わかりやすい現代語訳シリーズ その2 「平家物語」より「木曽の最期」の部分
「平家物語」の「木曽の最期」の部分を、高校生でも理解てきる程度に、かみくだいてみました。
およその話の流れをつかんだ上で、原文のリズムを味わってください。
木曽義仲の その日の装束は、赤地の絹織物に、金糸、銀糸で刺繍した直垂を着て、その上に、中国から輸入した布地でこしらえた紐でつづり合わせた鎧をつけ、ツノ形の金具をつけた甲のひもをキチンと締め、派手な飾りをつけた刀をさげて、鷲の尾の部分の羽だけで作った矢で、その日の戦いに使って、まだ少し残っている分を、頭のうしろから出るように背負い、漆塗りの上から、籐で巻いた弓を持って、評判の高い「木曽の鬼葦毛」という、大変、大きくて、たくましい馬に、金で縁取りをした鞍を置いて乗っていた。鞍についた足踏み金具を力強く踏んで立ち上がり、大声で、次のように自己紹介をした。
「以前、うわさに聞いたことがあるだろう、その、木曽の若者が、今、目の前に、あらわれたのだぞ。
左馬頭兼伊予守という肩書きを持ち、朝日将軍というあだ名もある、源義仲とは、オレのことだ。
オマエは、甲斐の国の、一条の次郎とか。お互いに、よいライバルであろう。
オレの首を、取れるものなら取ってみよ。そして、源頼朝の所に持って行って見せよ」と言って、ワーッと言いながら、馬で突撃して行った。
一条の次郎も、
「今、大声で自己紹介したのは、敵の大将軍だぞ。ものども、絶対に逃さず、討ち取れよ」と言って、大勢で包み込むようにして、自分の手で討ち取ってやろうというつもりで、進んで行った。
木曽軍三百余騎は、敵、六千余騎の中を、縦、横、蜘蛛手、十文字に駆け回って、敵の囲みの外に、つつーっと出た時には、五十騎ほどになっていた。
次には、土肥二郎実平の二千余騎の軍勢が守っていた。そこも突破すると、さらに四、五百騎、または、二、三百騎、あるいは百四、五十騎、さらに百騎と、敵のかたまりの中を、馬をとばして進んで行くうちに、とうとう、主従五騎にまでなってしまった。その五騎の中に、義仲の愛人の巴御前も、まだ討ち取られずに、生き残っていた。そこで、義仲は言った。
「おまえは女なのだから、一秒でも早く、どこかへ逃げろ。
オレは討ち死にしようと思っている。もし、重傷にでもなれば、自害をするつもりだ。
木曽義仲は、最後のいくさまで女を連れていたなどと、世間の人々に言われるのは、好きじゃない」
そう言っても、まだ逃げようとはしなかったが、義仲にあまりに言われるので、
「ああ、私にふさわしい、強い敵がいないかなあ。最後のいくさを、お目にかけたいんだけど」と待っているところに、武蔵の国で評判の力持ち、御田の八郎師重が、三十騎ばかりの家来とともに、やって来た。
巴は、その中に馬で突撃して行き、御田の八郎の馬の所にじぶんのうまを押し付けておいて、相手の男を馬から引き抜くと、自分の鞍の前に押し付けて、ジタバタできないようにし、その八郎の首をねじ切って、ポイと捨てた。その後、鎧、甲などを脱ぎ捨てて、東国の方へ逃げて行った。
手塚の太郎も討ち死にをし、手塚の別当は落ちのびて行った。
今井の四郎兼平と二人だけになった時、木曽義仲が言った。「日ごろは気にもならない鎧が、今日は重く感じられるぞ」 そこで、今井の四郎が申しあげた。「あなた様は、まだお疲れではごがいません。馬も弱ってはおりません。なんで、鎧甲を重くお感じになるのでしょうか。それは、味方の軍勢がいなくなったので、気が弱くなっておられるからでしょう。私、兼平一人でも、、他の武士千騎分の力があるとお思い下さい。まだ、矢が七、八本ございますので、私がここで、敵を防ぎましょう。あすこに見える粟津の松原という所で、あなたは御自害なさいませ」と言って、また、馬に鞭をいれた。そこへ、別の敵、五十騎ほどが来た。「あなた様は早くあの松原にいらして下さい。兼平はこの敵をここでくいとめます」と言ったが、
木曽殿は、「この義仲は、大体、京都で死ぬはずであったのに、ここまで逃れて来たのは、オマエと同じ所で死にたいと思ったからだ。別々の所で討ち死にするよりは、同じ所で討ち死にをしようじゃないか」と、
義仲は、今井の四郎の馬に、自分の馬を並べようとした。今井の四郎は馬から飛び降り、義仲の馬のくつわつかんで、こう言った。
「武士というものは、日ごろどんたに評判が高くても、最後の最後で一つまちがえると、末代までも不名誉がついてまわるものです。あなた様は、すっかり疲れておられます。家来たちも、もうおりません。もしも敵に囲まれた時、大したこともない敵の、そのまた家来なんぞに馬から引きずりおろされて、首をとられたりしたら、[あれほど有名だった木曽義仲の首を、それがしの家来が打ち取ったぞ] などと言われるのは残念でなりません。ただ、あの松原にお急ぎ下さい」
「それじゃあ」と言って、木曽義仲は粟津の松原の方へ馬をとばして 行った。
今井の四郎は、ただ一騎で、五十騎ばかりの敵の中へ駆け入り、足踏み金具を踏んで立ち上がり、大声で自己紹介を始めた。
「以前、うわさに聞いたことがあるだろう。今、目の前に姿を見せたのだぞ。木曽義仲の乳兄弟、今井の四郎兼平、年は三十三。そういう男がいるとは、源頼朝でも、きっと知っているに違いない。誰か、こ兼平の首を取って、頼朝の所に持って行ってみないか」
そう言いながら、残っていた八本の矢を片っ端から弓で射た。死んだかどうかは分からないが、たちまち、敵八騎が馬から落ちた。それから、刀を抜いて切ってまわったが、正面から向かって行く者は、誰もいなかった。とにかくすごい戦果であった。てきは、接近戦では勝てないと思ったのか、「大きく取り囲んで、弓矢でやっつけろ」と、雨が降るように矢を射たが、四郎の鎧がいいので、裏までは突き通らない。鎧の隙間にうまいこと矢が当たらないから、ケガもしない。
木曽義仲は、ただ一騎、粟津の松原へ駆けて行こうとしたが、正月の二十一日の夕暮れ時であったので、薄い氷が張っていて、まさか深田とも思わず、馬で乗り込んだところが、大変な深田だった。馬の腹を蹴っても蹴っても、鞭で馬をたたいてもたたいても、馬は一歩も動けない。今井の四郎はどうしているかと、ふと振り向いた時、近くまで来ていた三浦の石田の次郎為久が、ひゅーっと射た矢が、義仲の甲の内側に飛んで行った。
重傷だったので、前のめりになって、馬の上にうつ伏せしているところに、石田の家来二人が近づいて、とうとう、義仲の首を取ってしまった。それを刀の先に突き刺して、高くさしあげ、大声で、
「あの評判の高い義仲の首を、三浦の石田の次郎為久が討ち取ったぞ」と言ったので、これを聞いた今井の四郎は、まだいくさをしていたが、「こうなっては、誰を守るためにいくさをする必要があるのか。イヤ、もう誰のためにいくさをするひつようもない。これを見ていろよ、東国の諸君! 日本一の強者が自害する時は、こうするものだぞ」と言って、刀の先を口にくわえ、馬から逆さまにとび降りた。もちろん、即死であった。
結局、粟津の松原では、いくさはなかったということになる。
話の流れをつかんだ上で、原文に触れると、抵抗なく、接することが出来たでしょう?