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なろう令嬢はオバサンである。

作者: 夢野ベル子

新井素子の作品についてネタバレしているのでご留意ください。

 うわ。やめて石投げないで。あ、岩です。石じゃなく岩だからそれ。

 お姉さまです。お姉さまです! やめてお姉さまやめて!


 真面目にやります。


 L文学という言葉をご存じだろうか。

 おそらくほとんどの方は知らないと思う。

 L文学とは斎藤美奈子が提唱した概念であり、Lとはレディ、ラブ、リブとされている。

 具体的な対象作品をあげると、新井素子がよく描いた少女が主人公の物語をいう。

 新井素子をいま思い出すと、おどろおどろしいグチャグチャとした黒い沼が広がっているようで、そこに蓮の花が美しく咲き誇っているようなイメージだ。まあ、できるなら読んでほしいが、とりあえず置いておく。

 このL文学における少女は当時においては痛快だったらしい。いままで抑圧されてきた女の子が生身の少女として描かれていたからだ。

 象徴的なのは、主人公の少女が自分のことを『あたし』と呼称していたことであろう。今風に言うなら『あてぃし』だろうか。しかし、あてぃしは生の発音としてはともかく文章としてはちょっと読みにくそうだ。ああ、もちろん冗談として言っている。ともかく『わたし』は『あたし』を唱える。ここは少女が少女自身を越えるような感動がある。時代というものもあったのかもしれない。いまよりずっと女性の権利や自由が抑圧されていた時代だ。少女が自分自身を語り、主張することが抑圧されていた。女は馬鹿のほうがいいの。頭悪いほうがいいのと言われ続けてきた時代である。そういった文脈で捉えれば、L文学とはフェミニズム文学といえなくもない。


 だが、それはL文学の一属性に過ぎないだろう。


 L文学は少女を描く文学である。わたしは最初にL文学という文字を見たときにレディやラブやリブの頭文字ではなく、女というものを精神分析的に表現した『L/a Femme』のことだと思っていた。だからなんだって話だが、少女を肉体的な意味での幼少期から思春期あたりの女性のことをいうのではなく、もっと精神的な意味でのソレのことであると勘違いしていたのである。今もその意識は変わっていない。


 したがって、わたしの問題意識とは、少女とは何かという命題であるともいえる。


 では、改めて問おう。なろうの令嬢系作品はL文学の遺伝子を引き継いでいるのだろうか。

 それともまったく別の系譜なのだろうか。

 つまり、なろうの令嬢は()()()()()()()()


 肉体的な意味での少女というくくりで見れば、もちろんなろう令嬢系も少女を主人公としている。令嬢であるから当然である。

 また、多くの場合は女性が書いているという印象もあるので、その点はL文学と共通点があるといえるだろう。

 作者が作品内の登場人物にまったく感情移入しないということはありえない。もちろん、感情移入をこそぎ落し、極限までモノ自体へと遡行するようないわゆる芸術作品、純文学と呼ばれるものも存在する。あるいは職人のように作品は作品として割り切る場合だろうか。よくある大人が子ども向けの話を書くような。しかし、なろう小説は同人的なコミュニティであり、同人においては芸術的な志向性は鳴りをひそめ、コミュニティ間の符丁『ツーと言えばカー』の関係へ至る。したがって、同人作家がそうであるように、キャラクターへの感情移入の度合いは傾向分析的に強いものと言わざるを得ない。したがって、なろう令嬢モノを女性が書くという構図自体はL文学と同値といえるだろう。


 要するに、作者という主体の内的な問題が作品というスクリーンに多かれ少なかれ投射されているという構図自体はなろう令嬢モノもL文学も変わらないということである。必然的に、作品のキャラの動きや内心、あるいは作品そのものの成り行きを分析すれば、主体の分析へと近づく。もちろん、作品やキャラの内心が作者とまったくイコールということはありえない。そういうふうに意図して書いたとしても、フーコーの言う権力が働き、すなわち社会的フィルターによって、書かれるものと書かれないものが峻別されるからだ。それもまた作者内の無意識の問題ではないかと思われるかもしれないが、作者としての立場で書いたモノと、ただの人間の立場として書いたモノはやはり異なるということである。そんなアタリマエのことをここでは書いた。


 ともかく、作品の多くは主体の内的な問題を色濃く影響を受けている程度は言ってもいいだろう。そうすると、L文学が作者のフェミニズム的な問題意識、今風でいうとジェンダーバイアスから逃れようというような意識があったのに対して、なろう令嬢モノの主体もなんらかの作者の問題意識が影響しているのではないかと言ってもよいように思うのである。


 では、なろう令嬢モノは、女性作家の現代におけるなんらかのジェンダーバイアス的な問題を主題にしているのだろうか? つまり『少女』の内面の問題を中心に据えているのか?

 わたしが感じる印象は、両者はかけ離れていると言わざるを得ない。

 それはやはり大きくは新井素子というその時代の巨匠の存在が大きい。

 新井素子の作品を読めば、いまのなろう令嬢とは大きく精神構造が異なることに気づくだろう。


 ハッキリ言えば、L文学が取り扱っているのは()()であり、なろう令嬢モノは()()()()なのである。


 ひえ。ぶたないで。怒らないで。ごめんなさい。


 べつにオバサンを蔑視しているわけではない。夢野ベル子が幼女だからみんなが十代前半のお姉さまでも相対的にオバサンだと言っているわけではない。

 その理屈を今から説明していく。


 L文学というものは名称・定義自体はそれほど流行らなかったが、その遠い祖先としては少女小説があるという。

 ここでそもそも少女という属性を考えてみる。


 少女とは何か。少女とは()である。

 そんなん当たり前だろと思われるかもしれないが重要なところだ。

 正確にはmanの派生形の女のさらに派生形が少女である。


 赤ん坊は生まれた時は自分の性別に気づいていないだろう。彼/彼女にとっては生理的機能が不十分であるがゆえに、世界を大雑把にしか捉えられない。したがって、生存に必要な快、死に直結する不快の二項に分けて判別することになる。やがて、彼/彼女は生理的機能、神経系などの発達により、より自身の置かれている状況がハッキリとしてくる。具体的には人間がペニスのある/なしで区別できることに気づくのである。その中には、彼/彼女が男か女のどちらかということも含む。


 男のほうが単純なのでそちらから先に説明しよう。


 彼だった場合、つまり赤ん坊が男の子だった場合は、比較的簡単に説明できる。彼は、母親にペニスがなく、自分にペニスがあることに気づく。彼は母親を愛しているが、その愛し方は同一化/差異化としてあらわされるものだろう。つまり彼の愛し方は自己愛と言い換えてもいいだろう。そこで、問題となるのは母親はペニスがないため母親を自分のように愛する場合、自分のペニスがなくなってしまうのではないかという不安を抱くのである。


 これを『去勢不安』という。


 もちろんこの不安は不快なものである。ここで、同時期に彼の前に現れる他者が父親である。父親にはもちろんペニスがある。彼は父親を愛していないわけではないが、母親と父親のどちらが好きかと言われれば多くの場合母親を選ぶことになる。したがって、ペニスがなくなるかもしれないという不安は父親へと転嫁される。父親こそ不快なものであると象徴化する。これをエディプスコンプレックスという。さらに後に、彼は言葉を獲得し、より複雑な人間社会への参入を許される。単純な快/不快という対立は、隠喩の連鎖の中に溶け込んでいく。『母=快、父=不快』という象徴化は何か別のものに置き換え可能になる。かくしてエディプスコンプレックスはひとまず終了する。


 彼女だった場合はどうか。

 すっ飛ばして言えば、赤ん坊が女の子だった場合、『快/不快』と『ペニスのある/なし』に気づくというところまでは同じである。

 しかし、自分には『なし』母親にも『なし』父親に『あり』なので、ここで男性幼児よりも二者択一が難しい判断になろう。母親と父親のどちらが快でどちらが不快かという問いに対して、彼女は去勢不安がないので、父親を不快とみなす動機がないのである。


 むしろ、同一化の恐怖から母親を不快とし、差異化の象徴である父親を快とすることになるだろう。要するに母親を憎悪し父親を愛する。エレクトラコンプレックスが開始される。


 もちろん、幼女も言葉を覚える。象徴界へ参入する。しかし、その参入の仕方は、男の場合のように去勢不安を言葉によって解消(抑圧)するというような方法ではない。つまり女性は去勢が行われないというような言い方をしてもよいのかもしれない。言葉をかえると、男は去勢というトラウマがあることから踏ん切りがつき母親を愛することをあきらめやすいが、女はそういったイベントがないためいつまでも父親を愛するといった言い方もできるだろう。


 このあたりまで来ると、いったいこいつは何を言いたいんだと思われるかもしれないが、解剖学的な少女は当然解剖学的な女でもあるわけで、男と違いその精神構造が複雑であると述べたかった。そして男と女が徹底的に違う点は、この去勢が曖昧であるという点である。


 女は存在の根底からしてグラついている。象徴界に参入することによって言葉という武器を得て『女性』という肩書を手に入れたが、それは自らがトラウマを克服して勝ち取ったものではなく、ふと手のひらの中を見てみたら、いつのまにか手に入れていたものにすぎない。


 L文学はその点に非常に自覚的だったと言えるだろう。


 新井素子の「今はもういないあたしへ…」という短篇SF小説では、ネタバレしますと、主人公はクローン人間だった。交通事故に逢った主人公はどことなく自我同一性が曖昧な感覚がしていた。『あたしがあたしでない感覚』自我が曖昧な感覚。そして、なんやかんやあって明らかになる事実。自分がクローン人間だと認識してしまい、彼女は自殺してしまう。最後は彼氏とイチャイチャする新しいクローンな彼女を、後ろから幽霊になったあたしが眺めるという構図……。ひえっ。


 こうしてみると、ホラーテイストであるが、ここでの主題はやはり『自分とは何か』『自我とは何か』という問題意識にあるように思う。


 思うに、少女は少女であるがゆえ、つまり肉体的に未発達であるがゆえ、社会に適合しきれていない傾向が強い。つまり、去勢が曖昧に進む女性という性の中でも、さらに去勢されていない部分を多く含んでいるといえる。曖昧ですぐにでも消え去ってしまいそうなそんな儚い存在。それをわたしは『妖精』と呼称する。


 したがって、わたしは肉体的に少女であることをもって少女とせず、未去勢部分を多く含んだ妖精こそを真の少女と呼称したい。


 もうひとつ、新井素子の作品で『ひとめあなたに..』という作品がある。これは彼氏が癌になったとかで主人公がフラれて、そうかと思ったら一週間後に隕石が降ってくるから地球滅亡が確定したという話。それで彼氏に会いに行くという話だったと思う。もうだいぶん昔に読んだので細部は忘れたが、この作品の構図にピンとした方もおられるのではないか。


 そう、セカイ系である。セカイでは『君と僕』のセカイが、世界や宇宙といった抽象的命題と短絡するような作品のことを言う。一番最近で有名な作品は『天気の子』ということになるのだろうか。この場合、ミソになるのは少女にとって『国』や『社会』といった中間命題は捨象されることである。


 なぜ、中間命題が捨象されるのだろうか。いきなり世界とか宇宙の話になってしまうのか。それは、少女の象徴界への参入具合が未発達だからである。象徴界を承認しながら生きるというのは社会に適合して生きていくということであるが、この社会というのが背景としてハリボテ化してしまっている。どこか嘘くさい仮想深度として捉えてしまっているのだ。したがって、彼女のなかでは手が届く『君とぼく』の範囲と、それから抽象的なセカイという言葉だけである。それは単に目の前にいる君の背後にある風景をセカイといっているに過ぎないわけだ。だから、L文学はセカイ系へと親近する。


 なんかフワフワしててよくわかんないって人は、妖精さんがちょうちょの羽をパタパタしているシーンをイメージしてください。

 L文学というのは、つまりそういう話なんだよな。


 ちなみに、この系譜は今もあるのかというと、わたしが観測している中では、やっぱりフリーホラーゲームや同人系のアドベンチャーゲームがそれに近いと思う。具体的に名前をあげると、「Ib」とか「アンリアルライフ」あたりである。


 さて、こうして長々とL文学について語ってきたわけであるが、最初に述べたとおり、今度はなろうの令嬢モノについて語りたい。もちろん、わたしの勝手な印象論であるが、なろうの令嬢モノは基本的に自我の問題を取り扱わない。まちがってもあたしは誰なんだろうとか言い出すことは稀だ。セカイから私が乖離している感覚もないだろう。もちろん、ランキング上位にあがるようななろう令嬢モノを想定している。


 なろうのご令嬢方は去勢済み主体である。先ほどわたしが述べたように、少女は時間経過とともに去勢が緩やかに進むと考えられるから、十分に去勢済みということは、彼女のたちの内面が十分に成熟していることをあらわしている。それはつまるところオバサンである。


 よって、なろう令嬢はオバサンであるということになる。


 したがって、なろう令嬢はその内的真実として、社会や国家や権力を疑ったりしない。権力闘争と政治ゲーム、あるいは恋愛ゲームを楽しむことになる。簡単に言えば、強いイケメン男子に惚れられてちやほやされるというのが基本構造ということになる。


 L文学も男女の恋愛関係を扱ってはいるが、その構造の在り方は、あくまで女性の主体性によるものだった。しかし、なろう令嬢のそれは男性原理に従い、それを所与のものとして受け取っているのである。


 よって、L文学の少女となろう令嬢はその本質において異なるのではと考える。少女を描くのがL文学であるのならば、なろう令嬢は少女ではない。なので、両者はまったく違う進化系統に位置するのではないかと思う。もちろん、ラノベみたいなジャンルのくくりでは重なる部分もあるだろうが。


 わたしが偏執的にこだわっているのが「少女」なので、なろう令嬢は少女じゃない、オバサンやんってなるのかもしれない。あ、石投げないで。


 重ねていうが、なろう令嬢がオバサンだからといって何か問題が生ずるだろうか。実をいうとあまりないかもしれない。いまのなろう小説の読者層あるいは作者は、少女であるという立ち位置はすでに過ぎ去ったのだろう。そこでは、象徴的去勢を承認し、前提としている以上、自分というものは既に確立している。したがって物語の構成上、『自分』を求めるものではなく、『自分が何をしたいのか』を問い続ける作品になるだろう。それはよりイケメンな男子だったり、あるいは王女や皇女などの地位だったり、もしくは聖女や精霊などのスペシャル感だったりするものかもしれない。いずれにしろ、所有される概念としてそれらはある。


 時代の流れとして見たとき、なろう令嬢モノは、フェミニズム的観点から一歩進んだものであるといえるだろう。


 ただ、たまには妖精さんを見たいなって思ってしまうものでしてね。


 そういう作品がないかと日夜探していたりもするのです。


 ここまでクッソだらだら書いてきましたが、このエッセイの趣旨はわたしが妖精さん好きなことを大暴露する大会だったというだけのことです。


 はずかしっ!

今回はわりと真面目にがんばって書いたんだけど、最後はやっぱり性癖が出ちゃった感あるなー。良ろしければ、評価&感想をお願いいたします。あと妖精さんが出演してるっぽい作品があったら教えてください。

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― 新着の感想 ―
[一言] >> 妖精さんが出演してるっぽい作品  性転換とか異性装とか、人外化とか、転生とか、そういった〝自己の変容〟を主題として取り扱っている作品にはちょくちょく出てきますよ!  悪役令嬢モノ? ざ…
[一言] 返信有り難うございます。 説明不足でした。 私がイメージしたのは、そういったヘイト要素を積まれたヒドインではなくて、お花畑頭ヒロインと呼ばれる方です。 あの人達は、描き方や、ステージを変える…
[一言] ざまぁされる、ヒロイン達こそが妖精さんなのでは? 
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