゴの隠しカメラについて話したら、俺も見たいと仲間に加わった。それからその先輩がいろんな人を誘って行き……。
「おい、鈴木。なんでニャーゴの隠しカメラで二十人以上の人間が集まるんだ?」
「みんな、猫が大好きなんだよ」
「いや、あの先輩の発信力のせいだよ!」
どんだけいろんな人に誘ったんだよ。しかも女子多めである。ちらっと女子の会話を聞いて見ると「松木先輩が撮ったらしいよ」「猫の首輪にカメラをつけて撮ったみたい」「松木先輩ってすごいよね」とか話していて驚いた。
「ちょっと待った! なんで松木先輩が撮ったって事になっているの?」
「悪い、話しを合わせてくれ」
鈴木は両手を合わせて謝る仕草をした。
鈴木曰く、松木先輩は家がお金持ちのようで映画研究会に最新の機材や多額の会費を出している上に、家族が所有する別荘なども貸し出しもしている。だから映画研究会はかなりお金に余裕のある会となっている。毎回、文化祭で上映される映画はかなり豪華だ。
だが機材を借りる時は絶対に松木先輩の許可を取らないといけないと言う暗黙の了解があったりする。まあ、それは松木先輩が買った機材なのだから納得しないといけない。
更にイケメンの松木先輩に釣られて女子たちが大量に入会しているが、雑用は本気で映画を愛する鈴木や他の人しかやっていないのだ。
そう、松木先輩は映画研究会で大量の資金を出しているスポンサーだから、誰も逆らえない状況だ。こんな所で資本主義の残酷さを学ぶとは思わなかった。
映画研究会の部屋だと二十人以上も集まるといっぱいになってしまうので、大学の視聴覚室で見る事になった。本当はパソコンを鈴木と二人で見る予定だったのにな。こっそりと松木先輩を恨んだ。
視聴覚室を借りてきた鈴木がペコペコしながら松木先輩の所にやってきた。
「すいません、借りてきました。遅くなってすいません」
「ああ、ありがとう」
ヒラヒラと手を挙げて、松木先輩は女子たちと一緒に視聴覚室に入っていった。そして他の映画研究会の人達は映像を映し出す機器を黙々と運ぶ。おお、これぞ階級社会。
俺はあまり映画研究会の人と関わりたくなかったので、一番後ろの席に座った。
「そう言えば、柚野ちゃんは来ないの?」
邪鬼のない爽やかな笑みを浮かべながら松木先輩は女子たちに聞いた。すると女子たちの空気がちょっと変わった。
「スマホにメールで教えたんだ。柚野ちゃんって猫好きだし、話したいことがあって……」
「先輩って柚野の事が好きなんですか?」
「いや、そうじゃないよ」
「柚野って、大人しい子ですけど男好きですよ」
「昨日もフランス語の講師に媚び売っていましたし」
女子たちは松木先輩に柚野さんの悪口を言いまくっていた。なんだか聞いていて怖いような胸糞悪いような……。
そして金色の綺麗な髪の女子が「今日は学校にだって来れないよ、彼女」と笑いながら言う。あれ? 彼女は知らないのかな? 柚野さんは学校に来ているって事? まあ、大学って広いし学部が違えば会えないこともあるだろう。
女子たちが柚野さんの悪口大会を開いていると雑用の映画研究会の男性が「準備出来ました」と言ってきたので、松木先輩は「分かった」と言った。
「ああ、そこの君。電気を消してくれないか」
「あ、はい」
松木先輩の指示で俺は立ち上がった。俺も誰かに使われる立場の人間なんだな。まあ、貧乏学生だからな。
電気のスイッチを切る寸前、ドアが開いた。真っ暗な部屋に溶け込むように柚野さんが入ってきた。
柚野さんは一番後ろの席に座ったので俺も隣に座る。
「よかった、まだ始まっていない」
「そう言えば、松木先輩が探していましたよ」
「……なるべく、たくさんの人がいる所で先輩と一緒になりたくないの」
言いづらそうな感じで柚野さんは言う。多分、女の子達に陰口言われるから、行きたくないんだろう。
「でも松木先輩のお誘いは面白そうって思って。猫の視点ってきっと自由だろうなって」
「でしょうね。多分、『猫歩き』って番組みたいになるんじゃないのかな?」
「あ、知ってる。『猫歩き』」
小声でクスクスと笑いながら柚野さんは言う。
そしてスクリーンが明るくなり、いよいよニャーゴの見ている世界が広がった。
*
隠しカメラは最初、真っ暗な映像だったがすぐに明るくなった。そこは古びた空き家だった。畳は荒れて障子も無残に破れて、家具はボロボロだった。そこをニャーゴが住処にしているようだ。
空が光り始めて、ようやくニャーゴが動き出した。塀をひょいっと上って歩いていくとある家の裏口で座った。するとドアが開いて、老婆らしき人が器を持ってきた。
顔は映らないが老婆が器を置くとニャーゴは食べ始めた。朝ごはんはご飯とお味噌汁をかけた猫まんまのようだ。
その後は木の下で休んだり、スズメを捕まえようとしていたり、まったりとした空気が流れる。だが目線が低いので車が走ったり人が通り過ぎたりすると、その大きさにビビってしまう。
「巨人の世界にいるような気分ね」
「確かに。猫って大変だな」
そんな会話をしたのち柚野さんの方を見るとちょっとほほ笑んでいた。まるで愛おしいと言わんばかりの笑みだ。暗い部屋でスクリーンに照らされているから、余計に神秘的に映った。
猫の視点は新鮮な光景でみんなは見入っていたが、次第に飽きてきたようでスマホをいじっている人が増えてきた。
確かに道路に飛び出して冷や冷やしたり、散歩中の犬に追いかけられそうになったりとハラハラする映像があるが、音が無いので盛り上がりに欠ける。松木先輩が「ちょっと倍速しようか」が提案して、変化がない時は一気に早送り、何かがあったら倍速するようにした。
夕方になって駆け寄ってきた小学生を避けたり、サラリーマンに蹴られそうになったりと人間の関りが多くなってきた。
夜になると見慣れた風景が広がってきた。そしてある真っ暗になったアパートの窓が映ると、思わず「あ、俺の部屋」と呟いた。餌をもらいに来たんだろう。
柚野さんがちょっと笑って「あそこ、君の家?」と聞いてきた。
「あ、うん。そうなんだ。時々、やってきてチュールをあげているんです。多分、この日の俺はバイトしていたと思います。悪いことしちゃったな」
「大丈夫だよ」
柚野さんはニコニコ笑ってそう言った。
柚野さんの言う通り、気の利かない俺の部屋を離れて自然公園の方に向かって行く。遊具はなく、ただ林と池とベンチくらいしかない場所だ。子供はそこでゲーム機を持ってきて公園で駆け回らず、ひっそりと遊んでいる。
街灯の灯りがあるが、全体的に真っ暗だ。そして街灯が隣にあるベンチに誰かが座っていて、ニャーゴはそちらに向かって行く。
「あれ? 柚野さん?」
ベンチにいたのは黒い髪の女性で顔は見えないが雰囲気的に柚野さんに見えた。みんなも「あれ? 柚野じゃない?」「柚野だ」と口々に言う。
俺は隣にいた柚野さんを思わず見ると、彼女は「うん、私だよ」と言った。
「私もあの子にご飯あげていたんだ。だから朝、君の見ていたスマホの猫があの子に似ていたから、ちょっと反応しちゃったんだ」
柚野さんは「あの子はなんて呼んでいるの?」と聞いてきた。
「ニャーゴです。最初に会った時、そう鳴いていたんです。面白みもないですよ」
「私の方こそタマって呼んでひねりが無いよ」
画面を見ると柚野さんが置いた猫缶を夢中で食べるニャーゴ。俺よりも知り合いが多くて、ちょっと羨ましいと思った。
「私、猫になりたいな」
柚野さんの方を見ると羨ましそうな顔をしていた。
突然現れた柚野さんにちょっとざわついたが、すぐに静かにスマホをいじっている。多分、ニャーゴの見ている世界をじっと見ているのは俺と柚野さんだけだろう。
やがてニャーゴは猫缶を食べ終わり、スルスルッと公園を出て行って朝寝ていた空き家に入り、寝たようだ。
*
ニャーゴが起きるまで一気に早送りした後、次の日になったら再び倍速で見始める。ただ行動は昨日と一緒で、周囲の人も見飽きたようだ。そして誰かが夕方まで一気に早送りにすると、俺の部屋が見えてきた。
明かりがついているのが分かったのか、すぐさますりガラスの窓をカリカリッと引っ掻くと俺が窓を開けた。……あ、まずい。俺の部屋が大学の人達に見られる!
カメラは俺の部屋を映し出した。簡素な台所と小さな冷蔵庫、畳の床に背の低いテーブル、そして押し入れの扉。古典的な古いアパートって感じだ。
ものすごく恥ずかしい気持ちになっていると、柚野さんは嬉しそうに「タマ、チュール食べている!」と言った。
「柚野さん、あまり部屋を見ないで」
「分かった、見ないよ。でもチュールなんて贅沢な物を食べているな」
「本当に贅沢な猫ですよ」
たくさんの人に恵まれてニャーゴは生きているんだなって思った。そして柚野さんと話のきっかけになってありがとう、ニャーゴ。
そして俺はニャーゴをモフッている所をたくさんの人に見られて恥ずかしくなった。そして俺の手がドアップになり、やがて真っ暗になった。
これで映像は終了かな?
そう思った時、暗転した映像が急に仄かな灯りが灯った。
そこは柚野さんがベンチで座って待っていた公園だった。
あれ? おかしい。
だって俺が隠しカメラを取った後はレンズ部分はシールを張っていたから真っ暗なはずだ。じゃあ、この映像はなんだ。これは俺の家を出たニャーゴの帰り道だろうか?
俺が驚いていると、突然端から女性が大きく尻もちをついて現れた。黒髪の女性、柚野さんだ。柚野さんは立ち上がろうとしたが、画面に現れた茶髪の女性が再び突き飛ばした。
「『松木先輩に色目使ってんじゃねえよ』」
柚野さんの口から小声だが荒々しい言葉が出てきた。そしてクスって笑って「あの子のアテレコだよ」と言った。
「『使っていないよ』って言っても、ずっと責められた」
茶髪の女性はカバンの中から何かを出して、柚野さんに向かって投げた。
「あの子が盗んだ私の黒猫のマスコット。気に入っていたから盗まれたって分かって彼女に何度も聞いたら、こんな風に返してきたの」
そう言って柚野さんは手足が燃えて引きちぎられた黒猫のマスコットを見せてくれた。
「違うの!」
金切り声で茶髪の女性が立ち上がって、松木先輩へそう言った。そして「早く止めて」「これは私じゃない!」と明らかにパニックになったように叫ぶ。
それを柚野さんは遠い目で見ながら口を開いた。
「でも、こんなのは慣れているから。別にいいんだ」
映像では茶髪の女性はカバンからペットボトルを出して、それを柚野さんにかけた。
「血のりだって。映画研究会で使ったんだけど、大量に余ったんだって。それをかけられて真っ赤になっちゃった、私」
「え? 柚野さん」
隣の柚野さんを見ると頭から真っ赤な血のような液体がドクドクと流れていた。俺は驚き、言葉を失っていると柚野さんは「昔から気の強い子にはいじめられていたから、平気なんだ」と軽く言った。
茶髪の女性がどこかへ行ってしまい、柚野さんは俯いて座り込んでいた。
その時、奥から男性が走ってきた。松木先輩である。
「『大丈夫かい?』」
真っ赤な血のりを流しながら柚野さんは松木先輩のアテレコをする。
「松木先輩って、あの子の前で私の事を話すの。だからあの子が嫉妬して、そのたびに私をいじめるんだ。私は松木先輩の事なんてどうでもよかったんだ。『だから、もう関わらないで。映画研究会にも入らない』って言ったの」
柚野さんは近づいてきた松木先輩を押しのけて走ろうとした。だが松木先輩は腕を掴んでもみ合いになる。
「だってあの子がいじめた後、すぐに松木先輩がいつもやってくるんだもの。もうけしかけているでしょ? あの人」
その時、椅子は倒れる音がした。
「消せ! 早く、消せ!」
そう言って松木先輩が立ち上がって機材を消そうとする。だが機材の使い方を知らないのかなかなか消えない。
映像は松木先輩と柚野さんがもみ合う。松木先輩は柚野さんに着いた血のりなんて構わず、彼女をなんとしてでも引き留めようとする。
だが柚野さんの足元が崩れて、……。
「『ゴン』」
柚野さんが言った衝撃音だったが、機材から聞こえたと思った。
映像の彼女は鉄で出来たベンチの手すりに後頭部をぶつけた。
*
「嘘でしょ、柚野?」
「え? 死んだの?」
ひそひそと女性たちの声がする。後頭部を打ち付けた柚野さんを心配する声だ。それを柚野さんは「『私の事を死ねばいいのに』って言っていたくせに」と吐き捨てるように言った。
映像の松木先輩は倒れた柚野さんの肩を揺らしていたが、反応が無いと後ずさりをして奥に逃げてしまった。
やがて映像はゆっくりと柚野さんの方に近づいた。それに気づいた女性達は小さな悲鳴をあげる。
画面いっぱいに頭からダラダラと血が出ていた柚野さんが映し出された。自分の血なのか、かけられた血のりなのか分からない。ただ生気のない目でこちらを見ている。
そして口を開いた。
「猫になりたいな」
隣にいた柚野さんがそう言った。
*
あとから鈴木から聞くと視聴覚室はまさに地獄絵図だったらしい。
茶髪の女性は「あの子が悪いの!」や「私は悪くない」と言って大泣きしたり、他の女性は「ねえ、最後の柚野の言葉って『許さない』って言っていたよね」と言いだし悲鳴をあげて、過呼吸になって運ばれていった子さえいた。松木先輩は鈴木を捕まえて「お前、どういうつもりだ!」と怒鳴ったりと、大パニックになったそうだ。
この大騒ぎに大学の先生たちも気が付いて視聴覚室に集まって来て、一時騒然となった。
俺は灯りが付く前に柚野さんが俺の腕を引っ張って、視聴覚室から出してくれたのでこの大騒動には巻き込まれずに済んだ。ちょっと裏切り行為にも思えるが。
だが一緒に出たはずなのに柚野さんはいなくなっていた。それ以来、柚野さんは大学に来なくなり、やがて行方不明になったと風の噂になった。
それに俺達が見ていた映像はすべて消え失せていた。柚野さんが後頭部を打ち付けるシーンも俺がニャーゴに餌をあげる所も、その前日の映像さえも。それは復元も出来るんじゃない? と聞いてみたが、消した痕跡さえなかったという。
じゃあ、俺達が見ていた映像は何だろうか?
とは言え、この映像が無くなって安心した人間はいる。松木先輩と柚野さんに血のりをかけた女性だ。被害者である柚野さんもいないし、証拠の映像はどこにもないからだ。
だが居づらくなったらしく松木先輩は留学し、女性は大学をやめた。
映画研究会はスポンサーの松木先輩が辞めてしまったため、潤沢だった会費も女性会員も減ってしまった。だがニャーゴの視点を見た映画研究会の人たちのクリエイター魂を刺激したようで、田舎に住むお婆ちゃんの暮らしをAIロボットの視点で見るノンフィクション風の映画を作り、映画賞を獲った。
*
さて俺は特に何もなく大学を卒業した。
地元で就職先を見つけたので、四月から社会人の仲間入りだ。
引っ越し前夜。
俺が引っ越すなんて知らないニャーゴがすりガラスの窓をカリカリとならしていた。すぐに窓をあげるとスルッと入ってきた。
「ニャーゴ、今日が最後の夜なんだ。俺、明日から実家に帰るから」
チュールをあげながらニャーゴに言う。だが理解しているようには見えない。でも俺が居なくても、人懐っこくて世渡り上手そうなニャーゴなら夕飯をくれる相手をすぐに見つけられるだろうな。
ニャーゴにチュールをあげていると突然、雨が降ってきた。
「よかったな、ニャーゴ。濡れなくて」
全くだと言わんばかりの表情を浮かべるニャーゴの頭や首を撫でる。すでに首輪はついていない。本当に誰がつけたんだろう?
そしてあんな恐ろしい映像を持ってきたニャーゴに今日までチュールをあげていた俺は本当に猫好きである。
しばらくして玄関をノックする音が聞こえてきた。こんな夜更けに誰だろうと思い、ドアについているレンズを見た。
そこには雨でぬれた髪の長い女性が立っていた。
柚野さんだ。
え? なんで柚野さんが? とパニックになり、恐ろしくなった。だがそれ以上に濡れていて、今にも泣きだしそうな顔の柚野さんを見ていて心配になった。
恐怖心もあったが、俺はドアを開けた。
だが、ドアの前には柚野さんはいなかった。
「にゃあ」
代わりにいたのは小さな黒猫だった。雨に濡れて悲しそうな顔をしている。すぐにタオルを持ってきて黒猫を抱っこして拭いてあげる。黒猫は暴れず、大人しくされるがままだった。
黒猫を抱っこしてドアを閉めようとした瞬間、入れ替わりにニャーゴが出て行った。
「あ、ニャーゴ」
俺の声でニャーゴは振り向いて、ニャーと鳴くとすぐに去ってしまった。
もしかしたら、その子を大切にしろよと言ったのかもしれない。
黒猫をしみじみ見ながら、もしかしたら柚野さんが生まれ変わった姿なのかなと思った。でもそんなはずないよな。
「俺と一緒に地元へ行くかい?」
「にゃあ」
黒猫はそう返事をした。
誤字脱字報告、ありがとうございました