C.093 後悔の叫び
席に戻ると休憩タイムが始まっていた。「疲れたー!」などと大声を上げながら伸びをした舞香が、すぐさま緋菜に人差し指を立てられている。
花音はドリンクバーで注いできたジュースにちびちび口をつけながら、仲間たちの紡ぐ会話の流れに耳を傾けた。
「なんかさ、壮行会思い出すよね。こうやって『カラフル』来て、みんなでポテトつまみながら話してたなーって」
「分かるー! わたしも同じこと思ってた!」
「何だかんだ言っても馴染んできたよな、俺ら。立川音楽まつりとか色々あったけどさ」
「俺はそういうのはあんまりわかんねぇや。あ、ラスト一本もーらいっ」
「ちょっと! さっきからそう言って半分くらい食べちゃったでしょ元晴ー!」
ポテトをくわえた元晴がみんなの非難を買っている。言われてみると確かに、この光景は壮行会の時にも見たものだった。光貴は端っこの席でスマホゲームに興じているし、小萌と緋菜は生真面目にも互いの苦手な科目を教え合っているし、忍はさっきから居眠りしているし、舞香や真綾や唐也や元晴の賑やかな会話が場の隅々にまで満ちている。そして、里緒の姿だけが、ない。
里緒がここにいたらどんな態度を見せていたのだろう。顔を引きつらせ、青ざめ、『怖い』と叫んで逃げ出してしまっただろうか。そんなはずはないと花音は思った。思いたいだけなのかもしれなかった。
「黙ってないで会話に入んなよー」
頬杖に顔を預けていたら、舞香が花音のベストをつまんで引いた。
里緒が不在の今、舞香は不本意ながらも管弦楽部で一番の仲良しに昇格している。すぐさま、花音は作り物の笑みを浮かべて応じた。
「ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」
「いつもしてるじゃねーか」
不届きな口を叩いたのは唐也である。すぐさま「そんなことないし!」と憤慨した花音は、そこでようやく、花音を見つめる周囲の目が憐れみの光を宿しているのに気付いた。
「どうせ高松さんのことでしょ?」
舞香は予想通りのことを尋ねてきた。
「いーじゃん、自分の意思で来てないんだもん。気にしすぎたって楽しくないよ」
「……みんなもそう思ってるの?」
返答する代わりに花音は聞き返した。舞香以外の子たちは、一斉に互いの顔を見た。言葉を返す順番を押し付けあっているようだった。
そして不幸にも争いに競り負けたのは、学年代表の緋菜だった。
「わ、私は別に、そこまで言うつもりはないけど……。でも、連絡つかないことには誘いようがないし、仕方ないって割り切るしかないのかなって思う」
緋菜は頼りなさげにあちこちを見回しながらつぶやいた。この自信のない感じが、周囲の圧力に負けて言わされている感じが、普段の里緒とはよく似ている。しかし里緒と違って緋菜は周囲に受け入れられている。その差異が何に由来するのか、花音には分からない。
「花音は悪くないよ。誘いを蹴られたからって、それで誘いかけた側が悪者扱いされたらたまんないだろ」
唐也も続いた。先立って言いたいことは口にしたからか、隣の元晴は何も続けようとしなかった。
花音の四肢はやりきれない感情に満たされた。
どうしてみんな、そんなに平然と諦めを口にできるのだろう。「仕方ない」という言葉は本来、遂げられなかった願いの放つ強い痛みを伴った、諸刃の剣のような言葉のはずなのに。
「……悪かったとか、悪くなかったとか、そんなこと気にしてるわけじゃないもん」
花音は目線を落とした。膝に突き立てた十本の指が、うつむいた視線の下で足に食い込んだ。間を空けずに問いが返ってきた。
「じゃあ何?」
「せっかくみんなで集まってるんだし、もうちょっと明るい感じで行こうよー」
「気にしてないなら楽しそうにしろよな」
夢中で花音は唇を噛んだ。素直に仲間たちの声に耳を傾けられる心境ではなかった。
明るく振る舞うだなんて、そんなのは無茶だ。
できるわけがない。
これでも里緒の『一番の友達』を自負して、自分なりに頑張ってきたつもりだったのに。今の花音にはそれができないと、みんな分かっているはずなのに──。
声に出してはならない嘆きにまみれ、湧き上がってきた孤独感に包まれた、その瞬間。
花音は唐突に、里緒の発した『怖い』という言葉の意味を理解した。
足元で炸裂した果てしのない恐怖に一瞬で飲み込まれていた。
もしや、里緒が真に恐れていたのは、まさにこの無理解と思想の押し付けだったのではないのか。いじめられている子が、あるいはいじめている子がどんな心境に至っているのかなど少しも考えず、ただ目先に浮かんだ考えや意見を得意気に開帳して“知ったような気”になっている世間一般の人の目をこそ、里緒は本当に恐れていたのではないのか。
寂しくて、虚しい、絶望にも似た恐怖心。それは花音自身が身をもって知っていたはずのものだった。
たまらなく強い衝動が、たちまち花音の身体を内側から引き裂こうとする。ああ、そうか。そういうことだったのか。納得が済んでしまうと、やがて心の中には怒りにも似た激情の炎が燃え上がり、目の前に並ぶ“恐怖を作り出した者たち”に向かって瞬く間に噴出した。
──この人たちが里緒ちゃんを傷付けたんだ。この人たちが里緒ちゃんを、私から──。
「……勉強、戻る?」
険悪になりかけの空気を嫌ったのか、控えめな口調で緋菜が提案した。誰かが応答を発する前に花音は割り込んでいた。
「まいまい」
「何?」
「里緒ちゃんにあれだけひどいこと言っといて、今さら『来ないのは自己責任』なんて言うんだね」
舞香が固まった。言い返される前に、花音は思いつく限りの具体例を並べ立てた。
「『意外とあれでかっこいいって思ってたりして』とか、『コンクールのことで頭一杯で気も漫ろだったとかじゃないの?』とか。里緒ちゃんの気持ちも考えずに好き放題言ってたの、私、覚えてる。里緒ちゃんだってきっと覚えてるよ。まさかまいまいだけが覚えてないなんてことないよね」
「なんで突然──」
「まいまいがいちばん『私は何も悪くない』って顔してる。いちばん色んなこと言ってたくせに、ぜんぶ里緒ちゃんに責任転嫁しようとしてるじゃん。……最低だよ、まいまい」
「言いがかり言わないでよ! だいたいそんなの、わたしだけじゃなくてみんな言ってたっ」
舞香が吠えた。見事に挑発に乗った形だった。すかさず花音も怒鳴り返した。
「だからみんな同罪なんだよ!」
店員や周りの客たちが、いっぺんに振り向いてこちらを見るほどの声量だった。気圧された舞香からの反論はなかったが、勢いを止められずにそのまま叫び続けた。
「みんな、自分には理解できない子だからって言って、里緒ちゃんのこと遠ざけてばっかりだったじゃん! いじめられてたんじゃないかって話が出てきた時だって、誰も里緒ちゃんのこと庇おうとしてなかった! 呑気に関心向けてるだけだった! そういうのぜんぶ、ぜんぶ、私は覚えてる! 自覚ないなんて言わせないからっ!」
ああ、ダメだ。泣くつもりはなかったのに涙が出てきた。緋菜も涙ぐんでいた。血走った目で花音を睨む舞香や、真綾の頬にも、不自然な純白の光が灯っている。
「やめろ花音、声が大きいって!」
「追い出されちゃうよ……!」
「やめない! みんながちゃんと責任感じるまで絶対にやめない!」
「ちゃんと感じてるよ、そんな騒がなくたってっ」
「よく言うよ! さっき呆気に取られた顔で私の話聞いてたくせに!」
制止を試みた唐也や忍や真綾が、花音の返す刀を派手に食らって沈黙する。もはや花音に抵抗する者は現れないかと思われた瞬間、押し黙っていた舞香がようやく口を開き、喚いた。
「いい加減にしてよ! だから言いがかりだっつってんでしょ!?」
「里緒ちゃんを理解しようともしなかったまいまいに、そんな言葉を使う資格なんてない!」
「してたよ! 最初の頃なんか、話してみたくて何度も何度もしゃべりかけてた! だけどぜんぶ本人に拒まれたんだよ!」
花音の反論は一瞬、途切れた。
そんなはずはない。里緒の側から拒むような真似、あるわけが──。とっさに思い込もうとした花音だったが、次の瞬間、他ならぬ自分自身の前で里緒が見せてきた言動の数々が思い返されて、その努力はあえなく無駄になった。
そうだ。
里緒は拒む子だった。
花音のことも、他の子のことも。
「高松さんは心を開いてくれなかったし、話そうともしてくれなかった! クラリネットのこととか今までのこととか、聞いてみたい話なんてたくさんあったけど、何を尋ねてもはぐらかすばっかりで答えてくれなかったっ! わたしは心を開く準備をしてたのに、あの子はそれを受け止めてもくれなかった……! 一ヶ月も二ヶ月もそんな関係が続いたら誰だって諦める! そんなの、全部わたしのせいにされたって困るんだよ!」
舞香は自分の席から身を乗り出した。その目尻にも白銀の玉が浮かび、筋を描いて流れ落ちてゆく。いよいよ本格的にしゃくりあげながら、花音は「だとしたって!」と舞香を睨み返した。
「あんな冷たい態度取らなくたってよかったじゃんっ! 里緒ちゃんみたいな怖がりで引っ込み思案な子なんて、そこらへんにいっぱいいる! 里緒ちゃんに悪気がなかったことなんて分かってたくせに!」
「──だったら花音だって、高松さんを最後まで見捨てなかったらよかったんだよっ!」
渾身の勢いの込もった舞香の怒鳴り声は、花音の身体に満ちていた憤怒の塊を一撃で粉砕した。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、花音は茫然と、震える舞香の顔を仰ぎ見た。誰かの泣く声が聞こえる。駆け寄ることもできずに棒立ちになっている店員の姿が見える。花音たちの陣取る『カラフル』の一角は、今や地獄絵図の様相を呈していた。
言い返しようがない。
舞香の言う通りだった。
『怖い』の一言で拒絶された時、それ以上の干渉を諦めて里緒をほったらかしにした花音に、舞香や他の仲間たちをとやかく責め立てる資格などはない。愕然と現実を認識した瞬間、拭い損なった涙が頬を滑り降りて、机に小ぶりの王冠を描いた。
「……ほ、ほら、みんな落ち着いて……」
鼻を啜った緋菜が戦後処理に取りかかり、舞香や真綾たちが紙ナプキンに顔を埋め、ノートやペンの散らばった机の上を元晴たちが片付け始めても、花音はまだ、突きつけられた事実の衝撃を受け止めきれずに虚空を見つめていた。
「結果的に引き金を引いてしまったのは、私なんだ」
▶▶▶次回 『C.094 自分のしたこと、できなかったこと』