氷川きよピ
お腹が空いたから、杖の力で牛丼を出した。
狭い部屋に置かれた座卓に、ポンッと出来立てアツアツの牛丼が現れる。パン以外の物を食べるのは久しぶりだ。
「うお、うまそー」
大手牛丼屋さんの牛丼だ。割り箸とお茶と生卵と紅ショウガと七味も一緒に出すと、まるで牛丼屋に行った時の気持ちになれる。
パパと一緒に暮らしていた時には、よく三人で牛丼屋に食べに行った。小さい頃に食べた牛丼の味は美味しくて……。僕もいつかは牛丼の特盛りが食べられるようになるんだと宣言していたことを思い出す。
ちょっと牛丼がしょっぱいのは……紅しょうがを入れ過ぎたせいだ。
お腹が一杯になったから少しベッドで眠ることにした。
夜更かしは得意だが、早起きは苦手な体質なんだ。無理をするとすぐに頭やお腹が痛くなる。だから僕はママに相談して、ずっと家でのんびりするようにしている。引きこもりやニートとは一緒にしないで欲しい。
目が覚めると、辺りはもう暗くなっていた。
二階から一階に降りると、ママが仕事から帰っていて、台所でパンを食べながらテレビを見ていた。 小さな丸いテーブルには僕の分も一つだけパンが置いてある。今日は苺のジャムパン……か。
髪には白髪が混じり、首筋のところで髪ゴムを使い束ねている。パパといるときは髪もきちんと染めていたのに。
綺麗に金色に染めていたのに――。
「ママ、何か欲しい物ある?」
突然の僕の問いかけに、こちらを向きもせずに答える。
「金」
「……」
……子供が子供なら親も親。おやおやだ。やれやれかもしれない。
「お金なんか……あるわけないだろ。それ以外で」
金はいくらでもある。邪魔になるくらいある。でも、それをママに渡してはいけない……気がする。たくさんのお金を急に渡せばママは、僕のママを辞めてしまうかもしれない。
「じゃあ、氷川きよピ」
……。
あー。本当に僕とママは親子で、同じ血が流れているんだなあ。部屋にポスターは貼っていないが、ママの携帯の待ち受け画面はずっとイケメン若手演歌歌手、「氷川きよピ」なのを知っている。昔は追っかけていたと聞いた事もある。それでよくパパに怒られたそうだ。
ムシャムシャとパンを食べ続けるママ。今までの恩返しができるとすれば、今なのかもしれない。一日遅いクリスマスプレゼント……か。
ここで氷川きよピを出しても、たぶん直ぐに逃げていくだろう。まさか鍵を掛けて監禁するわけにもいかない。出てくる姿にもよるが、腕ずくでどうこうできるはずがない。
立派な大人には敵わない。
だが、「もずみん」も叫んで逃げていっただけだが、一瞬は本物を目の前で見ることができた。あんな至近距離で会いたい人に会える機会なんて、一般庶民には皆無だ。高い金を払って握手会やディナーショーなどに行ったとしても、話せる機会はほとんどないはずだ。
だったら、やるだけやってみるか。ママのために。
ほんのひと目会うことくらいなら可能だ。後がどうなろうとも……。
「じゃあママ、一瞬だけだからちゃんと目に焼き付けといてよ」
「はあ?」
ようやくこちらを振り向くママ。杖は背中の後ろに隠し持っている。
「出てこい出てこい、氷川きよピ!」
狭い台所のテレビの前に、ポンッとコミカルな音とともに白いスーツ姿の氷川きよピが突然マイクを握ったままの姿で現れた――。
「――!」
「――?」
母は声を失っていた。
どこかで歌謡ショーでもやっていたのだろうか、マイクの音が急に入らない異変と、急に知らない部屋へ連れてこられたことに戸惑っているのだが……もずみんのようにキャーキャー騒いだりしないのはさすが大物。大人の余裕だと知った。
「こ、ここはどこですか。いったい何が起こったんだろう」
「――!」
ママは口を手で押さえて硬直したままだ。失神してしまうのではないかと不安になる。
「あの、氷川きよピ……さん。急に来て頂きありがとうございます。母と握手だけでもしていただけないでしょうか……」
「え、ああ……いいですよ」
恐る恐る手を出すママは……乙女の目になっていた。毎日の仕事で荒れた手を差し出すと、氷川きよピは大きな綺麗な手で優しく握り返してくれた。
ママは泣き出してしまった……。
何故だろう。僕も涙が零れそうになり、必死に鼻をすすってこらえた。
「あの、氷川きよピさん。ずっと、ずっとあなたのファンでした。サインだけでも貰っていいですか」
ママが冷蔵庫の上から色紙と黒ペンを急に持ち出す。いつからそこに置いてあったのだろうか。こんな時のために、準備でもしていたというのか。
氷川きよピは嫌な顔を一つもせず、ニッコリと微笑んでいた。
「お名前は」
「信子です」
ママの手は震えっ放しだ。僕の手も震えていた。
キュキュッと色紙に素早くサインが書かれると、それをママに渡してもう一度握手を交わした。僕も胸がキュッと締め付けられそうな気持ちになり、それが嫉妬なのかなんなのか、分からなかった。
僕はまだ子供だから……。
「玄関はどこですか」
「あっ、こっちです」
帰ってしまうのか。なんとか引き止めようと……できなかった。ママも、貰った色紙を胸の前でぎゅっと大事そうに握っている。もずみんの時のように、嫌がられて逃げられるのはもう懲り懲りだ。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、土足で申し訳ない。お邪魔しました、さようなら」
ガチャっと安い玄関扉から氷川きよピが出て行った。
本当に夢のような一時だった気がする。ママは玄関口にヘナヘナと座り込んでしまった。
「夢じゃないわよね。今のは」
「……まあ」
夢と言えば夢なのかもしれないけど。そっと背中の裏に隠していた最強の杖を、見つからないように階段横へと隠した。
「サイン、良かったじゃん」
「これは……宝物よ。一生の」
色紙一枚が宝物だなんて……。親孝行ができて本当に良かった。
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