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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
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C.094 自分のしたこと、できなかったこと

 




 自分のことを理解してくれる存在は、里緒しかいないと思っていた。

 期待できるのは里緒だけだと思っていた。

 ほんの一時でも誰かを信じ、祈りが届くのを期待してしまったことを、今は(いたずら)に後悔するばかりだった。失ったあとの痛みがこんなに大きいと知っていたら、初めから期待なんて何も、したくなかった。




 公園の入り口には【立川北口公園】とある。むかし里緒と訪れたのを思い返し、すっと胸のなかを冷たい空気が流れたのを覚えた紅良は、クラリネットのケースを強く抱えて公園に立ち入った。

 楽器を持ってはいるが、国立WO(ウインドオケ)の帰りでもなければ楽器店の帰りでもなかった。これを携えていれば練習する気が起きるかと思って、今日一日ずっと無意味に連れ回してしまったのだった。


(結局、一昨日(おととい)のクラパート歓迎会もサボっちゃったしな……)


 腰かけて、ケースとカバンを脇に退()ける。生ぬるい息を吐き出した紅良は、木々やビルの明かりの向こうに覗く夕闇色の空を見上げた。

 二日前の六月三十日が、クラリネットパートの新人歓迎会の日だった。しかしとても行く気にはならず、前日になって体調不良を理由にキャンセルの連絡を入れた。クラリネットパートの新入団員は何も紅良だけではない。クラスメートの翠やつばさはともかく、それ以外の団員たちが紅良の不存在を気にかけることなんて、きっとありはしないだろうと思った。

 里緒も今、同じような気持ちを抱えながらどこかで生きているのだろうか。

 まさか。そんなわけがない。

 こびりついた飾り気のある笑いはなかなか剥がれず、紅良は空から目を背けた。期待をかけることはしないと決めたばかりだったのに。


(ここへ来たら少しは冷静になれるかもしれないと思ったけど、来ても無駄だったかな……)


 重たい諦観が背中にのしかかる。

 もういい、帰ろう。背中の諦観を振り落として立ち上がろうとした紅良の耳に、不意に女性の声が飛び込んできた。


「里緒ちゃん! ……じゃ、ないか」


 紅良は振り返っていた。息を切らし、乱れたスーツを直しもしないまま、失意の表情でそこに(たたず)む女性の姿があった。

 それは、いつかこの公園で出会った新聞記者の神林紬だった。


「お久しぶりです。神林さん」


 名前を呼ぶと、紬も紅良を識別した。


「あの時の子! 名前は、えっと」

「西元です」


 紬は物足りなげに眉を傾けたが、こういう時、紅良は下の名前を絶対に明かさないようにしている。

「隣いい?」と尋ねられ、うなずいて腰を浮かせた。どうせ帰っても待ち受けているのは期末試験勉強である。一分一秒でも短い方がよかった。


「……こないだ、里緒ちゃんに会おうとしてね」


 がっくりと支えを失ったように紬は座り込んだ。


「しなければならない話があったの。でも、聞いてもらえなかった。どうしても話さなくちゃいけなかったから、あれから毎日のように探し回ってるんだけど、ちっとも会えなくて……。ね、あの子って今、どうしてるのかな」

「高松さん、学校、来てません」


 紅良が答えると、紬は目を()いた。


「嘘。いつから」

「先週の土曜日からです。連絡なしの欠席が三日も続いてます。電話もメールもメッセージも通じないみたいです」

「そんな……」


 紬の驚き方はいちいち大袈裟である。

 自分よりも小さく、低くなってしまった彼女の肩を、紅良は冷めた色の瞳で見下ろした。この人がどうしてこんなにショックを受けねばならないのか理解できなかった。ショックを受けるべきは当事者の自分であって、花音であって、それから里緒自身であるべきだ──。

 そこまで考えた瞬間、スーツの胸にピンで止められた日産新報社の徽章(きしょう)が目に入って、紅良は一瞬のうちに多くを理解した。


「……記者なんでしたよね、神林さん」

「あなたにはもう見抜かれてる気がする」


 へにゃり、と情けなさそうに紬は笑って、膝の前で祈るように両手を組んだ。


「最近、仙台で母子いじめ自殺事件があったっていう報道が流れてるのは知ってるでしょ」

「知ってます。今、うちの学校では、高松さんがあの事件の被害者なんじゃないかって騒ぎになってます」

「そうなんだってね。私も、ネットの反応を見ててそれを知った」


 紅良がうなずいたのを見ると、ためらいを挟んで、紬は組んだ手を放った。


「あれを最初に報じたのはね、うちの会社の出してる週刊誌なの。私が、向こうで見聞きして手に入れた取材情報を、里緒ちゃんに黙って提供したから」

「どういう意味ですか」


 本当に意味が分からなくて話を遮ってしまった。今の話を額面通りに受け取るなら、やはり里緒はあの事件の被害者だったことになるが──。

 紬は黙って、ポケットからメモ帳を取り出した。【取材ノート】とあった。


「推察の通りだよ。私たちが報じているのは、里緒ちゃんのこと」


 返す言葉の思いつかない紅良を前に、紬は目を伏せた。


「気まぐれで里緒ちゃんのことを調べていたら、あの子がいじめに()っていた形跡を見つけたの。本当に偶然だった。それで、どうしても真実が知りたくて、調べに行った。里緒ちゃんの諒解も取り付けずに」

「……そのあと、調べた結果を週刊誌に渡したんですか」

「週刊誌の編集部は、独自の調査を続行して記事化したみたい。私の調べたことは参考程度にしかなってないって、向こうの人は言っていた」


 でも、と紬は唇を噛み締めた。唇の赤みは浅かった。


「結果的に引き金を引いてしまったのは、私なんだ」


 里緒の登校拒否を聞き付けた紬の、過剰とも思える反応の真意を、紅良は言外のうちに理解した。何のことはない、()()当事者だったのだ。あの時、紬はついに里緒が取り返しのつかない事態に陥ったのを悔やみ、悲嘆していたのである。


「……どうしてそんなこと、しようと思ったんですか」


 尋ねずにはいられなかった。


「スクープのためですか。それとも告発するためですか」

「それもあるよ。誰かに知ってもらいたかった。あの町に今も漂ってる異常な空気を、誰かに(しら)せなきゃと思った」


 紬の視線が地面の模様をなぞって、止まる。紅良は静かな衝動が胃の奥で燃え上がるのを感じた。たったそれだけのために、リスクを承知でこんな騒ぎを?

 紅良の心境を察したように紬は慌てた。


「違うの、待って。信じて。知ってほしかったのは理由のひとつでしかない。私は私なりに、里緒ちゃんの側に寄り添ってあげたかった。むしろそれが一番大きい理由だったんだ」

「…………」

「私はあの子の肉親でも、知人でも、友達でもない。ただ一介の新聞記者でしかない私にも、いじめられて心に傷を負っている里緒ちゃんにしてあげられることがあるとしたら、それは『私は味方だよ』って伝えてあげることだと思った。私だけじゃない、日産新報社(うち)全体が、日本中のたくさんの人々が味方についている。そうすれば少しはあの子のこと、奮い立たせてあげられるかと思った。……だけど現実には、そうはならなかった」

「高松さんをますます追い詰めてしまった……っていうことですか」


 とんでもない話だ。紅良の憤りはかえって加熱した。報じれば味方が増え、解決に近づき、被害者の心も晴れる。そんなものはマスメディアの大いなるエゴに過ぎない。義憤の名のもとに正当化される、現実離れの幻でしかないのだ。


「怒ってるよね」


 紬は虚ろにつぶやいた。


「もっと、怒ってくれていいよ。言い逃れるつもりはないの。どんな非難も批判も、私には受け止める義務がある。それだけのことをしたと思ってる」

「そんなの、口でなんかいくらでも言えます」

「そうだね……。どれだけ反省したって信じてはもらえないし、許してはもらえないのかもしれない。……でもね、」


 何事かを続けようとした紬の口は、そこで急に閉じられた。

 一呼吸の沈黙を挟んで、紬は、紅良から視線を外した。その横顔には失望の藍色と、苦悶の紫色とが、同時に浮かんでいた。


「……私の夫はね、鬱だった」


 まだ聞き慣れないその言葉に、紅良は上手く反応を示すことができなかった。(やぶ)から棒に何の話だろう。


「営業職だったんだけど、仕事でたくさん追い込まれて、私の知らない間にどんどん負担を溜め込んで、気がついた時には手遅れだった。心を壊して入院して、ついでに身体も壊しちゃって、今は脳外科の先生のお世話になってる。……たまに顔を見に行くたびに、分かるのよね。もう長くないのかもしれないって」


 紬はうなだれる。その声色に震えが走り、涙が混じった。


「大切な人を守りきれずに失うのはもうたくさんだった。誰にも頼れないまま心を壊してしまうくらいなら、頼ってほしい。頼られたい。そう願って生きてきた。いじめのことなんてなんにも言わずに、お母さんを自殺で失った悲しみなんておくびにも出さずに、にこにこ笑ってクラリネットを吹いてくれた里緒ちゃんの背中が、私には夫と重なっているようにしか見えなくて……。だから、大丈夫だよ、味方はここにいるんだよって、せめて……伝えてあげたかったんだけど……」


 紬はそこでついに声を詰まらせた。ごめんね、と微かなささやきを残して彼女がハンカチを取り出すのを、紅良は思うように動かなくなってしまった目で追いかけた。それから、途切れた台詞の続きを考えてみた。


 “伝えてあげたかったけれど、やり方を間違えてしまった”。


 恐らくそんなところだろう。

 それが、紬の犯した唯一の、しかし致命的なミスだったのだ。




 “新しい喜びは、新しい苦痛をもたらす”。

 古典音楽(クラシック)の巨匠・モーツァルトは、かつてそんな言葉を遺したと言われている。

 挑戦の成功は痛み抜きには有り得ないという意味だろうか。だとすれば、挑戦の対義語は放置だと紅良は思う。放置は痛みを生まないし、誰にだってできること。

 もしかすると里緒はそれを承知で、今まで誰にも自分の過去を話そうとしてこなかったのかもしれない。誰にも受け入れられずにかえって自分が傷付くのを、この世の何よりも恐れたから。けれども紬はそうではなかった。多少の痛みは承知の上で、それでも喜びを得たいと思った。里緒を過去の痛みや呪縛から解き放ちたいと願った。……その結果、かえって里緒を絶望のどん底に突き落とし、わずかな既存の“喜び”さえも()ぎ取ってしまった。

 紬に罪はなかったのだろう。

 だからといって紬の引き起こした事態が帳消しになるわけでもなければ、里緒が事情を()んで再起してくれるわけでもない。けれども紅良は紬に追及の言葉をかけなかったし、かけられなかった。それよりも、紬の言葉によって突きつけられた真実が、紅良の前に大きな壁を築いてそびえ立っていた。

 紬はまだハンカチを握りしめている。視線を引き上げると、ビル群のあちこちに(とも)る灯火がぼやけて(かす)んだ。

 紅良は唇を噛んだ。

 血の味が口腔いっぱいに広がった。


(神林さんは行動した。間違っていたとしても、守るための手を打とうとした。……私は、何もしていない。何もできなかった)


 里緒に話を聞き入れられなかったという現実に胡座(あぐら)をかき、すべてのアプローチを放棄した時点で、紅良の選んだ道は逃げだった。苦痛を避けるとともに、喜びを得るチャンスをも捨て去ったのだ。紬を非難できる口など持ち合わせているはずがない。

 紬に怒りの声を上げられるのは、里緒と、その父だけなのである。


(友達みたいな顔して隣に立ってたくせに、私、何もしてあげられなかったんだもんな……)


 今度は紅良が打ちのめされる番だった。ふらり、風に揺さぶられて危なっかしく立ち上がると、紬が半泣きの声をかけてきた。


「もう帰るの」

「……はい」

「ごめんね、こんな恥ずかしい話に付き合わせちゃって……。言いたいことみんな、ぶつけてから帰ってくれてもいいんだよ」


 そんな配慮をかけられる時点で、すでに紬の方が自分よりも遥かに大人だと思った。紅良は首を振った。


「怒れないです」


 飛び散った滴は足元で弾け、行き交う人々の足に踏まれて見えなくなった。









「西元が諦めるのやめるなら、私だって諦めるの、やめる。約束してよね」


▶▶▶次回 『C.095 里緒の行方』

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